過去の投稿2008年1月15日

「神のオーケストラ」

「神のオーケストラ」
2008年1月6日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章3節~8節 
「 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

先週の定例伝道所委員会におきまして、今年も年間主題聖句を掲げることとなりました。あらためてそのような聖句を掲げる必要があるのかないのかをも議論しました。そして今年もまた、年間主題聖句を掲げることと決議しました。それは、まさに先週から学んでいる本日のテキストなのです。5節だけを掲げますが、4節から読みます。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

使徒パウロは、私どものことを、「一つの体」と申しました。人間の体になぞらえたのです。体には、手があり、足があり、胴体があり、頭があります。顔には、目があり、鼻があり、耳があります。髪の毛もあります。いくつもの部位があります。そしてもちろん、その内側には、いくつもの臓器があります。しかし、そのすべてが互いに結び合わされ、互いに必要としあって、一つの体を構成しています。使徒パウロは、キリスト者の教会を、人間的な組織、団体、宗教団体のようには決して考えていないのです。教会を体として理解するということは、言わば、神秘的な表現です。どうして、パウロは、教会をそのように人間的なものとして考えないのでしょうか。

それは、使徒パウロにとってはまさにキリスト者となった原点にまでさかのぼります。かつて彼は、ユダヤ人の誰もが知っているほどの有名な教会の迫害者でした。彼は、自分の信仰する聖書の神こそ、唯一の神であることを確信していました。だからこそ、その神を否定するかのようなキリスト者、十字架で殺されたイエスという人間を、復活した、神の御子、キリストであると言いふらすようなユダヤ人は、まさに、偶像礼拝者であって、モーセの律法にしたがって、処刑しなければならないと確信していたのです。

パウロは、あの日も、いつものようにキリスト者を捉えて処刑するために、息を弾ませ、馬を走らせて、ダマスコの村に急いでいました。しかし、復活のイエスさまさまが彼に出会ってくださったのです。突然、天からの光が彼を照らし、その光の中からこのような声を聴くのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」彼は、驚いて尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

彼の宗教は、ここで決定的に破綻してしまいます。なぜなら、聖書の神ご自身が現れて、そのお方が、わたしが主である、わたしが神であって、他ならないあなたが迫害しているイエスであると、言われてしまったからです。

さて、この主イエスの御言葉は、落ち着いて考えて見ますと、とても不思議です。誰よりもパウロ自身にとって、あまりにも、不思議であったと思います。パウロにしてみれば、確かに、キリスト者を迫害していることは間違いありません。しかし、彼がしたことは、キリスト者の男性、女性を迫害したのであって、何も、イエスを迫害した気持ちはなかったと思います。パウロにとって、彼らが信じ拝んでいるイエスという男のことは、面識がないのです。そもそも、イエスは殺され、既にこの地上には、いないはずなのです。

しかし、主イエスは、仰せになられます。「あなたが迫害しているイエスである」パウロは、この主イエスとの出会いによって、後で鮮やかに知らされます。それは、パウロが、徹底して明らかにした御言葉の真理、すなわち、キリスト者たちは、キリストの体の一部分であることです。キリストの教会とは、単にキリスト者がお互いに団結し、力をあわせてこの世界に影響力をおよぼすための集団、組織ではないのです。キリスト教会とは、生きておられるキリストの御体なのです。そしてキリスト者、信者とは洗礼を受けることによってキリストの体と結び合わされ、そのようにしてキリストの体の一部分とされ、またそのようにしてキリスト者どうしが、体の一部分とされているのです。パウロは、キリスト者への迫害、暴力は、キリスト御自身への迫害と暴力であると主イエス御自身に教え諭されたのです。そして、キリストの体なる教会という真理、キリスト者はその一部分、各自お互いはその部分であるという、ここで明らかにした御言葉の真理を体得した、身につけたのです。

私どもは先週、聖餐を受け、あらためて自分がキリストの体の一部分であることを目に見える形で、体ごと確かめさせていただいたのでした。

さて、パウロは、「わたしたちも数は多いが」と申しました。どれくらいの人数であったのでしょうか。今日のキリスト教人口のように何十億という数ではありません。当時の世界のキリスト教人口は、せいぜい数万、数十万人という単位であったのではないでしょうか。何よりも、このローマにある教会は、実に小さな群れであったはずです。私どもの教会よりは多いでしょうが、しかし、中部中会の会員数にははるかに及ばないでしょう。しかし、それでも教会には、複数の会員、キリスト者がいるのです。おかしな言い方ですが、キリスト者一人で、自分が一個の教会であるなどと、言い張ることはできません。

さてまた、パウロがここで描き出した教会の働きは、たったの7つです。教会員なるすぐに分かるかと思いますが、教会の働きをこの7つに限定することはできません。教会は、数え切れないほどの多くの働きを行います。私どもの教会でも、花倶楽部やピカソという特別の働きを行っています。牧師の働きを見ても、すぐ分かります。現在、わたしが担う委員会活動やその他の働きだけで、すでに7つを越えています。ですから、この7つということは、むしろ、7という特別の意味を持つ数字、完全数と呼ばれる数を用いることによって、教会の働きの多様性について象徴的に示そうとしたのだと思います。

それならその七つの働きとは、何でしょうか。「預言」「奉仕」「教えること」「勧めること」「施し」「指導」そして「慈善」です。何よりも最初に数えられたのは、「預言」でした。つまり今日の説教のことです。神は、聖霊によって、説教者を通して御自身の文書としての御言葉の聖書の説教を語らせることによって、私どもに御言葉を語り続けていてくださいます。私どもが毎週、ニカヤ信条で「聖霊は預言者を通して語りたまえり」と告白している通りです。神の言葉を説教することは、教会の働きの第一に立つものです。そもそも説教がなければ、そこに礼拝式は成立しません。礼拝式が成り立たないということは、すなわち、教会が成立しないということです。

私どもは、真の教会の目じるしとして、御言葉の説教が正しく語られ、聴かれ、聖礼典が正しく執行され、受領されるという、この二つの働きを数えます。これは、教会の改革者によって新しく生まれたすべての福音主義教会に共通する確信です。説教も聖礼典も、御言葉がその中心にあり、御言葉の異なる現われなのです。だからこそ、預言の賜物を受けている説教者は、信仰に応じて、信仰の論理で説教すべきです。教会の職務としての説教者の重要性を思います。

しかしながら、もしかするとそこで、一つの誘惑がある、危険があるのではないでしょうか。それは、信徒である皆さんの重要性、責任の重さが、ないがしろにされるということです。誰が、信徒の働きを貶めるのでしょうか。スポイルするのでしょうか。それは、牧師である場合もありますが、むしろ皆さん自身ではないでしょうか。

先日、誕生祝いのカードをいただきましたなかで、「説教を聴く自分たちの使命の重さ、大きさを思う」と書いてくださった方々がおられました。何よりも嬉しいことでした。わたしは、当然のことながら、説教準備に時間を注ぎます。ほとんど、二日間集中して、この説教を整えるのです。説教するのは、わずか40分余りです。しかしもしそこで、わたしが手を抜くとしましょう。それはすぐに、分かってしまうのではないでしょうか。この説教は毎週、インターネット上に公開します。これもわたしには自分に課す、一つのプレッシャーでもあります。手抜きをすれば、公にされる、すぐに分かってしまわれると思うのです。 

さてそれなら、皆さんはいかがでしょうか。先ほども確認しましたが、教会は説教が正しく語られるだけでは、成り立たないのです。正しく聴き取る課題があるのです。それはどれほど真剣な行為でしょうか。どれほど、重要なことでしょうか。「信徒は聞く側だから、受ける側だから、楽である。」本当に、そのようなことが言えるのでしょうか。そもそも説教を正しく聴くとは、それを生きることだからです。そうであれば、説教者以上に、神の言葉を雄弁に証しする、あるいは神の言葉を体験する信徒が輩出することも、起こりうることです。先ほど手抜きと申しましたが、説教を聴く手抜きということもまた、あらためて問われるのではないでしょうか。そこでなお考えるべきであります。いったい、その責任は、誰に問われるのでしょうか。

わたしは、説教者として、わたしの説教の第一の聴き手であられるお方を、常に、まさに第一のこととして意識しています。わたしの説教をもっとも聴いておられるのは、神ご自身です。わたしの説教は、第一に神に捧げられるものと理解しています。そうであれば、どうして、この務めを、軽んじることができるでしょうか。そもそも、礼拝式は神に捧げられるのです。

そうであれば、皆様は、信徒として御言葉の説教を聴く責任を第一に誰に負うのでしょうか。わたしに対してでしょうか。「相馬牧師は一生懸命、説教される。だから、わたしたちも・・・。」そのような声をお聞きするとき、どれほど嬉しく励まされることでしょう。しかし、そこでもやはり、はっきりと確認しておきたいのです。皆様は、どなたに対して第一の責任を負うのでしょうか。言うまでもなく、説教者を通して語りたもう神ご自身に対してであります。そして、またお互いに対してであります。さらに、ここに来ていない選びの民、未信者のためでもあります。私ども信徒は、説教を、伝道のため、証し人として整えられるために聴くのです。隣人のために聴くのです。ですから、信徒の最大の奉仕とは、御言葉を正しく聴くことなのです。皆様お一人ひとりのその責任を思います。重要性を思います。ですから、私どもはお互いに、「手抜き」などということはできません。預言の働きは、決して説教者ひとりが担うわけではないのです。教会が、会員全員が、これを担っているのです。説教作成そのものが、説教者一人の働きでは、すでになくなっているのです。岩の上教会のここでの説教は、皆さんが皆さんであるからこのような説教になるのです。私どもは2000年前のローマの信徒への手紙を、他ならない今のこの名古屋岩の上伝道所に書き送られ、語られる神のみ言葉として新しく読み、新しく聴いているのです。ここでの説教、説教すること、説教の言葉を整えることは、名古屋岩の上教会を教会として形成するためのものなのです。教会員全員の作業なのです。

次に「奉仕」が上げられます。私どもは一昨年から、ディアコニアという言葉に慣れ親しんでまいりました。この「奉仕」と訳された言葉が、「ディアコニア」です。ディアコニアの賜物は、キリスト者のすべてに与えられています。伝道所委員会は、皆様から提出された奉仕表を纏めて、来年の奉仕体制を整えます。先週、「自分は何をしたらよいのでしょうか」と、直接、尋ねられた兄弟がおられます。洗礼を受けて日の浅い兄弟ですから、尋ねられたのです。わたしは、いくつかの提案をしました。それをどのように受け止め、応答されるのか、まったくお任せしています。しかし何かしたい、させていただきたいとの意欲を、どれほど嬉しく思ったことでしょうか。

ここでも先ほどのことと同じことを確認すべきかもしれません。すべての働きに共通することです。この奉仕は、具体的には、この教会であり、会員に向かうものです。しかしそこでこそ、ごくごく基本的な、大前提を見失うことがないようにしたいのです。それは、奉仕をお捧げする相手は、どなたであられるのかということです。それは、結局、神ご自身です。だから教会のディアコニアなのです。徹底的に霊的なのです。主日の準備のお掃除は、霊的な働きなのです。神に捧げられるからです。

残念なことですが、奉仕のなかで、不平がもらされることがあります。私どもの教会のことではありませんが、しかし、「何故、私ばかりが・・・。」「何故、あの人は・・・」そのようなことが起こりえます。いへ、心のなかでそう思ったことが一度もない人の方が少ないかもしれないと思います。熱心に主に仕えるキリスト者だからこそ知る苦しみ、戦いです。しかしそこで、基本に立ち返るべきでしょう。奉仕を捧げ、受け入れてくださるお方は神です。神が、私どもを教会の奉仕者として選び、召し、お用い下さるのです。キリスト者でなければ、教会のディアコニアを担うことはできないのです。この光栄を思います。

三番目に「教える人」つまり教師です。日本キリスト改革派教会では、わたしのような者のことを「教師」と申します。御言葉を教える教師です。教会に仕える教師を牧師と申し、伝道所に仕える教師を宣教教師と申します。私どもの教会は、その意味で、教える能力を重んじている教会であると言えるかと思います。

四番目に、「勧め」です。これは、パラカレオーという言葉の翻訳です。この言葉は実に豊かな内容を持つ言葉なのです。しばしば慰めると訳します。説教とも訳せます。信仰が弱り、人生の苦しみや悲しみ、誘惑に陥っている人に、信仰を勧めるのです。そこでも御言葉を語るのです。個人的に語るのです。そして慰めてあげるのです。自分の犯した罪や、突然の悲しみや苦しみに、主イエスの復活の勝利と愛を見失って、心頑なになり、不安になり、不信仰になってしまう兄弟姉妹に、その人の横に座り、手を取るようにして「イエスさまを仰ぎ見ましょう。お祈りしましょう。」と勧めるのです。慰め励ますのです。
カルバンは、これを長老の職務と解説します。長老とは、牧会する人、務めを与えられているからです。しかし、これは、長老だけの務めに限定する必要はありません。必要なときには、いつでも、進んでお互いがお互いになすべきことでしょう。それに精を出せるようにしたいのです。そのために、絶えず霊的に準備をし、その働きの研鑽に励みたいと思います。

五番目に、「施し」です。これは、口語訳聖書では、「寄付する」としました。新改訳聖書では、「分け与える」としました。献金することが第一に表されているのだと思います。カルバンは、これを執事の職務と解説します。これも長老主義政治の役員の務めとして、なるほどと思います。先週も、「分かち合う」という言葉は、極めてキリスト教的な表現であると申しました。私どもは神から恵みを受けている者です。神の恵みですから、自分のもの、自分を自分で立っているとうぬぼれることはできません。愚かなことです。神から委託されたもの、とりわけお金を、施す、寄付する、分け与えるのです。分け与えるところにこそ、恵みが恵みとしての力を発揮するのです。もしもそうしなければ、恵みは枯渇します。

ガリラヤの湖は魚がたくさんいる豊かな湖です。しかし、その南には、死の海、死海があります。極めて塩分を含んだ湖で、生き物が生息していません。何度となく言われてきたことですが、何故、死の海となるのか。それは、ただ水が入りこむだけの湖だからだと言われています。つまり、受けるだけ、たまる、ためるだけの湖なのです。ガリラヤの湖は、流れ込み、また外へと注ぎいれるわけです。湖でさへ、分かち合わないのであれば、死んでしまう、命を宿せないわけです。

教会の職務のなかで、執事の務めは、やもめの世話から始まったと言われます。食べるお世話です。生活の世話です。そこに施し、お金の分配が求められるのです。「惜しまずにしなさい」と勧めています。

昨年末、親子合同礼拝式で、アンパンマンのお話をいたしました。アンパンマンは自分の一部を、アンパンである顔を食べさせてあげる不思議なヒーローです。そこで主イエスが、5000人以上の人々の昼食を奇跡によって準備され、人々が満腹した物語を学びました。ヨハネによる福音書は、この主イエスのすばらしい奇跡の引き金になった、ひとりの男の子を紹介しました。自分のお弁当を、イエスさまに差し出したのです。自分たち家族のお弁当であったかもしれません。いずれにしろ、惜しまずに、イエスさまに差し出したのです。彼がしたことは、5000人の人々にお弁当を分けてあげようということではなかったでしょう。しかし、イエスさまのお話を午前中ずっと、真剣に耳をかたむけたとき、お昼になって、行動したのです。あの男の子こそ、御言葉を正しく聴いたのです。自分たちのお弁当を、分かち合うこと。神さまの恵みを、神さまの愛を分かち合うことが、イエスさまに喜ばれ、神さまに喜ばれることだと、悟ったのです。これが、イエスさまの大きな喜びとなり、まさに想像を越えた奇跡が起こされたのです。私どもは、この男の子を模範にすべきではないでしょうか。

第六番目に、指導です。ここでも、やはり御言葉の教師の働きが描き出されています。また、長老の職務とも重なります。しかしまた、彼らの働きに限定することもありません。日曜学校の教師たちもまた、熱心に、信仰を指導するわけです。大切なことは、熱心さではないかと思います。

ここで教会の働きとしての、信仰を教えること、信仰に生きることを指導することは、いったい人間の業なのでしょうか。人間ができるものなのでしょうか。信仰は、徹底的に神のお働きです。信仰を与え、御言葉を悟らせることは、ただ聖霊のお働きです。しかし、神は、それを私どもを通して勧めてくださるのです。なんという光栄であり、なんという重い責任であろうかと思います。そうであれば、私どもに求められることは熱心さだとパウロは言います。パウロ自身がまさに熱心です。一途です。しかし事実、信仰の指導者たちは、みな、熱心ではないでしょうか。その人じしんが、聖霊を注がれて、神の器、神のパイプとなる、だから、熱心になれるのです。

最後の七番目は、慈善です。ここでは、教会の働きは、ただ教会内部にだけ限定するものではないことがはっきりします。私ども教会は、神の恵みをあふれるほど受けています。多くの人々に先立って受けているわけです。私どもが教会のディアコニアを考えるのは、当然のことなのです。これは、最後の働きです。しかし、2000年間の教会の歴史は、ここからどれほど多くの慈善の働きを地域社会に、世界に対してしてきたことでしょうか。それは、神から受けた恵み、愛を分かちあう行為であります。私どももまた、慈善によって主を主とする。神を神としたいと願います。

丁寧に、教会の七つの働きを見てまいりました。実にさまざまな務めと働きがあります。それらを、神の恵みを受けて担うのです。先週、オーケストラのたとえを用いました。わたしは漫画をほとんど読まない人間です。しかし、昨年末、娘から借りて、「のだめ、カンタービレ」という漫画を読みました。一冊だけではなく、何冊も読みました。初めてです。それを知っている娘が、先週の説教はその影響だと言いました。

私ども教会とは、あのオーケストラにたとえれば、一人ひとりが楽器、異なる楽器なのです。一人ひとりは、それぞれのパートを、思う存分奏でるのです。そのためには、毎日の練習が必要です。個人の練習も必要です。毎日、聖書日課を行うことです。あるいは子どものための「いのぱん」でもかまいません。とにかく、毎日、聖書を開く生活習慣をつくることです。それは、今日のこのときのためです。今日はまさに本番です。私どもの晴れ舞台は、私どもの目標は、今日のこの礼拝式です。指揮者は唯一の神であられます。楽譜あるいは楽曲は聖書と説教です。

そうなると、教会にとって、この楽譜を正確に奏でること、広く響かせることが責任であり、使命であることが分かります。つまり、あの男の子のように生きることです。彼のように主イエスの説教を聴き、これに共鳴し、応答することです。

私どもは、昨年の今、教会とは、神の愛の手紙であると学びました。説教によって、手紙が書き込まれ、多くの人々に神の愛を告げるのだと申しました。今年、教会を、神のオーケストラになぞらえています。今年、私どもは、よく鳴る、よく響く、明るく歌う、-それをカンタービレというそうですが-、カンタービレするオーケストラにならせていただきたいと願います。それが教会だからです。そして、そのカンタービレする教会は、その生命としての礼拝式において、表現されるのです。選びの民は、美しい神の福音を待っているはずです。それを届ける教会とその一枝の働きを待っているはずです。

先週、一人の姉妹が、新しい信仰の冒険をされました。初めての奉仕の務めを志願されたのです。これも大きな喜びでした。ローマの信徒への手紙第12章の1節の御言葉に押し出されたのだそうです。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これがあなたがたのなすべき礼拝です。」この神の言葉を聴いて、共鳴したのでしょう。この楽譜をもってカンタービレする、奏で始められるのだと思います。

私どもは、今年の教会の活動に、一種の、危機感を持っています。それをお互いに共有しています。当然のことでしょう。しかし、大丈夫です。教会の頭なる主イエス・キリストと父なる神と聖霊なる神は、今年の私どもの教会が奏でるべき楽曲をちゃんと備えておられるからです。私どもが、そして一人ひとりが、それを、きちんと奏でる、ただそれをのみ目標にして、新しい年度の私どもの教会の歩みを始めてまいるなら、カンタービレする、つまり歌う教会、神のオーケストラとして豊かに用いられるのです。

祈り
父と子と聖霊において一つであられる御神よ、私どもは一人ひとり異なります。しかし、あなたが私どもをそのような個性ある器であらしめてくださいます。どうぞ、私どもが自分の器、自分と言う楽器を、あなたの御霊と御言葉に導かれ、あなたの楽曲を楽しく、歌わせ、奏でさせてください。あなたは、私どもを神のオーケストラとして集めてくださいました。一人で、パートを奏でる者はおりません。自分のためだけに、自分のパートを奏でる者はおりません。どうぞ、私ども一人ひとりが、キリストの体とされている私ども全体の益となりますように。大胆かつ慎ましい信仰へと導いてください。新しい年、奉仕を一つに集めて、ただ神よ、あなたにささげさせてください。そしてそれをあなたが、祝福し、多くの人々の救いへと奇跡を起こしてください。アーメン。