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「神からの愛に生きる」

「神からの愛に生きる」
2008年1月20日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章9節~10節 
「愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

さて、本日から礼拝のために与えられたテキストは、新しい箇所に入りました。ここでは、キリスト者の具体的な生活が語られてまいります。「愛には偽りがあってはなりません。」愛について集中的に語られてまいります。まさに私どもの生きる道、「倫理」と申しますが、私どもの生き方が描かれているわけです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙において「愛」という言葉を、あまり用いていません。例えばそれに比べて、使徒ヨハネは、その手紙の中で、愛という言葉を頻繁に用います。愛と言う言葉が踊っているのです。それならパウロにとって愛、神の愛とは、主イエス・キリストの福音、神の福音を明らかにするためには、それほどまでには重要な位置を占めていないということなのでしょうか。まったく違います。あの「愛の賛歌」と呼ばれ、古来最も美しい言葉と言われてまいりました、コリントの信徒への手紙一第13章で、愛を感動的に歌い上げたのは、他ならないパウロなのです。しかしそのパウロが、このローマの信徒への手紙で、愛について集中的に記すのは、この第12章からです。倫理ついて書くとき、愛を語るパウロです。しかしここであらためておさらいしますが、私どもの倫理は、単なる倫理道徳とは無縁です。使徒パウロは、ここからの議論の前に、徹底して救いの道を語ってきたのです。信仰の道、それを「教理」と申しますが、救いの道が語られてまいりました。この救いを受けたキリスト者だけが、その倫理へと、キリストにある新しい生き方へと進むことができるのです。救いの恵みの中でだけ、私どもの生き方を語ることができるのです。そして改めておさらいしますが、ここでのキリスト者の愛の実践について書くためには、これまで、使徒パウロが、心を込めて語ったことは何でしょうか。

第5章にこうあります。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

ローマの信徒への手紙を山にたとえれば、まさにその山頂の部分です。いへ、全聖書の山頂と言っても言い過ぎではない部分です。そこに使徒パウロが力の限り、その全存在をもって、信仰を告白する言葉が踊っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 
パウロが、高らかに神の愛の勝利の宣言をすることができたのは、御子イエス・キリストにおいて明らかにされた愛をあふれるほど受けたからであります。私たちがまだ罪人であったとき、まだ主イエスをも神をも信じ、ですからもちろん従わなかったとき、むしろ反抗し、神に敵対していたとき、神は、一方的に私どもの罪を赦し、私どもを神の子とするために、独り子イエスさまを十字架でほふられました。この歴史における神の決定的な救いの御業によって、私どもは、神の愛を受けたのです。私どもが神を愛したのではなく、神が私どもを愛し、そのために御自身の御子を十字架に犠牲にされたのです。ここに愛が、真の愛、神の愛が明らかにされました。

 この御言葉を朗読すれば、もう今日の説教は終わってもよいくらいに思えるほどです。主イエス・キリストの愛、神の愛、主イエス・キリストによって示された神の愛こそが、福音の根本であって、神のご性質そのものであり、神そのものだからです。

この箇所に小見出しとして掲げられた、「キリスト教的生活」。それは、神に愛されて生きる生活のことです。神の永遠の愛のなかにいる自分を発見して生きる生活です。私どもが今朝、ここでごくごく当たり前のこと、基本的なこと、大前提として確認しあいたいことがあります。私どもは、神に愛されて生きている、神の愛、その真実の愛、底なしに深い愛に生かされているという揺ぎ無き事実についてです。たとえば私どもは今、まったく意識していませんが、空気のなかにいます。空気に取り囲まれています。意識することなく、息を吸ったり吐いたりしています。意識していないからと言って、呼吸を止めさせられたり、空気がなくなったりしたらどうなるでしょうか。私どもはそれにはるかにまさって、主イエス・キリストの愛に、聖霊の愛に、父なる神の愛に、この神の愛の真ん中で、愛に挟み込まれるかのように、サンドイッチされるかのように生かされています。真実の愛を受けているのです。

さて、パウロがそこで最初に勧めることは、「愛には偽りがあってはなりません。」です。「偽りの愛」ということでしょう。しかし偽りの愛というのは、そもそも言葉の矛盾です。ここでの愛という言葉は、もとの言葉では、アガペーという言葉が用いられています。このギリシャ語は、キリスト者の方であれば、よくご存知かもしれません。愛の中でも、特に、神の愛を言い表すときに、使われる言葉なのです。つまり、神の愛に偽りなどあるはずがないのです。偽りの愛とは要するにそれは偽善です。

いつものように、いくつかの翻訳を読み比べましたが、ほとんどが、やはり「愛には偽りがあってはならない」このように訳します。しかし、個人で訳された翻訳に、「愛は偽ることなく」とありました。直訳すれば、「愛は偽らない」となるはずです。

この説教の準備の黙想をしているときに、あるキリスト教伝道者の方の主張を耳にしました。それは、聞き捨てることができませんでした。なぜなら、福音の真理を覆すような教えとしてわたしは聴き取ったからです。

たとえば、その伝道者の方が、聖書の教師としてここで、私どもの教会に来て、皆様にこう語るとしましょう。「愛には偽りがあってはなりません。パウロ先生はこう言っています。しかし、あなた方の愛には、本当に偽りがありませんか。愛の実践において、後ろめたいような思いを抱くことはまったくありませんか。もしそこに偽りがあるのであれば、あなたがたはまだまだ本物ではありません。あなたの信仰も愛も、偽物です。」

さて、皆さんであれば、このような説教についてどのように応答されるでしょうか。すべきでしょうか。これは、私どもの福音理解の一つの試金石となる問いのように思います。そもそも、使徒パウロは、このように書き送った理由は、ローマの信徒たちが、なお偽りの愛にとどまっているので、それではだめだと叱責するためなのでしょうか。使徒は、彼らの愛を疑っているのでしょうか。

さて、私どもはこの「疑い」について、真剣に、丁寧に、そして徹底的に考え抜かねばなりません。そうでなければ、福音の真理に堅く留まれないからです。他の誰かからのあなたの愛を疑う声を耳にするとき、もしかすると、あなたは自分自身でも自分のことを疑い始まるかもしれないからです。

いったい、自分を疑う。それは、良いことでしょうか。悪いことでしょうか。そもそもパウロは、ここで、ローマの信徒たちの愛の生活、愛に生きるべき教会生活を疑っているのでしょうか。自分の愛には、偽りがないけれど、あなたがたの愛はまだまだ未熟だから、偽りが混入するかもしれない、しているかもしれないと言うのでしょうか。わたしもまた、使徒パウロの口調を真似して、断言しなければなりません。「決してそうではない!」ここでの愛は、神の愛です。この愛に裏表などありません。神の愛には、偽りがありません。私どもはそのような真の神に愛されているのです。この愛に包み込まれているのです。私どもの例えば井戸、愛の井戸は、まったく枯渇しています。そこから何もくみ上げることはできません。私どもの愛の井戸は、掘っても掘っても無駄です。死んだ井戸だからです。

しかしまるで、掘り方が足らないから、偽るのだというように騙されるなら、まさにそこでこそ、偽りの愛となります。偽善を犯すしかなくなります。愛に生きていないのに、愛に生きているかのような、そぶりをするしかないでしょう。しかし、私どもはそれを止めたはずです。何故なら、私どもの井戸の中には、愛がないことを、主イエスによって教えられたからです。しかも、そのような愛の全くない者を、「だから、あなたはだめだ」と切り捨てられたのではなくて、「だから、あなたのために私は十字架についたのだ」と、愛を見せ、そして愛を注いでくださったからです。この愛に偽りがあるわけがありません。

私どもが今朝、確認すべきこと、それは、掘って汲みだすべきは、神の愛の井戸だけだということです。それ以外にはありません。言葉を換えれば、干からびた死んだ井戸に、外側から、つまり神から注ぎ入れられるなら、満たされるのです。あふれ出すこともできます。命に至る水が、愛の泉が湧き出るのです。
しかもそれは、既に始まっています。だからこそ、私どもはキリストの体と結ばれて、キリストの体の一部分とされることが許されたのです。私どもがなす、どんな小さな業であっても、信仰の応じて、つまり、信仰の論理で奉仕を捧げているなら、それこそが愛なのです。真実の愛によってなされているのです。

先週、七つの教会の働き、七つの神の賜物を数えました。それらはすべて信仰の規準、信仰のメーターで評価され、信仰の考えで、神に捧げるべきものと学びました。そこに、偽りの愛が入り込むことはないのです。私どもは、自分の愛には絶望しています。枯れた井戸で、もはや真の愛において、死んでいるのです。しかし、今や、キリストに結ばれているのです。そこから神の愛が注がれ、私どもの井戸の中に注入されているのです。

いったい、「キリスト者である自分を疑う」これは、よいことなのでしょうか。信仰において善、良いことなのでしょうか。そうではないのです。なぜなら、それは、神の愛を疑うことだからです。私どもは、すでに、3節で「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」と学びました。うぬぼれてはならないのは、私どもがただ神の恵みのみによって生かされ、立たされているからでした。また何よりも、私どもは決して一人で生きているのではなくて、体の一部分として生きているからでした。しかし、間違ってはなりません。自分に注がれた神の愛は、決して過小評価してはならないのです。それは、自分を過大評価することとは全く違います。私どもは、ここで神の愛をどれほど大きくすべきでしょうか。どれほど受けるべきでしょうか。それをのみ、問うべきでしょう。

私どもの教会に、この礼拝式において主イエス・キリストのおける神の愛は豊かに注がれています。それを、私どもがどれほど自分のものとすることができるか、そこに私どもの課題、これ以上にない嬉しい課題、喜ばしい責任があります。

この神の愛に生かされる生活のなかで、パウロは、礼拝的生活が形作る生き方、あり方、ライフスタイルを描き出します。第一に「悪を憎み」です。愛の教えを聞いてすぐ次に憎むというのは、いささか違和感を覚える方もおられるかもしれません。ここで「悪を憎み、善から離れず」と言われます。悪とは、善の反対です。それなら善とは何でしょうか。それもすでにパウロが書いたことです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」善い事とはどんなことなのでしょうか。善いこと、それはすなわち神に喜ばれること、完全なこと、つまり、神の御心です。神の御心が行われること、そこから離れないということです。ここでの離れないと言う言葉は、「糊で貼り付ける」ということです。最近の糊は、紙を貼ったりはがしたりしやすいです。しかし昔の糊は、一度、張り付いたらはがれません。はがすときには、相手の紙も破いてしまいます。善から離れないということはそういうことです。そしてまさにそれは、私どもが主イエス・キリストと結ばれているということの現実そのものです。キリスト者は、もはや、イエスさまと、はがれない関係におかれているのです。そして使徒パウロは、自分からもそうしなさいと呼びかけるのです。善であられる神、主イエス・キリストに貼り付けてくださったのは聖霊なる神のおかげです。しかし、パウロは、自分自身でもそうしなさい、張り付きなさいと勧めるのです。そこに私どもの信仰と志とがあります。

前後しましたが、悪を憎むこととは何でしょうか。これは、善から離れない人にとって、必然となることです。悪とは、サタンです。サタンとサタンの働きを憎むこと。憎むとは、「恐れて逃げる」という言葉だと言われます。悪からは逃げ出すしかないのです。「悪をやっつけて成敗する。」これは、ずいぶん勇ましく、かっこよい言い方です。しかし、悪、邪悪は、強いのです。悪は、私どもを破壊し、私どもを殺してしまうことなのに、実に、それに引きずられてしまうのが人間だからです。悪には、それほどの魅力があるからです。だから、悪の魅力に魅入られないで、逃げなさいということです。恐れて、離れる。それが憎むことです。この態度決定をしないと、私どもの信仰が成り立たなくなるのです。

第二のことは、「兄弟愛をもって互いに愛し」です。兄弟愛と言う言葉は、もともとの言葉で、一つの言葉なのです。ヨハネ黙示録に登場する七つの教会の中に「フィラデルフィア」という教会があります。このフィラデルフィアという言葉が、兄弟愛です。

昔、教会の交わりの中で、「教会は兄弟姉妹のように、家族のように愛し合うところだ」という発言を聞きました。そのとき、本当は、とっさに修正を求めるべきであったと時々思い起こすことがあります。皆様の多くが、ご自分のご家族を、兄弟を、姉妹をお持ちだと思います。そして教会にやってまいりますと、お互いのことをだれそれさんと呼ぶより、だれそれ兄弟、なになに姉妹と呼ぶ、おかしなところだと気づかれます。おそらく最初に抱かれた印象、思いには違和感のようなものがあったはずです。

血の繋がりのない者どうしが、兄弟姉妹とか神の家族だとか呼び合うことは通常のことではありません。教会とは、お互いを兄弟のようにみなして、家族のような交わりを、つくってゆく場所のように考えられたら、それは、大きな間違いです。何故、教会員お互いを兄弟と呼び交わすようになったのでしょうか。それは、何よりも主イエス・キリストが私どもと同じ人間となってくださり、その人間イエスさまと結ばれることによって私どもを神の子、神さまの養子に迎え入れてくださったからです。つまり、イエスさまが全人類の長男となられたのです。イエスさまが私どもの長子、長男です。私どもはイエスさまに結ばれて、その弟とされ、妹とされたのです。そこに初めてキリストの教会においてその信徒たち、会員たちに新しい自己理解が生じました。キリストにある兄弟姉妹、キリストにある神の家族です。そして、それは、むしろ、血縁の兄弟姉妹や血縁上の家族をも、超えるような永遠の神の民とされたのです。ですから、教会の交わりにおいてこそ、血縁上の兄弟姉妹の関係の見直され、質され、教えられるのです。つまり、あの発言の逆なのです。兄弟愛は、神の教会にすでに与えられているのです。そこから発してお互いに愛し合うことが命じられます。キリストにある愛の交わりは、先ず、教会からはじめるべきであり、始まるのです。この順序を覆すことはできません。

私どもはこの点で、常に問われています。神からの愛を受けることによって、自分たちの家族もまた見直されるのです。そして、この家族もまた、神の家族の中に入れられなければならない、入れてくださいという熱い祈りが生じるのです。私の家族もまた、そのような順序で導かれました。キリスト者の家庭に育ったわけではありませんが、今では、皆、キリスト者です。継父は、すでに天に召されましたが、神の家族の交わりのなかにいるのです。皆様も、今年、新しい思いで、兄弟愛をここで実践しましょう。神からの愛によって生み出されたのが兄弟愛です。教会員相互の愛です。その愛で互いに愛し合ってまいりましょう。私どもの教会の交わりがただ単に「べたべた」するようなことではない。しかし、私どもはお互いのために執り成し祈っています。もしも、教会員であって互いのために祈っていないのであれば、それは、先ず第一に悔い改めるべきことです。そこにも祈祷会の大切さがあります。祈りあうことです。それが兄弟愛です。そしてその祈りにおいて生きるのです。

最後に、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」この命令、これこそ、私どもにとって実に困難な課題のように思う方は少なくないと思います。私自身牧師として、尊敬できる教師を持つことは決定的に大切であると考えています。「あのような牧師になりたい。」それがはるか遠い目標であっても、そのように思える牧師を持てることは幸いです。しかし、それは反面、牧師であれば、誰でも尊敬できるのかというと、これは、実に厳しい課題です。

信徒である皆さんは、いかがでしょうか。新改訳聖書は、このように訳しました。「人を自分よりまさっていると思いなさい。」「自分より優れたもの」と思う。どうでしょうか。私どもはしばしば、ただ一つの点だけでももしも自分より劣っているところを発見すると、何か優越感をもって批判することがあるのではないでしょうか。
あるいは、先ほどの私の例で申しますと、圧倒的に偉大な先生であれば、尊敬すること、優れた者と思うことは簡単です。ところが反対に、もしその先生が、私を見るときに、尊敬をもって、ご自分より優れた者と思われるということは、簡単でしょうか。違うのではないでしょうか。「自分より勝ったものと思う」とは、「先んじて」とも訳せます。どっちがより尊敬しているのか、まるで、競争するかのように先んじるべきことだと言うニュアンスです。互いに愛し合うことは、先ず、自分から始めるべきだと言うのです。相手がわたしを尊敬してくれるから、わたしも尊敬するというのではありません。あるいは、「いっせいのせ」で同時にしましょうというのでもありません。聖書は、先ず、あなたからはじめるべきだと言うのです。

アシジのフランシスコの祈りとして大変有名な詩があります。通称「平和の祈り」と言われる詩です。
「慰められるよりは慰めることを 理解されるよりは理解することを
  愛されるよりは愛することをわたしが求めますように 
  わたしたちは与えるから受け ゆるすからゆるされ
 自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから」

愛されるより愛すること。ここに先んじる思いがあります。先ず自分から尊敬する、愛するわけです。それなら、何故、私どもは自分から先に、相手を尊敬しなければならないのでしょうか。それにははっきりした理由、根拠があります。もしも、この根拠が分からないのであれば、この互いに尊敬しあうことはもとより、また兄弟愛そのものを抱くこともできないのです。

賜物を豊かに受けている人で、本当にその賜物を磨いて信仰に励んでいる人にとって、わたしのような者は、むしろ信仰の躓きになるかもしれません。しかし、なおそこで見下すのではなく、尊敬しなければならないのです。その理由はどこにあるのでしょうか。それは、このわたしの中に、ただ、キリストが宿っていてくださるからです。私がキリスト者であるという理由からです。それ以外のなにものでもないのです。

 そうであれば、互いに相手を優れたものとして尊敬し、重んじることは、先ず、キリスト者である自分自身が自分に対してすべきことであります。自分の尊厳を認めることです。誰が何と評価しても、誰がどのように低く評価して、私どもを見下しても、キリスト者は、自分をキリストに愛されている故に、キリストを内に宿す者とされている故に、自分を値高い者とみなせるし、看做すべきなのです。

 最後に、どうして自分から始めなければならないのでしょうか。率先すべき理由はどこにあるのでしょうか。それは、神から愛されているからです。この神の愛は先手だからです。私どもが神を愛したのではないのです。神が私どもを愛してくださったのです。まだ敵であったときから、先手を打って愛してくださったのです。

私どもの愛とは、この神への感謝であり、応答以外のなにものでもありません。そうなれば、兄弟愛は、だれだれ兄弟にこんなに愛されたから、だから借りがある、愛さなければというようにはならなくなるのです。アシジのフランシスが受けたのは、キリストからの愛です。主イエス・キリストの父なる神からの愛なのです。だからこそ、愛されるより愛する以外には、イエスさまに申し訳ないと考えているのです。

 私どももまた、自分を明るく見ましょう。自分の中に愛はありませんが、それをはっきりと認めます。しかし、同時に、このわたしを愛しておられるお方がおられること、今、父なる神が、そのような自分に愛をあふれるほど注いでいてくださることを見ましょう。この神の愛は、1パーセントの偽りも混入していないことを信じるのです。
そしてまた同時に、この自分のイエスさまへの愛もまた偽りではありません。失敗も欠けもたくさんある私どもの兄弟愛です。しかし、神の愛を注がれたことによって、溢れ出た兄弟愛なのです。確かに、過大に評価してうぬぼれることは愚かです。しかし、自分の神と教会への愛を軽んじることは、それ以上に愚かな罪です。大胆に、自分自身を見てください。神の愛にはさまれている自分が見えるはずです。それは、ひとえに、十字架のイエスさまを仰ぎ見ることによってなされるのです。

祈祷
 真実の愛、言葉の正しい意味での愛、唯一の愛をもって今朝も私どものすべてを愛していてくださる主イエス・キリストの父なる御神。この驚くべき愛にいつも心を開かせてください。自分の愛の不足を嘆きます。兄弟愛の実践における乏しさを深く嘆かざるを得ない私どもです。しかし、主なる神、あなたの愛を見失う、愚かな罪を犯させないで下さい。どうぞ、あなたの愛から離れず、いいえ、あなたこそは決して私どもを離さないと約束されたのです。その御言葉から離れることなく、この新しい主もまた、礼拝的生活へと歩み続ける者とさせてください。教会の交わり、兄弟愛がいよいよ燃え上がりますように。
アーメン。