過去の投稿2008年1月9日

「教会に生きる」

「教会に生きる」

2008年1月6日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章3節~8節 
「 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

2008年の最初の礼拝式を、愛する皆様とともに捧げることが出来ますことを神に心から感謝いたします。この一年も愛する皆様と共に、天国を目指して歩む地上の旅路、信仰の歩みができますことを心から感謝するものです。
今朝、改めて祈り、祝福を告げます。ここに集われたおひとり一人の新しい年の歩みの上に、またご家族の上に、主イエス・キリストの恵みと父なる神の愛と聖霊の親しい交わりが豊かにありますように。

本日の礼拝式は、第一の主日ですから、聖餐を祝います。既に聖餐卓の上に、皆様の目の前に、美しい木製の聖餐の品をいれるお櫃があります。念願の聖餐用具が出来上がりました。このお櫃は、まさに伝統工芸です。この道一筋に研鑽してこられた工芸家、職人の業、匠の技の作品です。

わたし自身のことで恐縮ですが、今年で、牧師、説教者として歩んで20周年のときを迎えます。20年間この牧師の務めと言うこの一事に専心してまいりました。私にとって説教者、牧師とは、世間で申しますところの、わたしの職業です。しかし、実は、職業としての牧師という言い方は、なおなじみません。どうしてそこにこだわりがあるのかと申しますと、その一つのことですが、牧師が職業であると言われるとき、もしかすると、このような声がキリスト者から発せられることを、許してしまうことになると思うからです。「牧師さんにとっては、教会が職場である。しかし、私たち教会員、信徒はそうではない。だから私たちには、牧師のように、教会に集中するようなことは求められていないはずだし、できない。」わたしは、この日本で、教会員がそのようなあり方で、変わらないまま、教会生活をするのであれば、教会は、成長してゆくことはできないと考えております。もとより、牧師の責任こそが圧倒的に重いのですが、しかし、教会の形成は、決して牧師一人が担えるものではありません。

さて、私どもキリスト者の信仰の生活を一言で言い表すならどうなるでしょうか。それは、教会と共に生きること、教会を人生の中心に据えて生きること、つまり教会に生きることであります。本日の説教には、「教会に生きる」という題をつけました。「教会形成」こそ、キリスト者の使命であり特権なのであります。

私どもの教会において、一つのこだわりがありますが、例えば、多くの教会が洗礼式と表記するところを、私どもは洗礼入会式と表記します。洗礼とは、教会員になることなのだと、はっきりさせるわけです。洗礼を受けたいと志願する方には、あなたはこれから、教会の「ために」、教会の形成の「ために」生きてゆくことを志しますかと問います。キリスト者即、教会員、教会人なのです。

そうであれば、そのような私どもにとって、教会とは何かということをわきまえることが、信仰に生きるときには、不可欠の知識となります。もしも、教会のことが分からないまま、信仰の歩みをする、始めさせられるなら、キリスト者がどれほど的外れな生き方をしてしまうかを思います。そこに牧師の大きな責任の一つがあります。その意味で、新年最初の礼拝式にこのテキストが与えられていますことを心から感謝しています。また厳かな思いで、そこに神の摂理があることを信じます。新年最初の説教において、まさに私どもキリスト者の基本中の基本を改めて確認してまいりましょう。

最初にしかし、先週のおさらいを短くしたいと思います。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」「信仰の度合い」信仰の尺度ということです。もともとの言葉は、メトロンです。先週は、メーターという言葉のもとになったと申しました。メトロンという言葉から、メトロノーム、音楽の演奏の速度を測る道具メトロノームも生まれました。メトロンからはメジャーという言葉も生まれました。いずれに訳しても要するに尺度、はかり、基準です。つまり、ここで使徒パウロが、教会員に求めていることとは、「信仰を基準にしてものごとを評価しなさい。ものごとを考えなさい」ということです。これこそは、私どものまったく新しい考え方であり、生き方なのです。

実は、そのことは、既に第2節で命じたことと同じであると申してもよいのです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

キリスト者は、この世の考え方、この世の価値基準に倣うこと、つまり「合わせる」「型にはまる」、そこから救い出された者なのです。この世から、どれほど自由になり、解放されるか、これが、私どもが地上にある限りの目標であり、自分を正しく顧みる基準値となるのです。そしてそのためには、パウロはこう言います。「心がまったく新しくされなければならない」心とは、ただ単に心情的とか、感情的いうことではありません。ここでの「心」とは、考える場所のことです。つまり、理性的、知性的に生きよということです。そして、考え方が変わるというのは、ただ単に変わればよいというのではありません。神へと方向転換することです。それを、教会の言葉では、「悔い改める」と申します。この世、その中心点にある自分自身に向かうことから、神に向かうことです。つまり、神にとっての善いこと、神に喜ばれること、神の完全をわきまえる、身につけることです。これこそが、信仰の度合い、信仰の尺度、基準値なのです。この信仰の尺度でなによりも自分自身を省みること、これが、パウロが求めることです。そして、そこで、本当の自分を、自分自身を発見するのだと言うのです。自分を正しく知り、正しく生かす道は、徹底的に信仰によるのです。信仰とは、すべての基準、唯一の真理、人生の目標そのものであられる神を、神として正しく捉える道であり、方法であり、手段なのです。信仰によってのみ私どもは、自分が今を生きる場所が見えてきます。信仰によってのみ、神とのかかわり、神との関係を知ることができるのです。信仰によってこそ、今を知り、今を生きること、自分を自分として生きることができるのです。

これが、先週の一つのおさらいです。信仰によって考えながら生きること、言葉を換えると、神学しながら生きることです。その表現になお違和感があるなら、さらに言葉を換えて、御言葉を聴きながら、御言葉に応答して生きて行くことです。この一年、一人ひとりが、きちんとそのような研鑽を重ね、自覚的な信仰の歩みを今年も深めてまいりたいと思います。そのために、わたしも全力を注いでまいります。

さてもう一つ、おさらいしたいことは、自分を慎み深く評価するということです。私は、先週それをこのように申しました。「信仰なきときは、自分の力一つでここまでやってきたと思い上がれたのですし、思い上がって生きてきたのです。しかし、信仰によって、自分を顧みるとき、まさに自分のこれまでは、ただ神の恵みによってのみ生かされ、守られていることが分かってくる。今あるは神の恵みのみと分かってくる。もはや決して、思い上がり、うぬぼれて生きることはできない。」こうして、パウロが言うように、わたしどもは絶えず、慎み深さ、謙虚、謙遜へと導き返されるわけです。それは、人格的に優れてきたからということではなく、信仰の度合いがそうさせるからです。

さて、いささか遠回りをしましたが、私どもが自分を過大に評価させず、かえって慎み深く評価させる理由は、先週わたしが申したことが、第一の理由としては、ここでは考えられていないのです。今朝の御言葉を読んで既にお気づきになられるかもしれませんが、使徒パウロが、キリスト者が自分を慎ましく評価しなければならない第一の理由とは、神にのみ支えられてあるからだということではないのです。もとより、先週学んだことや、今改めて確認したことが間違いであるのではありません。しかし、使徒パウロは、ここで、神との関係において慎み深い自己評価を求めるのではなく、むしろ、兄弟姉妹との関係において慎み深い自己評価を求めているのです。

あらためて聴きましょう。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」
新約聖書に慣れ親しんでおられる方なら、この御言葉を読んで直ちに思い起こすのは、パウロがコリントの信徒たちに書き送った手紙のことであろうかと思います。今、改めて読む暇がありませんが、キリストの体なる教会と私ども教会員との関係について丁寧に描き出されています。実はパウロは今、そのコリントからこの手紙を書いているわけです。パウロは、まだ見ぬローマの信徒たちに向けて、何気なくこう言います。「わたしたちの一つの体」。キリスト者とは一つの体であると言うのです。考えて見ますと、この言葉は、あまりに唐突ではないでしょうか。もとより、新約聖書を読む私どもにとっては、教会がキリストの体であって、私ども信徒は、その一部分であるという真理は、よくなじんでいる表現です。私は、その意味では、ローマの信徒たちにとってもすでに、教会とは何か、教会の本質とは、キリストの体であるという理解について、よく浸透していたのだと思うのです。キリストの体なる教会とか、キリスト者はその一枝であるという聖書に明らかにされた信仰は、当時のキリスト者、教会員にとってまさに当たり前のことであったと思います。

 一人のキリスト者、それがたとえパウロほどの偉大な使徒であっても、このキリストの体から離れて、ひとり英雄のように立つ者はいないのです。パウロは、むしろ、自分こそ、この兄弟姉妹と一つの体とされている、つまりキリストの体を構成している一部分であると深く、わきまえている、自覚しているのです。

 そのような自分であれば、一体どうして、自分のことだけを考えて信仰の旅を続けることなどできるでしょうか。自分の存在とは、決して兄弟姉妹との交わりを離れては存在しえないのです。これこそ、私どもの真実の姿なのです。それにもかかわらず、もしも自分が、ひとりで生きて行けるかのように考えてみたり、実際に信仰生活を始めるとするなら、それこそ、自分を過大に評価する愚かさの極みであります。

 古代の教会より言い伝えられてまいりました大切な言葉の一つに、こういう言葉があります。「教会の外に、救いなし。」これは、評判の悪い言葉です。教会の外におられる人からの評判が悪いのは仕方がありません。しかし、最近では、ますます教会員から評判が悪くなっています。しかし、決して、譲ることはできない。なぜなら、事実、キリストの体なる教会に生きておられるキリストが臨在されるのですから、キリストの外に救いはない以上、この言葉を撤回することはできません。主イエス御自身が、この現実の、弱さと欠け多い教会をご自身のみ体と宣言されているのに、その教会を非難したり、教会の交わりから離れることは、自分を過大に評価する愚かさです。使徒パウロは、教会なくしてあなたは生きれない、何よりも生きる意味、目標、使命を失うのだから、慎み深く考えなさいと命じるのです。

これは、とてもデリケートで慎重に申さねばなりませんが、もしも、牧師が、その職務を放棄して、たとえば大学の教授になる、あるいは事業家となるとしましょう。もとより、そのような職務は、大切であります。先週も申し上げたとおり、私どもの教会は、学問、文化、政治、経済、スポーツにレジャーとありとあらゆる領域において神の栄光をあらわすことを目指し、その責任を公にしています。しかしそこでなお、確認すべき基本があります。牧師の職務が、どれほど重いものであるかということです。この重さを、牧師が見失えば、信徒も見失うでしょう。そして、信徒である皆さんが、この牧師の務めの重さをどれほど、重んじるかによって実は、牧師はその務めをよく果たせるのです。そこに、教会員の成長、成熟は量られ、求められるのです。しかし不幸にして、牧師自身が、教会に失望し、牧師の職務に失望することが少なくないのです。教会員もまた教会を知ることは、即、牧師とは何かを知ることにつながりますから、牧師の務めとは何かを、改めて確認すべきでありましょう。わたしは今、牧師のことに限定しました。しかし、このことは、当然キリスト者である会員皆さんのことなのです。もしも、皆さんが教会員の職務を放棄して、この世の務めに専心するなら、いかがでしょうか。たとえこの世でどれほど大きな仕事を成し遂げたとしても、それは、キリスト者でなければできないことなのでしょうか。万が一にも、教会のために徹底して生きる生き方をスポイルするものなら、わたしはそれは、捨て去ってもよいくらいに思います。

さて、使徒パウロは、ここで、教会員一人ひとりにさまざまな賜物が与えられていることを言い表して行きます。そこで最初に取り上げたのはどのような職務であったのでしょうか。それは、預言者の職務でした。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、」

私どもは一昨年から、教会が、教会の外に出向き奉仕すること、ディアコニアへと向かうことは、教会が教会であることのしるしであると、学んでまいりました。伝道所委員会は、なお自ら教会のディアコニア、奉仕の道を問い続けたいと考えています。しかし、万が一、教会の重要性、かけがえのなさを、教会がどれほど地域社会に貢献しているのかではかろうとするなら、ディアコニアは断固やめるべきでしょう。なぜなら、もはや教会のディアコニアになっていないのです。教会にとって、地域社会に役立っているかどうかは、その本質をはかるものさし、尺度では決してありません。私どもは、教会じしんの重みをわきまえるのです。それはとりもなおさず、キリストの血潮の重さです。

使徒パウロは、第六節で、申します。「わたしたちは与えられた恵みによって、」すでに先週学びましたが、パウロは、この勧告を語り始めたときこう言いました。「わたしに与えられた恵みによって」確信をもって、このわたしに与えられた神の恵みをもとにして語るというわけです。彼は、預言者だからです。教える人、信仰の教師だからです。そのような賜物を彼は与えられているのです。

そしてそのパウロがここでこう言うのです。「わたしたちは与えられた恵みによって」つまり、「この確信、この神の恵みの現実は、使徒であるわたしだけのものではない、あなたがた一人ひとりのものである。わたしだけでなく、私たち皆が、与えられている恵みがある。賜物がある。だから、それを皆で分かち合わないわけには行かない。」

パウロは、神から受けた恵みを分かち合うところに、一つの体なる教会が正しく生きる道、形成される道を見ているのです。わたしは、「分かち合う」という言葉に、キリスト教的な実にキリスト教的なあり方を見出します。本日は、説教の恵みを分かち合うときを持ちます。毎年のことですが、時間はまったく十分ではありませんが、来年度の奉仕のための準備の意味も含みます。御言葉の恵みを分かち合うことのなかに、キリスト者の交わりの本質が見えてくると思います。分かち合いの心、それは、与えられたもの、恵みをいっしょに感謝する心です。つまり、自分に与えられた恵みは、自分のためだけではない。自分の肉の家族のためだけでもない。キリストの教会のため、キリストのため、神の栄光のためなのです。

分かち合うという言葉は、このテキストに出てまいりません。本日のテキストには、「信仰に応じて」という言葉があります。先週は、「信仰の度合いに応じて」ここでは、「信仰に応じて」です。わたしは、もしかするとこれも誤解を招くおそれがあるかもしれないと思います。このような誤解です。「信仰がある人がそれをするのであって、信仰の薄いわたしなどは、できないし、できたとしてもそこそこです」「信仰に応じて」の「応じて」とは、もともとの言葉では、アナロギアという言葉が用いられています。これは、「論理」と訳すことができます。信仰の論理です。信仰には、論理があるのです。聖書の信仰、キリスト教信仰独自の論理です。それは、何でしょうか。くどいかもしれませんが、今朝、徹底したいのです。それは、キリスト者とは、教会を建て上げるために救われた、教会形成のために洗礼を受け、教会に入会するという論理です。聖書の信仰がわからなければ、決して、受け入れられない論理です。この世から見ればとても不思議な論理です。

先週の水曜日、今年になって2日目で、もしかすると今年一番の喜びがすでに与えられました。それは、一人の求道者が主イエス・キリストの御前で悔い改め、信仰を言い表されたからです。お祈りして、救われたのです。その兄弟は、最初に、子どもカテキズムの問い一を読んだとき、とても違和感をもったと仰いました。聖書を読んでも同じであったと言うのです。しかし、説教を聴いて、学び始め、この世に調子を合わせるのではなく、この論理、信仰の論理、神の真理へと合わせられたのです。この世に合っていた、フィットしていた考え方が、神によって変えられてしまったのです。つまり、聖書の信仰が分かったのです。丁寧に申さなければなりません、分かり始めたのです。主イエス・キリストによって新しく創造され始めたのです。

教会に生きるキリスト者、キリスト者の信仰の論理、それは、自分に与えられたもの、恵みを分かち合うことです。教会の仲間たちと分かち合うことです。そこで揺るがせにしてはならない鍵となる真理は、自分に「与えられた」恵みであることです。つまり、自分で獲得し、修得したものではないということです。

ついでのこととして、大切ですから確認しておきますが、与えられた信仰と賜物とは、その後で、研鑽を積み重ねることが求められています。プロと言われる人で、厳しい研鑽なしに一流になった人などいません。信仰に生きる者こそ、自分のためにではなく、神のために、隣人のために、それを研鑽することが、求められています。そして与えられた恵みの中に、それを成し遂げる力そのものが、込められているのです。すべてが神の恵み、賜物なのです。自分の所有ではありません。

今日は、新年度の奉仕アンケート表が配られました。教会の奉仕においてこそ、自分がやりたいこと、自分が決めたことしかやらないということの危険性がそこでわかると思います。わたしどもはまさに、この「信仰に応じて」、信仰の論理の中で、自分を見直すのです。自分がどのようにこの教会の益になるのか。その可能性を発見するのです。そのように全体の部分、共に生きる兄弟姉妹の一員としての自分を発見するのです。そのようにして、全体を生かす部分になりきる幸いを発見するのです。

すべての働きに関わるのは、信仰の度合いに応じて、信仰に応じて、信仰です。信仰の論理でなすことです。そのとき、あらためて知ることは、信仰こそ、神の恵みの賜物です。その賜物を一人ひとりに分け与えてくださったのは、他ならないひとりの神ご自身です。唯一の神が、父なる神が、私どもに信仰を与えてくださり、恵みを与えてくださったのですから、一人ひとりには必ず調和が生じます。

オーケストラは、いくつもの楽器、何十人もの演奏者によって作られます。しかし、一人の指揮者によって、一つの楽曲を奏でるのです。神は、小さな私どもの教会に、言わば、2008年の課題曲を準備しておられます。神が備えてくださるその楽曲を、譜面どおりに奏でることが、私どもの責任です。指揮者は神です。神は、ご自身の御言葉によってそれを成し遂げられるのです。その言葉に聴き従うことが、オーケストラである教会の責任です。いくつもの楽器は、しかし調和を持ちます。ハーモニーを奏でます。そのハーモニーにおいてこそ、私どもの真ん中に、主イエス・キリストが臨在しておられることの鮮やかなしるしとなるのです。

今年の私どもの歩みはいかなるものでしょうか。地上の務めは、それぞれに与えられています。しかし、私どもが召されている教会に仕え、教会を建てあげる、教会形成の奉仕は、私どもの特権であり、無上の光栄です。わたしは牧師の職務を、皆様は信徒の職務にいよいよ専心してまいりましょう。そして研鑽をかさねて良く鳴る楽器、よく響く楽器にならせていただきましょう。そして、福音の音色、イエス・キリストの救いのおとづれを、伝える召しに、皆で励んでまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、2008年の最初の礼拝式を、愛する神の家族、キリストにある兄弟姉妹とともに捧げることができましたことを感謝いたします。どうぞ、この年、いよいよ志を新たにし、高くして、この務め、この奉仕に心を込めて取り組ませてください。そしてあなたの主権を、この地に鮮やかに映し出させてください。アーメン。