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「神の裁きの座に立つゆえに」

「神の裁きの座に立つゆえに」
2008年4月27日 
テキスト ローマの信徒への手紙 第14章5節-4節

「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。
「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

今朝の使徒パウロの言葉は、このように始まります。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。」「兄弟を裁く」とは、審判することです。法廷で裁判官のように判決を読み上げること、宣告することです。その判決文、主文、結論は有罪との宣告です。そうすることが裁くことです。そして、「侮る」とは、見下すことです。自分より立場が下であって、自分が優位に立っているということです。つまり自分が裁判官、裁判員であるということです。

さて今朝も、教会における交わりを破壊してしまう危険性がある大問題について、御言葉から学びます。キリスト者となってまだ日の浅い方や、あるいはまだ洗礼を受けておられない方にとっては、もしかすると、裁きあう、侮るなどということはキリストの教会には、無関係ではないかと思われる方もおられるかもしれません。「そのようなことがあるなら、この世界のさまざまな集団、組織と結局、変わらないではないか」と、不信感、違和感を持つ方がおられるかもしれません。

聖書は、この問題について、真正面から言及しています。聖書を読んでまいりますと、使徒パウロだけではなく、著者たちが、キリスト者どうし、神の家族とされ、キリストの弟、妹とされたキリストにある兄弟関係をどのように育てるべきなのか、つまり人間関係について、どれほど力を込めて言及しているか、すぐ分かるのではないかと思います。聖書とは、教会の書、神の民の祈りの家の書物です。教会を建て上げ、教会の交わりを育てるために記された神の御言葉なのです。使徒たち自身、この厳しい、困難な現実に立ち向かわざるを得なかったのです。人間と人間との間に、どうしたら真実の関係が構築されるのかが記されています。そして、キリストを中心とする教会を破壊してしまうパンだねがどこにあり、何であるのかを指摘しています。それが、「裁き」であり、「軽んじる」ことなのです。

さて、使徒パウロは、ローマの教会にもその危険があることを漏れ聞いています。だからこそこの手紙の言わば、結論のところで、触れるのです。もしも、放っておけば取り返しのつかないような重大な問題に発展することをしっかり認識しているのです。何度も繰り返して申し上げたことですが、キリストの教会の交わりとは、徹底的に信仰の真理、福音の真理によってのみ築かれます。だからパウロは、前半で、徹底的に、信仰によって義とされるという福音の恵みを明らかにしたのです。逆にだからこそ、今ここで、教会の厳しく悲しい現実の問題にも正面から触れられるのです。教会の、キリスト者の問題とは、結局、福音の真理に生きているかいないかということに帰するのです。

先週、たまたまと言っても良いと思いますが、作家の大江健三郎さんの書物、「自分の木の下で」を読みました。我が家のトイレにおいてある本の内の一冊を手に取ったのです。この書物は、大江さんが子どもたちの為に書いたものです。その中に、「『うわさ』への抵抗力」という一章がありました。最初に、大江さん自身が、書物やメディアで立てられてうわさをめぐって、大変、迷惑した、困惑させられた実例が紹介されていました。いわく、「悪意と軽薄さが『うわさ』の運動のエネルギーになっている」「そこで私は、皆さんがたに『うわさ』への抵抗力を強くしてもらいたい、と思います。」そう呼びかけられます。具体的に、二つの方法で、抵抗しなさいと勧めます。一つは、自分で本当か偽りかを調べることです。確かめることです。もう一つのこと、それは、「根拠のない『うわさ』なら、小さく、弱いうちにつぶすことができるし、つぶさなければならないということです。

そこで、実例を紹介しました。1969年のフランスのある町で、ユダヤ人への差別と攻撃が、始まりました。それは、「ユダヤ人の洋服屋の試着室に入ると、女の子は、薬を飲まされ、拉致されて、売られてしまう」こういううわさでした。忘れてはならないホロコーストの悲劇からまだ20年にもならない内に、この根も葉もないうわさがフランス全土に広まってしまったのです。一人の社会学者がなぜ、広まってしまったのかを調査したそうです。報告の結果、分かったのです。その町にある女子生徒の通う学校で、一部の女性教師が、ユダヤ人の経営する婦人服店には行かないようにと注意を促したのだそうです。それが、原因だったのです。女性教師が、そんな「うわさ」を立ててはならないと、女子生徒のうわさを封じていれば、フランス全土に行き渡ることなどなかったはずです。これは、フランスだけの問題ではなく、我々の国でもまた、例えば、あのホロコースト、ユダヤ人大虐殺など歴史上なかったのだと言うジューナリズムがあると、批判されました。他にももっともっとあるわけです。

さて、この女性教師は、ユダヤ人を憎悪していたのでしょうか。おそらく違うと思います。好意こそ抱いてはいなかったかもしれませんが、お店をたたませてやろうとなど考えていなかったのではないでしょうか。しかし問題は、軽はずみ、軽薄な行動と言動にあったのです。せいぜい、「あぶないところに近寄らないように」という気持ちであったのかもしれません。しかし、悪意のある「うわさ」、危険な「うわさ」であると分かれば、その女性教師が、そこで抑えれば、フランス全土に広まらなかったのです。彼女は、それができる立場にあったはずです。大江さんは、言葉を強めて子どもたちに訴えます。「悪意と軽薄さ、『うわさ』に抵抗しよう」まったくその通りです。しかし、歴史を見れば、この種のうわさが国家レベル、町や村のレベル、さまざまな社会や団体のなかで、行われ続けているのではないでしょうか。

先週、この書物を読みながら、同時に、パウロのここでの勧めを読んでおりました。そこでわたしが、すぐに思い出したのは、ヤコブの手紙でした。第3章1節で、ヤコブは、こう言います。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分自身の全身を制御できる完全な人です。」まさに、舌で罪を犯さない人間はいません。それだからこそ我々は、舌で罪を犯す人間なのだということを、きちんと自分のこととして弁えているべきなのです。他ならない自分自身が、舌で罪を犯してしまう愚かで弱い人間なのだということを弁えることは、賢さであり、知恵深さです。これは、人間関係における必須の知恵ではないでしょうか。

さらに、第4章11-12節です。「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」教会員同士が、悪口を言い合っている現実をヤコブは見たのでしょう。そしてそれは、放っておいてはならない重大な問題だと認識しているのです。それを放っておくと、教会の交わりが壊れてしまうと見ているのです。そしてそれは、決して大げさなことではありません。実際に、教会が分裂したり、教会から離れてしまうキリスト者が起こっています。それは、ごく稀なこと、例外的なことでは決してないのです。ヤコブは、兄弟の悪口を言い、裁く人は、律法を裁いている、つまり、律法の制定者である神ご自身の立場に立っている、神に代わって、キリスト者を裁くあなたは、一体、何者なのか。」最近の言葉で言えば、「何様?」ということになるでしょうか。

しかし何よりも私どもにとって、主イエス・キリストが山上の説教のなかで、語られた御言葉こそ、真っ先に思い起こすべきでしょう。ルカによる福音書の第6章37節以下です。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

来年の7月から、日本で、裁判の陪審員制度が始まろうとしています。この法律についても、改めて読んでみますと、多くの問題があることに遅まきながら気づきました。裁判所が、戦前の「赤紙」ではありませんが、国民を一方的に徴集します。これに応じない場合は、刑罰が科せられることになっています。自分の思想、良心に基づいて、裁判に加われないと考える人の自由については、なんら保障しません。殺人のような凶悪事件を取り扱う場合に呼び出されます。しかも有罪、無罪の判定だけではなく、死刑なのか無期懲役なのか、刑罰の重さ、量刑まで判定するのです。

もとより私どもは、裁判という制度を軽視するわけではまったくありません。何よりも教会自身、古より、法廷を開いてまいりました。教会法廷です。ほとんどの方には、なじみがないかと思います。しかし、私ども日本キリスト改革派教会の憲法の一部である、教会規程の第二部として「訓練規定」があり、その中で、教会裁判が規定されています。私どもにとって、現実には、ほとんど経験のないことです。しかし、ごく身近なことがあります。本日、午後、洗礼入会志願者の試問会を行います。洗礼を受けることが神の御心にかなっているのか、ふさわしいのかどうか、それを判定するわけです。厳かで、嬉しいときです。

つまり人を裁くなという主イエスのご命令は、裁判することそのものを否定しているわけではまったくありません。ただ、そこで人を罪人として決定することに、どれほど慎重を要するのかということが言われるのです。主イエスが、そこで求められたこと、それは、神の民の家、キリスト教会は、兄弟を赦す場として存在するようにと言うことです。「自分の裁く裁きで裁かれ」とマタイによる福音書の第7章では言われています。裁くことへの恐れを持て、裁くことに積極的になろうとするな、ということでしょう。自分の価値観、自分の正義感、自分の信仰理解で、教会の仲間たちを裁くことに急いではならない。そうすれば、教会もまた混乱し、かき乱され、その交わりが傷つき、破壊され、ついに自分自身も破壊してしまうということです。

裁いていはならないと仰せになられる主イエスの御言葉を聴くと、いつも思い出す物語があります。ヨハネによる福音書の第8章の物語です。ここでも説教をしました。手短に要約すれば、主イエスが神殿の境内で教えておられる時、朝はやく、律法学者やファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女性を連れてきます。そして、イエスさまの周りにいる人々を押しのけるようにして、この女性を真ん中に立たせて、主イエスに問い質すのです。主イエスを試して、訴える口実を得るために詰問するのです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。

主イエスは、しかし何もお答えにならなかったのです。ただ、やおらかがみ込んで地面に何かを書き始められました。何を書いておられたのか、古来、さまざまに空想されてまいりました。一番多いのは、モーセの律法、十戒ではなかったかと言うものです。そのことにも興味がありますが、この質問にすぐに答えなかったのは、人々の好奇な視線を、おそらく肌もあらわなこの女性からイエスさまご自身へと集められたことです。

さらに、地面に指を当てられます。まるで地面を癒すかのような好意です。創世記を読みますと、人間の罪によって地は呪われてしまったとあります。わたしは、主イエスのこの振る舞いが、この女性によって汚され、呪われ、そしてまたこの女性の罪をもって、自分たちの正しい生活ぶりを、自分たちが正しい生き方をしていることを誇る材料にしているファリサイ派の人々、何よりもこの女性の悲しい罪を材料にして、主イエスを葬り去ろうと企てる悪意、これらの人間の罪によって汚されてしまっている大地を癒しておられるように思うのです。

しかし、彼らはあくまで、質問し続けます。答えさせようとします。そのとき、また、やおらたちが上がられたイエスさまは、仰います。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」主イエスは、この女性が罪を犯したことを認められます。そして、モーセによって告げられた神の律法である、石打の刑に処することが相当な刑罰であるとお認めになられます。

しかし、不思議な言葉が前置きで語られます。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」罪を犯したことのない者だけが、この女性に石を投げることができると言う意味です。すると、主イエスの説教を聴いて集まっていた人々が、年長者から始まって、一人、ひとり立ち去ってしまいます。この光景を見ていたファリサイ派、律法学者たちもまた、結局、自分たちの目的を達成できないとわかるや、彼らも諦めてか、立ち去ります。

ヨハネによる福音書は、慎重に記します。「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」主イエスは彼女に尋ねます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ。誰も」しかし、そこには、姦淫の罪を犯した女性はもちろんですが、生まれてこの方、何一つも罪を犯したことのないイエスさまだけはそこに留まっていらっしゃいます。つまり、イエスさまだけは、この女性に石を投げつけて、石打の刑という死刑に処する権威がおありだということであります。

この女性も、そのことをすでに気づいたでしょう。この人だけは、帰らない、この人だけは、じっとモーセの律法を書き続け、神の掟、神の定められた律法を重んじ、これに生きておられることが分かったのでしょう。だから、この女性は、ここでイエスさまのことを「主よ。」とお呼びしたのです。そして、この方から、死刑判決、死刑の宣告を受け、死刑執行からは、まぬかれられないと思ったのではないでしょうか。

ところが、主イエスは、こう宣言されるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」主イエスは、この女性が犯した事は、モーセの律法によれば、死刑に相当することだと、きちんと認めておられます。しかし、今、この姦淫してはならないという、十戒の第七戒を違反した女性に向かって、わたしもあなたを罪に定めないと宣言なさる。それは、いったいどういうことなのでしょうか。それは決して、罪を大目に見たからではありません。誰よりも今、罪、繰り返しますがそれはただこの女性だけの罪ではないはずです。この女性の罪を利用して、自分の正しさをひけらかし、イエスさまを貶めようと企てる律法学者たちの罪をも、真剣に見据えておられます。だから、おそらく地面に十戒を書かれたのです。

それなら、なぜ、主イエスは、わたしも罪に定めないと仰せになられたのでしょうか。イエスさまが、罪に定めないと仰せになられたら決定的です。他の誰も言えないことばです。究極の言葉です。それを主がここで約束なさる。しかし問題は、彼女の罪の「裁き」はどこに行くのかです。罪の裁きは、残るのです。

しかし、私どもは知っています。この後すぐに、主イエスは、この女性の罪の裁きの問題を、解決されます。どのような方法によってでしょうか。それこそは、イエスさまがこの女性の罪の刑罰の死刑を、十字架の上で、石打の刑以上に悲惨な、木にかけられる者は神に呪われた者であると聖書に言われているその十字架の木の上にかけられるのです。そのようにして、ただお一人裁くことがおできになられるお方が、父なる神からの裁きを受けてくださったのです。それは、彼女の身代わりに死なれるということでした。この十字架があるからこそ、主イエスは、この女性に、罪に定めないと宣言できるのです。

実に、私どもの状況もまた、まったく同じです。私どもも罪深く、罪を重ねて者であります。それなのに、その罪を十字架によって赦していただきました。
いへ、私どもは、もっと深刻かもしれません。なぜなら、自分が赦されておきながら、イエスさまが赦しておられる兄弟のことを、自分が裁く、裁くことがあるからです。

使徒パウロは言います。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」神の裁きの座の前とは、父なる神が、世の終わりにすべての人間を裁かれる最後の審判のことに他なりません。それは、世界中の人々が、死んだ人も、生きている人も、誰一人も漏れることなく、神の裁きの座に立たせられるのです。しかも、先ず、最初に裁かれるのは、教会であると聖書は言います。パウロは言います。「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

私どもは、神の御前に、自分のことについて神に申し述べることになる。これこそは、今朝、私どもにとって最大の関心ではないでしょうか。そして、ここで福音を正しく聴き取るかどうか、それが、私どもの信仰の生活、教会の交わりを築き上げる意味で、正しい土台をすえられるか否かを定める、決定的な点になるかと思います。

さてその前に、使徒パウロが、ここで引用したイザヤ書第45章23節を見ましょう。パウロ自身の解釈を経た上での自由な引用文です。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」ついでに、イザヤ書そのままの御言葉も合わせて読んでみたいと思います。実は、「すべての舌が神をほめたたえる」は、こうなっています。「すべての舌は誓いを立て/恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」続いてこうです。「主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。/イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」イザヤ書第42章23-25節

すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある。つまり、神をほめたたえるということです。神を賛美する。これは、神に信仰を告白するということです。私どももまた、特にニカヤ信条で、あるいは賛美歌を歌って、信仰を告白し、神を賛美します。この告白という言葉の意味の中には、罪を告白するということも含んでいます。十戒を唱えるとき、主よ、憐れんでくださいと唱えます。それは、私どもが十戒に完全に生き抜いているわけではないからです。主の憐れみと赦しがなければ生きて行けないからです。ですから、信仰を告白するということは、罪を告白するということでもあります。そしてそこで何よりも重要なことは、この告白した罪はどうなるのか、自分は神の裁きの座、神の御前に立って、どうなるのか、ということに対して、きちんと、堅固な、確実な認識を持つということです。

パウロは、「私は生きている」と、実は、イザヤ書第49章18節を引用しました。もともとのイザヤ書第42章の言葉は、こうなっているのです。「わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。」つまり、主は、罪の赦しの宣言を取り消さないお方なのだということです。つまり、主イエスが、わたしもあなたを罪に定められないと恵みの言葉が宣言されたなら、この宣言は最終決定で、決して取り消されないのです。つまり、それほどまでに罪の赦しは確かなのです。主は生きておられるからです。主イエス・キリストの御業は、永遠に効力があるのです。恵みの御業と力は主にあって、永遠なのです。

さて、最後に確認しましょう。12節、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」一体、そこで何を神に申し述べるのでしょうか。それは、決して、自分の罪を一つひとつ自己弁護することではありません。誰かに責任転嫁することではありません。自分の罪を認め、悔いることです。しかし何よりも大切な事は、他ならないこの罪の身代わりになって、救い主にして主なるイエスさまが、十字架にかかってくださったことを、神に感謝を申し述べることでしょう。信仰を告白することでしょう。全存在をもって、今ここでしているように、主の前にかがみ、賛美することでありましょう。こんなに罪深い私のために、あの罪この罪のために、主イエス・キリストが十字架で死んで、三日目にお甦りくださって、わたしの罪を完全に赦してくださったという、福音の事実に立って、神に信仰を申し述べ、感謝と賛美を捧げることです。

今朝、13節まで読みました。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」
自分が主の十字架の恵みによって、赦していいただきながら、一方で、兄弟を裁くことは、愚かなことです。いへ、愚かどころではなく、不信仰になります。主なる神のみがなさる審判を横取りして、自分を主、自分を神とする行為なのです。ですから、パウロ先生が勧める通り、私どもは「決心」しなければなりません。もう二度と、互いに裁きあわないという決心するのです。悪口だとか噂話に耳を貸さないことです。むしろ、それに抵抗するのです。それは、単に、人間の品性とか品格、人格の問題に留まりません。信仰の問題なのです。私どもは今朝も、ここで主なる神を礼拝しました。主イエスの罪の赦しを感謝し、賛美を捧げ、信仰を告白しています。そうであればこそ、自分が裁き主、神にならないように、この恐るべき不信仰の罪を犯さないようにと、決心を新たにするのであります。

祈祷
私どものすべての罪を十字架で担い、罪の刑罰に服してくださいました主イエス・キリストよ。あなたのおかげで、私どもは、神の裁きの座の前に立ち、あなたを賛美し、神を賛美することができる者とされました。しかし、私どもは、自分が赦されたことを棚に上げて、兄弟の罪や弱さ、足らなさに目を注ぎがちです。共に生きる仲間を重んじることができず、教会の交わりを損なうことすらあります。どうぞ、赦してください。そして守ってください。信仰を富ましめ、福音の光のなかで、あなたを見上げ、自分を見、兄弟を見ることができますように。そして、ここに慰めの共同体を形成させてください。アーメン。