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「神の国の生き方で」

「神の国の生き方で」
2008年6月1日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第14章13-17節
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。」

先週までは伝道月間として主題説教を聴いて礼拝をささげました。全体を貫く主題は、「希望」でした。望みを見失っている世界に、ここに真の、唯一の希望があると告げることが私どもの教会のこの町、この世界への福音宣教のまさに中心的な使命と考えたからです。世界の希望は、神にのみあると告げることが私どもの責任です。そしてそのように広く福音を告げるわたしどもは、世界の希望の目じるしです。希望の源は私どもの創造者なる神にあります。そして、希望の目に見える証拠は、私どもキリストの教会がこの地上にあるということです。神は、世界の人々のために、希望がどこにあるのか、なんであるのかをご自身の教会を通して、明らかに示しておられます。そうであれば、私ども教会の重大な責任は、この希望をこれからも伝え続けることにあります。また、いよいよ私どもの存在が希望の証拠になることです。そして、まさにそのために、今、私どもはここに呼び集められました。ここで今朝、改めて、天が開かれます。天の窓が開かれます。そのようにして天の国、神の国の礼拝が、この地上の私どもの礼拝式に映し出されます。私どもの礼拝式は、天国の門です。神の国の窓です。ここに来れば、ここに来て、信仰をもって、目を天に見やれば、天にまします主イエス・キリストと父なる神に目を高く高く挙げれば、そこにある光が、この場所を明るく照らし、私どもを明るく、暖かく照らし、私どもに慰めと命、励ましと癒しを与えてくれます。そのような礼拝式を、伝道礼拝式ではありませんが、しかし、毎週、毎週、ここで天と地とが一つに結ばれる驚くべき御業、天におられる聖霊が、今、私どもの真ん中に、ど真ん中に臨在しておられます。そのようにして、まさに天と地とが結ばれてしまっています。主イエス・キリストによって、私どもは、今、この地上にいるわけですが、私どもの心は高く天に引き揚げられて、神の国にある祝福を、そのほんの一部にしかすぎませんが、しかし、天国の祝福が今ここで私どもに注がれていることを、心から感謝いたします。今、私どもはどれほどの天の祝福を注がれ、さらに注がれようとしているのかを思います。

本日は、ローマの信徒への手紙の講解説教に、一ヶ月ぶりに戻りました。本来であれば、今朝、読むべき、聴くべき神の御言葉は、13節から16節となります。先週まで、「希望」について学んでまいりましたし、来週はまた、浜松伝道所の伝道応援にまいります。本日は、あえてテキストを前後させ、17節を中心に学びたく願います。一種の主題説教として語ります。

さて、第14章において使徒パウロが議論していることは、教会員同士がお互いに裁き合っているという、教会にとっては極めて重い、深刻な問題です。実は、ローマの教会員の間で、他ならない信仰の問題、信仰の判断について、お互いに裁き合うという問題が起こっているのです。私は、もしかすると、使徒パウロがこれまで一生懸命語ってきたこと、つまり、主イエス・キリストの恵みとは何か、救いとは何かという福音の内容のまさに根本について諄々と説き続けたのは、実は、この問題について、本質的な解決の筋道を指し示すことであったのではないかと、今頃になって気づき始めています。教会にとって、さまざまな問題が起こりますが、それを使徒パウロは、単に人間の知恵で解決しようとは、まったく考えないのです。実に、ここにキリスト教のキリスト教たる所以があるように思います。教会に生きるということ、教会の生活をするということは、具体的には、そこでは、共に生きている仲間たちとの関係がとても大切になるということです。信仰の生活は、即、教会の生活です。教会なくして、信仰に生きること、信仰の生活は成り立ちません。人生のまことの目標をめざして歩むことが救われた生活ですから、もしも、救われた人が、教会の形成、教会を建てあげるという神からすべてのキリスト者に与えられた目標を目指して歩むことがなければ、結局、それは、迷子になったままです。どれほど、イエスさまに救われて、もう迷子ではなく、天国への道を進むのだと、ご本人が信仰に燃えていたとしても、聖書の教えとは離れていますから、おそらく続くことは困難です。信仰に生きることは、教会に生きることです。教会の形成に奉仕することです。教会の仲間たちと共に生きることです。神を信じて生きるということは、神を信じている仲間たち、キリストにある兄弟姉妹、神の家族と共に、いっしょに生きることです。ですから、神を信じることは、もう人間関係はどうでもよい、神さまとの関係だけしっかりしていれば、別に、信仰の仲間たちに励まされる必要も、別に感じないと、そのように考えることは、おかしいことです。信仰とは、その意味でも人間関係と無縁になることではありません。むしろ、その正反対です。信仰とは、よい、正しい人間関係をこの地上でどのように築きあげるのかということです。

人間関係、人間がどのように生きると、まさに上手に生きられるのかという知恵は、実は、聖書でなくても、これまでの長い人類の経験から、さまざまな教えが語られ、記されてきたのです。例えば、論語とかに代表される儒教などはその典型でしょう。人間関係についての教えなのです。そこには、知恵が満ちています。それなら、キリスト者は、教会の人間関係を上手にするために、そのような教えを学ぶ必要があるのでしょうか。答えは、はっきりしています。否です。違います。使徒パウロは、ローマの教会の中に現実に生じた、人間関係の、信仰の判断に基づく問題を、人間的な知恵で解決しようとしません。むしろ、パウロは、徹底的に、恵みによって救われる、信仰によって救われるという福音の教え、教理を語り、明らかにしたのです。この教理が正しく教会員に体得されれば、身につくようになれば、ここでの問題は、克服できるという確信を持っているからです。

私どもの教会の中で、このローマの教会の問題は起こったことがありません。ここでの問題は、歴史的な状況のなかで生じました。それは、一つの教会のなかで、ユダヤ人からキリスト者となった者と、異邦人からキリスト者になった者とがいっしょに教会員として交わり、信仰に励んだのです。ユダヤ人キリスト者は、旧約聖書の教えをよく身につけています。しかし、そのすばらしいことが、むしろ、足かせのようになってしまう問題がありました。それは、旧約聖書の中に、食物規定があるからです。食べてよいもの、悪いもの。そのリストが、たとえばレビ記第11章に記されています。神に良しとされた食物は聖なる食物、食べてはならないと命じられたものは、汚れた食物です。あるいは、血を抜いていない肉は、食べてはならないとされていました。しかし、主イエス・キリストがこの地上に来てくださって、救いの御業、贖いの御業を完成してくださったことによって、このような律法は、すべて古いものとなりました。つまり、もう、その律法の役目は終わったのです。ですから、主イエス・キリストが来られた以降は、もう、この掟を守る必要はないのです。むしろ、それでもまだ、その律法にこだわるのであれば、それは、イエスさまの恵みを軽んじること、否定することになるのです。

しかし、ユダヤ人キリスト者にとって、一気にこれまで食べてこなかった食事を、異邦人のように食べてしまうことに、大きな抵抗がありました。もちろん、ユダヤ人キリスト者の全員がそうであったわけではありません。使徒パウロはユダヤ人ですが、何を食べても平気です。喜んでなんでも食べることができた人です。第14章14節で「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。」と言いました。第15章1節には「わたしたち強い者」とあります。強い者とは、何でも食べられる異邦人に多かったのですが、パウロこそは、信仰の強い者なのです。

そして使徒パウロは、1節で、とても厳しい言い方、しかもどこか駄洒落のようなニュアンスで、命じます。「もう互いに裁き合わないようにしよう」そして最後に、「決心しなさい」と厳しく言います。しかし、実は、決心するという言葉は、「裁き合う」という言葉のニュアンスが込められています。裁き合っているその強さで、弱いキリスト者の前に、信仰の躓き、妨げになるものを置かないようにしなさいというのです。決心することと裁き合うこととを、抱き合わせて、どこかユーモアを漂わせ、しかし、厳しく命じるのです。

食べ物のことで、信仰を躓かせ、妨げ、心を痛めさせることが、実際に起こっています。それは、本来、残念なことです。本来、そのようなことで躓いたり、妨げになったり、心を痛めることのほうが、まさに信仰が弱いのです。教理から申しますと、福音の豊かな教えから見れば、そんなことにもうこだわるのは、やめましょう。そんなことは、枝葉のこと、そんなことは、もうキリストにあって、どうでもよくなっていること、そのはずです。

ところが、信仰の強い人が、そのことを、つまり正しいことを主張するとき、おそるべき罪を犯すことがある、使徒パウロはそう言うのです。そしてこの罪を犯してはならないと警告するのです。

おそらくユダヤ人キリスト者は、自分たちこそ、神の律法を誠実に、忠実に守って生きてきたし、イエスさまを信じてからも、神さまが古から語られ、良しとされたことを守って生きて行くことが、御心にかない、信仰深いこと、信仰が強いありから、神に近いあり方と考えたのではないでしょうか。ところが、それをこれ見よがしに言われると、異邦人キリスト者は、黙っていられない、いや、むしろ、あなたたちこそ、間違っている、私たちこそが、信仰深く、信仰に忠実なのだ、おかしいのは、私たちではなく、あなた方のほうだと思ったのです。そこにこそ実は、私ども自身の陥る罠、誘惑もあります。自分の方が信仰的だ。自分の方が信仰的に正しいのだそのような思いが、沸き起こって、仲間を裁くのです。裁いたことによって、自分の信仰の正しさが保障され、信仰に生きているのだと、まったくの見当違いを犯すのです。

もう一度確認しますが、信仰の教理から申しますと、この場合の裁定を下せば、パウロ本人がそうであるように、第14節にありますように、「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。」この確信に立ってほしいのです。時間をかけても、立つべきです。つまり、信仰が強い人が、正しいということになります。

ところが、どうでしょうか、使徒パウロは、信仰の強い人が、その強さを主張して、ユダヤ人キリスト者を躓かせ、福音に導かれるのを妨げ、いへ、それどころではありません。パウロは、こう表現してさへおります。「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。」滅ぼす、です。天国の反対は、地獄です。救いの反対は、滅びです。救うの反対は、滅ぼすです。恐るべきことです。そのような恐ろしいこと、恐るべき罪を、信仰が強く、正しい人が行う。そんな、悲しく、恐ろしいことがあるでしょうか。パウロはありうるのだと警告しているわけです。

ユダヤ人パウロは言います。「主イエス・キリストは、信仰の弱い人、ユダヤ人キリスト者のためにも死んでくださった。救ってくださったのです。だったら、あなたがたがなすべきことは、裁かないことだ。そう決心しなさい。そしてそれは、ユダヤ人キリスト者もまた同じだ。キリストの十字架の贖いによって、主イエスのものとされたのだから、この主の僕を、かってに裁くのはやめよう。」

自分の信仰の正しさや熱心さの主張、それに基づく裁きは、それは、結局、どこまでも自分へのこだわりです。それをパウロは、ストレートに言い表します。それが、15節です。「あなたはもはや愛に従って歩んでいません。」これは、言い換えれば、福音に従って歩んでいないということです。あるいは、あなたは恵みによって歩んでいないということです。それは、どこまでも古い生き方、律法主義です。律法を守っているから、自分は救われる。正しいもの、信仰的と神に認められるということです。不思議なことですが、異邦人キリスト者もまた、「こんどは、何を食べてもよいのだ、ユダヤ人のキリスト者たちが、律法にこだわって、律法主義のように食べてはならないだなどと今でも言うのは、おかしいのだ。」それは、結局のところ、新しい律法主義です。結局、裁き合う心の動きは、自分の方が信仰が上だ。自分の方が、神さまに認めていただけているのだと、愚かな自力の信仰、自分に頼る思いが生じるのです。

愛に従うこと。そこでもまた、キリストの愛が規準です。罪人、敵のために、命をおささげ下さり、まったく、一点の罪も汚れもないのにもかかわらず、私どものために、罪人の一人、罪人の代表となって、十字架で神の刑罰をお受けくださったのです。そのようにして、正真正銘の罪人になってくださった。罪人として、神に裁かれ、地獄へと落とされたのです。この主イエスのお陰で、私ども罪人は、本物の罪人であるにも関わらず、義と認められ、救われました。

ここに私どもへの神の愛があります。ですから、相手より自分の方が正しいと主張するために、どれほど正しい教えを語ったとしても、それは、福音にならないのです。
これは、私どもへの、いへ、誰よりも私自身への鋭い警告です。自分の信仰深さや、信仰の正しさ、信仰の潔癖さを主張することによって、教会の仲間を信仰から遠ざける、そればかりか、イエスさまご自身から引き離してしまうことが起こりえるのです。そのことを、深く、恐れます。そして、心から、懺悔し、悔い改めます。

悔い改めたなら、今度は具体的にはどうすればよいのでしょうか。裁き合わないことです。しかし、どうしたら、具体的に裁くことから解放されるのでしょうか。愛に従うことです。しかし、どうしたら、愛に従って生きれるようになるのでしょうか。それは、これまで語られた福音をおさらいすることです。そして、使徒パウロは、今、新しい言葉を用いて、おさらいします。

それが、「神の国」です。これは、主イエスさまの説教の主題でした。説教だけではありません。イエスさまの奇跡は、神の国がここで始まっていることの証しのためでした。イエスさまの言葉による説教、御業による説教、そして何よりも十字架とご復活こそ、神の国がこの地上に始まっていること、イエスさまこそが、神の国そのものであり、神の国が力をもって、地上に来ていることを証しされたのです。そして、私どもを神の国に入るためにこそ、十字架についてお甦りくださり、天に昇られたのです。

そして、天に昇られたイエスさまがいる神の国、天の国は今、存在しています。私どもが死んだなら、直ちに天の国に移され、入ります。そればかりではありません。私どもには、究極の天の国、完成された神の国が約束されています。この神の国に入るのは、主イエスさまが再びこの地上に来られる日です。その日に実現されます。

使徒パウロは、こう宣言します。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」天にある神の国は、飲食ではない。飲食の喜びや楽しさが中心ではないのです。聖霊によって与えられる義と平和と喜びが中心で、天の国には、満ち満ちているのだと言います。

神の国に入らせるために、主イエス・キリストは十字架について、私どもを極みまで愛し抜いてくださいました。私どもは、どんなことがあっても、この神の国への招きを重んじ、この招きにあずかりたいと願います。まさに、そのためには、何を犠牲にしても惜しいものは、この地上にありえません。自分の地上の命、肉体の命すら、神の国、永遠の命より重要ではないのです。そして、私どもはただ恵みによって、信仰によってこの神の国に入れられたのです。その保証として、聖霊を注がれました。神の霊を受けました。天にましますイエスさまの霊、天にいらっしゃいます神の霊をここで、この地上で受けています。それだからこそ、信仰を与えられ、信仰を告白することができました。今、信じているということは、今、聖霊を注がれているということです。今、イエスさまを愛しているということは、今、聖霊を注がれているということです。そして聖霊を注がれた人は、洗礼を受けて、キリストの教会の会員となりました。そして、教会とは、神の国のこの地上における現われです。教会こそ、神の国の現れの中心です。つまり、教会には聖霊が、天におられるはずの神が、みちみちておられるのです。聖霊が臨在しておられます。つまり、ここにはイエスさま、主イエス・キリストが御臨在しておられるのです。

天におられるお方が、ここにおられる。ですから、天国がここで始まっているのです。ですから、この地上の教会もまた、天にある義と平和と喜びが、満ち満ちるのです。満たされるのです。満たされているべきなのです。そうなれば、そこには、裁き合う余地、裁き合うという行為の存在場所、スペースは、本来ないはずなのです。

しかし、まだ私どもの地上の神の国の現れである教会は、完成されていません。罪人たちの集いです。この天を見上げていなければ、ただちに、自分の方が正しい、自分の方が優れているとうぬぼれたり、反対に、自分はダメ、自分はたらないと落ち込んだり、比較の世界のなかで、天国とかけ離れる罪の中に陥ります。

今朝は、第一主日で、聖餐の礼典を祝います。私どもの教会は、讃美歌第18番の「心を高く挙げよ」と賛美を歌います。天の国におられる、天にまします神を仰ぎ見よと呼びかける歌です。この賛美は、特に、聖餐の礼典を祝うとき歌われることがもっとも相応しいと思います。聖餐の礼典は、飲食です。しかし、そこでも、もし、ぶどう酒の種類、ぱんの種類にこだわってしまうなら、おかしなことにならないでしょうか。ぶどうジュースではだめであって、ぶどうジュースでなければどうしてもだめだと、言うなら、それは、確かに枝葉の議論ではありません。しかし、愛に従わない議論に陥れば、まさに、神の国を開く礼典にも関わらず、反対の結果になりかねません。この飲食によって、私どもは、天にまします主イエス・キリストと一つにされます。主イエス・キリストとの交わりをここで、しかも神の家族と、キリストの兄弟姉妹皆であずかります。そのようにして、まさにここに教会が形成されます。まさに、天国がここで現れるのです。その天には、「義と平和と喜び」が充満しています。そして、教会へと溢れ出て、教会に注がれます。神の国にあるこのすばらしい恵みによって、地上の教会は生きれるのですし、生きるべきです。

「神の義」それは、どのようなものだったでしょうか。それは、罪人を罪あるままで、御子の十字架に贖いによって受け入れ、赦してしまい、神の子とするものでした。神に義とされて始めて、神の国に入ることのできる神の子とされたのです。そうであれば、教会に生きる私どもは、義に生きることです。赦し、愛に生きることです。

「平和」それは、どのようなものだったでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の和解によってもたらされた神との間の状態です。神さまと私どもとの間には平和が樹立され、わたしどもは人間は平安に満ち、神さまとの間にまったくのわだかまりがありません。そうであれば、教会に生きる私どももまた、この平和をもってお互いに間に生かすことです。平和に生きることです。わだかまりを捨てて、生きることです。

「喜び」それは、どのようなものでしょうか。それは、神ご自身が私どもを神の子として取り戻すことができた喜びです。神の喜びです。この神ご自身の喜びが、天国にはみちみち、充満しています。それゆえに、私どもも喜びに爆発できるのです。喜びに満ちるのです。信仰の生活とは、結局、この喜びの生活に尽きるとさへ思います。
義、平和、喜び、これらは、教会にあります。とりわけ教会の主の日の礼拝式にあります。そして、その究極の目に見える形は、聖餐の食卓を祝う時にもたらされます。

今から、聖餐を祝います。今朝、歌う賛美歌は81番、「主の食卓を囲み」です。歌詞の中に「マラナ・タ」新約聖書に登場する言葉が用いられます。これは、ヘブライ語で、当時の言葉がそのまま用いられます。翻訳すれば、「主よ、来てください。」です。主イエスが再び来てくださって、神の国を完成してくださいという祈りの言葉です。聖餐の食卓でこそ、祈られた言葉です。この主イエスの聖餐の食卓を囲み祝う私どもは、つまり、神の国がここで始まっていることを、証ししているわけです。その前味を、パンとぶどうジュースで味わいます。それぞれの産地のことなどは、まったく知りません。しかし、それは、義と平和と喜びの味がします。天国の祝宴の先取りだからです。天の味わいなのです。

そして教会は、この聖餐の礼典を正しく祝いながら、罪を悔い改めてきました。愛に従って歩んでこなかったその罪を悔い改め、そして、ここで、まさにこの聖餐にあずかることによって、その罪の赦しの保証を受けるのです。今、心新たに、私どもは自分のキリスト者としての命の使い道を、この名古屋岩の上教会の教会形成のために定め、教会を通して、この世界のすみずみに、神の国の始まりを告げ知らせ、教会の内ばかりか外にまでも、義と平和と喜びの輪を広げるのです。そのために先ず、私どもが深く、この聖餐の恵みに預かりましょう。

祈祷
私どもを主イエス・キリストの恵みによって神の子としてくださり、教会に生きる者、神の国に生きる者としていただきましたことを心から感謝申し上げます。それにもかかわらずなお、地上的な、古い生き方に逆戻りすること、幾たびでしょうか。どうぞ、今、私どもに聖霊を豊かに注いでください。義と平和と喜びにあずからせ、そして、私どもの教会を天国の倫理、天国における生き方、あり方で歩ませてください。そして、この滅び行く世界の真実の希望のしるしとならせてください。