過去の投稿2008年3月16日

「神に立てられた者の義務-政治的ディアコニア-」

「神に立てられた者の義務-政治的ディアコニア-」
2008年3月16日
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章1節-5節 
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」

本日から、受難週が始まります。主イエス・キリストが私どものために十字架にはりつけられる直前の週であり、金曜日には、十字架につけられた日を迎えます。そして三日目の朝、つまり、日曜日の朝を復活祭、イースターとしてお祝いする一週間を主と共に、過ごしてまいります。

しかし、この受難週だけがキリストの御苦しみを思う一週間であってよいはずはありません。それは、主イエス・キリストのご生涯が、最後の一週間だけが御苦しみの週であったのではないこととまったく同じです。主イエスは、この地上で神の国を宣べ伝えるご生涯に入られた時から、受難、苦しみはいよいよ始まりました。信仰に生きるということは、主イエス・キリストにお従いするという事は、地上にあっては主の御苦しみを分かち合って生きることになるのです。

さて、特別の週を迎えていますが、私どもの教会はいつものように、第13章を学びます。この1節から7節までは、どれほど重大な真理が記されていることでしょうか。それを今日で、たったの三回で学び終えようとしております。この数節を解説する書物を読むだけでも、おそらく一ヶ月はかかるのではないかと思います。それほどまでに、この箇所を研究する書物は多いのです。それは、ただ聖書を解説する注解書が多いというだけではなく、ここで取り扱われている主題は、教会と国家との関係についてですから、キリスト教の立場からのものだけではなく、さまざまな歴史学者、経済学者、政治学者、社会学者たちの研究テーマとなっています。そのような箇所を私どもは、礼拝をささげるための御言葉として学んで来たわけです。そして本日も、6節と7節から学び、神を礼拝してまいりたいと思います。

さて、今、申しましたように、教会の歴史の中で、国家と教会との関係をどのように考えるのか、これまで、さまざまな議論がなされてまいりました。それだけに、極めて重要な課題となります。なぜなら、まさに具体的な、実際的な行動、教会のあり方がそこでまさに明らかにされることとなるからです。

いくつかのタイプを最初にご紹介したいと思います。16世紀、教会の改革運動が起こされた時、このような運動が現れました。神の教会は、その純粋を守るために、国家のさまざまな規制から断絶することを選び、この地上に完全なるキリストの支配の王国を樹立しなければならないという運動です。これを、再洗礼派と申します。これは、当時のローマ・カトリック教会が、国家を教会のなかにいわば取り込むような形で形成しようとした中世の教会の堕落に対する過激な反抗のあり方です。このグループは、ローマ教会からも私どもからも激しく非難され、迫害されました。

それに対して、ルターの指導によって、新しく改革された教会は、教会と国家とを二つの異なった神さまの働く場と考えました。世俗の働きは、国家が担い、霊的な、罪の赦しという信仰と永遠の働きを教会が担うことと理解したのです。それぞれは、相互にまったく関与しないということではないにしろ、別々の領域として、分離させたわけです。これを、「二王国論」と申します。二つの王国は、それぞれが異なる、剣の権能と霊的な権能とを分ける。

それなら、私ども改革派教会の伝統は、どうでしょうか。確かに、この二つは別のものですが、しかし一人の主、私どもの救い主イエス・キリストがどちらもの主となって支配しておられるということとして理解するのです。絵で描くとすると、一つの円の中に、世界があり、国家があり、教会があり、その中心点に主イエス・キリストがおられるというイメージです。私どもは、この改革派の伝統に立つ教会ですが、しかしどうしてそのように立つのかと申しますと、それが聖書の教えに即していると信じているからです。ローマの信徒への手紙第13章を読んでも、いよいよ確信が深まります。

確かにルターの言うような、二王国論も、この御言葉の解釈によって主張されました。これまでの中世ローマ・カトリック教会が、言わば、国家と教会とを癒着させ、教会が国家の皇帝や君主を任命し、逆に解任できるとしたあり方を、壊すことができました。その意味では、画期的な考えを当時の教会に提供したと言えるでしょう。しかし、ここで言われていることは、それだけではなお足らないと思います。不十分です。国家と教会を分離させることによって、国家が自分の欲望を神として、権力を自分勝手に行使するとき、国家の教会への要求を、神が立てた権威であるからと、自動的に受け入れ、体制になびいてしまいやすい弱みがあります。それは、残念ながら歴史のなかで、あのドイツ、ヒトラーが帝国の君主、総統になったときに、起こってしまったことでした。

さらに申しますと、当時の再洗礼派の方々は、政治的な権威、権力、国家制度は、この世のものであり、悪魔の支配にあって、自分たち霊的な法則、天国の法則に生きるキリスト者、信仰者の生きる場ではないと考えました。そこから、キリスト者が為政者になること、公務員になること、政治に関わることを、禁じたのでした。それもまた批判に急ぐあまり、余りにも短絡的と言わざるを得ないと思います。

使徒パウロは、ここではっきりと、「上に立つ権威に従いなさい」と命じます。キリスト者に命じるのです。「神によって立てられたもの」だからと言う理由です。実に、ここでのパウロの議論は、ルター派の言うような、為政者たち、権威者、権力者たちは、「人類の福祉と平和」のために神から与えられた権力を行使するという理解を、越え出ています。国家は、徹底的に世俗の領域なのだというわけではないのです。むしろ、国家にさへも、神の介入があって、国家もまた、国家として、国家的権威、権力もまた、「神の栄光のために」働かされるという理解があるのです。それが権威は、神に由来する、と言う意味です。

ですからもしも、神に由来する権威が、神から離れ、自らを神にするなら、彼らは自分たちのことを、神に立てられた権威だと主張することは、許されません。その意味で、単に国家とは世俗なものではないのです。

確かに我々の国には、キリスト者の為政者はほとんどおりません。国会には、キリスト者議員と関
係者の祈祷会が定期的に開催されていると聞いておりますが、多くはないわけです。何よりも、我々の国は、キリスト教的文化に根ざす歴史ではありません。しかし、そこで私ども日本に生きるキリスト者が問われること、考えるべきことがあるのです。私どもの政府、与野党を問わず、圧倒的に非キリスト者です。それなら、そのような政治家、そのような政府、そのような国家を世俗的、非キリスト教的国家と「見下す」ことは正しいのでしょうか。彼らは、神さまとは無関係なのだ、と考えることは許されるのでしょうか。答えは、明らか過ぎるでしょう。

驚くべきことに、使徒パウロがこの手紙を書いた当時、彼らが生きていた世界、ローマ皇帝の支配する帝国は、キリスト教の伝統などまだ何もない時代であったのです。非キリスト教的国家なのです。いへ、反キリスト教的国家です。彼らは、何とかして、教会を滅ぼそうと企てたのです。つまり、その後のヨーロッパのキリスト教的文化、伝統は、この後、数百年を待って初めて、語れるようになるのです。ですから、ここでパウロが命じたことは、日本においてこそ、よく当てはまる状況なのです。

そのような時代の先頭に生きた使徒パウロが、ローマの支配体制を、神に由来し、神に立てられたと見なしているのです。驚くべき理解です。何度も申しましたが、当時のキリスト者たちは、決して負け惜しみで言っているわけではありません。決して、長いものに巻かれろとか、迫害を避けるためには仕方ないと言ったのではないのです。今自分たちが戦ったら負けるしかないから、今は、辛抱しようと言っているのでも決してないのです。本気で、本心から、パウロは、ローマの支配体制をも、神に由来し、神に立てられたと見なしているのです。地上の政治的権力も、神の支配、キリストの支配の下にあると理解しているからです。ただキリストをキリストの真実の御存在を信じているからです。コロサイの信徒への手紙第1章16節の中に、このようなすばらしい讃美歌が収められています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」

御子とはもちろん、主イエス・キリストのことです。御子イエスさまこそ、王の王、主の主なのです。もちろんそれは、国家においてどころか、全世界、全宇宙においてそうなのです。そして、他ならないこのイエスさまが、小さな、ほんの一握りでしかないキリストの教会の頭として直接戴いているのです。私どもキリスト教会とは、この王の王なるイエスさまの体なのです。体なる教会の頭にていしましたもうお方が、イエスさまなのです。だったら、使徒パウロが、立てられた権威に従おうと呼びかけたとき、どうしてそこに卑屈な思いがよぎるでしょうか。むしろ、勝利者として、語っているのです。自分たちこそ、光栄な御子イエスさまに直結した神の民とされているのだから、国家為政者のためにも祈ろうではないか、彼らの働きがまさに神に立てられたものにふさわしくなるために、働こうではないかと招くのです。その働きの典型的なあり方が、従うということなのです。

さて、パウロはここで、「権威者は神に仕える者」と申しました。ここでの仕えるという言葉は、私どもが慣れ親しんでいるギリシャ語のディアコニア、使えるではなく、神を礼拝するという意味の言葉、-レイトルギアというのですが-、用いられています。つまり、国家の為政者たちが国民、市民に、善を行わせ、税金を徴収するために働いていることは、彼らのレイトルギア、つまり神礼拝なのであるというニュアンスが込められています。神こそが、彼らの権威の由来、源、根拠なのですから、彼らにとって、この権威を行使すること、執行することは、彼らなりの礼拝行為だというわけです。神さまに仕える行為だというのです。そうであれば、キリスト者たちが積極的に、彼らを支持することは、教会の国家へのディアコニア、政治的なディアコニア、奉仕、仕える道になるわけです。

こういうわけで、国家もまた神の恵みなくしては立ちません。神さまから離れたところで、世俗のことをするというわけにはまいりません。神の助け、恵みなくして、国家もまた正しく機能できないのです。その意味では、私ども、日本キリスト改革派教会の「創立宣言」の最初に掲げられた御言葉は、極めて重要です。詩編第127編1節です。「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」先輩たちは、敗戦祖国の再建を「家を建てる」ことになぞらえました。この詩を詠んだダビデは自ら王でした。イスラエルの王である自分は、神の家、神の民の家イスラエルという国家を建てるために働いていました。しかしダビデは、知っているのです。弁えているのです。この国の王、真の王は神であることを、です。だからこそ、ただ自分たちだけの力で、国家の建設をしていると思い上がるなら、その労苦は空しい、実らない、意味がないと考えているのです。町を守る人、言わば警察です。パウロで言えば、剣の権能を持つ者もすべて神の恵みによってなされるというわけです。日本キリスト改革派教会もまた、この日本のなかで、日本をして神に喜ばれ、神に従い、神の栄光を現せるように用いられることを願って、創立したのです。それは、この戦争を起こし、戦争に負けてしまった日本などもうどうでも良いとしなかったのです。国家の再建は、政治の問題であって、我々教会の課題ではないとは、しないのです。その意味で、再洗礼派的でもなく、ルター派的でもなく、まさしく私どもの立場です。そしてそれが、この御言葉の正しい解釈なのです。

 私は、キリスト者になったばかりの頃、とにかく日本がキリスト教を取り入れ、キリスト者の政治家たちが増えたらよいのだと考えておりました。それで、さまざまな問題は解決できると考えていました。使徒パウロは、どのように考えていたのでしょうか。少なくともパウロが考えていた事は、為政者たちがキリスト者になったら始めて神奉仕としての政治を執り行うことができるとは、まったく、全く考えていないということです。確かに、ローマ皇帝がキリスト者になれば、それはすばらしいでしょう。しかし、彼がキリスト者にならなくても、教会は、彼に従い、彼に税金や交通税を払うべきなのです。彼が、神に立てられた権威を執行するからです。

 今日のアメリカ大統領の選挙では、自分がしっかりしたキリスト者であり、熱心な教会員であることを、得票のための武器とすることが指摘されています。しかし、聖書によれば、「必ずしも」キリスト者でなくともよいのです。例えば、おいしいレストランは、キリスト者のコックさんであろうがなかろうが、まったく関係ないでしょう。料理と政治とを比べることは、おかしいのでしょうか。しかし、私どもの理解からすれば、お料理も一つの神奉仕です。神への賛美、感謝です。食事のたびに私どもはお祈りします。食材をつくり、料理してくれた方々とその根源の神さまへの感謝の祈りです。お料理つくりも、まさに信仰の行為ですし、そうすべきです。その意味では、キリスト者として、為政者のために毎日、祈っているかと問われれますと私自身、恥じ入るばかりです。彼らも、神に仕える、神がそのように用いられるのです。彼らに、信仰がなかったとしても、です。

 この世の正義、福祉や医療に従事する人々はキリスト者だけでしょうか。違います。しかも、キリスト者でなければ、よい働き人になれないというわけでもありません。私どもは、キリスト者ではない人々のお世話になりながら、今日、教会の働きを担うこともできているわけです。

 最後に、先週の続きにもなりますが、政治権力にだけ、剣、最低限の武器を持つことが許されています。その理由も記されています。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」これは、国民、市民への一種の威嚇です。パウロは、善を行えと威嚇しているのです。しかし、同時に、この我々への威嚇は、諸刃の剣です。つまり、為政者自身が、もし悪を行う者になりさがったらどうでしょうか。彼らもまた恐れなければ成らないのです。その剣によって報いられるからです。神が、裁かれるのです。

最後の最後に、考えておきたいのですが、もしも国家が、キリスト者に向かって、「殺しなさい」と要求するなら、その時私どもは、どうするのでしょうか。答えは、簡単です。はっきり御言葉に示されています。来週学びます、第9節です。「姦淫するな、殺すな」「隣人を自分のように愛せよ」。もしもそのときには、神に立てられて善を行わせる権威ではなく、悪を行わせるために剣で脅されても、それに抵抗してもよいし、抵抗すべきでしょう。

わたしは、カール・バルトという神学者が、16世紀のスコットランド信仰告白を解説した文章を、いつも手に取れる場所においています。この説教の準備の時こそまさに、読み直しました。これは、カルバンの弟子にあたるジョン・ノックスという教会改革者たちによって作られた信仰告白です。ノックスたちは、ローマ教会とのまさに命を賭け戦いのもとに、スコットランドに改革派教会を樹立することができました。この16世紀の信仰告白を解説したのは、1938年です。つまり、ドイツの第三帝国がまさに悪魔の手先となって、教会内部まで入り込んで、これを変えてしまおうと企てているときです。バルトは、こう言いました。「事情によっては、権力には権力をもって立ち向かうまでの抵抗が考えられているのである」と言いました。この発言の重みは、どれほどのものであったことでしょう。

私どもは、政治的な権力、その秩序が神に由来することを信仰によって受け止めるのです。ですから、尊敬を払わない者は、神から遠ざかるほどです。それがキリスト者の義務なのです。税金を払うことも、です。恐れる人は恐れ、敬うべき人は敬うのです。政治家たちを、あげつらうことは、信仰者の品性の問題ではなく、信仰の問題になるわけです。しかし、そこでこそきちんと考えなければならないでしょう。具体的に申しましょう、この国の第91代総理大臣は福田康夫氏です。福田さんを尊敬することは、聖書的、御言葉にまったくかなったことです。それなら、福田さんの何を尊敬するのでしょうか。私どもは、彼が内閣総理大臣としての公の任務を与えられている故に、それを神に由来する故に、恐れ、敬うのです。それが、パウロの論理、信仰の理解なのです。信仰の良心から敬うのです。言いたいことは、確かに山ほどある。しかし、総理である限り、私どもは執り成し祈りを捧げるのです。しかしもしも総理大臣が、神に由来する政治的責任を放棄し、むしろ逆らうのなら、教会は、彼や彼らに逆らう以外になくなってしまうのです。

主イエス・キリストは三つの職務を昔も今も担っておられます。預言者、王、祭司です。神の御言葉を宣言する預言者。神の民に仕える僕として王さま、民のためにその命をかけて守られる王さま。そして、神の民のために父なる神との間に立って仲介してくださる祭司、お祈りしていてくださる祭司です。そして、そのイエスさまのお働きを、私どもキリスト教会は地上で、真似をしながら働きます。教会は、預言者として、福音を語ります。この世界へ、国家に、国民に福音を語ります。神の御心を伝えます。悔い改めへと招き、罪の赦しを宣言します。そして、この国が神の裁きを受けないように、平和をつくりだせるようにと祈ります。これが、私どもの使命です。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。」「すべて」とは、とりわけ政治的権威を帯びた人々すべてのことです。キリスト者として義務を果たす、それは、言わば政治的な教会のディアコニアとも呼べるのではないでしょうか。教会が、政治に奉仕すること、積極的、肯定的に奉仕することが義務とされていることを、改めて確認したいと思います。

キリスト者として、この世、この日本と言う国家は、決して私どもにとって住みよい場所、生きやすい場所ではないと思います。特に、今日の教育基本法改悪によって決定的にその舵を、神さまに反するように切ってしまった日本です。卒業式、入学式で日の丸への拝礼やら君が代を歌うことを強制されるキリスト者の教師、公務員たちにとって、すでにその職場を追われるという迫害も現実に起こっています。そのような中でこそ、私どもは、この世界の王、国家の真の主権者は、天地創造の神であられること、その権威は、主イエス・キリストにあることを信じるのです。だからこそ、信仰の戦いを担えるのです。そしてこの戦いは、ただ愛の戦いでしかありません。

こんな世界や社会はどうでもよい、大切なのは、わたしの救い、永遠の命だから、教会は手を広げず、ただ教会だけのことをしていようと、縮こまらないことが大切です。それが、神がパウロを通して私どもに求めておられることです。来週、改めて学ぶ箇所ですが、この世に、キリストの主権を大胆に証しすることは、キリストの愛を証しすることと全く一つのことだからです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため。ヨハネによる福音書第3章16節の御言葉です。この世、この世界、そこにある国家、その民、すべて父なる神の愛の対象とされているのです。それを、教会は知っているのです。信じて、教会はキリストのこの上ない愛を日々経験しているのです。だから、それを告げる。そのあり方の、基礎として、自分の義務を果たす、言わば、政治的ディアコニアを果たすのです。

今、確定申告の季節ですが、ここでの「貢ぎ」とは、税金のことです。「税」とは、通行税のことと言われています。キリスト者とは、それを納める義務がある。皇帝を、権威者を恐れ敬うことを義務があるのです。その理由は、ただ主のためです。信仰の良心のためです。天国への旅を進む私ども教会は、「旅の恥はかき捨て」などではなく、どこかの宗教のように「世捨てに人」のようには生きないのです。共に生きている人々のために、キリストの福音を預言者として語り、王として地上の平和を作り出すために働き、隣人の幸せのために執り成し祈る義務があるのです。キリストの勝利、キリストの救いを受けた者だからです。キリストの愛を受けた者らしい愛の戦い、キリストの勝利を受けた者としての戦いを、今週もまたそれぞれの場所でなしてまいりましょう。

もとより、私ども自身が、主に従うことにおいて未熟ですから、この世の営みにおいてもなお、未熟であり、未完成な者でしかありません。よく義務を果たすどころか、失敗することもしばしばあります。社会において、それぞれの組織において、失敗や過ちは、厳しく問われることもしばしばあるでしょう。しかし、私どもは、主の御前に赦された者です。この地上での失敗においてもまた、真実に主の御前に悔い改めることができます。そして、主の赦しの中で、新しくされ、立ち上がらされ前進させていただきましょう。

祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、今朝、私どもにこの世、この国、地上での歩み方、あり方、生き方を示されました。まことに生きにくいこの世の生活ではありますが、しかし、どうぞ、あなたの勝利のご支配を確信させてください。その終わりの勝利が来る日まで、先輩たちにならって、苦難の歩みではあっても、明るく、希望をもって、愛に生き、地上での責任、義務を果たさせてください。アーメン。