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「ただ神の栄光のために」

「ただ神の栄光のために」
2007年10月28日
テキスト ローマの信徒への手紙 第11章33節-36節 (新約聖書p291)

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

 これまで神は本当におられるのか。神は本当に聖書に告げられている通りの全知全能の生ける神なのかどうか。もしかするとこの神さまも、イスラエルの救いという点において完全とは言いがたいのではないか。神にも失敗や不正があるのではないか、このような議論を、ぶしつけのように、大胆に、正面から問い続けたのが、9章から11章の3章まででした。神の選びの民、特別に選んだイスラエルがその選ばれた現実とは程遠い信仰の有様を見せ、救い主イエス・キリストを拒絶し、この主を十字架につけて殺してしまったこと、主イエスさまのご復活によって地上に贖いとられたキリストの教会、新しい神の民イスラエルを、彼らがなお拒絶し、迫害していること。このような現実を見れば、神ご自身の全知全能の力、つまり、全てのものを見通し、そのご計画通りに実現する力を持っておられないことになるのではないかという議論に正面から取り組んだのです。そして、先週はその結論を学びました。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」11章32節。

パウロは、神が本当におられること、何よりもその神が、聖書に記されている通りの神に他ならないことを、今まで、真正面から証し続けたのです。そしてそのように告げる本人が、最後の最後に声を挙げているのです。それが「ああ」です。「ああ、深い」と言ったのです。原文では、「おお、深い」と言ったのです。実は、わたしは、日本語であっても「おお」とそのまま、記した方がよいのではないかとわたしは考えています。

 深いという言葉ですぐに思い起こすのは、第9章冒頭の言葉です。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」パウロは、同胞ユダヤ人がなお救われていない現実を見たとき、心痛めました。体まで痛め苦しんでいたのだと思います。そのようなパウロの深い悲しみを、しかし、吹き飛ばすものがあるのです。それは、同じ深み、深さではあるのですが、対象が違います。それは、悲しみの深さではなく、神の深さなのです。神の奥義の深さです。神の隠された憐れみのご計画の深さです。それは、主イエス・キリスト御自身と言い換えてもかまいません。主イエス・キリストという神の奥義を仰ぎ見たとき、パウロの信仰による悲しみは圧倒されてしまうのです。 

 パウロの悲しみ、それは、隣人の、同胞の魂の滅びを考えるからこそ受ける悲しみです。ですからこの悲しみは、キリスト者にしか分かりません。キリスト者しか知りません。そしてこの悲しみの源は、神ご自身の悲しみであるといってもよいのです。

ただし、人間とは、キリスト者であろうがなかろうが、それぞれの悲しみを背負って生きる存在です。罪人であるゆえの悲しみを担いながら生きる以外にないのです。しかしそこでこそ今日の社会の闇をもたらす一つの問題は、この悲しみを誠実に悲しむ者が少ないということではないでしょうか。悲しみを悲しんで生きる人間は負け犬、弱虫とばかりに、悲しみを他人に押し付けてそれで平気でいられる人間が増えている気がいたします。心を病むような厳しい社会環境、職場環境におかれているわけです。このような悲しみの深み、深い悲しみを前に人間は立ちすくみます。少なくない人が、「もう、生きていけない」と思いつめて、倒れてしまうのです。

しかし今パウロは、叫びの声を挙げます。「ああ」です。腹の底からこみ上げるから発する声です。わたしは、やはり「ああ」ではなく、「おお」と記すべきだと思います。「ああ」であれば、そこに何か悲しみのニュアンスが篭ってしまうからです。「ああ、なんと悲しいのだろうか。ああ、なんと惨めなのだろうか。ああ、なんとひどいことになってしまったのか。」このように、「ああ」には、その後に、否定的な、消極的な何かがくっついてくるのです。しかし、ここでは、そうではありません。パウロは、「神の深さ」に驚いているのです。

ここでの深さ、神の深さとは、人間をしてどのようにさせる性格、力を持っているのでしょうか。
断崖絶壁を覗き込んだ経験を持った方ならすぐお分かりでしょうが、そのようなところで人間は、足がすくみます。動かなくなります。ところがテレビで、断崖絶壁を見ても、足はすくみません。それは、その場にいる人だけの経験なのです。それなら、神の深み、神の深さを覗き込んだら、人間はどうなるのでしょうか。そのとき人間は、地に足をしっかり据えることができるのです。しっかり自分の足で立ち上がって生きるようになります。覗き込むという表現は、上から下を見ることです。しかし神の深さとは、心を高く上げて、天に向かうのです。上を仰ぐのです。天を高く仰ぎ見るのです。ですから、立ち上がれるのです。

さてそこで、見えてくるのは何でしょうか。それが、「神の富と知恵と知識」です。神の富と知恵と知識とは、テレビでは見れません。テレビで見せられるようなものではありません。それは、一定の場所があります。そこに行かなければ、そこにいなければならない場所とときがあります。それこそ、今日、この場所に他なりません。主の日、日曜日にキリストの教会の礼拝式の真ん中で、そこでこそ、天の窓が開かれて、神の富と知恵と知識とが何と深いかと、おおと喜びと驚きと感謝と賛美の声を挙げるのです。

パウロは「神の富」と言いました。ある翻訳は、これを「栄光の富」と訳します。神ご自身が富なのです。いつの時代でも人間は、富を求めます。しかし、今日ほどあからさまに、わずかの者がその富を独り占めにする、あるいは、多くの者たちが富を得ることに人生のすべてを費やすような極端な時代でしょう。しかし、真の富とは、神ご自身のことです。

次に、神の知恵、それは何でしょうか。それは驚くべきことでした。私どもからすれば、知恵のないもののように写るほど、不可解で、考えも及ばないことでした。それは、わたしや皆様が救われるため、神さまの子どもにしていただくために、もともとは神の選びから切り離されていた私どもを神の民にするために、神はその独り子を十字架におつけになられてわたしどもの罪を贖う代価、私どもの罪を償わせる代価とされたのです。私どもは、この神の犠牲によって救われたのです。人間をその罪の故に裁くべき正義の神が、私どもの身代わりに裁かれてしまわれたのです。それが神の知恵でした。人々から嘲笑されるような知恵だったのです。

神の知識とは何でしょうか。神さまは、すべてのことをご存知です。神さまの知らない世界はありえないのです。それが全知全能の神ということです。しかし神のそのようなご性質をただ単に、教室での知識、常識的、教養の上での知識を得たとしても、私どもの人生、生活、生き方に何の役にも立たないのです。繰り返しますが、テレビで断崖絶壁を見るようなものです。しかし、神の知識とは、この自分、この神さまに顧みられなくても当然の人間、むしろ神に捨てられ、無視されても当然のような罪深い、神さまを無視し続けて生きてきた私を、神が愛をもって知っておられるということです。神がこの私をその愛の中で知っておられる、受け入れていてくださっているということを、この私が知っていること。これが神の知識の深さです。だから、「おお」と叫ばざるを得ない喜ばしい驚きなのです。

 横道にそれますが、わたしは、かつて、「神学とは何か」という講演をしたことがあります。その基礎となったのは、カールバルトという神学者の「福音主義神学入門」というおそらくこのバルトの数多くの書物のなかでもひときわ優れたものではないかと思います。そこで神学者バルトは、言うのです。神学、神についての学、学問とは、「驚かされること。」そのことを丁寧に申し上げる暇はありません。しかし、すべての学問には、この驚かされる経験が必須なのだと思います。とりわけ神学においてなのです。神との出会いは、私どもにとって究極の驚きです。宇宙の構造や人間の人体、あるいは法律でも経済でも、哲学でも何でも、未知、知らない世界を知ること、発見するところには、びっくりするような経験、驚かされることがあります。

神と出合って、驚かないでいられるなら、それは生きた神と出合っているのではない。死んだ神でしかないのです。私どもの毎週ささげる礼拝式でこそ、それがもっとも鋭く問われます。私どもは、神さまに出会うとき、慣れ親しむことは当然あるでしょう。私どもは、毎日、天のお父さまとお呼びして、今日の日を迎えたのです。それこそ、毎日、毎日、朝、昼、晩と神との交わり、主イエス・キリストとの交わりのなかで生活してまいりました。それが、キリスト者の基本です。しかし、もしもそこで、主の日に礼拝することが、慣れてしまい、神さまのことを聴くことが当たり前で何の驚き、言葉を換えれば、興奮しないで聴けるとするなら、私どもは、底で深刻な反省を求められる。神の御言葉は、いつでも新しいのです。新鮮なのです。ですから、何百回、何千回聴いても、なお、興奮するのです。それは、何よりも説教者の問題でしょう。わたしは、神さまの御言葉を語るとき、興奮します。興奮を抑えることも必要かもしれませんが、しかし、興奮しないで、客観的なこととして、伝達することはできないのです。単なる伝令であれば、伝令はとにかく自分の私情などはさまず、用件をきちんと伝えればよいのです。しかし、説教者はそうはまいりません。使徒パウロは説教者の中の説教者、説教者の模型です。使徒です。神に立てられ、神のご計画と言葉を預けられ、福音を語る人です。そして、この語る人の、特徴であり、不可欠なことは、語っている人その人が、語った内容に預かっているということです。神の救いに預かっているのです。彼こそ、主イエス・キリストの福音にあずかって、救われているのです。主イエス・キリストの恵み、憐れみの器そのものになっているのです。そのような現実に神の憐れみの器になった者が、そこに盛られた神の憐れみの御言葉を語るのです。

 そして、それを語り終えたとき、パウロは、最後の言葉としてこう語る以外になかったのです。その意味で、本日の箇所は、この手紙の結論です。いへ、聖書の結論とすら言ってもよいでしょう。そうなると、いよいよ、この言葉の重みが増します。聖書の最後に記された言葉は、誰でも、紐解けます。ヨハネの黙示録が、聖書の最後に収められていますからその最後の言葉です。「然り、私はすぐに来る。アーメン、主イエスよ 来てください。」これは、救いの歴史において、最後の局面を扱ったみ言葉です。まだ実現していません。しかし、私が今、この箇所は、聖書の内容の結論と申しますのは、この箇所は、頌栄が書いてあるということです。神をたたえる言葉を頌栄と申します。聖書は、神さまの御言葉、神からの言葉が記されています。そして、それを聴いた者は、その都度、その都度、同じ言葉をもって神に向かう以外にないのです。その意味で、聖書を読んだ者がその最後に、聖書を閉じるに当たって、そこに必然的に伴う言葉があるわけです。どうしてもこう申し上げないでは、終えられない言葉があるのです。「栄光が神に永遠にありますように」

 私どもの礼拝式でも、もしも、讃美歌を歌うことを禁止するようなことがあったなら、私どもの礼拝式は、おそらく成り立たないと思います。横道にそれますが、教会の伝統のなかで、改革派の一つの伝統にある教会は、オルガンを用いません。一切の楽器を用いないグループがあるのです。何よりも東方の諸教会は基本的にみなそうです。西方、西側の教会はパイプオルガンを建造してその音楽、楽器を用いることに積極的でした。どうして楽器を禁じたのかと言えば、音楽の力のよい面とともの悪い面を意識したからでしょう。つまり、楽器の音色のすばらしさが、神への思いを横取りするかのように働く面を見ているのです。確かに教会の音楽が教会から離れて、宗教音楽としてのジャンルを持ち、少なくない日本人がバッハやモーツアルトを、その礼拝音楽、ミサ曲を音楽として喜んで聴いているわけです。さてそのような教会であっても讃美歌を歌うことをやめる教会は考えられません。神を賛美することなしに礼拝を始めたり、終えることもできないはずです。それは、私どもの礼拝体験そのものと思います。もし、今日の礼拝式で、讃美歌を一切歌わないで終わるなら、礼拝を捧げた気持ちは不完全燃焼を起こして、おさまらないと思うのです。礼拝式の最後のプログラムに位置する頌栄の賛美、「たたえよ、父、子、聖霊を」と叫ばないでは礼拝を終えられないと思うのです。

 あるいはこのことの考えてみてください。私どもは、毎週、主イエス・キリストと結ばれる祈りの中の祈りとして、主イエス・キリストがお教えくださった「主の祈り」を、声をそろえて唱えます。主の祈りは、毎日の祈りの言葉とすべき祈りですが、何よりもキリスト者が集るところで祈る祈りです。ソシテ教会は、この祈りを祈り終えたとき、どうしても付け加えなければ祈りを終えられないことを感じていました。それが、最後の頌栄の言葉です。つまり、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン」です。

これは、もともとイエスさまがお教えくださった祈りの言葉ではありません。これは、教会が後から付け加えた神をたたえる言葉、頌栄です。国とは、我々人間がそこに暮らしている現実の国家のことをも含んでいます。この国、この世界もすべて神のもの、神のご支配にあるもの、すべての力、権力は神のもの、栄光はすべてが神の所有であると神を賛美するのです。事実、その通りだからです。主の祈りを祈る教会は、どうしてもこの頌栄を申し上げなければ祈りを終えられないのです。そのような経験の積み重ねによって「主の祈り」には、この「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり アーメン」がどうしてもつけたくなったのです。私どもにもまたよく分かることだと思います。
 
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」この御言葉を読むとき、すぐ思い起こすのは、同じパウロが記したコロサイの信徒への手紙第1章です。読むだけで心が燃えます。興奮します。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」ローマの信徒への手紙では、神と言っているところを、コロサイの信徒への手紙では、御子なる神キリストに当てはめて語ります。すべての主権、権威は神にのみあるのです。それだから私どもは救われることができたのです。贖い、つまり罪の赦しを与えられたのです。

 この手紙において、イスラエルは救われるのか、神の選びの民は本当に見捨てられることなく、間違いなく救われるのかということを問い続けましたが、最後にこの言葉で締めくくる以外にないのです。それは、議論を尽くした最後の言葉です。これこそが信仰の言葉なのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」絶対、大丈夫という言葉です。この御言葉を私どもに当てはめて聴き取るべきです。今現在、これほどまでに反抗しているユダヤ人の救いが揺るがないのであれば、今、ここで賛美し、礼拝し、新しいイスラエルとされているキリスト者が救われないはずがない、天国の民として確証されないわけはないのです。あるいはこういっても宜しい。私どもの人生が敗北することは決してありえないということです。なぜなら、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」つまり、すべてのものはただ神の栄光へとまとめられてゆくのです。押し上げられてゆくのです。帰一するのです。

すでに何度も学んでまいりました。それを教会の言葉、教会の教えで摂理と言います。神は、すべてのものを用い、働かせ、ご自身の栄光へと向かわせられるのです。これは、神のお働き、御業なのです。徹底して神がそうなさるのです。

 私どもは必ず救われ、私どもの人生は必ず完成されるのです。私どもは間違いなく勝利者とされるのです。これが、私どもの確信なのです。神がそうなされるのです。私どもは、確かに今は、悩んでいます。苦しんでいます。一人ひとりの生活の面でも、恐れを抱いている方もおられるかもしれません。私どもの教会も今まさに、来年度に向けて立ち向かわなければならない、小さくてもしかし危機的な状況におかれているのです。個人の生活も教会の歩みも、経済的な課題を抱えているのです。しかし、そこでこそ、私どもはこの神の秘められた憐れみのご計画を賛美できるし、すべきであります。「ああ、深いかな」と歌うのです。神は、私どもさへ救ってくださいました。救い続けていてくださいます。そしてこの救いを完成してくださいます。これは、神が始めてくださったのですから、神が保ち、完成させてくださるのは当然です。しかし、今は、まさに途上です。中間の時です。

 ある説教者がこのようなことを言いました。新幹線のなかで、進行方向と反対側に歩く人もいる。新幹線のなかでご飯を食べたり、寝ていたり、仕事をしていたり、泣いていたり、けんかしていたり、笑っていたり・・・。様々に過ごしているが、しかし、すべての人が目的地に向かっている。私どもも今、やはり神はいないとか、聖書の神は、全知全能の神ではない、絶対者なる唯一の神ではないのだと言う人々に取り囲まれています。しかし、さまざまな主張がなされていても結局、神の創造された世界のなかで語られているのです。そして神は、この世界の主なのです。そしてご自身の秘められた憐れみのご計画を実現し続けられるのです。

 今、キリスト者ももとより、すべての人間が、途上にあります。先が見えません。見通せません。そのなかで、それぞれ必死に生きています。しかし、大丈夫。なぜなら、すべてのものは、神の栄光のために秩序付けられてしまっているからです。
 
そしてそれを知っているのは他ならない信仰者であるキリスト者である私どもです。そのとき、自ら立ち上がる信仰、自ら向かってゆく信仰、自ら出向いて行く信仰へと駆り立てられないでおられるでしょうか。神のご栄光のために、私どもを用いてくださるのであれば、率先して、奮起して、神さま、私を用いてくださいとの祈りになるのです。「栄光が神に永遠にありますように」という祈りと賛美は、これを真実に神に申し上げる人は、言葉を変えればこのようにならざるをえません。「ただ神の栄光のために」ソリ・デオ・グロリアSoli Deo Gloria!です。これは、必然です。栄光はただ神にのみあるのであって、それを告げるのであれば、決して傍観者ではおれないのです。自分自身が、この神の栄光のために救われたこと、神の恵み、神の憐れみによってのみ、信仰が与えられ、その信仰によってのみ救われたのですから、ただ神の栄光のために生きる以外に生きる目標、目的はありえないものとされたのです。私どもの信仰とは、実に躍動的になるのです。

 ローマの信徒への手紙では、これまでただ恵みのみ、信仰のみによって救われると繰り返しパウロの主張を学びました。本日は、宗教改革記念礼拝と銘打って、礼拝を捧げる教会は多いと思います。教会の改革者ルターが、時の教会の過てる教えを正したことによって始まったとき、人が救われるのは、行いによってではなく、ただ恵みのみによると主張しました。次の世代のカルバンが、「ただ神の栄光のために」と言ったことは、まったく同じことであり、それをより神の側から発言しなおしたのです。すべては、神の憐れみのご計画、御心に基づくのです。そしてすべては、神から出て、神によって保たれ、神に向かう、神の栄光へと向かうのです。私どもの救いは、徹底的に憐れみの御業なのです。恵みの御心によるものなのです。神は、まさに一方的に私どもに恵みを差し出され、私どもは救われてしまったのです。ですから私どもは強いられてではなく、仕方がなく、いやいやでもまったくなく、まさに自由に神にお仕えする志を与えられたのです。

 私どもの教会堂の正面の外壁にはラテン語で、「ただ神の栄光のために」Soli Deo Gloria!と記しています。この会堂そのものが、神と隣人のために捧げられたものでした。そのために会堂建築の志が与えられ、献金したのです。そして、ここで今、礼拝式を捧げることができています。礼拝式こそは、徹底的にSoli Deo Gloria!ただ神の栄光がたたえられ、捧げられるものです。そのような礼拝式を、この教会で愛する皆様とともに今日捧げられましたことを、そしていよいよ捧げ続けられるように全力を注いでまいりたいと願います。

祈祷
 主イエス・キリストと父なる御神と聖霊なる御神よ、あなたを知れば知るほど、尊い御名を賛美するほかありません。あなたの隠された憐れみのご計画を知れば知るほど、あなたの御名をあがめる以外にありません。どうぞ、地上にあるかぎりあなたを賛美する民の一人として、全力を注いで賛美させてください。また、天国に行くとき、あなたのみ顔を直接仰ぎ見て、賛美させてください。栄光が私どもの主イエス・キリストと父なる神と聖霊に世々限りなくありますように。アーメン。