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「愛と確信に基づいて」

「愛と確信に基づいて」
2008年6月15日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第14章13-23節
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」

今朝は、この箇所を読み終えようと思います。そこで、改めてほぼ全体を読みました。当時の、第一世紀のキリスト者にとって、何を食べ、何を飲むのかということは、単に個人の生活の好き嫌いの問題ではありませんでした。神の前に、食べて善いもの、食べてはならないものと、旧約聖書において規定されている食事の制限を、イエスさまの十字架復活の後にもなお、そのまま守るべきであると考える人と、もはや、そのような食事の規定は、主イエスによって効力を失効し、もはや、守る必要はないこと、むしろ守ることにこだわれば、イエスさまの恵み、主イエスのなさった救いの御業をないがしろにすることと、理解したキリスト者たちの間に、一種の緊張関係が起こったのです。今日の私どもの間では、もはや、まったく問題にならないことであります。しかし、第1世紀のキリストの教会にとっては、実に、重大な問題でした。

そもそも使徒パウロ自身は、主イエスによってすべての食事、食物が清いものとされていることを信じて疑いません。何故なら、すべての食物は、私どもの肉体の命を支えてくれるからです。そしてこの肉体は、神の独り子の主イエス・キリスト御自身もまた身にまとわれた肉体に他なりません。しかも、キリスト者である私どもの肉体は、主イエス・キリストにお仕えするために与えられている肉体なのです。ですから、私どもの肉体の健康は、主イエスとのかかわり、信仰とその具体的な生活を営む上で、極めて重要なものとなります。私どもの肉体なしに、主イエス・キリストとの出会いもなければ、主に仕え、主イエス・キリストとの交わりをなす上でも、不可欠なものとなるのです。体の復活を信じる私どもにとって、今与えられている肉体の健康を維持し、その肉体を管理することは、まさに信仰の行為なのです。その意味では、毎日の食生活、日用の糧が今日も与えられていることをどれほど感謝すべきであろうかと思います。そして、とりわけ皆様の中で、毎日、家庭の中で台所仕事に精を出す姉妹がた、そのコツコツと重ねるひと時もまた、まさに神への信仰の行いです。家族や子どもたちのためのお弁当を一つつくることも、まさに礼拝的な行為なのです。聖なる生活でそのものです。使徒パウロは、食材の中で汚れたもの清いものという発想を、もはや持たなくてもよいと確信しています。

ところが当時、同じキリスト者の中でも、旧約聖書を熱心に読み、記されている神の律法を忠実に守って生きてきたユダヤ人キリスト者たちにとっては、パウロのように一気に、考えを転換することが困難であった教会員も少なくなかったのです。

確かに今日の私どもの中で、そのような事を考え、こだわる方は、一人もおられません。それなら、ここでの問題は、私どもにとって、どうでもよいエピソード、昔話になるのでしょうか。決してそうではありません。ここで問題にされている事柄の本質は、時代を越えて、普遍的な課題を、私どもに提示しています。

一つには、私どもは、この箇所から、あらためて共に教会に生きる主にある兄弟姉妹と、どのようにして主にある交わりをつくりあげるべきかを学ぶことができます。つまり、教会員どうしのお互いの配慮の問題です。どのように、お互いの違いを受けいれあうべきかということをここから学べるはずです。しかし、それ以上に大切な真理がここに表されていると思います。信仰の本質に関わる真理です。時代を越えた普遍的な真理がここに示されていると思います。それを、今朝、深く学びとることができれば大変幸いであります。

さて、使徒パウロは、信仰の強い人たちが、食べることに自ら制限を課している兄弟姉妹たちの前で、まるでこれ見よがしのように何を食べ、何を飲んでもよいと行っているキリスト者に、実に激しい批判、非難を浴びせました。パウロは、そこでこのように断言しているのです。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。」

愛に従って歩んでいるのかいないのか。これは、私どもの信仰の歩みにおいて、それこそ急所を問う問いです。信仰の強い人とうぬぼれている人たちが、本当に信仰によって生きているのかどうかを問うのです。信仰とは何かを、改めて鋭く、根本から問いかけるのです。「愛に従って歩む。」これは、さまざまな翻訳の可能性があります。例えばこうでしょう。「愛に根ざして歩む。愛によって歩む。愛の中で歩む。愛に向かって歩む。愛からの動機、愛からの力で歩む。」さまざまな翻訳がされてもしかし、はっきりしていることがあります。ここでの愛とは、神からの賜物であるということです。愛とは、神の与えてくださるもの、神の所有であるということです。何よりも、神は愛です。神ご自身が愛の御存在なのです。ですから、愛に従って歩んでいないとパウロが断言したとき、それは、実に厳しい批判、根本的な叱責になります。こう言われたキリスト者たちは、まさに顔色を失う思いであったはずです。びっくりする。あまりの厳しい批判に、たじろぐと思います。

これは、決して言いすぎではありません。オーバーな表現ではありません。使徒パウロは、信仰の弱い兄弟、つまり食べるもの飲むものにこだわりを持っているキリスト者の前で、これ見よがしに食べ飲むキリスト者の振る舞いを、その食事そのものが、信仰の「躓き」「さまたげ」となっているのだと第13節で指摘しました。さらに15節では、その行為が彼らの「心を痛める」と言いました。さらにまさに極めつけの言葉は第15節の2行目です。「食べ物のことで兄弟を滅ぼす」
滅ぼすというのは、私どもの信仰の理解からすれば、最後の審判において神の刑罰を受けて、永遠の滅びへと落とされるということを意味します。つまり、一人の兄弟を、主イエス・キリストから引き離すということです。もとより、使徒パウロは、第8章でこう宣言しています。「他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」つまり、その意味から申しますと、食べ物のことで、主イエス・キリストによって示された神の愛から、信仰の弱い人を、引き離すことはできないわけです。神の愛は、いかに信仰の弱い人であっても、躓きや妨げを受け、心を痛めさせられたとしても、そのことで究極の滅び、神の愛から引き離されることはありえないことは、はっきりしているのです。わたしは、そのことを確信しているパウロだからこそ、このような表現を用いていると理解するほうがよいと思います。しかしそれにしても、「滅ぼす」という言葉は、最後的な、究極の言葉使いです。決定的な最後の事柄です。おそらくそのような言葉を用いたことは、私どもはないのではないかとすら思います。

食べることにこだわらない信仰の強い人は、おそらく自分たちこそが、正しい信仰に生きているし、信仰の自由に生きているのだという自負があったと思います。びくびくしながら生きることなど、およそキリスト教信仰とは無縁ではないかと、思っていたのではないでしょうか。そしてまったくその通りです。正しいことです。ですから、彼らは、むしろ自分たちこそは、パウロによって支持されると思っていたのだと思います。ところが、同じ信仰の強いパウロは、彼らを支持しないのです。むしろ、「あなたがたは、愛に従って歩んでいない、彼らを滅ぼしかねないことをしている」と厳しく批判したのです。愛に従って歩まない、滅ぼす、いずれも、信仰とは正反対の歩み方です。ですから、これを聴いた彼らにしてみれば、とてつもなく大きなショックを受けたことと思います。

しかし、パウロは、一人の弱い兄弟を、食事の問題で心を痛ませる彼らの行為の中に、まさに信仰の本質からのずれを見ているのです。それを、見逃しません。彼はこうまで言います。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」つまり、信仰の強い人たちが、やっていることは、彼らのために死んでくださったイエスさまの御業、キリストの十字架の救いの御業に敵対して歩んでいることになるわけです。実に、神さまの救いの御業を破壊する行為をしでかしているわけです。

もしかすると、私どもは、そこまで言わなくてもと思うかもしれません。私自身、衝撃を受けました。いったい、人を滅びから救いへと導きいれることのできる福音を宣べ伝えるべきキリスト者が、同じ教会に生きる仲間を滅ぼすことになるのだと、批判されて、激しく動揺しないでいられるでしょうか。

さて、今朝与えられた箇所の結論となる言葉は、私どもの心を激しく打ちます。「確信にもとづいていないことは、すべて罪なのです。」信仰によらないことは、すべて罪ということです。これまでの翻訳では、「確信」は「信仰」としました。信仰によらない行為は、すべて罪である。これは、私どもにとって、心に刻み付けていただかねばならない言葉の一つであると思います。

有名なアウグスチヌスという中世の神学者は、このように言ったといわれます。「信仰のない人の善行は、輝ける悪徳である」つまり、信仰に基づいていない善行は、結局、神の前にその人自身を誇らせることになるというのです。たとい、自分のした善い業を、これ見よがしに人に見せたり、宣伝したりしなくても、結局は、自分の誇りとする、プライドにする、自分は善い行いをできていると心ひそかに思う限り、それは、神の前には、悪であるというのです。まさに、その通りです。アウグスチヌスは、使徒パウロがここで記した言葉を、言い直したに過ぎません。確かに信仰によらないで、一人の人間としてよく生きたり、立派な生き方をしている人々は、少なくありません。そのような方の中で、テレビや小説や映画などで人の目に大きく取り上げられる人々のなかで、キリスト者でない方は、日本においては、圧倒的に多いでしょう。しかし、パウロは、信仰に基づかない行為は、結局は、神の前で、ただ神に喜ばれるようにと願わないものなので、その一点において罪なのだ、罪を犯していると断定するのです。

もとより、誤解してはなりません。すべてが表面的にはよい行いと見えても、実際は悪い行いをしているのだというのでは決してありません。確かに彼らの善行の多くは、人間の役に立ち、誰かを励まし、誰かの助けになっていると思います。そのようなことをするからこそ、社会的にも評価されたり、ときに表彰されるのだと思います。

ところがパウロは、ひるまずに言います。それは、罪だ。キリスト者であろうがなかろうがです。いへ、特に、キリスト者にとってこそは明らかに信仰に基づかないいかなる行為も罪なのです。それを、キリスト者であれば、理解できるはずだからです。いったい罪とは何でしょうか。それは、神を認めないことです。神との正しいかかわりの中で生きないことです。神との正しい関係を失っている状態のことです。その状態にある限り、そこでの行動は、神との関係で、罪になるのです。アウグスチヌスは、それを輝ける悪徳と言ったわけです。どれほど人間にとっては、輝けるものであっても、神の前には、神に感謝し、神の栄光を求めず、神に喜ばれることを欲しない故に、その一点で、悪徳であり、通用しないということです。

パウロが指摘した愛に従って歩まないということは、つまり、信仰によって歩まないということに他ならないことが分かると思います。弱いキリスト者がいれば、その人の前では、肉を食べずぶどう酒を飲まず、そのほか、兄弟を罪に誘うようなことをしないことが、望ましいのです。

さて、ここで新共同訳聖書の翻訳は、信仰を確信としました。ここでも、もしかすると誤解を生じやすいのではないかと思います。私どもの教会は、明確な意識をもって開拓伝道に取りかかりました。開拓の初めに、一つのはっきりとした理解を明らかにしました。それは、「信仰と信念とは異なる」「信仰を信念にしてはならない」というものでした。そこで言われる信念とは、何でしょうか。それは、どこまでも自分自身の考え、内側に持つ考えのことです。それに対し信仰とは、徹底的に神から来るものです。外から来るものです。もともと、私どもの内側にはないものだからです。これは、キリスト教信仰の急所です。キリスト教が他のさまざまな宗教とまったく異なるのは、ここです。すぐれた宗教とは、人間がその内面を鍛える、あるいはその内面を深めることを目指します。そのような深みを持つものが、人間を支える力となります。歴史的な評価を受けてきた宗教にはそのような人間の精神、内面を掘り下げたものです。もとよりキリスト教も、人間の内面を深めます。鍛えるのです。しかし、それはどこまでも、外から来る力によるものです。徹頭徹尾、徹底的に外から来るのです。外とは、つまり、神さまです。聖霊なる神は、私どもの霊ではありません。神の霊です。神の霊が注がれたとき、初めて、人はキリスト者になるのです。信仰者になるのです。自分の内側を深めて、掘り下げてキリスト者になる人は、一人もおりません。それ以外には、ありえないからです。ところが、うっかりすると、キリスト者のなかで、外から来る、外から与えられる信仰にも関わらず、それを自分の所有であるかのように考える人が現れるのも事実です。実は、私どもは、そのようなあり方に対して徹底的に戦ったのです。今も変わりがありません。

信仰が信念となるとき、それは、おそらく、信仰についての表現に現れやすいと思います。私どもの教会では、「信仰を持つ」という表現をしません。おそらく皆様も、お互いの間でそのような言葉遣いを聞いたことがないと思います。 

ところが、パウロはここで、このような表現をしているのです。22節「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。」これは、見過ごすことはできません。パウロは、信仰を持っている、確信を抱いていると言います。信仰を抱く、信仰を持つという表現がここに確かにあるのです。しかし、この箇所もまた丁寧に読みましょう。使徒パウロはわざわざここでこう言います。「神の御前で心の内に持つ」、というのです。鍵の言葉は、「神の御前」です。神の御前の反対は、人前です。信仰とは、人前で抱く、持つものではありません。ただ神の御前です。信仰とは、徹底的に神の御前で生きることです。もし信仰者が、人前で生きようとするとき、人の評価だけ、人にだけ喜ばれることを目指そうするとき、私どものいかなる善行も結局、罪であるとパウロは言います。それは、信仰ではないからです。神を無視しているからです。その意味で、神の御前には、悪徳になるのです。腐臭を放つものでしかないのです。腐った臭いとは、死んだ臭いです。信仰が死んでいるということです。

そうであれば、この信仰を抱く、確信を抱くということは、決してキリスト教的な信念を堅く持つということとは違います。信仰とは、常に、柔らかいもの、それが私どもの確信です。私ども改革教会のモットーとする言葉に、「御言葉によって絶えず改革される教会」があります。このモットーは、その真理を見事に表したことばです。絶えず御言葉を聴くことによって、絶えず神の御心に従うことへと導かれる。御言葉を新しく聴き続けることによって、神の救いのご計画に従って歩み、本来の教会の姿、あるべきキリスト者の歩み方へと、絶えず導き返していただけるのです。

もし信仰が信念になりさがってしまったたなら、もはや新しく御言葉を聴く必要はなくなってしまうのです。新しく御言葉に出会う経験もなくなってしまうのです。つまり、自分が理解し、自分が固く確信した一つの理解に合う事柄だけを聴くのです。そのとき、その人は、成長しません。変わりません。変わらないと言うことは、死ぬということだとある人は言いました。その通りです。神の御前では死ぬのです。「腐っても鯛」と申しますが、ある牧師は、「腐った鯛ほど始末に終えないものはない」と申しましたが、その通りと思います。死んだ信仰は、どれほどの大きな働きをしえたとしても、神の御前では、罪を犯す以外にないからです。腐臭、腐った死臭を放つしかないからです。

私どもの信仰、確信とは、内側から湧き出るものではありません。もしそうであれば、それは信念でしかないのです。ですから、私どもは自分の内面をのぞきこんで、信仰があるのかないのか、信仰が強いか弱いか、生き生きしているかいないかに関心がありません。それは、信仰とは関係のない行為なのです。そのようなことをした結果、もしも自分の信仰に確信をいだくとするなら、それこそ、単なる信念でしかありません。そしてその信念こそは、悪徳、罪となるのです。

それなら、そのはっきりとした違いの目じるしとなるのは何でしょうか。パウロはここでは、愛をあげました。その人の信仰が信仰なのか、信念に過ぎないのか、それは、愛に従って歩んでいるかどうか、そこで、判定できることになるというのです。そうであれば、私自身もまた、激しく問われます。

私どもの教会が徹底的にこだわっていることは、正しい信仰を語り、継承することです。これこそ教会にとっての生命です。日本の教会は、来年で宣教150年の記念のときを迎えます。私どもは、いよいよ学びの中で、お互いに確認し始めていると思いますが、私どもの教会は、その最初からボタンの掛け違いのように、教会形成の正しい土台を築くことに失敗しました。それは、厳密な教理によって教会を建てあげる道を棚上げにして、簡単な教理、たとえば、使徒信条だけで、教会を建てあげられるかのような幻想を抱きました。ですから、日本キリスト改革派教会は、戦後新しく、もう一度、この日本で教会形成をやり直す意味で、創立したのです。そこに歴史的な意義と価値があります。

しかし今パウロは、そのもっと向うまで進んで、私どもに問いかけます。聖書に正しく立つその真理を、主張していれば、それで済むのかという問いです。その聖書の真理を、愛に従って主張し、教えるのでなければ、現実の教会を損なうことすら、起こりえるという可能性です。もしも私どもが、正しい教理を標榜してさへいれば、それを学んでさへいれば、それで大丈夫、それで教会は立つと考えるなら、うっかりすると、それもまた、死んだ信仰になってしまうのです。愛に従って生きていない、歩んでいないことになるのです。つまり、罪を犯す事です。神の御前で歩むのではなく、人前で歩み始めるからです。

私どもの改革教会の信仰の特質を表現する言葉に、「コーラム・デオ」というラテン語があります。「神の御前で」という意味です。デオとは神、コーラムとは前です。御顔の面前。「ごぜん」ということです。私どもの教会は、今年もまた、創立20周年宣言を生きる教会として歩むことを、教会の大きな目標としています。その宣言の言葉のなかにこうあります。「キリスト教有神的世界観・人生観の主張と実践が、単なる文化運動にとどまることがないためには、信仰による罪の赦しの福音をのべ伝える伝道が、教会によって力強く遂行されねばならない。~教会の生命は、伝道の実践となって躍動する。」20周年宣言は、信仰が、文化運動になる危険性を指摘しました。それを福音伝道によって打破しようと言いました。正しい伝道とは、「罪の赦し」を宣べ伝えることです。罪の赦しです。罪とは、神とのかかわり、神の面前でのことです。神との関係で生きていない人々の罪をこそ問題にするのです。そしてその罪からの救い、罪の赦しを宣言するのです。

私どもは、今、この礼拝式で、まさに神の御前におります。神の御前で究極の問題になるのは、何でしょうか。それは、罪が赦されているのか赦されていないのかということに尽きます。そして、私どもはこの罪が、主イエス・キリストの十字架の死、私どものために死んでくださったイエスさまの御業のおかげで、徹底的に赦されていることを信じ、心から賛美し感謝しているのです。そのようにして私どもは、この神の救いの恵みを受けていること、また恵みを受けなければ生きれない人間である事を、神の御前で心の底から喜んで認めているのです。それが、礼拝式なのです。

そうであれば、このイエスさまの十字架の救いの御業を、破壊するような行動、兄弟の心を痛める行動を取ることは、いかに教理的には正しいと言い張ることができたとしても、実際にそうであっても、愛に従って歩んでいないことになるのです。何を食べても飲んでもまったく自由であるという正しい信仰の確信は、そのまま持っていて、抱いていてかまいません。それは、教理的にまったく正しいのですから。しかし、それは、神の御前で持つものなのです。そのようにして自分自身の信仰、信仰の理解、福音の理解にまったくやましさを感ぜず、そして、そのような自由に解き放たれた御子の十字架の御業を心から感謝し、賛美し続けることが、私どもの信仰、その自由であり、勝利であります。しかしまた反対に、そこまで行けない兄弟たちのためには、彼らがいるところで、これ見よがしに食べたり飲んだりすることはできなくなるのではないでしょうか。確信に基づく生き方は、愛に従う歩みだからです。しかも、共に、天国を目指している家族を躓かせることになるからです。

私が、大学生のとき、友人たちと、グループで「キリスト者は酒を飲んで良いのか悪いのか。」どれほど、議論をしたことかと思います。今思えば、幼い議論で、的外れなことになったと思います。禁酒、禁煙で行く方は、それでかまいません。そうでない方もかまいません。しかし、もしも飲酒によって躓く人が一人でもいるなら、教会の交わりでは、それを避けるべきです。何よりも、そもそも教会の交わりでお酒を持ち出す必要はないでしょう。

いずれにしろ、私どもの教会の歩みとは、信仰に基づいて歩む事です。愛に従って歩む歩みを作ることです。パウロは、第13章の結論でこう申しました。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。「隣人を自分のように愛しなさい。」愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです。」これは、単に、教会にもめごとを起こさないように、ということ以上の事です。信仰の本質にかかわります。徹底して、人前で生きるのではなく、神の御前で、主イエス・キリストの十字架の死、神の恵みを心の底から感謝し、信じて、生きることです。そこに私どもの歩みのゴールを定めるのです。これが、私どもの地上にある限りの喜ばしい課題、責任なのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたからいただいた、恵みの賜物そのものであります信仰を心から感謝いたします。しかし、わたしどもはその信仰すら、自分の価値や優秀さをはかるものさしにしてしまう誘惑にさらされています。あるいは、その反対に、信仰がなくても上手くやっていけるかのような錯覚を抱いて、人の目の前で生きること、その価値観で。自分を立ててゆこうとすらします。天の父よ、私どもに聖霊を注いで、そのような罪から絶えずあなたへと取り戻してください。愛に従って生きる信仰、信仰に基づいて生きる真の自由を、私どもに絶えず味合わせてください。やましさやおどおどした、不信仰の歩みを止め、罪赦された者の喜びと自由を、兄弟姉妹の建徳のために、大胆に用いることができるように導いてください。アーメン