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「今の時を知っている人」

「今の時を知っている人」
2008年3月30日 
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章11節-14節? 
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

先週は、復活祭の礼拝式を共に祝いました。特に、日曜学校の復活祭は、野外で行いましたので、復活祭らしい祝いの時となったように思い、感謝しています。そもそもキリストの教会の出発とは、この主キリストの復活の事実に根ざすものです。もしも主イエス・キリストがお甦りになられなかったなら、この場所に、私どもの教会は存在しません。すべての教会もまた同じです。キリストの復活があったからキリスト教という歴史的な宗教が存在しているのです。そうであれば、クリスマスの時に、神の独り子が、私どもの主イエスとして、この地上に来られた事もまた決定的に重要な歴史的事実になりました。教会とは、この歴史的な事実によって成り立っているのです。

ですから、教会ははっきりと知っています。何をはっきり知っているのでしょうか。それこそが今朝、使徒パウロが11節に語った事に他なりません。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」断言します。

さて、そうなりますと、今朝、私どもにとって最も大切な言葉は、この「時」ということでしょうし、この時の意味についてです。

そもそも今がどんな時であるのかを知るということは、およそ人間として生きるときには、基本的に大切なことだと思います。本日は、3月30日、最後の主の日、日曜日です。これは日本の日付です。明後日からは、多くの学校や会社では、年度が代わります。子どもたちにとってもそれぞれ進級進学し、新しい生活が始まります。

わたしが中学生になったとき、ほとんどどの家庭もそうであったのではないかと思いますが、入学祝として、腕時計を買ってもらいました。腕時計をつける身になる。これは、実に晴れやかな思いでした。そして、いよいよ、もう小学生ではないのだ、ちゃんと勉強して、時間を気にして、自分でスケジュールを組み立てて、やっていかないといけないのだと思ったものでした。今の子どもたちは、どうなのでしょうか。腕時計に頼らなくても、特に携帯電話などで、時間を知ることが普通になっているのでしょうか。小学生のとき、ときどき、時計を持っている大人に、「今、何時ですか?」と聞いたものでした。ところが今では、知らない人に声をかけるということはタブーになりました。むしろ、知らない大人から、声をかけられたら無視するような子どもがいる時代状況です。今では、小学生のときから、時間が気になる、塾や習い事でスケジュール管理が大変なのかもしれません。

さてしかし、使徒パウロが「今がどんな時であるか」と言ったのは、そのような時間のことではありません。先ほどの「今、何時ですか」というのは、時刻のことを尋ねているのです。しかしここでは、カイロスというギリシャ語が用いられています。これは、時刻という時間のことではなく、時代、機会、チャンスというような意味です。

卑近な例で恐縮ですが、ガソリンの価格がほぼ4月1日から値下がりするはずです。わたしもいつもは満タンに給油しますが、先週は、一週間走れる分だけ給油しました。法律が変わると、行動が変わる、これも、一つの時の変化の実例となるでしょう。わずか20円あまりの変化でしょうが、無関心ではいられません。

しかし何より、「時代が変わる」ということは、時に、劇的な変化が起こることを意味します。わたしは、それを経験していません。しかし、60年ほど前の日本にそれは起こりました。戦争に負けたという事件でした。敗戦という出来事は、日本という国を劇的に変えたと言っても、やはり過言ではないと思います。大日本帝国から日本になったのです。憲法が変わりました。天皇の地位が変わり、国民の主権が保証されるようになりました。民主主義国家として新しくなったのです。ただし厳密に申しますと、今や、もう一度、古き、つまり悪しき日本への回帰、復帰、先祖がえりをもくろむ政治家たちが多いのですから、本当に深いところで変わったのかどうかは、楽観的に考えることはできないと思います。しかしやはり大きく変わった事実があるわけです。ポツダム宣言を受諾して、天皇自身が、敗戦の詔勅と言われる肉声をラジオで放送しました。その後、もはや、武器をもって敵に攻撃をしかけることはなくなったのです。無条件に、武装解除することとなりました。しかしもしも、この時代の変化を情報として知らなかったら、大変なことになるでしょう。特攻隊の出陣は、それまでも無意味であったかと思いますが、万一、敗戦を知らないで飛び立ったなら、飛び続けたら、まさに無駄死にであるわけです。

戦争が終わる、終わったという情報、知らせは、どれほど大切でしょうか。しかし、聖書は、言うのです。新約聖書は告げるのです。人類にとって決定的な時代の変化が起こったという知らせです。この情報こそは、人類全体に告知されなければならない決定的な情報です。昨年の10月から、地震予知の緊急情報、緊急地震速報が始まりました。これも画期的な、技術進歩の貢献だと思います。しかし、新約聖書が告げる情報にまさって、緊急な情報、価値ある情報が世界にあるでしょうか。決してありません。なぜなら、その情報には、まさに私どもの命がかかっているからです。しかもその命は、ただ単に、地上での命に留まるものではありません。実に、私どもの永遠に関わる、永遠の命に関わる情報なのです。

使徒パウロは、教会は、今のこの時の意味を知っている、この時代がどのような時代であるかを知っていると申します。そして、それがどんな時であるかということを、説明するためにこう語りました。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」新改訳聖書の翻訳ではこうなっています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。」ここでは、時刻となっています。もともとのギリシャ語に即して訳しているのです。

朝、目覚まし時計のお世話になる方も多いでしょう。まさに起きるべき時間を過ぎてなお寝ていれば、大変なことになります。初めて出勤した日の朝は、忘れがたい緊張の時でした。初日に、遅刻などということは考えられません。どれほど、目覚まし時計が貴重であるかです。「起きなさい!」と言われて、なお起きなければ、取り返しがつかないことになるということは、我々の日常で経験することでもあるわけです。

しかしここで使徒パウロが、ローマの信徒たちに、キリスト者であれば、朝何時に起きるべきなのか、などということを問題にしているわけではないことは明らかです。それなら、ここでの「眠りから覚める時」とは、どういうことなのでしょうか。それを紐解くヒントになる御言葉が、エフェソの信徒への手紙第5章にあります。これは、使徒パウロがどこからか引用した言葉です。「それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」この文章は、明らかに旧約聖書ではありません。それなら、どこの文章からの引用であったのでしょうか。多くの学者は、それを礼拝の歌、讃美歌であっただろうと申します。すでにこの詩が、教会の讃美歌として広く有名であったのでしょう。当時のキリスト者たちの信仰の告白として、歌われていたと思います。それをエフェソの信徒たちに書き送ったのですから、もしかするとローマの信徒たちもこの讃美歌を歌っていたかもしれません。そうであれば、彼らもまた「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」という言葉を聞いて、直ちにこの讃美歌の歌詞を思ったかもしれません。少なくともパウロ自身は、この賛美を心に思っていたことでしょう。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。」この詩を読んでキリスト者である私どもが気づけることとして、すべて人のことを指して言っている、あるいはキリスト者のことを指して言っているというだけではなく、むしろ、それと一緒に、私どもの主イエス・キリストのことを、思い起こさせる言葉ではないかということだと思います。先週の復活祭では、死人の中からお甦りになられたのは、私どもの救い主イエス・キリストのことであると学びました。このイエスさまが、私どもの代表となって、私どものチャンピョンとなって、死人の中から最初に肉体のご復活を経験なされたお方です。私どもの初穂、最初の実りとなってくださったわけです。死人の中から、立ち上がった最初の人間とは、イエスさまのことなのです。

つまり最初の人間の復活が既に起こったということです。つまり、今の時代、今の時とは、私どもの救い主であられるキリストのご復活が起こった後の時代なのです。そしてそれは、直ちに、キリストを信じている私どももまた、主イエスがもう一度地上に来られるその日には、肉体の復活に与ることが約束されたということに他なりません。そのような時代が始まったということです。それが、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」という意味なのです。寝坊していてはならないのです。霊的に死んだままで終わってしまってはならないのです。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。」この讃美歌の歌詞のなかで、眠っている者とは、死んでいる者の中から立ち上がれと言い換えられていました。これは、私どもに大きな戸惑いを生じさせるのではないでしょうか。眠っていることと、死んでいることとでは大違いです。天と地の違いがあります。しかし、讃美歌は、はっきりと「死者の中から立ち上がれ。」と歌うのです。これは、キリスト者にとっては分かることです。キリストに救われた者にとっての実感なのです。眠りについているとは、信仰が眠っているということです。信仰が働いていないということは、神さまとの関係が遮断されているということです。神との関係が断ち切れている、切断されているのです。そうなると神さまの命、神との交わりがないのです。言わば、いくら電線に電気が通っていても、ソケットがつながれていないと電化製品が動かないことと同じです。そのような人間の状況を死というのです。肉体上は生きていても、神とのあるべき関係では死んでいるのです。霊的な死です。

しかし、そのように死んでいる人間の世界に、主イエス・キリストがおいでくださいました。近づいてくださいました。そして、目覚めなさいと起こしてくださったのです。起こされた時、私どもに、復活の主イエス・キリストが出会ってくださいました。「そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」この御言葉が実際に、私どもキリスト者に起こったのです。キリストの命の光、人間にとって真の光、生命の光が私どもを照らしたのです。その光は、春の日差しのように暖かです。冬の間、桜の木は、まったく死んでいたかのように、命がなかったかのようにひっそりしていました。葉もなく、蕾もなく、灰色の枝だけが伸びていました。しかし、春の光が差し込んで、今、まさに春が来たと告げています。生きていると喜びの声を発しています。

ご復活されたキリストは、その肉体は今、天に戻っておられますが、天から御自身の聖霊を地上に派遣してくださり、私どもに命の光を注いでおられます。あふれるような暖かな命の日差しです。その光を浴びたなら人間は、満開の桜とは比べることもできないほどに命にあふれ、美しいものとなるのです。なぜなら、桜は咲いたと思ったら、すでに散り始めます。しかし、眠りから目覚めさせられた人間、キリスト者は、永遠に生きる、永遠に満開の桜以上の美しさで装われるのです。それは、主キリストというこれ以上にない、比類ない美しい装いで装われるからです。

美しくされて初めて気づくことは、これまでの神とは無関係に生きて来た生き方とは、まるで死んだ人間の生き方であったということです。自分が死んでいたのだということは、キリストの光を浴びたとき初めて気づかされるのです。

私どもが死んでいたのは、不信仰だったからです。不信仰とは、何でしょうか。聖書はそれを罪と呼びます。不信仰とは、真の神を神として重んじないことです。つまり、神を主として、自分の唯一の主として従わないことです。むしろ自分を主にして、自分をこそ唯一の主として、自分勝手に、自分中心に、自分を重んじて生きているということです。それが神の前に、神を無視し、つまり、神を自分のなかで踏み潰すようにして殺し、神がおられないかのように自分の価値基準で、自分のルールで、自分勝手に生きてきたことです。しかし、そのような神の敵であった私ども、神の前に罪人であったときに、神は、その独り子を私どもにお与えくださいました。その独り子を、十字架の上で、私どものその罪を償わせるために、身代わりにして、神の刑罰を受けさせ、私どもの罪を贖ってくださったのです。私どもの罪を償い、私どもの罪をことごとく帳消しにしてくださったのです。罪を赦してくださったのです。その証拠に、神は、死人の中から御子イエス・キリストをご復活させて、私どもに救い主として、主の主として立たせて下さいました。

その時がもうすでに2000年前にユダヤの、あのエルサレムで起こったのです。ですからこれまでの時代は終わってしまっているのです。古くなったのです。新しい救いの時代が始まっているのです。これこそ、最高に大切に命の情報です。この情報のことを、パウロは、この手紙の第1章冒頭で高らかに宣言した「福音」と呼ばれるものです。福音、喜びの知らせです。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」使徒パウロは、このイエス・キリストの福音を、この命の情報を「すべての異邦人」、つまり世界中に宣べ伝えるために、選ばれ、使徒としての働きを与えられたのです。そしてこれは、すべてのキリスト者もまた、同じように、この福音を、宣べ伝える責任があるのです。パウロは、ローマの信徒への手紙第1章14節でこう言いました。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」と言いました。この責任こそ、先週学んだ借金、愛の借金とまったく同じ意味なのです。返済すべき負債、責任を負っているのです。つまり、福音の情報を伝えること、福音を私どもがその全存在をもって証しすることが、愛の行為そのものとなるのです。福音の宣教が、愛によって飾られて、その真実さ、その効力を証しされるのです。

さらにパウロは、言います。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」救いが近づくとは何でしょうか。それは、主イエス・キリストとの距離の問題です。主イエス・キリストの十字架と復活は2000年前の事件です。そして肉体を持っておられるイエスさまは、天の父なる神の右に王の王として着座されましたから、その意味では、遠くおられます。しかし、天に戻られる直前に、主イエスは約束されました。「わたしはすぐに戻ってくる。」主イエスが再び、この地上にお立ちくださることを再臨と申します。主イエスは、再びこの地上に来られるのです。その再臨の日に向かって私どもと、信仰の旅を進み行くのです。この旅のゴールは、キリストご自身です。父なる神ご自身です。しかもこのゴールは、日に日に、私どもの方で近づくというより、ゴール自身が私どもに接近してまいります。このゴール、つまり、主イエス・キリストが再びこの地上にお越しくださる日は、ただ父なる神のみがご存知ですが、その日は、神のご計画のなかで、定まっているのです。そして2007年から2008年を迎えて早くも3月を終えようとする私どもには、この再臨の日、つまり、救いの日は近づいています。既に復活のキリストは私どもを命の光で照らし、神との関係では死んだままの人間が生かされました。しかし、なお世界は、このキリストを主、神として認めず、人間中心のわがままし放題の世界として厳然と、その意味では、あの2000年前と変わらないままに存在している事実もあります。しかし、再臨の日には、それらが完全になります。神の救いは、完成されるのです。その日は、近づいているのです。

しかし、いかがでしょうか。使徒ペトロがその手紙のなかで、予告したとおり多くの人たちは、こう思っているのではないでしょうか。「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
確かに私どもの世界は、一向に変わらない。私どもの日本の社会も、世界もまた、深いところで、ますます世俗化しています。つまり神さまなどには頼らずに、神に祈り求めないで、自分が良いと思ったところを、どんどん推し進めて行きます。道徳的責任など、倫理的責任などまったくお構いなしに、科学技術の進歩がそのまま、人間の成功や成長発展であるかのような、科学技術を偶像、神であるかのようにしています。

しかし、パウロは先回りするように申します。「夜は更け」ているのだと。この夜更けのたとえもまた、よく分かります。夜明け前は、まさに真っ暗です。しかし、真っ暗の中にしかし、薄ぼんやりとなってきたら、確かに朝日が射す前兆なのです。この世界は、夜が更けている、この日本はまさに夜が更けていると言わざるを得ません。しかし、だからこそ、救いは、完全なる救いは、主イエス・キリストが再び来られる日は、近づいているのです。

パウロは、「救いは近づいている」と語った直後に、あらためて「日は近づいた」と語りなおしています。この翻訳はすばらしいのです。「近づいた。」です。中学生の英語で覚えたものですが、「春が来た」を「スプリング ハズ カム」と申します。春は、すでに来ているという現在完了形です。主イエス・キリストの救いはまさにすでに来ているのです。もはや逆戻りさせることはできません。そして、この救いは、毎日、現実のものとなり続けて前へ前へ、ゴールへ、ゴールへと進み行きます。昨日も今日もそして明日もまた、私どもはこの救い主、イエス・キリストと一緒に歩み続けるのです。すでに揺ぎ無いキリストの御手の中に握りしめられています。

確かに再臨は来ていません。夜は更けています。この日本では、週報にも記しましたが、学習指導要領が改定され、まさに戦前のあの愚かな時代を、理想にでもするかのような時代錯誤、時代遅れの動きが加速しています。これこそ、時を知らない者たちの企てと言わざるを得ません。しかし、私どもは、今がどんな時であるかを知らされました。キリストの命の光を、復活の光を今まさに、ここで、神の家族皆さんと共に、そこに招かれている仲間たちと共に、暖かな命の日差しを浴びているのです。そこで、不信仰や、不従順な生き方は、かっこいいのではなくて、それこそ、闇の業、暗い業、不品行で、品位のない、かっこ悪い生き方、あり方であると知らされる、気づかされるのです。私どものように、キリストを主と崇め、神の愛に感謝しながら、応えて生きる生き方こそ、格好のよい、人間らしい、品位ある生き方であると気づかされたのです。今、私どもはこの世界がこの世界の歴史が、私どもが生きるこの時のすべてが、造り主なる神の御手の中にあることを知っています。私どもの人生のすべての日々が、その一瞬一瞬が、神によって造られ、与えられた一日と理解して一歩一歩、歩むことが許されています。なんという確かな歩みでしょうか。

しかも救われた者、主イエス・キリストに罪赦された神の子としての生活を生きることが許されているのです。死んでいた人間が、命へと起こされ、霊的にはすでに目覚めた人間、生きている人間、永遠の神との交わりのうちにすでに生き始めている人間として生きているのです。私どもの人生は、すべてこの神の新しい時の中にあります。神のご支配の中にあるのです。たとえ、この時のなかで思いがけないことが起こったとしても、それで私どもの時、人生が捻じ曲がって、あらぬ方向に転落するなどということはありえないのです。

桜満開です。肉体的には、確かに年齢を重ねるたびに、肉体の死を覚えるような春かもしれません。それを見つめることも大切です。しかし私どもは、今、救いの昼間、光よりの光なる主イエス・キリストと共に生かされているのです。この主の主と共に、ゴールを目指しているのです。ゴールそのものであられる主イエスが、すでに私どもと一緒にいてくださっているのですから、たとい今、肉体の命が絶たれても、私どもは人生の目的を達成し、人生の勝利者です。既に救われているのですから、たとい、この世界で人々の目に留められるような優れた業績を残せなくとも、しかし、主イエス・キリストの救いを受けているのですから、勝利者として歩み続けることができるのです。

私どもは眠りから覚め、信仰に導き入れられています。ですから、パウロが命じたような、日中を歩くように、神の栄光を求め、神を愛し、隣人を愛し、この命の情報を伝えることに励む生活を、こつこつ、地道にいそしむのです。それこそが、ここで言われている品位をもった生きかたなのです。光の武具を身に着けて、闇、悪魔と戦う生き方です。今は、キリストが復活され、世界に神の光、御子主イエス・キリストこそが、主の主として支配しておられる時代であると確信して歩むのです。

そのような歩みのことを、既に第12章の冒頭でパウロは、言い表しています。自分の体を神に喜ばれる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。今まさに、私どもは、この礼拝式の場にいるのです。この闇の世に倣わず、むしろ、光の武具を身につけ、つまりキリストを身にまとって生きることです。主イエスを信じる人は、一日も早く、キリストを着る恵みに与らせていただきましょう。洗礼を受けることこそがこの時を知っている人が、急ぐべきことなのです。

祈祷
御子を死人の中からお甦らせなさった主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、私どもにも眠りから覚めよ、復活の命の光を浴びよ、永遠の命を受けよと今招いておられます。その招きに今朝も与ることが許されました。私どもの命は今朝もまた、あなたによって輝き、あなたの愛と命を注がれ、花が開きます。どうぞ、この時を弁えて生きることによって、二度と暗闇の時代に逆戻りしないように助けてください。また、私どもは毎週、ここで、暗闇の行いを脱ぎ捨てることができるのですから、どうぞ、どんなことがあってもこの教会の、この礼拝式から離れることのないように守ってください。そして光の武具でよろわれて、愛の戦いに勝利させてください。   アーメン