「神はおられるのか」
2007年6月6日
「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」
新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 第4章7節
わたしが牧師をしている名古屋岩の上教会の小さな庭には、今、いくつもの種類の薔薇が美しく咲き誇っています。その庭に、先日、新しい薔薇が植えられました。その薔薇は、岐阜県可児市にあります花フェスタ記念公園と朝日新聞社から、抽選に選ばれて、いただいたものです。苗の贈呈式には、教会員が出席しました。実に可憐な形、色合いの薔薇なので、一度、教会に見に来ていただいたらと思います。
その薔薇の名前は、「アンネの薔薇」と言います。皆さんは、アンネ・フランクという少女の名前を聞いたことがあるかと思います。少女アンネは、ホロコーストの犠牲者の一人です。かのドイツ第三帝国は、自分たちが選挙で選んだヒットラーのもと、正義の名の下に、ユダヤ人600万人を、ただユダヤ人であるという理由だけで、毒ガス室に閉じ込めて殺しました。その中には、150万人の少年少女もおりました。今、この可憐な薔薇は、殺されたアンネの父によって育てられ、あのホロコーストの狂気を忘れないようにと、世界各地に植樹されているのです。
さて、そのような歴史を直視するなら、誰よりも被害を受けた方であれば、このような問いが生じるのではないでしょうか。「いったい、本当に神はいるのか」わたしは、今朝、皆さんとこの問いを問いたいのです。「本当に、神はおられるのか」実は、これこそ、人間が一番知りたいこと、究極の問いなのです。もしも、この問いを問わない人、問うたことのない人がいれば、わたしは、むしろ心から同情します。人間として生まれてきた以上、最も大切な問いだからです。それは、人生の質、人間としての質、全人格に根本的な影響を及ぼす問いであるからです。その意味で、金城学院大学で学ぶ皆さんは、実に、幸せです。キリスト教学では、この問いを問うようにと導かれるからです。
実はしかし、私はちょうど皆さんの年頃に、「聖書が言っているような神など絶対にいない。いるはずがない。」と信じていました。信じようとしました。ところが神は、そのような者にも、信仰を与えてくださいました。キリスト者となれたのです。それ以来、こんどは私自身が何度かこのようなことを言われました。「神がおられるというのなら、この目に見せてほしい。見たなら信じる。」私は、このような問いは、基本的には、不真面目な問いだと思います。そもそも、天と地と、海と空と、生きとし生けるすべてのものの創造者なる真の生ける神は、人間の肉眼には見えないのです。聖書はこう言っています。「神の目に見えない性質」(ローマの信徒への手紙第1章20節)。
それなら、私どもは、いったい、どのようにして聖書が証しておられる真の神を信じることができるのでしょうか。初めにお読みしました御言葉にこうありました。「愛することのない者は神を知りません。」これは、実に衝撃的な言葉ではないでしょうか。日本人は、とくに男性が多いと思うのですが、ときどき堂々と、こう言われることがあります。「わたしは神など信じない。頼らない。」そのような人は、この御言葉によれば、「わたしは愛など信じない。知らない。愛になど価値を置かない。頼らない」こう、言っていることになります。そのように言ってのける人は、自分の人間性が貧しいことを自慢していることになるのではないでしょうか。
「愛することのない者は神を知りません。」この御言葉を、逆から言えば、「神を知っている人は、愛に生きている人である。愛に生きている人は、神を知っている人である」ということです。
そこで、皆さんに考えて頂きたいのです。「あなたは、神を愛し、人を愛して生活していますか。愛において豊かに生きていますか?」皆さんに問う前に、私自身が問われるべきです。本当に、わたしは神を知っているのだろうか。それを問うことは、自分が愛に溢れて生きているかどうかを問うことです。そこでこそつくづく、気づかされます。自分の中に「真の愛」がないことをです。本当に愛に生きていない自分をそこに見ざるを得ないのです。
ところが、そのような愛のない人間、罪深い人間であるわたし自身を、神は愛してくださったのです。愛のないわたしに、神からの愛が注がれたからです。聖書はこう言うのです。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」そうです。本物の愛とは、神から出る、神から注がれるものなのです。私どもにプレゼント、ギフトとして与えられるものなのです。読みませんでしたが、10節にこうあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して」つまり、私たちの側ではまったく神を愛さなかったのに、それにもかかわらず、神は、わたしたちを一方的に愛されたということです。この愛に気づいたのも、皆さんと同じ大学生のときでした。そのときから、わたしも神を愛し始めることができるようになりました。
それなら、その神の愛は、世界の歴史のなかで「いつ」、「どこで」、具体的に示されたのでしょうか。聖書は告げています。「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」「御子」とは、主イエス・キリストのことです。「罪を償ういけにえとしてお遣わしになった」とは、主イエス・キリストの十字架の死のことです。父なる神は、言葉の正しい意味で、何の罪もない聖いイエスさま、神に愛されるべき神の独り子に、実に、私どもの罪の責任、罪の借金のすべてを背負わせてしまわれました。父なる神さまは、愛のない私ども罪人の罪を償わせるいけにえとして、罰っして殺してしまわれたのです。ですから、キリストの十字架には、究極の矛盾があります。世界の歴史のなかで最大の不条理があります。神は、私どもをこそ罰するべきなのに、御子イエスさまを罰してしまわれたからです。主イエス・キリストは、私どもを命がけで愛してくださったのです。父なる神は、この上なく尊い犠牲を支払って、私どもを信じる人間、神の子として取り戻してくださったのです。聖書は言います。「ここに愛があります。」「神は愛だからです。」
キリスト者となってからも、なお苦しみや悲しみを経験しました。しかし、わたしは、この神の愛を疑うことはできません。愛の神は今朝、ここに、私どもと共におられます。「神は愛だからです。」「ここに愛があります」世界にこれ以上に確かなことはありません。あなたは、神に愛されているのです。それに気づけば、あなたも揺ぎ無い人生を生きることができます。
最後に、ドイツのケルンという町の地下室に隠れていたユダヤ人が、ガス室に送られる前、壁に刻んだ詩をご紹介します。
「わたしは太陽を信じる。それが照り輝いていないときにも。
わたしは愛を信じる。それが感じられないときにも。
わたしは神を信じる。神が沈黙なさっているときにも。」
祈祷
私どもを今朝も私の愛する子とお呼びくださいます主イエス・キリストの父なる御神、あなたの愛のなかで始まる今日の一日を心から感謝いたします。あなたに愛されていることに気づかせてください。そしてあなたを愛し、自分を愛し、隣人を愛して生きる私どもにしてください。アーメン。