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「『主』を信じる幸い」

「『主』を信じる幸い」
2008年4月27日 
テキスト ローマの信徒への手紙 第14章5節-4節
「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。  わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

先週は、信仰者が何を食べるのか、食べられるのか、食物を巡ってのテキストを学びました。今朝のテキストも、なお同じ議論が続きます。ここでは、日の問題です。我々の国は、まさに、お日柄を気にする慣習がなお根強くあると思います。名古屋ではそうではありませんが、友引という日は、火葬場が休みになる地域があるようです。なぜかと言うと、友達を引き込むことになるとう迷信があるからです。結婚式場では、仏滅になると、お休みにするところがあるかもしれません。引越しをするお日柄というものもあるようです。身の回りのカレンダーには、そのような六曜カレンダーがありませんが、一般には、たくさんあると思います。私どもからすれば、まさに愚かしいことです。そのような迷信から何とか、脱してほしいと願います。教会の伝道の責任を思います。
しかし、その一方で、キリスト者の中でも、食事のタブー、日柄の問題にこだわる人がいるという現実を見ます。初代教会において、ユダヤ人キリスト者たちは、これまでの長い信仰の慣習を、一気に克服することは、極めて困難でした。先週学びましたように、使徒ペトロもまた、これを克服するために、一筋縄ではいかなかったのです。

さてしかし、パウロは、食事の問題にこだわるということは、まさに信仰が弱いからであると、ここで言っています。認めているわけです。日の問題にこだわるのもまた、福音の真理にきちんと立ち会えないなお弱さがあるからなのは明らかなことです。ですから、出来る限り早く、ユダヤ人キリスト者たちもまた、そこから自由になってしかるべきです。ところが、パウロは、今、そのようなことを勧めません。もしかすると、異邦人キリスト者たちは、パウロ先生に、文句を言いたくなるかもしれません。「パウロ先生はユダヤ人であって、見事に、福音の真理によってまったく新しくされ、古きユダヤ教の慣習を、キリストの福音によって克服し、新しい時代が始まっていることをとらえ、宣教してくださった。だったら、同じユダヤ人キリスト者たちを、どんどんお尻を叩いていただいて、古い慣習から離れて、食物のこと、祭りのことなど関係なく、新しい神の民教会の形成に励むように指導してほしい。」

ところが、パウロは、そのような言わば、信仰の強い人、異邦人キリスト者にむかって、軽蔑してはならないと、釘をさすのです。それは、彼らが、裁き主になってしまうことを制するためです。信仰が強いことが、本当の意味での強さにならず、弱い人を軽蔑するための強さに転落することを見抜いているからです。キリスト者同士お互いを比べる生き方の落とし穴です。だからこそ、視線を徹底的に、神に向かわせるのです。神のみ、主イエス・キリストのみが、彼らの、そして自分自身の主である。だから、主の召使いが、同じ召使いによって裁かれることは、越権行為であるとするのです。またそれに加えて、神ご自身が、弱い人、倒れている信仰の仲間を立ち上がらせることがおできになることを、忘れたり、信じないことになってしまうからです。しかし神は、弱さの中で倒れる信仰者たちを何度でも立ち上がらせてくださることがおできになられるのです。

ここでは、主のために食べる、主のために食べないと、その現れた行為は正反対です。ある日を重んじる人がいれば、どの日も全く変わらないと考えるキリスト者もいるのです。まったく逆の行動や判断をしても、しかし、目的は同じ、志は同じであると言うのです。どちらの立場のキリスト者も、主のためにそうしていることが大切です。そして、主のためにしているかどうかを、ふるいにかける規準となるのが、感謝しているかどうかということです。感謝することがなければ、それは、信仰の行為にならないからです。

問い37にこうあります。「神さまが人にもとめておられることは何ですか。」「感謝することです。」感謝なしには、信仰の行為にならないのです。しかたがないから食べないとき、そこには心からの感謝は生じません。自分が食べたいから食べるとき、そこにも真実の神への感謝は出てきません。私どもは、感謝と信仰、信仰の感謝によって生きることが求められているのです。日柄のことも同じです。日柄にこだわることなど、今や無意味であるとわたしどもは考えます。しかし、そうではないと考えたユダヤ人キリスト者もいたのです。パウロは、彼らの信仰の良心に基づき、神に感謝し、判断すれば、それでよいではないかというのです。

さて、このように語ってきて、遂に7節に入ります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」この御言葉を読んで、キリスト者のみなさんは、どのようにうけとめられたでしょうか。この言葉は、「こうあるべきだ、ありなさい」と命令しているのでも勧めを説いているのでもありません。キリスト者の現実の姿を切り取って見せているだけの言葉なのです。

そうなると、むしろ、そわそわしてしまうのではないでしょうか。なぜなら、自分の今日一日を振り返って、先週一週間を振り返って、「自分のためには生きませんでした」こう断言するのは、いささか気が引けるからです。

言うまでもなく、私どもの礼拝堂の外壁には、「Soli Deo Gloria!」とラテン語が記されています。ただ神の栄光のために。という意味です。私どもの全存在は、この目標に向けられ、そこへと向かって歩んでいるという告白です。私が書くメールには、たいてい最後にこのSoli Deo Gloria!をつけます。

しかし、もし、誰かから「あなたのあの発言、あのふるまい、あのことを見れば、どうしたって、神の栄光のためにとは、思えませんね。」と言われたら、いかがでしょうか。あるいは、言われる前から、言われかねないからと、そんなご立派なことは、書かないということがあるかもしれません。ある人は、自分がキリスト者であることすら、積極的に証しないということを聞いたことがあります。自分のような者がキリスト者ですと言ったら、躓きを与えるからと言うのです。

わたしは実は、実際に一度、そのように言われたことがあります。わたしは、その批判の言葉に、反論しませんでした。そのように思われてしまったのなら、弁解してもほとんど意味がないと思ったからです。それなら、そこでわたしは、やはり、自分は神の栄光のために生きてはいないのだと、このモットーを取り下げるべきなのでしょうか。わたしはそれでもいつもと変わらず、これを自分のモットーとしています。名古屋岩の上教会がここに存在していることは、これ以上でもこれ以下でもないこと、疑ったことがありません。それは、どうしてなのか。そのことを見事に解き明かしてくれる最高の御言葉がこの箇所です。

たとえばある人は、こう言うかも知れません。「わたしのような平凡なただの信徒では、だめです。パウロ先生や、誰それ先生のような信仰者をはるかに見習います。」つまり、自分を蚊帳の外において、逃げ出して、安心するのです。これは、正しいのでしょうか。使徒パウロは、ここで「わたしは」と自分だけのことを言っていません。「私たちは」と、現実に混乱が起こっているローマの信徒たちを含んで、こう言ったのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

これからそうなろうというのではありません。例外になる人は一人もいない、誰一人もいないときっぱり言います。自分のために生き、死ぬ人はいない、全員が、生きるのも死ぬのも主のためにすると断定します。一方でパウロは、信仰の弱い人の存在を、認めています。食べることに躊躇し、食べないことにこだわる人がいるのです。確かに信仰者には弱いか強いか、幼いか成長しているかという差は歴然とあります。しかし、どのようなキリスト者でも、例外なしに、自分のために存在している人間はいないと断言しているのです。

それならパウロは、どうしてそのような大胆なことを言い切れたのでしょうか。まだ、ローマの信徒のことは、顔を合わせて会っていなかったので、買い被っているからでしょうか。いえ、そうではありません。彼らの中にすでにこのような問題が起こっていることを知っているわけです。それでもなおこのように断言するのです。

この御言葉を読み解く急所、その理由を紐解く鍵になるのは、9節です。
キリストが死に、そして生きた」この事実であります。極めて重要なことは、これは、キリストの事実であって、ローマの信徒たちの事実ではありません。彼らの信仰が弱いとか強いとかには、いっさい関わりません。「キリストが死に、そして生きた」つまり、キリストが死んでくださり、そしてお甦りになられた事実だけが根拠なのです。そして、この十字架と復活は、何を目指し、何をもたらしたのか、それが、これです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」十字架と復活の御業によって、イエスさまは、主イエスになられたということです。主イエス・キリストになられたのです。そして、キリスト者とは、誰であっても、この十字架と復活のイエスさまを主と信じ、救われた人間以外のものではないのです。そして救われるとは、どのようなことであるかと申しますと、主なる神、主なるイエス・キリストのものとされるということ以外のなにものでもないのです。罪と死の奴隷状態からイエス・キリストの命の代価を支払われて買い戻されたのです。今や、罪と死の奴隷でないことはもとより、自分自身の所有でもなくなり、主イエス・キリストの所有とされたということです。これが、キリストの十字架と復活によって起こったことなのです。この事実を信じない人は、キリスト者ではありません。

キリスト者の信仰には、差があります。隠すことはできません。信仰の年数には関係なく、なお幼いキリスト者もいます。逆に、信仰の年数に関係なく、どんどん成長するキリスト者もいます。しかし、どのキリスト者であっても共通している事実は、この死んでお甦りになられたイエスさまのものとされているという現実です。どんなに謙遜、というより、卑下してみせても、この事実に変わりありません。主イエス・キリストを身にまとう者とされてしまっているのです。

洗礼を受けたという事実は、まさにそのことを具体的に印していただいたことを意味するのです。現実には、牧師が執行します。しかしそこで現そうとしている事柄は、まさに、神ご自身の行為であられるということです。神が洗礼を受ける者に、水を注いで、主イエス・キリストによって贖われ、救われ、赦され、神のものとされたことを全世界、全宇宙に向けて表明してくださる行為なのです。

第15章7節にこうあります。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」私どもキリスト者とは、主イエスが、神の栄光のために、主御自身のものとしていただいた人間に他ならないということです。そうであれば、私ども自身もまた、大胆に、自分の存在をその通りに認めてよいのではないでしょうか。いへ、そう認めなければならないのです。これだけは、決してゆずれないことです。主イエスが、神の栄光のために、このような罪深いわたしという人間を救ってくださいました。ですから、すでにあるがままのこのわたしもまた神の栄光のために存在しているのです。させられているのです。ですから、私どももまた自覚的に、これを目標、これを目当てにできるのです。すべきなのです。それは、今、神の栄光を現していないから、だからそれを追求するというのでは、決してありません。今、そうなっている、そのようになってしまっているからこそ、もっと自覚的に、もっと意思的に、努力してそうするのです。したいのです。

それが、たといある人には、まだまだ不十分だ、とか、むしろその反対ではないかと批判されたりしても、ひるむ必要はありません。既にイエスさまは、わたしの主となってくださっているのです。私もまた、主イエス・キリストと信じているからです。ですから逆に、もし、ひるんで「神の栄光のために」というモットーを取り下げてしまうのなら、わたしは、そこで、何をしているのかと言えば、キリストご自身の死と復活を否定することをしていることになるのです。キリストが主であられることを否定することになるからです。そのようなことは決してできません。ですから、私どもは、明るくSoli Deo Gloria!と言って良いのです。言い交わして良いのです。

もとより、時に、信仰の歩みのなかで事実倒れていること、倒れてしまっていることもないわけではありません。それは、私どももよく知っていることです。しかし、主は、そんな私でも立ち上がらせてくださるのです。立ち上がらせてくださったのです。ですから、わたしもまた、大胆に、主の僕として生きるのです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と明るく告白できるのです。

それでもまだ、いや、わたしは、まだまだだめですと、しり込みするキリスト者がおられるでしょうか。しかし、主イエスは、死んで復活されたのです。これは、すでに起こったのです。そのようにして、主の主とすでになっておられるのです。イエスさまが主の主、王の王とすでになっておられる以上、主に結ばれた者で、そうなっていない人は誰一人いないのです。

ここで「死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」とあります。死んだ人というのは、どのような意味なのでしょうか。いくつかの解釈が示されます。一つは、イエスさまを信じていない人は、霊的に死んでいたわけですから、そのような未信者の人のことを指すのです。そして生きている人とは、キリスト者です。イエスさまが主であられることは、全人類において共通する真理なのです。信じている人、救われている人だけの主ということはないのです。主イエス・キリストは、すべての主なのです。

もう一つは、既に死んでしまった人のことです。死者たちのことです。こうなれば、キリストの主権は、まさに、全人類、全宇宙に及ぶことが分かります。死んでしまえば、おしまいではないのです。死で終わりません。死後にも、そこで主イエスが主権を示されるのです。そうでなければ、そこまでの主でなければ、本当の意味での主にならないのです。しかし、主イエス・キリストは、十字架で死んでくださり、三日目にお甦りくださって、死んだ人にも生きている人にも主の主となられたのです。これは、信じようが信じまいが、認めようが認めまいが、事実として、厳然としてあるのです。信じる人にだけ主となる主ではありません。それは、他の宗教では、それでよいかもしれません。しかし、聖書が証しする神、イエス・キリストは違います。この主に、私どもは信仰によって繋がり、この主のものとなったのです。ならせていただいたのです。

そして、私どもにとっての救い、唯一の慰めとはまさに、この主のものとされたことにあるのです。先週もハイデルベルク信仰問答の問い一を紹介しました。何度でも思い起こします。「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは、何ですか。」「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」あらためて、証拠聖句を確認しました。当然ですが、まさにこのローマの信徒への手紙第14章7-9節です。生きているときも死ぬ時も、わたしは、主のものなのです。それは、主イエス・キリストが十字架にかかって私どもの死をご自身の真の死によって滅ぼし、そして墓の中からご復活されて、死んだ者にも永遠の命を与えて、死者たちの主になられたからです。

この主イエスを信じる人は、誰でも、死ぬ時も主のものとして死ねる、なんという幸いでしょうか。安心でしょうか。平和でしょうか。主のものであれば、わたしの魂は直ちに、主のもとに行くのです。この肉体も魂も、私の真実なる救い主イエス・キリストのものとされて死ねるのです。
さらに、今、このときを主と共に主の僕として生きる、主に愛される召使いとして生きれる、働ける、なんという有意義で、光栄に満ち溢れた、確かな人生が与えられたことでしょうか。

使徒パウロは、キリスト者の現実を見ています。美しく見ています。主イエス・キリストの美しさをまとう者としてお互いを見ています。そして、この手紙を読んだ彼らは、どうしたのでしょうか。わたしは、ローマの信徒たちは、いよいよ、福音の喜びに踊ったと思います。そして、この福音の恵みを感謝したと思います。そして、いよいよ、この福音にこたえて生きて行こうと決心を固め、もっと自覚的に、もっと主を主とするために励んだと思います。

「あなたの信仰はなっていないではないか。あなたの信仰は不熱心だ、中途半端だ」もはや、そのような裁きの言葉でお互いを見たり、信仰を語る過ちから守られて行ったのではないかと思います。

食べない人がいれば、「そうですか、あなたは主のために、感謝して、食べないのですか。あなたのその信仰の決断をわたしも尊重します」と、考えたのではないでしょうか。反対に、「あなたは主のために、感謝して食べるのですか、それなら、わたしもあなたの信仰の決断を認めます。」こう考えたのではないでしょうか。そして、時間をかけながら、それぞれが、ただ一つの目当て、Soli Deo Gloria!ただ神の栄光のためにと、志を新しくし、強められて、ローマの地での教会生活に励んだのだと思います。そして、やがては、ユダヤ人キリスト者たちもまた、食事にこだわらず、日柄にこだわることも止めていったのではないでしょうか。食べていたキリスト者たちは、焦らず、主の導きを忍耐して待って行ったのではないでしょうか。

今朝も皆さんと十戒を唱えることができました。神の与えてくださる信仰の道標、信仰の自由と祝福、神の愛の交わりの中で、愛に生きる規範の言葉を唱えました。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家より導き出した者である」との前文を読みました。あの十戒をすべて守ること、そして徹底して守ることこそ、神の民、主の民の道です。しかし、実際は、それを第一歩踏み始めたかどうかという現実でしょう。しかし、私どもは、それでもこの十戒をもって神を賛美し、感謝しています。それは、私どもの主となってくださった神から、与えられた言葉だからです。たとい不十分、不完全であっても、主なる神は、私どもがこの十戒を喜び、生きようと励む姿をごらん下さり、私どもを愛し、まるで十戒を成就した者であるかのように受け入れてくださいます。それは、私どもの主だからです。だから、私どもは、責められてでも、いやいやながらでも、いわんや、恐怖にかりたてられてでもなく、神の戒めを生きることを、喜びとするのです。どんなに不完全であっても、自分のために生きたと言えなかったような一日の終わりでも、なお、主の赦しのなかで、一日を終え、また私どもの人生を終えることもできるのです。

主の恵みです。私どもはただ主の恵みで、正真正銘、主のものとされたのです。どうぞ、それを心から信じ、認めましょう。そして、何度でも信仰の確信に基づき、主イエス・キリストとお呼びしましょう。私どもが、愛と感謝そして、十字架復活の意味を信じて主イエス・キリストとお呼びするなら、大丈夫です。Soli Deo Gloria!と言ってよいのです。私どもは、誰一人、自分のために生きることも、死ぬことももはや出来ない人間とされているのです。キリストのものとされているのです。それは、あなたがキリストのものと、自らなることではありませんでした。そのようなことは、逆立ちしても不可能です。どんなに難行苦行をしてみても、修行をしても無理です。しかし、神があなたを、御子イエス・キリストによって御自身のものとしてくださったのです。イエスさまが、神の栄光のために、ご自身のものとしてくださったのです。これが福音です。救いなのです。

まだ洗礼を受ける確信がないと躊躇される方がおられるなら、それは、自分の信仰の強さの問題ではありません。それは、キリストが十字架で死に、ご復活されたことを信じておられないと言う課題です。どれほど、弱い信仰者であっても、キリストは、既に主の主となっておられるのです。ですから、心配いりません。自分で主のものとなる、企てを止めることです。あなたは既に誰のものでもない、主イエス・キリストのものとされているのです。この真の主、唯一の主に人生をお任せして、主を主として信じ、受け入れ、従って行けば良いのです。

祈祷
生きている時も死ぬ時も、私どもの真実の、唯一の慰めを与えてくださる主なるイエス・キリストよ。慰めそのものであられるイエスさま、あなたが十字架に死んでくださり、お甦りくださった故に、あなたこそ主の主、王の王です。あなたが神の栄光のために、私どもを救いに受け入れてくださったことを心から感謝申し上げます。あなたがご存知の通り、まことに小さな、拙い信仰者ではありますが、しかし、私どももまた大胆に、ただ神の栄光のためにと歩みます。あなたのご支配のなかで、この信仰と志を支えて下さい。アーメン。