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「強く、優しく」

「強く、優しく」
2008年6月29日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章1-6節①

「  わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
  かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

先週は、講壇交換で留守に致しておりました。二週間ぶりにお会いする兄弟姉妹もおられます。何よりも、わたしが召され、遣わされている場所は、この教会以外のどこでもありません。そしてこの町、この地上にあって皆様と共に、神の国の拡大、キリストの教会の形成に、今朝、奉仕できることを心から感謝いたします。そして、今朝も、一人ひとりの上に、聖霊の豊かな注ぎがありますように。今、聖霊によってご臨在なしたもうキリストと深い交わりが与えられ、互いの交わりがいよいよ深められることをこそ、祈ります。

さて、本日の説教題もまた申し訳ない思いですが、予告し、看板に広告しているものとは異なりました。「強く、優しく」という題をつけました。これは、実は、金城学院大学が最近、定めた大学のスローガンなのです。率直に申しますと、これを聴いたときの最初の反応は、とても消極的なものでした。また、説明を読んでも、同じでした。聖書やキリスト教とは、かかわりがないスローガンではないかと考えたからでした。しかし最近、その考えが変わりました。このスローガンもまた、あの「ウサギとカメのお話」ではありませんが、聖書に即して理解しなければならないと思いますし、そうするとこれは、案外、私どもの信仰の姿を切り取って、提示できる言葉ではないかと思うようになりました。

本日は、第15章に入りました。ここには、これまでの議論の結論が記されています。簡単におさらいしましょう。ローマの教会の中に、実は、二つのグループがあって、しかも、お互いが反発し合っているのでした。主イエス・キリストにあるならば、何を食べても自由であると正しく福音を理解する人のグループと、その逆に、確かにイエスさまを信じてはいるけれど、これまで慣れ親しんできた、信仰の慣習、スタイルを一気に変更することができない人のグループです。彼らの間に、対立が起こっていました。裁き合っていたのでした。そこで、使徒パウロは、お互いに裁き合うことは、自分がキリストのもの、キリストの所有、キリストの僕とされている事実を否定することになるのだと警告しました。そして前回の説教で学びましたが、すべてのことを愛と確信、愛と信仰に基づいて判断し、実行すべきことを勧めたのです。

そのような議論の結論として記されたのが、今朝、読みましたテキストであります。使徒パウロは、ここで命じています。はっきりとこれは、キリストから直接立てられた使徒の権威をもっての命令です。こう言います。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり」強い者とは、第一には、キリストを信じた故にもはや、何でも食べれる人のことを意味しています。しかし、「強い人」という言葉は、使徒パウロ自身のことを指すのであれば、誰も、驚かないと思います。先週の金先生の説教でも学んだとおり、パウロは、どんな権力者たちの前でも、堂々と福音を語った人です。聖書によれば、風貌や体つきにおいては、実は、弱々しいところがあったようです。しかし、その内側は、まさに強い人の典型であります。ですから、パウロ先生一人が、「強い者は」と仰るのであれば、違和感なく読めると思います。ところがパウロは、「私たち」と言うのです。読者の中で強い者たちは、少なくないという理解です。いへ、要するにこの呼びかけにおいて明らかなのは、使徒パウロは、皆が強い人になって欲しいのだということでしょう。そして何よりもキリスト者であれば、例外なしに、皆が、主イエスの福音の御業を、深く信じ、深く生活の中に受け入れ、信仰の幼子から成熟を目指して進むべきことを、ここで明らかにしていると思います。宣言しているのだと思います。

そしてその上で、このように命じます。「強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」ここに、信仰の強さの意味と目的が明らかにされています。

さて、「あなたは、強い人間ですか」と尋ねられたら、おそらく多くの方は、わたしは弱い人間ですと言うのではないでしょうか。青少年も、高齢者も、特に、人生のさまざまな経験を重ねれば重ねるほど、自分の弱さ、小ささ、足らなさをかみ締めることも多く、謙虚になりやすいように思います。しかしまた、もしも、「あなたは強くなりたいですか」と尋ねられたら、どうでしょうか。多くの方は、「それは、強くなりたいです」と答えると思います。誰でも、人生の荒波に翻弄されないで、どんなときにも平常心をもって、あのパウロが、ローマの総督の前に犯罪の被告人として捕らえられ、立たされても、堂々としていられたら、あのような強い人間になれたら、どんなに良いかと思うはずです。

さてそれなら、私どもキリスト者とは、どのような存在なのでしょうか。使徒パウロは、「私たち強い者は」とはっきりと申しました。つまり、私どもキリスト者とは、キリストのお陰で強くされている存在なのであります。強い人間につくりかえられたのです。「強い人」に新しく創造されたのです。

そして使徒パウロは、ここであらためて確認するのであります。キリストのお陰で強くされたということは、どのような意味なのかということです。何のためなのかということです。いったい、真の強さとはどのようなものなのでしょうか。強い人とは誰のことなのでしょうか。それは、罪と死の問題に勝利できた人ということです。人間の究極の問題、悩みとは、死の問題です。それは、単に肉体の死のことを意味していません。肉体の死の後に定められている、神の刑罰、刑罰としての裁きの問題です。死後の神の審判が、我々の究極の課題であり、恐怖です。そしてその死と死後の審判、その結果としての完全なる死、永遠の滅びを受けなければならなくなってしまったのは、我々が神の前に罪を犯してしまったから、犯しているからです。もとよりそれは、犯罪のことを意味しているのではありません。聖書の言う罪とは、神を認めず、神を信じず、神の言葉に背くことです。神の御言葉に違犯することです。実にその罪こそが、人間に死をもたらしたものです。この死、神の最後の審判としての死、永遠の滅びとは、言葉を換えれば、神の怒りとしての死のことです。

ところが、神は、このような私どもの犯した罪への刑罰、罪への正しい怒りを、なんと我々に下したもうたのではなかったのです。本来、罪を犯した張本人である私どもこそ、神の刑罰を受けるべきです。ところが、神は、ご自身の独り子なる神、人となられた主イエス・キリストを十字架にはりつけて、私どもの代わりにして裁いてしまわれました。神の怒りは、私どもを飛び越え、独り子なるイエスさまに下されたのです。さらに神は、この御子を私どもの救い主として立てるために、三日目にお墓の中から復活させてくださいました。これによって、私どもの罪は、全く赦されました。神の御前に平和が与えられました。私どもは、肉体の死は、避けられませんが、しかし、最後の死、永遠の滅びをまぬかれ、キリストの命、復活の命を受けることができたのです。信じた今、神の子とされ、永遠に神と共に生きる新しい命に生かされているのです。これこそ、人生の究極の勝利であります。

ですから、実にキリスト者とは、誰一人の例外もなく、人生の勝利者なのです。勝利者とされているのです。勝利者として、与えられている人生を生きることができるのです。このような恵みを受けた人のことを、正真正銘、「強い人」と呼ぶのですし、呼べるのです。まさに、神にその罪を赦され、神の愛を受けている人が強い人でなくてなんでしょう。

私どもは、人生の最大の問題を、主イエスさまによって既に徹底的に、完全に解決していただいた存在であります。もはや、私どもはこの究極の問題から逃げ惑う必要はありません。勝利者イエスさまのお陰で、私どもも勝利者とされたのです。その結果、もはや、私どもは自分にこだわって生きることから解放されました。私どもの究極の問題を解決し、克服していただいたのです。もはや、自分のことで究極の問題を悩むことはなくなっているのです。ここに私どもキリスト者の強さの秘訣、強さの秘密があります。

さて、神が主イエス・キリストによって私どもにお与えくださる救いの恵み、それは、罪の赦しです。この罪の赦しは、同時に、私どもをキリストのもの、神のものとされたことを意味します。使徒パウロは、第14章第7節以下で、このように申しました。私どもキリスト者の存在を見事に言い表す言葉の一つであります。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」私たちは主のもの。主に贖われた者、主に買い取られた僕です。わたしを所有する方は、神のみです。神の御子イエス・キリストだけです。ここに私どもの勝利と自由が確立するのです。

しかしながら我々の社会、この世は、この恵み、この幸いを知りません。認めません。信じません。むしろ、徹底してこう主張して止みません。「わたしはわたしのもの。そして、あなたもわたしのものとしたい。わたしは、ますますその所有を増やして、力を及ばせる範囲、領域を拡大させたい。わたしはそのようにして、自分の名誉、自分の名前を輝かせたい。自分の人生を自分で飾り、栄光を獲得し、自己実現を、可能な限り達成したい。そのどこが悪いのか。それができないものは、弱い人間、それができない人は、努力しなかった自己責任をとるしかない。そのような敗残者になりたくなかったら、人に追い越されたくなかったら、さぁ、歩け、さぁ、走れ。」
そのような思想、価値観に満ち溢れています。うっかりすると、キリスト者もそのまた、悪魔に目潰しをくらって、そのような価値観の枠の中に取り込まれてしまいます。しかし、私どもは、イエスさまを「主イエス」とお呼びしているはずであります。もし、主イエスと呼ばないのであれば、その人は、キリストのものではない、キリスト者ではないということになるだけです。しかし、もし、私どもが感謝と喜びを込めて、主イエス・キリストとお呼びするのであれば、その呼びかけに責任を持つべきです。意味を理解してお呼びすべきです。イエス・キリストがわたしの主なのです。

ですから、使徒パウロは、こう命じます。「自分の満足を求めるべきではありません。」神に喜ばれること、神の満足をこそ求めるべきであると言うのです。「神に喜ばれる」という言葉は、第14章の18節にも出てきました。「キリストに仕える人は神に喜ばれ」です。私どもキリスト者の目標とは、キリストに喜ばれることにあります。それが、キリスト者の行動、生活の判断基準なのです。生活の目的であり、選択の目的なのです。

翻訳では、強い人になるのです。「ストロング・マン」です。
世の中で意味されている強さ。社会が求めている強さとはなんでしょうか。それは、先ほども申しましたように、自分の力で物事を処理し、解決し、人との競争に負けず、努力を重ね、知恵と力を用いてものごとを成し遂げることができることです。自己実現を、広く、大きく、深く達成することです。そこで、強い人は、弱い人々との比較のなかでいよいよ自分の強さを誇るのです。

しかし聖書が言い表す強さは、それとは反対です。強い人とは、自分の力で物事を成し遂げることができる、言わば、「出きる人」のことではないのです。ちなみに、「強い人」というもとの言葉の意味には、確かに「できる人」、「実現させる人」という意味があります。一般的に、「あの人は、できる。」と言うのは、仕事ができる人、仕事をバリバリとこなして行く能力のある人のことです。しかし、聖書において「できる人」とはどんな人なのでしょうか。それは、「弱い人の弱さを担う」ことです。実に、聖書の強さとは、弱い人の弱さを担うこと、助けることにあるものなのです。聖書の強さとは、実に優しさの強さなのです。徹底して優しく出来る人であるということなのです。

キリスト者とは、自分にこだわって生きることから救い出された勝利者、強い人なのです。それゆえにもはや、自分にこだわっていてはならないのです。むしろ、キリスト者は、いつも、隣人へと関心を注ぐのです。

私どもの教会は、「ディアコニアに生きる教会」を標語にして3年目に入りました。ディアコニアというギリシア語は、隣人のために生きること、奉仕するという意味です。そこへと成長しよう、成熟を目指そうと願い求めております。このことは、キリスト者の基本の生き方、ごく当然のあり方だからです。

「救われた」と言うことは、それが達成されたら、終わってしまうものではありません。洗礼を受けるのは、もはやゴールに着いたということも真理ですが、出発地点に立つということも真理です。地上の信仰の旅路のスタートなのです。神は、私どもに地上にあっては、使命を与えられるために救ってくださったのです。それは、神に仕えるということです。神に喜ばれるということです。それを具体的に言えば、弱い人の弱さを担い、善を行って隣人になるということです。善を行うことによって他人を、あるいは自分の反対者を、自分の隣人にすることです。あのサマリア人のたとえのように、強盗に襲われた自分の敵であるユダヤ人を介抱するのです。それが隣人となることでした。神を喜ばせることとは、弱い人の弱さを担うことによって、彼らに「善を行って」喜ばせることなのです。これこそ、私どもに与えられた使命です。そこでは、ただ喜ばせるのではなく、善を行うことです。ここにキリスト者のキリスト者だけがなしうることが明確にされています。善とは、神の御心にかなうことであります。

互いの向上に努めるべきです。」昔の翻訳では、「徳を高める」でした。オイコドメオーです。これは、キリストの体なる教会を建てあげる、教会を形成するという聖書独特の言葉使いです。ここでは、何よりも教会員同士のことが言われています。教会員同士が、徳を高める。建てあげる。人を生かし、慰め、配慮するのです。これは、牧会のことです。魂の配慮のことです。しかもそれをただ個人のこととしてだけ行うだけではなく、それによって教会を形成し、教会を建てあげるために行うのです。その意味で、牧会とは、個人と個人が、一対一で向き合うことがその基本になりますが、しかし、この説教によっても、牧会、教会を牧することがなされているわけです。わたし自身は、それを目指してここに立っているのです。皆様が、この説教を、お互いを共通に生かす神の御言葉として聴き取ることができれば、将に今ここで、神の教会、キリストの教会が形成されるのです。今ここで、互いの向上に努めることが行われているわけです。説教を共に聴く、礼拝を真実にささげることによって、最も成し遂げられるのです。

先週、短い時間を集めるようにして改めて読んで書物があります。著者ご自身のお名前を記していただいた書物です。かつて一度だけ、この先生から直接その読書会の指導を受けました。「牧会者ルター」と言う書物です。久しく絶版になっていましたので、コピーでしか読めませんでしたが、遂に、再版されました。世界的な表彰を受けた記念碑的な牧会神学の書物です。その中で、教会の改革者ルター自身の言葉が珠玉のようにちりばめられています。「明確なことは、私たちはつねに主のものであります。ちょうどそれは、聖パウロが『わたしたちは、生きていても、死んでも主のものである』と言ったことと同じです。まさにその通りです。主のもの。ドミニは、所有格であり、同時に、主格でもあるのです。‘私たちは主である’ということです。すなわち、わたしたちは、信仰によって、すべてのものを支配し、すべてのものに打ち勝っているのです。しかも神に感謝すべきことには、わたしたちは獅子や龍でもそれをねじ伏せることができるのです。」この理解は、実は、ルターだけのものではありません。カルバンも同じです。私どもは主なのです。キリストが主の主である故に、キリストに仕える私どももまた小さな主なのです。小さなキリストなのです。

わたしがもっとも心打たれたのは、この言葉です。私どもも学んだばかりのローマの信徒への手紙第13章8節の御言葉を引用してこのように言います。「『互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。』なぜなら、キリストの弟子たちは、自分自身のためには、つまり自分自身の救いのためには、何もできないでいるのですが、キリストの血はすべてを行い、すべてを完成なさったのです。キリストが彼らを愛されたのですから、彼らは、もはや自分自身を愛する必要もなければ、自分自身のために何かことを求める必要もありません。むしろ、そうしたこと一切を、いまや、隣人のために益するように方向転換し、自分自身にとってはいらない、善い業を他人のためにしていかなければなりません。キリストがわたしたちのためになさったことを、今度は代わって、人々に対して行わなければなりません。」

「自分自身にとってはいらない、善い業を他人のためにしていかなければなりません。」圧倒的な言葉です。もはや神さまの前に、善い業、善い子になって救っていただくこと、罪赦していただくこと、義と認めていただくことは、不要になった。もう、そのことに心をつくし、思いを注ぎ、悩み苦しみ、疲れ果て、諦め、投げやりになる必要はないのです。今や、その力を、方向転換して、隣人に注ぐことができるし、すべきである。これが、キリスト者の救い、生き方、あり方であるというのです。まさにその通りです。私どもはもう、自分自身にこだわる必要はなくなったのです。ですから、それを隣人に向けるのです。

使徒パウロは、第3節で、ただちに主イエス・キリストを語り始めます。「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」詩編第69編9節に「あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上に降りかかっています。」とあります。神を嘲る者、そしる者のそしりを、主イエス・キリストは十字架で御自身のものとされました。そのようにして、徹底的に神の側に立つ、立たれたのです。実に、主イエス・キリストこそが、真実の意味で、強い人であられます。唯一の強い人間でいらっしゃるのです。それゆえに、同時に優しい人間でいらっしゃるのです。

キリスト者が善を行って隣人を喜ばせる生活をつくる原点、その力、その根拠になるのは、主イエス・キリストのご存在、その生き方にあります。主イエス・キリストこそが、徹底的に、ご自分の満足をお求めになられませんでした。それは、言葉の正しい意味で徹底したものでした。完全にご自分の満足をお求めになられなかったのです。ただひたすらに神の栄光、神の要求、神の満足を求められました。父なる神に仕え、父なる神を喜ばせることに向かいました。そしてそれは、他ならない、私どもに対する愛となりました。

私どもは、このキリストの絶対的な強さのお陰で救われています。ですから、私どもも、この朝、新しく決心したい。当たり前すぎることですが、もう一度、キリスト者の原点を確認したい。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」ディアコニアに生きることです。教会の形成に生きるのです。それは、また伝道に生きるということです。福音伝道こそ、善を行うことの極みです。そして伝道とは、自分を伝えることではありません。自分にこだわることではありません。

伝道する相手とは誰でしょうか。その人こそは、まさに、弱い人の中の弱い人ではないでしょうか。弱い人とは、キリストを知らないでいる人のことでしょう。それは、表面的には、強い人かもしれません。驚くべきことですが、「宗教や神に頼るのは、弱い人間のすることだ」と、まじめに考える人も少なくないのです。彼らは、もしかすると自分のことを強い人と考えているのかもしれません。人生は、自分の力で切り開けると考え、どこまでも自分に頼り、自分を信じるのです。そのようにして、神を信じない人です。その人々の弱さを担うとは、キリストを告げてあげることです。その人に善を行うとは、勝利者キリストを告げることです。しかしそうすると、時に、そしりを受けます。それで当然です。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』キリストがそうされておられるのであります。

来週、詳しく触れますが、そこでこそ、聖書に記されている御言葉から、忍耐を学ぶのです。私どもは、知っています。聖書に登場するキリスト者たち、神の民は、全員が全員、失敗者でもあることをです。強くなくなってしまって、信仰が自分の満足を求め、神の御前に神を悲しませていることをです。使徒パウロ自身もまた、例外ではないのです。かつては、キリストの敵、キリスト者の迫害者でした。その後、キリスト者になってから、パウロは、燃えるように伝道します。しかし、そこで、すべてが順調に行ったわけではありません。弱い伝道者のマルコを、彼は、自分の伝道の協力者としては認められませんでした。私どもはそれを使徒言行録で知っています。

しかしそのパウロが、「強くない者の弱さを担おう」と言うのです。それは、聖書を読んで、自分の弱さをも忍耐しておられる神を知っているからです。だから、パウロは、立ち上がるのです。そして、いよいよ、希望をもって、前進するのです。そこで使徒パウロは、もはや自分を信じないのです。ただ神を信じるのであります。自分の弱さにこだわらない。自分の信仰の忍耐力のなさにも、こだわらないのです。すべてを神に委ねてしまうのであります。

今朝、自分がキリスト者であることの意味をあらためて確認しましょう。強くない者の弱さを担うことが、具体的には、どうすることなのか。深く祈り求めましょう。委員として、会員として、牧師として。それぞれがディアコニアに生きる。伝道に生きる。隣人を喜ばせることへと、教会を形成することへと解き放たれて行くのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、かつて弱さの中でとぐろを巻くようにして、へたり込んだり、その反対に、神などなくても自分の力で上手に人生を切り開けるし、切り開くしかないと信仰を否定し、自分に頼る究極の弱さのなかに閉じこもっていました。そのような私どもを御子が忍耐の限りを尽くして、御言葉を語り聞かせ、信仰を与え、罪の赦しの恵みにあずからせていただきました。もはや、わたしどもは自分のものではなく、あなたのものです。そのようにして究極の強さの中に招き入れられました。どうぞ、その事実の中にしっかりと立ち続け、そこで、その使命に生きる者とならせてください。弱い人の弱さを担う務めに生きる者として、私どもを用いてください。そのために、今、あなたへの信頼と服従を新しくし、深めてください。そして私どもの全存在を、隣人を喜ばせる生き方、隣人に奉仕するあり方、ディアコニアのあり方へと導いてください。そのようにして、私どもをいよいよ真実に強い人間、優しい人として遣わしてください。アーメン