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「秘められた憐れみの計画」

「秘められた憐れみの計画」
2007年10月21日
テキスト ローマの信徒への手紙 第11章25節-32節 (新約聖書p194)

「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。
「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

 先週は、全体研修会で昨年に続いて教会のディアコニアを学びました。今なお、先週の余韻が残っています。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださったことのなかに、その命をかけたディアコニアを見せていただきました。私どもの足が、礼拝式のなかで繰り返し洗われていることを学びました。主イエスさまの真実のおもてなしを受けたものだけが神を礼拝し、隣人に、主イエスにならっておもてなし、ディアコニアに生きることができるようになるのです。ディアコニアは、神の憐れみの御業にもとづく、教会の憐れみの業であると言ってよいでしょう。
 
 さて、本日は、いつものようにローマの信徒への手紙を学びます。いよいよ、第11章も、本日を含めてあと二回で終わります。第9章から第11章は、イスラエルの問題、神の選びの民の現在と将来についてのことが、語られていました。そこで、多くの方がこの箇所を読んで、こう言います。「正直に言って、自分たちにとって、現在のキリストの教会にとって、あまりぴんと来ない。ユダヤ人パウロ先生は、ご自分がユダヤ人ですから自分のアイデンティティ、自己像そのものに関わりますから真剣な主題であることはわかりますが、自分たちには、率直に言ってあまり大切とは思えない。」

しかしむしろ、多くの聖書の解説者が、この第9章から第11章までこそ、この手紙の頂点だと言うのです。ちなみに、来週学ぶ聖書箇所、テキストは、「ああ」という言葉から始まります。手紙を書くということは、通常、話し言葉ではなく、書き言葉の文体で書きます。しかし、パウロは、ここで、「ああ」と言う。確かにこの手紙は、私どもがするように、自分の筆で、自分の手で文字を書き綴ったのではありません。筆記者がいるのです。テルティオという人です。しかし、それでも手紙なのです。ところがそうであってもなお、パウロがこれまでよくわきまえ、理解していることであっても、やはり、口に出して説明したときに、思わず、「ああ」と感動の声を発せざるを得なくなったのです。それだけの激しい心の動きを呼び覚ます真理がここで語られているのです。この箇所の重みを改めて思います。

さて、私ども読者はそのようなすばらしい神の御心をパウロによって知らされてまいりました。直接は関わりませんが、聖書には、世界の始まりと終わりについて、人間の始まりと死後について記されています。これは、何についても言えますが、すばらしい知識、しかも深い知識を、さらに申しますと神ご自身の深い御心を知らされたとき、我々は、高慢になりやすいのです。うぬぼれるのです。

自分は、ものすごい知識を知っているという自負から、自分を賢い人間であると誇りたくなるのです。これは、キリスト者である私どもがよく知っている心だと思います。使徒パウロは、だからこそ、ここで、「ぜひ知ってもらいたい」と言います。これは、パウロが重要なことを伝えるときの、口癖の一つです。そこで、こう言います。「自分を賢い者とうぬぼれないように」今、パウロは、神の深い御心を知らされた読者たちこそが、実はこの罠に陥りやすいことを知っているので、釘をさして、終わろうとするのです。そして、その上で、結論をはっきりと語ろうとするのです。

さて、神の深い御心と申しました。使徒パウロはそれを、ミュステーリオンという言葉をもって、記しました。かつての翻訳では、「奥義」とされていました。私どもの採用している翻訳では、「秘められた計画」とされています。ミュステーリオンとは、もともとは、「口を閉ざす」という言葉と「宗教儀式」という言葉が組み合わされてできた言葉です。英語のミステリーのもととなった言葉です。口を閉ざす以外にないような不思議な、神秘的経験を意味することばです。当時の宗教には、このような奥義というようなものが、言われ、大切にされていたようです。

実は、パウロは、この奥義、秘められた計画という言葉を何度か、自分の手紙のなかで、福音の真理を明らかにするために用いているのです。しかし、じっくりと学べば、この秘められた計画は、いわゆる、当時の宗教や現代のどこかの宗教でもあるようですが、その宗教の信者になるために、特別に、免許皆伝といいましょうか、秘儀、秘術のような誰にも教えてはならない教えを伝授することとは、まったく違っています。

「秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」一般的に申しますと、秘められた計画であれば、特定の人にしか知らせないもののはずです。しかし、パウロは、ローマの教会員のすべてに、いへ、その後のすべての読者に神の奥義を明らかに示して見せたのです。つまり、少しも秘められていません。つまり、キリスト教会には、その意味で、秘められた教え、ここからは信徒だけ、ここからはいわゆる聖職者だけが知ることの出来る世界だなどという部分はないのです。キリスト者であれば誰もがわきまえなければならない真理があるのです。決定的な真理、信仰のいわば急所、勘所です。

しかし、逆に申しますと、これほど明らかにされた神のご計画を、正しく、きちんと知ること、学ぶこと、それをわきまえることは、誰にでもできるものではないということです。聖書は、もともと本屋で売られて、読まれるような書物ではありません。教会で読まれるものです。しかし、一般の書店で売られ、明らかにされるこの教えを、ただ自分で読むだけで、神の御心をどうして知ることができないのでしょうか。

わたしは、大学でキリスト教を講じるようになっておりますが、わたしのクラスでは必ず、最初に祈りを捧げます。生まれて初めて祈りなるものに接する学生もおります。何で、教室で祈るのか。それは、聖書が学びの対象となるからです。神が、学びの対象となるからです。お祈りなしに、正しく聖書を学ぶこと、正しく知ること、正しく理解することなどありえないからです。主イエスさまが足を洗われた物語もまた、多くの方が、心ひかれる物語です。しかし、常識的に理解して、そこで止まるのです。「実るほど、頭を垂れる垂れ穂かな。」高い人格者ほど、謙遜になる。弟子の足を洗う度量をもっている。そのようなことではありません。祈りのうちに聖霊を注がれてのみ、私どもは、秘められた神のご計画を悟ることができるのです。ですから、私どもは聖書の真理を語るとき、説教したり、知人に福音を語るとき、おそれの思いを禁じ得ません。この言葉を、神の霊だけが理解させ、信じさせ、心に届けてくださるのですから、そのような慄きの心を持つこと、それが、使徒パウロが、ミュステーリオンという言葉に込めた思いなのです。神は全世界にこの真理を明らかにされました。教会は、福音の真理を公衆の面前で明らかにしなければならないのです。しかし、その内容自体は、どこまでもそれは、秘められた計画、奥義なのです。お祈りしながら読むということは、どういうことを意味するのでしょうか。それは、いつも自分が、変わること、変えられるということを前提にしているということです。

先週、一つの衝撃をもってうかがったのですが、東京告白教会の長老は、一人ひとり一生をかけて研究する聖書の一書を持つということです。教会員と一書に聖書研究をすることが信徒訓練、学びの伝統なのだそうです。たとえば、ローマの信徒への手紙を一人の長老がこれを集中的に学ぶことになれば、すでに、学んで分かった領域、達することができた領域はあるのだと思います。そうすると、分かった部分までは、お祈りはもはや必要ないのでしょうか。分からない部分だけは、祈って読み進むのでしょうか。違います。御言葉の真理、聖書の真理とはそのようなものとは異質です。神の真理だからです。神のご計画の真理なのです。御心の真理なのです。つまり、知ること、信じることと、生きることとが結びつくのです。従うことです。従って知る真理なのです。従いつつ目が開かれるのです。講演のなかで、何度も「目が開かれて行く」経験という言葉を用いられました。それは、長く一つの教会と共に歩み続け、皆で聖書を学び、説教を聞きながら、一足ひとあし従ってゆくことのなかで目が啓かれる、目からうろこが落ちる経験を与えられたのだと思います。しかも、目が啓かれたから、もうそこまでは、祈らなくても大丈夫などということではなく、祈りの中で、訓練を受け続けたのです。私どもは、決して自分を賢い者としてうぬぼれないように、

さて、パウロは、読者に決して誤解するなと呼びかけます。今、一部のイスラエルが、心頑なになって主イエス・キリストに反抗し、そのようにして神に敵対しているイスラエルは、決してそのままで終わらないということです。遂には、必ず救われるということです。そして彼らが頑なになったことによって、異邦人全体が救いに達するというのです。そこで、キリスト者が間違ってならないことは、ただ単に個人的にうぬぼれないということに留まりません。むしろ、キリスト者とユダヤ人との関係において、うぬぼれてはならないということです。つまり、ユダヤ人は、心をかたくなにし、主イエス・キリストに反抗し、主イエスを十字架へと追いやった、だから今や、神に敵対している。

そうです。確かに、彼らの一部は、神に敵対しているのです。彼らは心を頑なにし、高慢になり、自分を賢い者として自惚れたのです。
しかしパウロはとても不思議な言葉を語ります。28節「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが」
あなたがたのためにとは、異邦人のためです。キリスト者のためです。キリスト者のために、彼らは敵対した。彼らの神への究極の敵対行為は、何でしょうか。それは、御子なる神、ユダヤ人の王、救い主イエスさまを十字架にはりつけたことです。殺したことです。しかし、これまでずっと学んでまいりましたが、いったい、私どもの救いの根拠はどこにあるのでしょうか。それは、御子の十字架の死にあります。

誰が殺したのか、それは、やはりイスラエルの責任です。しかしなんと、その敵対行為のおかげで、私どもは救われたのです。その意味では、あの裏切りの弟子ユダは、イスラエルの行為の代表者でもあると言えるでしょう。そうなると、私どもは、ユダ憎し、とかユダヤ人憎しなどという考えを持つことがいかに愚かなことであるのかが分かるはずです。

 「神の選びについて言えば、先祖たちのおかげで神に愛されています。」これが、パウロが見ている秘められた真理です。ユダヤ人は、イスラエルは神に愛されているのです。間違ってはならないのです。あの20世紀の悲劇のユダヤ人虐殺の愚かさを、私どもは知っています。しかし、それがまったく聖書を知らない輩、うわべで分かったつもりになった者の仕業でしかないのです。彼らは、神に愛されている。それは、神の選びに基づくのです。私どものような異邦人には、およそ近づけないようなまさに、神の恵みの選びを受けた者たちの子孫なのです。

 しかし、そこでこそ、彼らは、高慢になり、頑なになったのです。私どもはその真似をしてはなりません。ユダヤ人は、私どものために神に敵対したとありました。パウロがここで神に敵対するという言葉を用いたとき、私どもの心にすぐに思い出すのは、第5章8節以下でありましょう。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」つまり、私どもこそ、神の敵であったのです。神に不従順であったのです。神もなく、望みもなく、さまよい歩いて、死と滅びの道を辿っていたのです。しかし、今や、神と和解させていただいたのです。それは、御子の死のおかげです。そうなれば、彼を十字架へおいやったイスラエルのおかげです。彼らの不従順によって、私どもは、救われたわけです。ですから、私どもは、決してイスラエルにむかって高慢になれません。そして、イスラエルを神に斥けられた者と見ることもできません。確かに、私どもは、今や、神に愛された者です。正真正銘、神の子です。疑いなく、神の民であり、新しいイスラエルです。しかし、同時に忘れたり、無視したり、否定することは許されません。古いイスラエル、もともとのイスラエルもまた、神に愛されている民であることには、変わらないという事実です。
 
 29節にこうあります。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」ここに、言わば、この箇所の結論が宣言されたと言っても言いすぎではありません。神の選びは、イスラエルにあります。そして、彼らに、神の賜物と招きとが注がれた限り、それは、彼ら自身のどれほどの不信仰やどれほどの不誠実であっても、神のご決定を覆すほどの、力を持ち合わせていないのです。これは、実に、聖書全巻のメッセージです。あるいは創世記において特に明らかにされた信仰の大前提なのです。

一つだけ例をあげるなら、あのヨセフの物語です。ヤコブの息子のヨセフは、兄弟たちに憎まれ、殺されかけて、エジプトに奴隷として売られて行きます。兄たちは皆、彼は死んでしまったと確信しました。ところが、彼らは、再会します。ヤコブの一族は、酷い飢饉で苦しみ、生き延びる一縷の希望をエジプトに行って、食糧を買い求めることでした。しかしなんと、そのエジプトの総理大臣の地位にまで上り詰めていたのが、ヨセフでした。彼らは、確かに、ヨセフを憎み、殺そうと企て、実行しました。しかし、神は、彼の命をエジプトにおいて守り、そして、やがてヤコブの一族が餓死する危険にさらされるのを先回りするかのようにして、一族の弟であるヨセフに裕福なエジプトで権力を持つことができるようにされたのです。まさに神の秘められた憐れみのご計画の原型です。モデルです。

パウロは、今まさに、イスラエルが不従順になり、頑なになって、御子イエス・キリストを殺してしまった。しかしそのために、異邦人の罪が贖われ、異邦人に救いが及んでゆくという神の大きな救いの御心を知らされました。しかも、神の憐れみは異邦人で留まらないのです。やがて、もともとの選びの民イスラエルの心を打つというのです。つまり、異邦人の私どもが憐れみを受けていることを見て、「ああ、自分たちこそ神の憐れみを受けることが約束されていたはずなのだ、自分たちの先祖が殺したイエスこそ、実は、救い主であり、神の憐れみの根源であったのだ」と悟るのです。

パウロは言います。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」
パウロは、イスラエルが今、憐れみを受けると言います。これは、どういう意味なのでしょうか。現実には、今、彼らは憐れみを受けず、不従順のままなのです。「今」というのは明らかに間違いなのではないでしょうか。確かにそうです。今は、彼らは、憐れみを受けていません。しかし、パウロは、確信しているのです。そのままでは決して終わらない、異邦人の数が満ちるときには、必ず、彼らが憐れみを受けると信じてやまないのです。それが、「今」という表現を生んでいるのです。

 さてしかし、もしかするとある人は、ここまで来て、もうついてゆけないと不平を鳴らすかもしれません。「一体、神は、どうしてそのようなまだるっこいことをなさるのか、神が全能者であれば、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、一気に救ってしまわれたらどうか。」しかし、そのようなことにはすでに、パウロは、第一章で答えています。どうしてこれほどまでに人間の救いがややこしくなったのか。それは、人間の罪が恐ろしく徹底しているからです。神に反抗し、その敵対を、どんなことがあっても反省し、悔い改め、謝罪しないほど、人間のうなじは強いのです。神さまに頭を下げて、自分を変えることができないのです。

 パウロはこの手紙でなんども論争します。何度も議論しました。この11章でも、1節で「では、尋ねよう」11節で「では尋ねよう」神の秘められた御計画、奥義を知らされるとき、人間には、不可解なのです。混乱する。揚げ足をとりたくなるのです。この箇所の結論は、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

ここでは、はっきりと、我々の不従順が、すべての人間が不従順になったのは、神のせいであると言うのです。そこで、ある人は言うのです。「わたしが信じれないその責任は神にあるのだから、わたしの不従順に対してあれこれ批判するのは、お門違いだ。」

しかし言うまでもなく、不従順とは、まさにそのように神に反発する心です。自分の不従順を自分のせいにするのではなく、他人のせいにするのです。ついに、神のせいにするのです。そのようにして、ますます不従順に磨きをかけるわけです。不従順の意味をはき違えるのです。

しかし、キリスト者である私どもは、いかがでしょうか。私どもは自分がどれほど不従順な存在であるかを教えられました。それが罪であることを教えていただきました。しかし、その罪を克服し、不従順を打破するために、私どもは何をなしえるというのでしょうか。まったく敗北する以外に道はないのです。神の御前に、自分の力で従順に生き、そのようにして罪から離れて生きることはできないのです。しかし、まさにそこで、福音はこのように告げます。そのような罪にまみれて自分の力では、手も足もでない者を、神がその秘められた御計画、すなわち神の憐れみによって一方的に救いだしてくださったのです。この神の憐れみがどれほど深く、また激しく、そして真剣なものであったかは、御子イエスさまの十字架の苦難と死を見れば分かります。神はすべての者を不従順の状態に閉じ込められたのは、すべての人を憐れむためだったのです。

ある説教者はこのように申しました。何故、神は、すべての人を不従順にしたのかと問われたら、その一番、よい答えはこうだ。それは、神だからだ。
私どもはまさにここで神に出会う。神の憐れみに出会うのです。そして、このことが分かれば分かるほど、私どもはうぬぼれることなどできなくなります。
まさに神の不思議に出会うのです。まさにそれは秘められた計画、奥義です。それは、誰しもがこれ以上は、語らない方がふさわしい真理の世界です。秘められた憐れみの計画です。そしてこの奥義を一言で申しますと、それは、神の憐れみです。

異邦人の私どもも、もともとのイスラエルも、神の憐れみ以外では救われないのです。神のおどろくべき憐れみによってのみ救われたのです。敵である私どもを十字架の上から憐れんでくださった、御子イエスさまは、十字架にはりつけられてその極限までの肉体における御苦しみのみならず、もっとも過酷な責め苦を魂において受けて、耐え忍ばれたのです。

この御子の御苦しみにおいて、神の憐れみが示されたのです。そして、この憐れみは、すべての人に及ぶのです。神の憐れみとは、まさに秘められたものです。奥義です。そして、何よりも大切な真理は、この奥義とは、ただ理解するとか、納得するというものではないのです。それでは無意味です。単なる理論ではないからです。この奥義を知るということは、神の憐れみを実際に受けることです。それ以外に、この秘められた計画、奥義にあずかることはないのです。そして、私どもキリスト者とはまさに今、この憐れみをここで豊かに注がれている者のことです。この礼拝式においてこそ、私どもの杯は、憐れみで満ち溢れます。そして、ここで、最後に感謝し、歌う以外にないのです。説教を聴いた人間は、どうしても立ち上がって賛美を歌う以外にないのです。「ああ」と感動し、感嘆し、賛美の声を挙げる以外にありません。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」

祈祷
  あなたの御言葉に即座に応答し、ただちに従うどころか、あれこれと言い訳をして、さらには開き直ってしまうような私どもを、あなたの憐れみによって砕いてくださいました。私どものような頑なで、不従順な者が、救われ、神の子とされ、イスラエルの一員にされました。あなたの憐れみを賛美する者としてくださいました。それこそ、あなたの秘められた憐れみのご計画でありました。そして今日も、この礼拝式で御子が足を洗い、御父が、憐れみを限りなく、この上なく注いでいてくださいます。どうぞ、この恵みの御業を、命ある限り、私どものまた真剣に、全力を注いで讃える者としてください。憐れみを注がれた者として、私どもも憐れみの業に励むことが出来る者としてください。アーメン。