★ 5月の伝道月間が終わりました。昨年の伝道月間にご出席くださった、兄のお友達、一人の仲間が、続けてご出席くださったことが、目に見える実りです。今回の「岩の上だより」は、外身も中身も、さらによくなっていますから、わたし自身は、まったくの新来者が一人でもご出席くださるものとばかり思っていました。その意味では、時代の問題と共に、特別にこの町の状況の厳しさを思わざるを得ませんでした。本当に、個人的に声を掛けることがなければ、教会や礼拝式への「敷居」がとても高いわけです。そんな主日の午後でしたから、四教会合同修養会で、豊明教会の長老のご報告を伺い、驚かされました。豊明教会には、まったくの新来者が何名も訪れて下さるとのことです。隣の町なのに、なぜ・・・。との思いを抱きましたが、さまざまな要因と、豊明教会の取り組みへの神の祝福であろうと思います。私どもは、さまざまな出会いの中で、隣人となり、証の時(チャンス)を逃さず、また自らつくりだすことが大切でしょう。そして、何より大切なことは、「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。~この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録第18章10節)私どもの伝道は、「わたしの民=選びの民が大勢いる」との主のお約束に応答し、従うことです。ですから、広く、あまねく福音を証ししてまいりましょう。私どもは福音の、神の道具とされています。その使命を責任、その光栄と喜びをもって、なお、コツコツと励みましょう。これまでどおり、礼拝式への集中です。聖霊による喜びに溢れ、天国の祝宴を楽しむ、霊と真理による礼拝式を捧げることです。これこそ、伝道の動力であり、伝道の目標です。伝道への燃える思いをいよいよ、主がその聖霊によって導いてくださいますように。
☆ 「改革派中部」誌の牧田先生の論文は、とても楽しいものです。「喜びに溢れて生きる」という主題ですし、その内容から、こちらも福音の喜びに共鳴させられてしまうからです。福音の喜びとは、救いの喜びのことです。救いの喜びとは、洗礼を受けてしばらくのときでも、回心の体験を与えられてしばらくのときの祝福ではありません。それは、地上にある限りのものです。いへ、死後のことでもあります。いへ、神の国の完成のときにもあるのです。つまり、救いの喜びとは、主イエス・キリストとの交わり、神との交わりであり、神の国に充満しているものなのです。その喜びが、聖霊によって今ここで注がれる。まさに終末の出来事がここで始まっているのです。天国が、この地上に突入しているわけです。神の国が、ここで始まっているめじるしです。それは、まさに主の日の礼拝式において反映される「べき」です。牧田先生の主張もそこにあります。私どもは、喜びの礼拝式をささげる「べき」であり、しかし、何よりもそれは恵みとして豊かに与えられてあるものです。わたしどもは「天国」をしっかりと掘り下げ?て、この喜びを豊かに享受したいと思います。そこで、説教と説教者の存在が問われます。先週の、四教会合同修養会における講演で、わたしも説教論、説教者論を、教会形成の要として語りました。伝道月間の主題聖句となった、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマの信徒への手紙第15章13節)希望の神からの「喜びと平和」が、希望と共に、豊かに私どもに注がれ、満ち満ちてまいりますように。
★ 昨日、神学生と姉の結婚式が、那加教会で祝福に満ちて挙行されました。雨降りの日でしたが午後のお祝いの会場への移動時には、降り止み、ごく近くの道を、スムースに移動できました。すべてが整えられ、祝福されました。岩の上からも、大勢の仲間たちが駆けつけられました。あれほど多くの列席者の結婚式は初めてではないかと思わされました。皆さんから愛し、慕われた姉、神学生であればこそでしょう。
キリストにあって一つの家庭(キリスト者家庭)を築くことができる幸いを改めて思わされた時でした。 しかし単に夫婦がキリスト者であれば、自動的に良きキリスト者家庭を形成できるものではありません。もとより地上にあって完成はありません。主を中心にして、まったく別人格の二人がそれぞれを配慮しあい、 支えあいながら、それぞれの使命を共に助け合いつつ進むことです。独身のキリスト者は、結婚について、いよいよ真剣に祈り求めましょう。また、未信者の伴侶の方は、伴侶の救いを祈りましょう。しかし、反対のことを言うようですが、神の国では嫁ぐこと、めとることはありません。地上でのことなのです。しかし、このほんのわずかの地上の歩みだからこそ、御心にかなって、大切に、心を込めて一歩一歩生きることが私どもに与えられた聖なる、祝福された課題なのです。