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「クリスマスー私たちと一つになるために」

「クリスマスー私たちと一つになるために」
2007年12月23日
テキスト ヨハネによる福音書 第1章1-14節 P163
「 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

主イエス・キリストのご降誕、おめでとうございます。ここにおられる多くの仲間たちはすでに、説教の前に、「おめでとうございます」と、わたしの挨拶に慣れ親しんでいてくださると思います。毎週日曜日、主の日の礼拝式のたびごとに、天から、神によって告げられることばは、いつでも「おめでとう」という祝福の挨拶、祝福のことばだからです。説教者であるわたしは、この神からの言葉を皆様にあらためてこの場で告げているのです。しかし、この降誕祭ほど、このおめでとうという言葉がふさわしい主の日、日曜日もないと思います。なぜなら、主イエス・キリストがマリアのおなかに宿られる、受胎されたとき、神から遣わされた天使が、最初に発した言葉こそ、この「おめでとう」だったからです。めでたし、喜びなさい!という英語の翻訳もあります。「おめでとう、喜びなさい。」これが私どもへの神の招き、命令なのです。なぜなら、わたしどもがまさに、喜ぶことができる出来事を神が起してくださったからです。一人の男の子がお生まれになられたのです。この一人の赤ちゃんの誕生が、クリスマスです。降誕祭の主人公です。

 主イエス・キリストの降誕は、それほど大きな出来事なのですが、しかし、新約聖書の福音書に記されているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。一番最初に書かれたマルコによる福音書には、記されていません。本日読みましたヨハネによる福音書もまた、主イエスのご降誕における物語、その光景をまったく記していません。しかしヨハネによる福音書の著者ヨハネは、クリスマスの美しい光景を描きだしてはいませんが、その本質については、もっとも鮮やかに、もっとも深く私どもに告げています。
 
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」この実に、荘重な響きを立てて始められるこの福音書は、ここで、明らかに、創世記の第一章第一節を思い起こしながら記しています。「初めに、神は天地を創造された。」「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」

 神は、ご自身の発せられた言葉によって世界を創造されて行かれました。ヨハネは、そこで発せられた言は、神であるといいます。神とその言葉とは、別のものではないのです。これは、人間である我々には、分かりにくいはずです。どうしてでしょうか。それは、人間は、偽る存在だからです。今年の世相を反映する漢字一字として選ばれたのは、偽りだそうず。偽装、偽証、要するに嘘です。人間が発するその言葉とその人とが結びつかない、分離する、乖離する。分裂してしまうのです。ですから我々人間の世界では、ただの言葉だけでは、信じないということがもう身についてしまっているのです。ところが、神さまはそうではありません。神とその御言葉とは、常に正しく、真実です。神とその言葉とに分離も、乖離も、分裂も一切ありません。その意味で、神が発せられた言は神なのです。そして、ヨハネが言いたいこと、伝えたいことは、この神の言葉こそ、御子なる神、つまり私どものところに人間となってお生まれ下さった御子に他ならないのです。2000年前に名前をつけられたイエスさまに他ならないのです。

 人間にとって言葉とは何でしょうか。偽りの道具。そう言ってしまえばなんと惨めで悲しいかと思います。しかし我々は、他の人のことではなく、自分自身のこととして、偽りの言葉を語っている者であることを、すでに知っている、自覚しているかと思います。しかしなお、なおそこで真実の言葉を求めているのでもないでしょうか。そんな人、そのような言葉を発見するとき、私どもはどれほど暖かな気持ちになることでしょうか。真実の言葉に憧れているはずです。恵みと真理に満ちている言葉を欲しているのです。本物の言葉、私どもを暖めるような言葉です。恵みにみちた言葉、そのような温かい真理の言葉を欲しているのです。

 さて最初に、皆様と、言葉を巡って、考えてみたいのです。もともと言葉とは何でしょうか。何のためにあるのでしょうか。言葉とは、人間のものです。犬や猫のものではありません。猿のものでもありません。人間が他人とのつながり、コミュニケーションをとるための手段です。そしてすべての存在を認識するための道具でもあります。言葉によって、我々は、自分自身を認識します。自分との対話をすることもでき、そのようにして自分を自分であると捉えられます。また目の前にいる人のことも言葉で捉えるのです。そのために、もっとも必要になるのは、捉えようとする相手と言葉を交わすことです。相手の言葉を聞くことです。言葉は、人間同士がお互いに交わるため、交流する為の欠かせない道具なのです。

 さてこのようなことは、何も教会で教えられる必要はないかもしれません。常識的なことだと思います。それなら、教会が、聖書が告げる真理とは何でしょうか。先ほど、言葉とは人間のものであると申しました。しかし、言葉とはもともとは、神のものなのです。「初めに言があった。」人間の存在する前のことです。人間は、言葉によって創造されたのです。つまり、神によってということです。被造物のすべてが言葉によって創造されました。しかし、人間だけが、なんと驚くべきことに、神の言葉を聴き取り、理解する能力を与えられたのです。神のかたちに似せて創造されたと創世記は語っています。神のかたちに似せられたからこそ、神の言葉を聴き取ることができるのです。それは、神が人間とコミュニケートするためです。交わるためです。神は、もともとそのような相手として人間をお造り下さったのです。

 つまり、言葉とは、もともと人間との交わりの道具ではなく、神さまとの交わりの道具なのです。神さまの御言葉を聞いて、そして私どももまた、神さまに返事をする、それが、私どもの発する言葉なのです。それをなんと言うのでしょうか。それこそ、祈りです。お祈りすることです。ですから、人間とは祈る存在なのです。人間から祈りを取り上げると、神のかたちが壊れるということでしょう。それなら、わたしどもはいったいどれほどお祈りしているのでしょうか。神との交わり、神との交流を喜び、楽しんでいるのでしょうか。そもそも、神の言葉にどれだけ親しんでいることでしょうか。

 この礼拝式を、私どもは大きな祈りと呼んでまいりました。それに対して、小さな祈りとは、一人ひとりが個人的にお祈りすることです。この皆さんと一緒に捧げている大きな祈りのなかで、もっとも時間を費やすのは、どこでしょうか。それは、聖書の朗読とその説教に他なりません。ここでは、徹底的に聴くのです。神のみ声を聴くわけです。そこでこそ、もっとも真剣な問いが発せられます。聖書の言葉、説教の言葉をどれほど聴き取れるのかということです。

 先週の朝のお祈り会で、昨年の降誕祭に洗礼を受けられた一人の兄弟と一緒になって祈りました。一緒に祈られた一人の祈りの先輩が、祈りを終えた後で、その兄弟に、「すばらしいお祈りですね。」と仰ったのです。誤解のないのように申しますと、お祈りの言葉が、流麗で、文学的で、洗練されているということがすばらしいお祈りということではありません。その意味では、祈りの言葉の美しさにこだわることは、むしろ危険な場合もあると思います。しかし、すでに高齢者と呼ばれるその兄弟が、一年間で、それほどまでに祈りを身につけられた、つまり神の御言葉を聴き取り、理解されたということに、その姉妹は心から喜び、励まされたのだと思います。

「暗闇は光を理解しなかった。」とあります。ここでの暗闇とは、主イエスを、神を正しく受け入れない世界のことです。神をやんわりと、ときには激しく、いずれにしろ排除している世界のことです。光なる神を排除して、失っている世界であるゆえに暗闇なのです。わたしは、この暗闇、この神をはいじょしている世界から救い出されること、イエスさまを信じて救われるということの一つのしかし大きなしるしは、説教が分かるということであると信じています。説教が分かる。それは、そこで、神の言葉が分かるということが起こることです。説教を理解すること、それは、とりもなおさず神が分かる。神を信じたということです。受け入れたのです。一人の兄弟もまた、言葉を理解した。神の言葉の説教、聖書の言葉を理解したのです。正確を期して申しますと、理解し始められたのです。神の言葉との関係は即、神との関係の反映となります。

神の言葉を理解することは、その結果として、自分自身もまた神の言葉を語ることができるようになることに必ずつながります。それは、何も誰もが、説教することができる人間になるということではありません。それは、神の言葉が心に届き、心に反響するとき、祈りのことばが生まれるということです。神の言葉が、人間の心のなかで、祈りの言葉を紡ぎだすのです。そのようにして、まさに言葉が通うのです。そこでこそ、神との交わりが起こるのです。それが、聖書の救いです。神との交わり、神との正しい関係がそこで、言葉によって引き起こされるのです。ですから聖書は、そして神の言葉によって生み出された教会は、神の言葉と語り続けるのです。神が、我々人間との交わりと求めていてくださるからです。神は、我々が、神の子として、神を知り、神を喜び、感謝することへと、まことの人間の姿を回復することへと招いておられるからです。どうぞ、この教会で、神の言葉を聞き続けてください。それこそ、祈りです。そして、一日も早く、自分の口で、言葉の本当の意味、言葉のもっとも深い使用方法を身につけてください。祈ることです。天のお父さまと、お呼びすることです。そのために、神の言葉を理解できるようにと、神に求めてください。それが聖書を正しく学ぶ条件です。お祈りしないで、祈り求めないで神の言葉が分かる、理解できるわけなどないからです。

さて、今私どもは、神は、ご自身との交わりの手段として言葉を与えてくださったことを学びました。神は、人間に言葉を語り続けてくださいました。今も語っていてくださいます。もともと、それで十分なはずです。ところが、ヨハネによる福音書は、こう告げるのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 言葉が肉体を取る。それを受肉と申します。肉を受ける。人間となるということです。言葉であられる神が、神であるままにしかし、人間となるということです。マリアのお腹に宿られ、誕生されたのです。これこそ、降誕の出来事、クリスマスです。

 繰り返しますが、もともと神さまにとって、人間と交わりを持つ手段は、言葉だけで十分のはずなのです。ところが、父なる神は、言葉なる神、つまり神のみ子、独り子を、私ども愚かで、自己中心の人間のためにお送りくださったのです。私どもを憐れみ、罪を赦して、神の子として取り戻す為に、そのようにしてわたしどもと限りなく近づくために、天の高き位をお捨てになられて、この地上に降られたのです。

 繰り返しますが、神との対話、交わりの手段は祈りです。そのために、神は、絶えず、私どもに語りかけていてくださいます。今朝、まさにその集中的なときです。ところが今や、御子なる神が人間となってくださいました。それ以前の人間と神との交わりをはるかに越えるようにして、神が私どもに近づいてくださったのです。神が私どもと一緒にいてくださる。その近さとは、人間どうしのあらゆる近さをはるかに越えた近さにまで、近づいてくださったことを意味するのです。あなたの親よりも、夫や妻よりも、子どもや兄弟よりも、あらゆる人間関係の近さにまさった近さをもって、私どもに近づいてくださったのです。

 神は、処女マリアの肉体に宿られました。マリアに受胎したのです。マリアの肉体を用いられます。そもそも、女性のお腹のなかに人間の命が宿ることも神秘ですが、比べることもできない神秘は、御子なる神が彼女の卵子を用いられ、そのようにして宿られることです。しかし、神は、私どもと交わりを持つために、それほどのことをしてくださったのです。御子イエスさまが肉体をもってくださったことによって、私どもは神との交わりを、言葉を越える手ごたえ、絆をもって結ばれることが可能となったのです。御子イエス・キリストにおいて、私どもは神と結合する、合体する、一つとされることが可能となったのです。そのようにしてまた、私どもが、神が神として支配されるみ国、天国に入ることも、可能となりました。なぜなら人間となられたイエスさまが、そこに、おられるからです。私どもと、天国においても共にいてくださるので、私どもは父なる神の支配する天国に、このままで入らせていただけるようになりました。

 そうです。クリスマスとは、神が我々人間と極限まで近づいてくださる為のみわざなのです。私どもと一つとなるための恵みの御業なのです。私どもは、今や、主イエス・キリストを通して、神との交わりへと招かれているのです。具体的には、御子イエス・キリストとの交わりです。どうすれば、ここまで近づいてくださったイエスさまと交わりをすることができるのでしょうか。どうすれば、このイエスさまと一つにされるのでしょうか。それは、唯一つのことです。主イエス・キリストを信じることです。このクリスマスの出来事を信じることです。そのときに、生きておられるイエスさまは、あなたの心の中に直ちに宿ってくださり、あなたと一つになってくださるのです。

わたしは、日曜学校の子どもたちに祈りを説明するとき、必ず、こう申します。「お祈りするときは、両手を組みます。あなたがお祈りすると、イエスさまとあなたは、その組まれた両手のようになっているのです」と。つまり、片方の手は、イエスさまです。もう片方の手は自分自身です。祈りとは、主イエス・キリストと一つにされる手段です。決定的な手段です。それが可能となったのは、わたしどもが祈るからだと言うのは、確かにその通りです。しかし、もしもイエスさまが肉体をとられなければ、一つなど決してなれません。ただイエスさまのおかげなのです。イエスさまは、そのために、人間となって、肉となって私どものところに宿られたのです。

ですから、クリスマスを祝うことは、このイエスさまと一つになることです。このイエスさまを宿すことです。信じることです。そのとき、イエスさまとあなたは、永遠に 離れることのない関係になるのです。教会は、主イエス・キリストと一つに結ばれた人に、洗礼の礼典を施します。洗礼によって、私どもは、人となられた主イエス・キリストと結びあわされるのです。いわば、結婚するわけです。主イエス・キリストは、いわば、信じる私どもと結婚してくださるために、お生まれ下さったのです。

 先日、マザーテレサさんのインタビューのビデオを観ました。インドのカルカッタ、今のコルコタで、死に行く人々を看取るための施設を始めた、あの体の小さな女性です。インタビュアーは、質問しました。「あなたは結婚されていますか。」彼女は答えます。「はい。わたしはキリストと結婚しています。」洗礼を受けたキリスト者とは、誰でもキリストを花婿とし、キリストの花嫁となるということを意味しています。キリストと結婚することを意味します。この一人の女性だけのことではありません。

 しかし、わたしは、そこでマザーテレサさんの次の言葉に激しく心を動かされました。「わたしは十字架にかけられたキリストの花嫁です。」

 85歳のテレサさんは、なんとも言えないすてきな笑顔で、「彼の要求は、時々、強いですよ。」と答えられました。彼女の働きの最初は、どのようなものであったのかを、思い起こします。それは、道端に一人倒れて、誰も看取ってくれないまままさに死なんとする人を、5万人、看取ったというのです。何故、死に行く人なのか、その理由はいくつもあるでしょう。しかし、わたしは、最近、しみじみと思うのです。「十字架にかけられたキリストの花嫁。」主イエス・キリストは、まさに孤独で死なれたお方です。あれほどの孤独はありません。すべての愛を、その極みまで注ぎ尽くした弟子たちから、裏切られて死なれたのです。その愛を注いだ人々から、手のひらを返されて、見捨てられて死なれたのです。何よりも、何よりも、永遠の愛の交わりにおいて一つであった御父から見捨てられてひとりで死なれたのです。マザーテレサは、死に行く人に、主イエスを見ていたのだと思います。逆から申しますと、主イエス・キリストはそのように死なんとする者と一つになるお方なのです。

 一年を終えようとするこのとき、葬儀を執行する悲しみに立ち会った経験を思い起こします。死の現実は、慰める言葉もないような悲しみです。しかし、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」言なる神、イエスさまは、肉となって私たちの間に宿られたのです。わたしたちはその栄光を十字架において見たのです。あの死によって、十字架の死によって、決定的に私どもと一つになりきってくださった。決定的に、まさに決定的にです。飼い葉おけで生まれた赤ちゃんと、十字架の上で死なれた男性。それは、神が、私どもと一つになるためだったのです。どのような生まれ方をした人間であっても、どのような死に方をした人間であっても、もはやこの人となられたイエスさま、もっとも低いところに来てくださった御子イエスさまの外に生きている人、関係のない人間は、いないのです。
 
マザーテレサさんは、しばしばこう仰います。「もっとも貧しい人、もっとも弱い人の中にイエスさまを見る」。それは、主イエスが、マタイによる福音書第25章において、お腹をすかして、喉が渇いて、宿を失って、裸にさせられ、病になって、牢に閉じ込められている人、つまりもっとも貧しく、小さい者、困っている者、助けを必要としている者を、「わたしの兄弟」とはっきりとお呼びになられました。そして、「この兄弟にしてくれたことは、わたしにしてくれたことだ」と主イエスは仰せになられました。だから、彼女の眼差しと行動は、特に貧しい人、小さな人に向けられるのです。小さな者とは、それはまさに死なんとする人であり、まだ生まれる前のお腹の中にいる胎児、しかし中絶させられそうになっている胎児に向けられるのです。

そして実に、神の独り子イエスは、まさにこのような弱い者と一つになってくださるために肉体をもたれたのです。他ならない主イエス御自身が、まさに飢え、渇き、宿を失われたお方だからです。馬小屋で生まれた人間なのです。だからこそ私どもの、まことの王、まことの救い主なのです。裸にされ、牢に閉じ込められ、私どもの病を負い、私どもの罪を担って、十字架で苦しみ、死んでくださった人間、救い主、王の王なのです。このようなイエスさまご自身こそが、最も小さい者なのです。小さい者と一つになってくださったのです。

そうであればこそ、わたしのような名もなき、小さなしかし徹底的に罪深い人間を憐れみ、このようなわたしのところにも近づいてくださり、探し出してくださり、出会ってくださったのです。そして、癒してくださり、何よりも罪を赦して救ってくださったのです。わたしをイエスさまの一人の弟として受け入れ、そのようにして神の子として取り戻してくださったのです。

 降誕祭をお祝いすることは、私どもがこのように主イエス・キリストに愛され、救われ、一つとされていることをお祝いすることです。あなたも、イエスさまを信じるとき、この御子において神との交わりを持つことが出来ます。あなたは、そのように救いへと招かれています。遠慮する必要はありません。躊躇する必要もありません。今、「天のお父さま」と、「イエスさま」とお呼びすればよいのです。そのとき、私どももまた、はっきりと神からの「おめでとう」との祝福の言葉を聴き取ること、理解することができます。それが、本当のクリスマスの祝いなのです。

祈り
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの御子を、わたしどもとまったく変わらない人間として地上にお与え下さいました恵みを心から感謝いたします。真の人間イエスさまだからこそ、私どもは主イエス・キリストと一つとされ、あなたと結ばれることができるのです。そのようにして神の子とされるのです。心から感謝いたします。今、あなたの恵みによって、ここに招かれたすべての仲間たちが、まことのクリスマスを祝うことができますように。御言葉を理解し、祈り、主イエスを信じることができますように。すでに信じている仲間たちは、花婿なる主イエスのご命令に、喜んで従い、またいつでも従える準備を整えることができますように。