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「信仰によって立つ」

「信仰によって立つ」
2007年10月7日
テキスト ローマの信徒への手紙第第11章13節~16節

「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」

10月の第一主日をこのように祝うことが許されていますことを改めて感謝いたします。愛する皆様とともに礼拝を捧げ、本日は、説教の恵みを受けるだけではなく、目に見える神の御言葉、聖餐の礼典にも招かれています。このような恵みを受けることができるのは、私どもが主イエス・キリストを愛し、父なる神を信じ、従う信仰を与えられているからです。今朝、与えられた御言葉に即して申しますと、「あなたは、信仰によって立っています。」とあるとおりです。
 
 先週、高速道路に乗りました。時間に追われて、大きな声では申せませんが、かなり飛ばして走ったのです。高速道路のサービスエリアのトイレに入りますと、ほとんど必ず、目にさせられる写真があります。多くの方は、ご経験になっておられると思います。それは、事故を起した車の悲惨な写真です。もとよりこれは、好んで見たい写真ではないと思うのです。しかし、その写真の教育的な効果は小さくないのだと思います。それを見たドライバーの心の中には、このような思いがわくのではないでしょうか。「ああ、良かった。自分は、ここまで無事に着けた。さて、目的地まで、さらに無事故で着けるように、気をつけて運転しよう」そこで確認することは、一つは、今、自分は事故を起さないで、ここまで来ることができたという嬉しい気持ちでしょう。写真の中には、おそらく死傷者が出たと思うようなすさまじい事故現場があります。しかし、それを観ている自分は、少なくともそこまでは、事故にあわず、起していない。「良かった」という気持ちです。そして次に、このまま安全運転で守られるように、気をつけようということです。その意味で、確かに、あの写真は、有効だと思います。聞くところによりますとアメリカのハイウェーでは、写真ではなく、なんと路肩にぐちゃぐちゃに壊れた事故車両をそのまま置いて、実物教育をしている例もあるのだそうです。なるほど、うっかり余所見をしていたら、あなたもこうなるのだぞという、教育的効果は満点だと思います。確かに我々には、そのような教育によって、自分自身の今の姿を振り返らされる、効果があると思います。

 さて、使徒パウロは、ここで何をしているのでしょうか。それは、異邦人キリスト者、教会に向かって、言わば高速道路の事故写真のような、神ご自身の教育的な方法について明らかにしているのです。つまり、もともとの神の民イスラエルがその不信仰の故に、神の厳しい裁きを受けて、折られてしまったというのです。神の民の象徴であるオリーブの木の枝から折り取られて、捨てられている。その折られた姿は、異邦人キリスト者、主イエスの贖いの恵みによって神の民とされた新しいイスラエルの目の前におかれているというのです。

さて、それなら折り取られたイスラエルとは、具体的などのような人々を指すのでしょうか。先ず、言うまでもなくそれは、旧約聖書に記されているあのイスラエルのことです。イスラエル12部族。そして北王国と南王国に分裂した国。アッシリアによって滅ぼされた北王国であり、バビロニアによって捕囚となった南王国です。そしてさらに、この手紙が読まれたときは起こってはいませんが、紀元70年にローマ帝国によってエルサレムを徹底的に破壊され、領土、国を失って放浪した民、イスラエルのことでもあります。さらに又、このように言うこともできます。それは、この手紙が記されてからこの方、つまり2000年の世界史におけるイスラエルをも含めてよいのです。当然、今日のあの中東のイスラエルという国家のことをも含めてよいのです。

イスラエルと言う国の首都エルサレムは、もともと「平和の町」という意味の名を持った首都です。ところが、なんと皮肉な、悲劇的なことかと思いますが、現実の世界史においては、まさに争いの根本となってしまっています。

私どもはこれまで使徒パウロのこのような議論を学んでまいりました。神は、言わばその古いイスラエルの目の前に、新しいイスラエルである教会を置かれたということでした。その目的は、もともとの神の民イスラエルであるはずの彼らが、新しいイスラエルの神に祝福された姿を見せることによって、ねたみを起こさせようとなさっておられるということでした。彼らは、教会、キリストの教会を見ることによって、本来自分たちが、喜びうけることが出来るはずであった神の恵み、その特権を、そのような約束をうけることができないはずの異邦人が受けていることを見せることによって、自分たちの姿、本来の姿へと立ち戻らせようとなさったわけです。彼らに、キリストの教会を見せることによって、自分たちがどれほど、異常な姿になってしまったのかに目覚めさせるためです。そしてその原因を悟らせるためです。そして何よりも、その原因である不信仰を悔い改めさせるためなのです。一言で言えば、神の恵みそのものであられるまことのユダヤ人、まことのイスラエルであられる救い主なるイエス・キリストへと導こうとなさったのです。主イエスによってこそ、異邦人にも神の恵みが注がれることとなったのですから、彼らを主イエス・キリストへと導こうとなさるために、そのために、ねたみを起こさせる、ねたみの心をわきあがらせるために、古いイスラエルの目の前に教会を置いた、これが、使徒パウロのこれまでの議論でした。
 
 さて、そのようなパウロはしかし今ここで、向きを変えて語り始めます。私どもに向けて語るのです。「あなた」と、名指しで、語ります。それは、何故、どうして異邦人キリスト者、新しい神の民教会は目の前に、神によって折り、とられてしまった枝、古いイスラエルの悲惨を見せられるのかということの意味についてです。

 22節でこう言います。「神の慈しみと厳しさを考えなさい。」新共同訳聖書は、「神の慈しみと厳しさ」と訳しましたが、昔の訳では、「神の慈愛と峻厳」としました。ここでの「厳しさ」は、「峻厳」の方が、よりふさわしい訳のように思います。この峻厳とは、もともとの意味は、山の険しさを表す言葉だそうです。スパッと鋭いナイフで削り取られてしまったかのような、人を寄せ付けないような断崖絶壁という意味なのでそうです。聖書のなかで、ここだけしか出てこない言葉なのです。パウロは、神の厳しさとは、それほどまで鋭いもの、スパッと切り分けるようなものなのだと告げたいのです。裁きと赦しと、そこには何のあいまいさもないということです。悪と善とを、鋭く切り分ける、白黒はっきりさせるということです。それはまさに神ご自身のみがなさることです。神は、ご自身の御前に、罪の行為を重ねる者を決して見過ごしにはなさらないということです。その証拠こそが、約束の民、アブラハムの子孫、神の民と唱えられる約束を受けたその彼らを、彼らの悔い改めない罪の裁きとして、事実、地上から絶ってしまった事実に見せられる現実なのです。正確に言えば、オリーブの木から折り取ってしまわれたのです。

 ただしなお正確に申しますと、その折とってしまった枝は、今は、枯れてしまっていますが、しかし、その枯れ枝ですら、実に神によって再びオリーブの木に接ぎ木されるときが来るし、それが可能であるというのです。この折られてしまった枝は、そのまま捨てられてしまったことを意味しないし、枯れたままでいるわけではないことも予告されているのです。

 それはまた、もともと野生のオリーブの枝であった、出来の悪い、信仰においてはまさに劣等生のような異邦人が、見事に接ぎ木され、信仰に生きる者となったのです。そうであれば、もともとの枝を再び接ぎ木することの方がむしろ簡単であるということです。

 私どもにとって、イスラエルは、高速道路の事故の写真のように、私どもの存在を説明するのです。あなたは、今、神の祝福の中におかれている。その理由は、唯一つのことである。それは、なんでしょうか。それが、20節です。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。」「あなたは信仰によって立っています。」何というすばらしい私どもへの評価でしょうか。彼らは折り取られ、しかし、異邦人でしかなかった私どもは立っているというのです。しかし、どうして立つことが出来ているのか。それは、ただ一つの理由です。それが、信仰であります。ただ信仰によってのみ立っているのです。

しかも、ここでこそ、私どもはすでに何度も学んでまいりました事実を思い起こさざるを得ません。この信仰もまた、この信仰こそは、神の賜物だという事実であります。ですから、決して信じた自分を誇りとすることなどは許されないのです。信仰は、主イエス・キリストを信じる信仰、主イエス・キリストの御業のおかげです。

 そもそもオリーブの木はアブラハム以来の神の民イスラエルのことであります。そしてその根とは、他ならない主イエス・キリスト御自身です。この根がある限り、栽培されたオリーブの木、神の特別の民なのです。そして、この木につながらせていただいた限りで、異邦人の私どもであっても、きよくされてしまうのです。根がきよいからです。根本が聖なるものだからです。そのようにして、私どもが信仰に立っているというのは、ただキリストを土台としているということがわかります。

名古屋岩の上伝道所の名称は、改めて申すまでもなく、マタイによる福音書第16章における主イエスの宣言に基づくものです。「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てる」教会の頭なる主イエス・キリスト御自身が宣言してくださったのです。この岩とは、丁寧に説かねばならないことは重々承知しておりますが、しかし、端的に、申して、このお方こそが、私どもの岩であると言っても、間違いではありません。ペトロの信仰告白の上に、教会が立つ、信仰告白の上に教会が建つことは、私ども改革教会の常識であります。そして、この信仰の告白そのものもまた、神の賜物である限り、端的に申しまして、教会の土台もまたキリストご自身なのです。このお方への信仰の告白、「生ける神の子、キリストです」、私どもの教会も、私どもじしんの信仰も、この告白に連なるのです。そのようにして神の御前に立っているのです。信仰によって立つ、これは、神の前でどうしても、どんなことがあってもあらねばならないことです。私どもは、今まさに、信仰によって、ただ信仰によってのみ立っているのです。ですから、「あなたは信仰によって立っています。」と使徒パウロが語る言葉を聴くとき、彼が全身全霊を傾けて語った福音をここで、鮮やかに思い起こさせられます。おさらいさせられるような気がいたします。第3章21節に要約されます。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 ここでこそ、この福音が大きな説得力を持ちます。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。」この御言葉はすぐこのように続きます。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」ある人が、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」という言葉は、オリゲネス、キプリアヌス、アンブロシウスという教会の教父たち、古代教会の信仰の教師たちが特別に重んじたと言いました。もしかすると、意外に思われるかもしれません。聖書の中には、もっともっと大切で、心躍らせられる慰めの御言葉、恵みの御言葉もあるからです。しかし、信仰の道を真実に、真剣に歩み切ろう、全うしよう、貫こうと志すキリスト者にとって、この御言葉は、特別の重みを持つのです。それは、宗教改革の時代、教会の改革者たちが、私どもの救いとは、信仰のみ、恵みのみにあると主張したことに通じると思います。だから思い上がらず、信仰を与えてくださった恵みの神、神の慈愛、慈しみを感謝したのです。徹底して、感謝のみに留まったのです。そして、それはまた神の厳しさ、峻厳をも徹底して恐れ戦くことを含みます。神さまは、慈しみのお方であって、厳しい神さまは、イエスさまのイメージ、新約聖書の神さまとは違っているのではないか、などという誤解は入り込まないのです。この厳しさこそ、私どもをして、徹底して恵みにとどまらせ、慈愛のうちに立ち止まらせる恵みだからです。そして、一度、悔い改めればそれでよいのだなどということではなく、キリスト者の全生涯を、悔い改め続ける生涯として、規定するものなのです。
 
 信仰に立たなければ、約束の民、神が手塩にかけて育てられた栽培されているオリーブの木の枝ですら折られたのです。ましてや、もともとは野生のオリーブの木でしかなかった異邦人の私どもです。栽培されていたオリーブの木とは何のかかわりもなく、元々の性質からすれば、栽培されていた木とはかけ離れ、反していたものです。枯れ果てていた枝なのです。ただ捨てられ、燃やされるしかなかったはずの枝なのです。にもかかわらず、神は、そのような私どもを拾い上げ、手塩にかけて栽培したオリーブの木に接ぎ木してくださったのです。そのようにして今では、立派な枝にしていただいている、栽培された枝にしていただいているのです。もともとのイスラエルが不信仰を続けた結果、神の恵みが私どもに及ぶこととなったのだという事実をこそ、私どもの出発点に据えるべきなのです。

 「神の慈しみと厳しさを考えなさい」私どもは、その事故の写真を、あるいは事故の残骸を見させられて、今、自分が事故をしていない幸いを知らされます。そして、事故を起さないようにと緊張を与えられます。もともとの神の民が、切り落とされて、実に、惨めな姿で世界史のなかで、さらされています。本来の使命と栄光を失って、祝福の基となることができていないのです。現代の世界政治において、イスラエル問題とは、まさに火種そのものなのです。テロとの戦い。それは要するに、イスラエル問題なのです。アメリカ、ヨーロッパ文明とイスラムとの戦いという図式があるかもしれませんが、イスラエルの側に立っている欧米と、イスラエルとのかかわりのことです。なんという悲劇であり、災いでしょうか。本来、彼らによって世界は平和を与えられ、神の祝福が注がれるはずだったのです。しかし、その不信仰、あの旧約聖書によって記された数々の偶像礼拝、預言者の言葉を聞き捨て、従わなかった罪によって、彼ら自身が苦しむだけではなく、世界中が苦しみをうけてしまう。
 あの事故の現場の写真の悲惨では済まされない。自損事故ではない。相手を巻き込んでの大事故を世界史の中心で起している。そうではないでしょうか。だから、私どもは恐れなければならないのです。

 しかし問題は、その決定的な問題は、むしろ古いイスラエルのことではなく、新しいイスラエルもまた、2000年の歴史の中で、いったいどれほど、罪を犯し、不従順、不信仰、偶像礼拝へと転落して、世界の祝福ではなく、混乱をもたらしているかを思うのです。思い見るべきなのです。

 今、テレビや新聞を見ると、社会保険庁や大相撲のことが厳しくその闇が問われ、糾弾されています。しかしそれなら、キリストの教会はどうなのでしょうか。メディアに登場することはないかもしれませんが、そこにも、神の正義、教会の使命をきちんと果たせず、むしろ、教会が自分の姿を見失う、本当のキリスト教とは何か。神の御心、信仰の規準はどこにあるのか、それが分からなくなっている。自分勝手な信仰が横行している。教会の権威、教会の重みが分からなくなり、気ままな信仰、気ままな指導者、いへ、指導者でもないのにもかかわらず、聖書はこういう、ああいうと教会の信仰告白からかけ離れた、主張を、おのおの始めている。これが、私どもの日本のキリスト教の世界の現実ではないでしょうか。そうであれば、地の塩、世の光であることを自ら放棄し、主イエスの戒め、キリストの律法を捨てて、自分の宗教、自分のキリスト教を造っているのではないか。そのようにして、無気力なものになりつつあるのではないか。今こそ、教会が問われるのです。神の慈しみと厳しさのなかで、自ら問わなければならないのです。私どもは、本当におののいているのか。この峻厳なる神を考えているのかということであります。

最後に、この慈しみと厳しさとがまさに重なる場所に思いを寄せたいのです。それは、どこでしょうか。十字架の上にほふられたお方においてです。あの十字架の上にはりつけられたイエスさまにおいて、私どもは、神の慈愛と峻厳さを、その両方を徹底して知るのです。神は、私どもの罪を、岩を真っ二つに切り裂くように、切り裂かれました。そのようにして、私どもの罪の刑罰を御子に負わせ、それによって私どもに神の慈しみだけを注いでくださったのです。

パウロは、「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と言います。この順序は、こだわらなければなりません。逆にはできないのです。神の峻厳、厳しさは、その慈しみの中でだけ、分かるものだからです。十字架における神の慈しみのなかでこそ、神の峻厳もまたわかるのです。御子ですら、容赦なさらなかった神の愛の熱意、その真剣さ、その激しさ、その厳しさを思います。そこでは、慈しみと厳しさとは分かちがたいものであることがわかります。そして、私どもは、信仰に立つことによってその慈しみの中に立ち続けることが許されるのです。留まることです。信仰に留まる。信じ続けることがどれほど大切であろうかと思います。ですから、今朝、あらためて聖餐の食卓に招かれたことを幸いにするのです。この聖餐の品々を口にするときにこそ、この慈しみと厳しさをどこにもまさって考えることができるからです。

私どもはこの御子イエス・キリストの十字架において、折り取られたイスラエルを見ます。彼らもまた、やがて悔い改めの恵みにあずかって、接ぎ木されるときが来るのです。それが神のご計画です。神の召しは、ご計画は変わらないのです。ですから、私どもキリスト教会は、信じ続けること、丁寧に申しますと服従し続けることなしには立たないのです。御言葉を聞いて行うことです。それなしに、形ばかりのキリスト教であれば、災いです。イスラエルの悲劇とは、自分たちが裁かれながらしかし、そこでそれを神の裁きとして受け入れなかったことです。つまり、そこで、なお真実の悔い改めに至らなかったということです。

それなら、日本のキリスト教会はどうなのでしょうか。世界のキリスト教会はどうなのでしょうか。そこに、私どもは、二重の構造を見るのです。私どもは、ユダヤ人ではないから、大丈夫なのだなどという議論は、まったく成り立ちません。キリスト教会の信者、会員だから、我々には慈しみがあり、ユダヤ人には厳しさがある、このような理解は許されません。どちらも問題は、不信仰にあったのです。ユダヤ人、古いイスラエルがもしも不信仰を止めれば、いとも簡単に、たやすく接ぎ木されるのです。そして、逆に、野生の枝であった者たちもまた、不信仰に留まるなら、たちどころに切り取られるしかないはずです。

 教会の使命、それは、まさにあのアブラハムが受けた使命を生きることです。教会は、新しいイスラエルです。真のイスラエル、ダビデの子孫である真のユダヤ人であられるナザレのイエスさまのおかげで、この根、イスラエルという栽培されたオリーブの木から養分を受けて、接ぎ木されて生かされている存在なのです。イスラエルにねたみを起こさせるほどに、信仰によって立つことです。神を恐れ、その御言葉に従うことです。今や、キリストの教会は、まことのイスラエルとして、神の祝福の源、基となってその使命を果たすことができるし、しなければならないのです。それは、真の礼拝を捧げることです。キリストの福音を証し、伝道することです。そのようにして、奉仕に生きることなのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、今、あらためて、兄弟姉妹とともに、あなたの慈しみと厳しさを、考えます。どうぞ、不信仰によって折り取られることがないように、助けてください。信仰に立ち続け、悔い改めに生き続けることができますように。そして、今週もまた、与えられた信仰の旅路を、あなたの助けの中で、あなたに従う歩みとして、兄弟姉妹と共に前進させてください。  
アーメン。