過去の投稿2008年4月20日

4月20日

★   先週の日曜学校の礼拝式も、祝福されたものとなりました。今年から中高生礼拝式を止め、日曜学校の礼拝式と合同にしました。一つの目的は、日曜学校が寂しくなっているという状況、危機感からです。一緒に盛り上げる意味がありました。新年度に入って、 さんが出席されています。また 兄姉も出席してくださり、遂に(?) 兄も出席してくださり、中高生のバンド結成への胎動が始まりつつあります。中高生たちにとっては、若い(?)お兄さんお姉さんたちがいてくれるだけで(?)、大きな励ましでしょう。(もちろん、若くなくてもかまいません!!)当初は、中高生たちには、小学生たちと一緒では、無理があるかと案じましたが、そうでもないようです。彼女たちが、子ども礼拝を喜んで、自分たちの教会として、自分の居場所、自分の位置を確保してくれたら、幸いです。

☆  私どもは滝の水に移転して、4年が過ぎました。当初、一番危惧したことは、常安小学校の子どもたちがそれっきり来れなくなるということでした。移転が原因で、来れなくなってしまったら、本末転倒になると真剣に悩みました。そこで、車で迎えに行くことにしました。しかし、今春、中学生になるお友達が、「もう来ない・・・」との発言があったとのことを伺い、衝撃が走りました。彼女たちが来なくなれば、まさに、契約の子たちだけの日曜学校になってしまいます。これは、名古屋岩の上教会の志から言えば、危機です。しかし、 同時に、この学区からの子どもたちをとらえることができていないということの証左でもあります。

★   先週、「後期高齢者医療保険」制度がスタートしました。朝の祈祷会で、 兄が、NHKの取材を二日間受けられたとのことを伺いました。郵便局で、通帳に記帳するところを映されたとか。これらは、後期高齢者医療保険制度施行のニュースとしてのもののようです。我が家には、ビデオデッキがありません。ですから、NHKのテレビを直接見るしかないのですが、家内が、6時過ぎに、全国放送のニュースから中尾兄の声を聴き取ったとのこと。残念ながら、わたしは牧師執務室ですから、見れませんでした。  さて、「後期高齢者」とは75歳以上の方を指す政府発案の新呼称です。この命名にすでに、人権や人格に対する「センス」が問われてしかるべきかと思いますが、いかがでしょうか。人間の重さを、聖書によって、神によって教えられなければ、堂々と、このような呼称がまかり通るのでしょう。この世は、人間の価値、重さを生産能力、もしくは財産などによって計ります。しかし、神は、ひとりの人間の重さを、御子イエスさまの価値において判断してくださいます。まさに、「わたしの目にはあなたは高価である」という御言葉は、旧新約を一貫した神の人への眼差しです。この神との交わりのなかで、私どもは「人間」と「なって」行きます。あるべき真の人間へと取り戻されるのです。私どもの教会の職務名に「長老」があります。私自身も「宣教長老」なのです。28歳で言わば、「長老」となったということでしょう。しかし、「長老」と言えば、世間では、驚かれるでしょう。そんな若い長老がいるわけありませんから。教会が長老を重んじるということは、「老人」を重んじることに通じますし、通じさせるべきです。老人の重さは、神がその人を地上にあって、長く知り続けてくださった歴史が与えられているところにあります。神がその人を長く知られた・・・。それを特別の幸いです。もとより、若くして天に召されることは、もっと幸せなことです。(「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」フィリピの信徒への手紙第1章)  教会の交わりのなかで、高齢者が重んじられる。そして子どもが重んじられる。これは、この世の価値観の逆のあり方、聖書の価値観です。そのような交わりを、このような時代であればこそ、なお励みたいと願います。

★   姉から、板宿教会への転出の手続きの願いを伺いました。私どもは、主の日が守れるようにと祈祷会でも、集中して祈ってまいりました。さまざまなことが落ち着きつつある今、主の御導きと思います。手続き後は、まさに彼女と 君、 ちゃんへの牧会の務めを終了します。これまでも電話やメールを何度も戴いておりました。しかし、遂に、神の時が来ます。この「けじめ」は、とても大切です。それだけに、「ついに」なのです。しかし、転出先の牧師(山中雄一郎先生)はすばらしい先生ですし、教会も安定した教会で、何より日笠家もおられ、安心して送り出すことができます。

☆  映画「靖国」の上映を断念する映画館が増えているとの報の一方、先週は、イラクへの自衛隊の派遣(これは派兵以外の何物でもないので、わたしは派兵と記して来ました。)が、違憲であると、名古屋高裁が判決をくだしたとのニュースに、このような関連では、どれほどぶりか、驚きと共に喜びました。