「岩の上に立つキリストの教会」
2008年4月6日 開拓第14周年記念礼拝式
テキスト マタイによる福音書第16章13-20節
「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」
今朝の礼拝式は、既に4年目に入りましたローマの信徒への手紙の連続講解説教を中断しました。本日は、主題説教というスタイルで、説教をし、私どもの開拓伝道開始第14周年を記念し、祝いたく願います。
今朝、この記念すべき日に、神によってここに呼び集められたお一人ひとりを心から感謝いたします。皆様すべての上に、主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりが豊かに注がれますように。
ここには、その最初の日の礼拝式に共に与られた仲間もおられます。どのような説教を語ったのか、覚えておられる方は、もうおられないでしょう。説教の題は、「神の信頼」というものでありました。すぐれた説教者であり学者の牧師が、説教とは、自分のためにも語るものなのだということを語られたことがあります。それは、神の御言葉に説教する自分自身が最も深く慰められることなしに、その語った説教が聴衆、神の民を慰めることはできないと言うことです。最初の説教は、その意味では、まさに私自身のためにも語った説教の典型でありました。
「神の信頼」という主題説教は、どのような内容、メッセージであったかを簡単に申しますと、要するに、ローマの信徒への手紙で集中的に学んだ真理であります。私どもの神は、私どもに信仰を与えてくださいました。私どもは主イエス・キリストの信仰によって救われたのです。確かに、罪を赦され救われるためには、私どもが主イエス・キリストと父なる神を信じるという行為が必要です。信じなければ、主イエス・キリストとの出会いも、罪の赦しもありません。しかし、使徒パウロがここで語り続け、説き明かした真理とは、信じるということ、信仰が、人間の行為などではなく、神の恵みであり、神の賜物であるということでした。主イエス・キリストの信仰、主イエス・キリストの真実によって一方的に救われ、この真実に触れた人間は、真実な人間、信仰者としてしまう、そのような神の義、神の真実が語られたのです。
最初の説教の、「神の信頼」とは、私どもが神を信頼するということ、神を信じるということは、神ご自身の方が先ず、私どもを信頼してくださったのだと語ったのです。神がわたしを信じていてくださる、この神の真実に触れること、触れ続けることが、私どもを信仰者とし、信じる者とし、信じ続ける者とすることだと語ったのです。神の私どもへの信頼が先ずある、それが私どもの信仰に先立つのです。私どもの信仰、信頼の根拠になるのです。神の信頼を受けた人間が、神に信頼されている、神に愛されていることに気づいた人間が、信仰者、信じる者になり、神の子とされ、神の子として成長させられてゆくのです。
説教では、太宰治の小説、「走れ、メロス」のたとえを語りました。本日は、あらすじを説明する暇がありません。物語の主題は、信じることなのです。メロスは、町の人々はおろかお后や兄弟まで疑心暗鬼になって信用せず、殺していた王さまを、批判します。そして処刑されるはめになります。しかし、彼は、妹の結婚式を挙げさせるためにどうしても故郷に戻らなければなりません。そこで、友人セリヌンティウスに自分の身代わりになって牢屋に入ってもらうのです。セリヌンティウスは、メロスが必ず戻ってくることを信じて待つのです。大急ぎで、結婚式を挙げさせて、メロスは、自分を待っていてくれている友人セリヌンティウスを助け出し、処刑されるために都に急ぎ走り出します。一睡もせずに走り続けます。ところが、盗賊や王さまの部下の企てで、精根尽き果ててしまって、遂に眠ってしまうのです。しかし夕日が落ちようとするとき、目覚めます。もうだめだと諦めかけたときもありましたが、彼は、なお走るのです。そのとき、太宰治は、メロスにこのようなセリフを言わせます。「わたしは信じられているから走るのだ。いや、友情というより、もっと大きな恐ろしいもののために走っているのだ。」わたしは、このセリフのなかに、太宰のキリスト教の神への憧れ、信仰の片鱗を見る思いがいたします。人間は、誰かに信頼されると発奮します。自分に負けないで、信じて待っていてくれる人のために、底力が湧くのです。反対に、誰からも大切にされなければ自暴自棄になってしまう場合が少なくありません。
しかし、「走れ、メロス」は、ただ友情の大切さを語ったのではなく、もっと大きな、目に見えない何者かの存在が、メロスを土壇場で走らせたと太宰は言おうとしているのだと思います。もとより、彼はキリスト者ではありません。キリスト者になることを心底憧れたと思いますが、ならなかったのです。ついでに申しますと、その理由は、私から言わせれば、一言で申しますと、聖書を独学して、それで終わってしまったからです。つまり教会で、世々の教会の信仰を学ばず、信仰者の交わりのなかで、神の御言葉を聴かなかったからです。そのようなすぐれた文学者は、少なくなかったのです。
何故、神の信頼の説教をしたのか、自分のためにもしたのか、それはあのとき、誰が自分を信じてくれなくても、誰が自分を偽り者としても、認めなくても、ただ神の信頼がある、神が私を召してくださり、私をお用いになられる、神はすべてをご存知でいてくださる、まさに、この神の信頼を受けた以上、伝道することを、伝道者であることを止めるわけには行かないと考えたのです。そしてキリスト者よ、私自身よ、「走れ」と福音を説いたのです。
あれから、走りました。今なお、走り続けております。神の信頼を受けているからです。神に信じられ続けているから、走り続けることができたのです。そのような信仰を神がお与えくださったから、なおキリスト者でいられるし、牧師、説教者として生かされているのです。しかも何より嬉しいことは、わたし一人で走ったのではないということです。信仰の仲間が増し加えられました。共に、キリストの教会を、神の教会をここに立てるために、選びの民を起こし、まし加えてくださったのです。まさに福音の力が、神の信頼の力が私どもの教会を今日、ここまでは知らせてくださったのです。そうであれば、これからもなお、この福音を、まっすぐに語り、聴き、これに従ってまいりたく願います。
さて次に、私どもの教会の名称について振り返ります。私どもの教会は、名古屋岩の上教会と申します。「岩の上」という名称は、本日の聖書朗読の箇所、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」に基づくものです。余計なことですが、この岩の上という名称は、数年前まで、私どもの専売特許のようでしたが、数年前に、偶然、ホームページで見つけました。ところが、今回の説教の準備のときに、改めて探しましたら、検索できませんでした。理由は分かりません。もしかすると伝道をやめてしまったのかもしれません。しかし、キリスト教年鑑を調べてみましたら、「岩の上チャペル」という伝道所が2007年に開設されています。これは、おそらく群馬のひとつの教会の新しい開拓伝道が始まったということだと思います。いずれにしろ、数少ない名称でしょう。そしてまた開拓伝道が、始められてそのまま存在することができなかったという日本の伝道の厳しい状況も、今回、あらためて思わされました。
いつこの「岩の上」という名称がつけられたのか、それは、実は、開拓開始から半年ほど経ったときでした。その意味でも、極めて異例なことです。その経緯については、5周年記録誌をもう一度紐解いてくださればと思います。今日、「岩の上」という名称をつけたことがいよいよ御心にかなったすばらしい名称であることを思います。そして、私どもの教会は、まさにこの名称によって目指していた教会の姿へと、確かに拙く遅い歩みではあるかもしれませんが、しかし、一歩一歩、確実に形成されていることを確信いたしております。
それなら何よりも本日、あらためて確認すべきことがあります。この名称が指し示す教会の姿、真の教会の、そのあるべき姿とはいかなるものなのでしょうか。主イエスは、ここで御自身の存在を、御自身が誰であるのかを、弟子たちに問われます。つまり、御自身を正しく信じているかどうか、その信仰を問うのです。その信仰を告白する機会を、イエスさまが設けてくださるのです。
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」
シモン・ペトロは、誰よりも早く、イエスさまをメシア、つまりキリストと告白します。イエスをキリストと告白する、これこそ、キリスト教信仰の原点です。さらに丁寧にキリストを神の子と告白し、単なる神に選ばれた偉大な神の人、神の働き人と言ったのではなく、神の子と告白します。その意味で、完ぺきな信仰告白でした。
「イエス・キリスト・神の子・救い主」ギリシャ語では、「イエスース、クリストス、セウー・ヒュイオス、ソーテール」と言います。その頭文字をとると、イクスースとなります。これはギリシャ語では魚と言う言葉ですから、最初期の教会は、教会のシンボルとして、魚の絵を自分たちの信仰を表現するマークとして用いていました。それは、まさにこの弟子ペトロの信仰告白に基づくわけです。
主イエスは、このペトロの告白を心から喜ばれました。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」主のお喜びは、きわめて深いのです。そして心から、あなたは幸いな人であると祝福を宣言されます。そしてその理由をも語られます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
つまり、ペトロ自身が何かすぐれた理解力や信仰心があったからではなく、キリスト信仰とは、ただ父なる神がその聖霊によって、ペトロに、つまり人間にお与えくださるもので、人間の側の賢さや善い行いなど、決して信じる人間の条件によらず、ただ神の恵みのみであるからです。そして、天の父なる神は、ついにペトロたちに、この信仰を与えてくださった、それをイエスさまが心の底から喜んでおられるのです。
そして、この正しい信仰の告白へと導かれた神、この信仰告白を与えてくださった神の御子は、そのような信仰告白が、教会の形成の土台となることをここで明らかにされました。そして、そのようにして御子イエス・キリストがこの地上に来られたご目的、十字架につき、ご復活される目的を、ここで明確に示されたのです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
実に、神が御子なる神イエスさまを、この地上にお与えくださったのは、イエスさまがこの地上に来られたご目的、その使命とは、わたしの教会、イエスさまの教会をイエスさまご自身が建てるためだと示されたのです。
私どもの教会は、神が御子の御血によってこの地上に教会を贖い取ってくださったという事実に徹底して応答したいと考えているのです。教会は、徹底的に神のもの、神さまのものなのだという基本です。そしてその教会とは、私どもの正しい信仰告白の上に立つということです。その意味で、まさに私どもの出番があります。私どもが用いられるのです。役割があるのです。ですから私どもはこの「正しさ」に人間的な表現ですが、信仰を正しく継承し、正しく告白することにこだわったのです。それが、ニカヤ信条を毎週唱えることの意味でもありました。これは、まだまだ日本の教会になじんでいませんが、しかし今日、ニカヤ信条の重要性を、多くの教会もまた認識を深めている時代になっていると思います。そして言うまでもなく、私どもはその後、教会の改革者たちの信仰告白を、とりわけ日本キリスト改革派教会の憲法であるウエストミンスター信仰基準を学び続けているのです。
教会が、徹底して神の教会、イエスさまの教会であるという基本を、おそらく既に皆様は、そのようなことは当たり前すぎると考えてくださると思います。しかし、私自身の厳しい経験、戦いは、まさにそこにありました。教会を何か宗教団体のように考えるクリスチャンが、実際は少なくないと思います。そのようなクリスチャンは、教会を自分の心の平安、心のよりどころ、心の喜びや楽しみやお慰め、果ては社交的な交わりのような場所になって欲しいと願います。要するに自分のために教会があるのです。自分の幸せのために教会がある。そうなると、そこで牧師さんは何を一生懸命し始めることになるのかと申しますと、言わば、お客さんへのサービスです。会員は、宗教的お客さんで、彼らを居心地のよい場所に整え、そのニーズに合わせて、働く。しかし、もしそうすればそこでは牧師が、まさに世俗のサービス産業となんら変わらない仕事をこなしていることになります。お客さんのほうでは、もし教会や牧師が気に入らなくなれば、彼らは、自分に合う牧師や教会を探します。あるいはそのような教会を自分たちで作ります。しかしそのような教会にどれほど多くの人々、クリスチャンが集っても、それはいったい神の教会、キリストの教会になるのでしょうか。この問題意識が、名古屋岩の上教会開拓の原点にあります。私どもは、徹底的に神に向かおう、徹底的に神に喜ばれる教会を目指したのです。それが、私どもの言葉で申しますと、「キリストの主権の確立」を目指すということです。キリストの主権、キリストだけが主と崇められ、従われるということです。キリストの支配に服するという言葉もしばしば用いました。キリストだけが教会を主としてご支配くださり、牧師であろうが、声の大きな信徒であろうが、多数の信徒の声であろうが、人間的なものが支配する場所にしては断じてならないという、問題意識となりました。私どもは、今日まで、これを堅持してまいりました。しかし今日、そのような表現をほとんどしません。する必要もないと考えています。私どもは自分のために教会がある、という信仰の姿勢から、教会のために自分がいるという信仰へと、毎日、毎週、方向転換する、悔い改めているからです。それが、私どもの健全な信仰の成長の方向性なのです。当時しばしば、教会を形成するために信仰が与えられたという理解を、「共同体的信仰」という言葉で表現しました。
最初の週報に記して祈りの言葉があります。いらい何年も、記し続けました。このような祈りです。「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成してください。」この祈りは、半年後、岩の上という名称が与えられ、いよいよ、はっきりさせられ、実現されてまいりました。しかしなお、道半ばです。いつでも、この基本、原点に立ち戻る、キリスト者でありたいのです。主キリストのために生きるキリスト者、クリスチャンを名乗りながら、キリストを利用するようなあり方を絶えず克服する、これが私どもの変わらない志なのです。そのために、私どもは毎週、主日の礼拝式で悔い改め、懺悔の祈りを捧げます。そして毎週、祈祷会で祈るのです。そうでなければ、私ども自身も古い自分に舞い戻るからです。
最後に、これは、標語にはしませんでしたが、開拓当初、しばしば申したことがあります。それは、「決して裁き合わない教会を形成しよう」ということでした。会員同士が、お互いを裁く、批判する。こんなに悲しく、惨めな事はありません。
ヨハネ福音書第21章21‐22節にこのよう御言葉が記されています。シモン・ペトロが主イエスに尋ね、主イエスがお答えになられたみ言葉です。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。・・・イエスは言われた。「~あなたは、わたしに従いなさい。」
ご復活された主イエスは、ご自身を裏切ってしまったペトロをもう一度、弟子として、ご自身の使徒として立ち上がらせるために、最初にイエスさまとお会いし、弟子として招いた彼の故郷のガリラヤの湖の岸辺でのことでした。そこで主イエスは、イエスさまを知らない、イエスなど関係ない、イエスとわたしとは無関係と、主を三度まで否定し、主を裏切ったペトロを癒し、慰め、再び立ち上がらせるための、極みまでの愛を注がれました。このやりとりは、その物語の直後の主イエスとペトロとの短い会話です。主は、裏切り者となってしまった彼を、徹底的に信頼しました。ですから、「わたしを愛するか」とお問いになられたのです。そして彼が「はい、わたしがあなたを愛する事はあなたがご存知です。」と信仰が父なる神、神の賜物であることを悟った彼だからこそのふさわしい信仰の告白をするのです。そして主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」とお命じになられました。もう一度、最初の召命、招きを繰り返すのです。あなたは決して裏切らない、わたしの命をかけてわたしのものと買い戻した羊たち、つまりキリスト者たちを、他ならない裏切ったあなたが、わたしの代わりになって神の御言葉で養うのだと、ご自身のもっとも大切な務めを裏切ったペトロにお託しになられたのです。そして、彼は、この主イエスの愛のおもてなしを受けて、立ち上がり、もう一度従い始めます。
ところがどうしたことでしょう。そこでなんとペトロは、すぐに同じ弟子仲間のヨハネのことが気になってしまいます。ヨハネとは、イエスさまに特別に愛されていた一番年若い弟子仲間の一人です。今、ペトロはヨハネと自分とを見比べ、比較して、気になってしかがたなくなっているのです。
先週の、「説教の分かち合い」でも、あるグループで、話題になったようですが、中高生キャンプでした一つの例話を皆様にも、ここで紹介したいと思います。イソップ童話の中に「ウサギとカメ」のお話があります。ウサギとカメが山頂を目指して競争するのですが、なんとウサギが負けてしまいます。「油断大敵!」という教訓のお話です。中高生たちに独自の解釈を施して紹介したのです。このようなものです。
カメの生き方。それは、ウサギと自分とを比べず、自分自身を生き抜くという生き方です。人間で言えば、人と比べる生き方を止めて、自分自身を生きたということです。しかしどうすれば、そんな夢のような生き方ができるのでしょうか。それは、「ゴール」をきちんと見続けることによるのです。
しかしそこで大問題に気づかされます。一体、人生のゴールとは何か。人生の目的とは何か。それが分からないまま走り始めてしまっているという問題です。レースや旅なら決してありえないことが、人生では行われています。
聖書は、このように告げています。「生きる意味やゴールは、決して自分自身でつくり出すことができない」「人間を創造された神さまのみが教えてくださり、神ご自身がゴールそのもの、神を知ることが、人生の意味や目的そのものなのだ」と。
つまり、あのカメは、ゴールに到達する前から、すでに勝利者とし走っていたことになります。勝敗の結果は人生の最後に分かるのではありません。むしろ、一瞬一瞬が、勝利の連続となるのです。これこそ神が与えてくださる本物の人生なのです。
ですから、神に愛され、神に造られている私ども一人ひとりは、人と比べて自分自身の勝ち負けを判定する必要はありません。まして、他人に決められることなどありません。私は、改めて未だ洗礼をお受けになっておられない方々にお尋ねしたいのです。あなたは、人生の真のゴールを知っておられますか。人と比べて、うぬぼれたり、落ち込んだりすることを止めたいと思いませんか。人生の真のゴール、目標、意味は、神にあり、神を知ることにあるのです。
説教の分かち合いのとき、この解釈に一人の兄弟が、新しい解釈を付け加えられました。あのカメは、眠っていたウサギを起こした。「眠りから覚めるべきときが、来ています。わたしと一緒にゴールを目指して、進みましょう。」これもまた、ゴールを知った人間の責任です。先週の説教への応答です。
さて、ペトロは、「~あなたは、わたしに従いなさい。」と主イエスに、念を押されて、あらためて悟ったでしょう。「そうだ、もう、弟子同士で張り合う必要などないのだ。もう、自分を誰かと比べて生きる必要もまったくないのだ。ただ、イエスさまだけを見つめて、従って行けばよい。それが信仰だ。」そうです。主イエスこそゴールそのものなのですから、ただ、このイエスさまに従って行けばよいのです。その時には、お互いを裁いたり、批判しあったりすることがどれほど空しく、無意味であり、何よりも罪であるかが分かります。
しかし現実には、私どもは、信仰においてもこの罪から決して無縁ではありません。だからこそ、私どものゴールであられる主イエスを仰ぎ見るこの主の日の礼拝式がどれほど大切であるかです。祈祷会がどれほど大切であるかです。
私どもは、教会で裁きあい、批判しあうことから守られてまいりました。ほとんど奇跡のように思います。ここに、主のご支配があるからです。主イエスの御臨在が鮮やかであったからです。それは、私どもが、そのために祈っているから、御言葉に聴いて、従っているからであると信じております。
しかし、それでももう大丈夫とも思いません。私どもが、志を常に新しくしなければ、なお危険です。しかし同時に、私どもは何度、失敗しても大丈夫です。悔い改める限り、主イエスの赦しは徹底しています。ですから、常に、謙虚、謙遜に、赦された者として、新しくお互いと出会い、愛し合う共同体を形成するのです。
第14周年を迎えました。いよいよ、これまでのように、そしてこれまで以上に、志を一つにして、ここに主イエス・キリストが共にいてくださる、真の教会、イエス・キリストの教会として建てあげられて参りましょう。
祈祷
ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と崇める慰めの共同体を形成させて下さい。今朝もまたあの頃と同じように祈ります。教会の頭にして主イエス・キリストよ、あなたは、私どもの祈りに応え続けてくださいました。心から感謝し、御名を崇めます。キリストの教会として形成される私どもですから、どうぞ、ここに一人でも多くの神の民を送ってください。選びの民に出会い、あなたの御声を届けることができますように。そのために、私どもがもう一度、伝道の使命に心を燃やし、そしてキリストの主権に服す、堅固な教会として、あなたの御前に立たせて下さい。そして私どもの教会そのものが、何にもまさって、まさにあなたの栄光を現す教会となりますように、用いて下さい。アーメン。