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「忍耐と慰め、礼拝と希望」

「忍耐と慰め、礼拝と希望」
2008年7月6日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章1-6節②

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。
それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

先週は、このテキストの前半部分1節から3節までを学びました。「強く、優しく」という題で説教しました。「私たち強い者は、弱い者の弱さを担わなければならない。自分の満足を求めてはならない。むしろ、隣人の満足を求めること、善を行って隣人を喜ばせなさいとの使徒パウロを通して神からのご命令を学んだことでした。あらためて思うことですが、聖書は、キリスト者が強くあること、生きることを何度も勧めています。例えば、かつての教会の年間標語にしました、テモテの手紙Ⅱ第2章1節にこうあります。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」

確かに、私どもは、キリスト・イエスによって、その恵みによってキリスト者は誰でも強い者とされていることを信じています。強い者であると、宣告されているのです。しかしまた同時に、自分がとても弱い者であることも、知っているのではないでしょうか。先週の朝と夕べの祈祷会でも、触れました。実は、私どもは、主イエス・キリストによって救われているからこそ、弱い者、弱くされている者であるということも事実なのであります。私どもは、神の御言葉を聴き、聖霊によって新しくされています。それゆえに、反対に、御言葉を聴きそこなったり、祈らなくなれば、たちどころに弱さの中に沈みこんでしまうのです。かつては、神なく生きていました。それで平然として生きてきたわけです。しかし、救われてからは、神のお支え、慰めを受ける以外には、立つことができない者とされたのです。そして、逆説のようですが、そこにこそ私どもの強さがあるのであります。使徒パウロが、コリントの信徒への手紙Ⅱ第12章でこのように言っている通りであります。パウロは、肉体の弱さに苦しみ抜いていました。肉体と断定しなくても良いのかもしれません。いずれにしろパウロは、神に毎日、三度、この弱さを取り除いてくださいと祈ったのです。御言葉を読みます。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」神の力が弱さの内に働き、弱さを通して働き出す故に、強いと言いました。
さて、私どももまた、同じでありましょう。強められている一方で、自分が本当に弱い人間にしか過ぎない現実を、知らされたのです。私どもはそのような自分を認めてよいし、認めるべきなのです。

そこでこそ、パウロは、直ちにこのように申します。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」

皆さんは、すぐにこの文章の繋がりを飲み込めるでしょうか。強い者は強くない者の弱さを担おう。キリストのように、主イエス・キリストに倣ってそうしよう、そうすべきだとパウロに強く勧められます。私どもも、その通りと思います。しかし正直に申しますと、そんなことはできない、そんな強さを持っていないと、自分の弱さのなかに逃げ込んでしまいたくなることもあるのではないでしょうか。ところがパウロはまるで先回りをするように、先手を打つように、こう言うのです。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」

書かれた事柄とは、直接には旧約聖書のことです。旧約聖書は、私どもを教え導くために記され、受け継がれていると申します。そして旧約聖書から「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」と申します。つまり、強くされた者として強く生きようとするとき、直ちに聖書が不可欠となるのです。神の御言葉なしで、強くなれる、強くある、強く生きることは不可能だからです。神の民にとって、聖書から離れて生きることは、考えられないことなのです。

さて、聖書から忍耐や慰めを学ぶこと、これは、ごく単純に、素朴に読めば、私どもがいよいよ忍耐を、忍耐することを学ぶということでありましょう。強くない者の弱さを担うためには、何より求められることは、がまんすること、やはり忍耐深くなければならないということであると思います。

しかし私どもは、まさにそこで、何度もへこたれることがあるのではないでしょうか。使徒パウロが、「わたしたち強い者」と言ったとき、もしかすると、「それって、いったい誰のことなのだろう」と、しらけてしまうような思いすら抱いた兄弟姉妹もおられるかもしれません。忍耐すべきところで、すぐにくじけてしまうのです。そのようなとき、私どもは、「こんなに弱いキリスト者でいて、よいのだろうか」と不安に思います。自分を責める思いに落ち込むことがあります。強くない人の弱さを担ってあげるどころか、そこで、自分のことをばかり追い求め、そして結果として、さらに惨めな思いを抱くことがないわけではないからです。私どもは、「いつまで経っても信仰が成長しない、同じところをぐるぐると回っているだけではないか」時に、「自分はこれでもキリスト者と言えるのだろうか、教会に生きる者としてふさわしいのだろうか。」そんな思いに落ち込むキリスト者も少なくないはずです。

私は、洗礼を受け、わずか数年後に、深刻に悩んだことがあります。あれほど、救いの喜びに満たされ、伝道と奉仕に励んでいたのに、その喜びが失われて行き、いったい自分はどうなってしまったのか、どうすればよいのかと苦しんだことがあります。そのようなジレンマに陥ること、それは、決してキリスト者にとって例外的な体験ではないと思います。

使徒パウロは、そのようなキリスト者の現実をよく知っています。地上に生きる限り、神の民の弱さ、信仰の失敗の連続のような現実を知っています。自分自身のこととして知っているのです。先週、確認しましたように、彼は、かつて教会の迫害者であったのです。信仰の失敗を犯したなどと言うには、あまりにも大きな罪を犯しました。

しかしだからこそ、そこで、使徒パウロは、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」と記すのです。キリスト者である私どもは、まさに自分の信仰の忍耐の足らなさに落ち込むようなときこそ、自分に命じるようにして聖書を開き、読みます。聖書の中に力を求めます。解決を求めます。聖書とはパウロがここで改めて申しましたように、まさに、私どもキリスト者、神の民を「教え導く」ための特別の書物だからです。

使徒パウロは、ここで特に、「忍耐と慰めを学ぶ」と言います。それは具体的にはどういうことでしょうか。先ず考えることは、旧約聖書に登場する信仰者のことでしょう。何よりも最初に登場する偉大な人、信仰の父と呼ばれるアブラハムを例にあげられると思います。アブラハムは確かに信仰の父と呼ばれるような人です。しかし、そのように呼ばれるまで、どれほど神の忍耐があったことでしょうか。彼は、何度も何度も信仰の忍耐を試されました。そのようにして神の訓練を受け続けました。

彼は、神さまから、「あなたの子は、星の数のように増える」と約束されていました。本来、それを信じて待つべきでした。ところが、彼がしたことは、なんであったのでしょうか。彼は、すでに高齢者となっている妻、しかもこれまでも子宝に恵まれたこともない彼女の現実を見ました。考えてしまいました。そのようにして結局、神の約束の御言葉を待つことができませんでした。そこで、アブラハムは、そして妻のサラ自身も、自分の女奴隷のハガルに、アブラハムの子を産ませました。神の御心に聴き従って、待ったのではなく、自分の考え、独断で、先走って、ハガルが産んだ子を自分の後継者としようとしたのです。このような忍耐できずに失敗を繰り返したのが、他ならない信仰の父アブラハムなのです。しかし、神は、そのようなアブラハムを信仰の父と呼ばれるにふさわしい者へと育て上げてくださいました。確かに、彼の生涯は、信仰の忍耐とはいかなるものかを見事に証しする生涯となりました。しかし、私どもがよく分かるし、悟るべきことは、アブラハムの忍耐深さではなく、むしろ、神の徹底的な忍耐であります。神は、忍耐の限りを尽くし、約束、契約を結んだアブラハムを育ててくださったのであります。

第二の人物として、イスラエルの歴史のなかで最大の人物であるモーセのことを思います。モーセが、神の民の指導者として神に立てられたのは、その年齢、すでに80歳になったときでした。彼は、同胞のイスラエルがやすやすと神の恵みを忘れ、すぐに偶像へと、安楽な道に帰ろうとすることに悩まされ続けます。しかし、彼は忍耐の限りを尽くして、イスラエルのために、神に執り成し祈りました。まさに、彼の全生涯もまた忍耐の信仰を証しているのです。しかしそのこともまたアブラハムと同じなのです。つまり、むしろ神ご自身がその忍耐の限りをつくしてモーセを育ててくださったのです。神がモーセを忍耐をもってイスラエルの解放者として育て上げてくださったのです。だからこそ、モーセ自身が、信仰とは、忍耐をもって御言葉の約束とを成就を待つことであると学んだのです。

アブラハムもモーセも、その信仰の忍耐の訓練をよく受けて、どのような人になったと言えるでしょうか。それをまさに言い表すのが、「希望」であります。彼らは、希望の人になったのです。パウロは第5章3節で言いました。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

信仰の苦難、苦しみが忍耐を生み、その忍耐が練られた品性を生み、信仰が練達し成熟し、そのような信仰は神への確かな、深い希望を生むのです。そして、第5節で「希望はわたしたちを欺くことがありません。」と言いました。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。~私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

パウロにとって、聖書を読めば、聖書を読むことによって、忍耐と慰めを学ぶことができたのです。神の民の忍耐です。そして、そのような忍耐する神の民を神が常に顧みていて下さること、守ってくださること、慰めてくださること、支えてくださることを、心深く刻むことができたのです。聖書は、そのような書物として私どもに与えられているからです。

さて、今私どもは聖書の登場人物の忍耐の姿を中心に見ました。私どもの先達の信仰者の忍耐と彼らを支える神の力強い御手の中に、わたしどもは繰り返し、慰めを見出します。
しかし、使徒パウロは、この祈りの言葉のなかで、神への呼びかけにおいて、こう神をお呼びしていることに注目したいと思います。「忍耐と慰めの源である神」これは、どのように理解すべきでしょうか。私どもの忍耐や慰めは、神にある、根拠を持つ、そこから出るということでしょう。しかし、それだけでしょうか。むしろ、ここでは、神ご自身が忍耐する神、慰め主なる神であるということではないでしょうか。

新約聖書の中には、神の忍耐、忍耐してくださる神について、いくつも記されています。何よりもこの手紙の第3章25節以下にこうあります。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

神は、旧約聖書において、イスラエルの人々が不信仰と偶像礼拝に転落し、神の恵みと約束を裏切り続けているにもかかわらず忍耐の限りを尽くして、なお、ご自身の民として、立ち戻るようにと救いの御手を差し伸べられました。

旧約聖書のホセア書第11章にこのようにあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。 わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。」
実に見事に、神の愛、神の忍耐の冨が語られています。神の民は、まさに恩知らずの極みです。エジプトの奴隷から解放してくださった神に向かって感謝せず、むしろ、偶像でしかない愚かなバアルの神に犠牲、感謝をささげ、礼拝したのです。ところがそれでもなお、神は、彼らをまるで母親が乳飲み子に食事をあたえるように御自らの御手をもって、身をかがめて食べさせてくださったのです。神の忍耐とは、仏の顔も三度までということとはまったく違います。ここまでは、歯を食いしばってガマンするが、しかし、一線を越えたら、やり返すというものではないのです。今に見ていろと、報復する日を待ちながら、忍耐しているというのとはまったく違います。

神は、遂に、忍耐の極みのなかで、何をなさったのでしょうか。それは、御子イエス・キリストを私どもに与えてくださるということでした。神の忍耐とは、御子を十字架につけるというものでした。そこに神の忍耐が、驚くべきことに、私どもへの究極の慰めを生んでいることが分かるのです。神の御子が人間イエスとなられ、私どもにキリストとして与えられたのは、神の忍耐の結果なのです。やり返すどころか、徹底して御自身を犠牲になさったのです。こんな忍耐の足らない、いいかげんな、ふらふらしている罪深い私どもです。キリスト者として、本当ならもっともっと力強い歩みをしてしかるべき私どもであります。自分が自分の親であれば、呆れて、見捨ててしまいかねないような自分です。そのような私にもかかわらず、神は、忍耐をもって育て、慰めて励まし、力づけ、強め、導いて、忍耐する信仰者にしてくださるのです。

神の忍耐とその慰めを深く経験するとき、私どもは希望を持ち続けることができます。ローマの信徒への手紙第5章2節にこうあります。「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」神の栄光にあずかる希望、目に見えないこの希望ですが、それだけに、忍耐して待ち望みます。神の栄光にあずかるとは、ここでは、どのようなものでしょうか。それは、強い者と強くない者とが、「キリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱く」ことです。そして、それは、究極には何を目指しているのでしょうか。それは、一言でもうしますと、礼拝であります。

パウロは、最後に祈ります。これは、この箇所における祈りではありますが、同時に、手紙全体を締めくくるような性質を持つ、祈りであります。ここでのパウロの祈りの中に、私どもの祈りそのものが記されています。つまりここから取られているわけです。「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方」「私どもの主イエス・キリストの父なる御神」という呼びかけです。ここでは呼びかけではなく、この神をたたえさせてくださいということです。父なる神を賛美する、たたえる、それは、礼拝を捧げることに他なりません。そして、ついに、私どもの希望とは、神を礼拝することにあるのです。それなら、どのような礼拝、礼拝式なのでしょうか。それを示すのが、この御言葉であります。「あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

同じ思いを抱き、心を合わせ、声をそろえて主イエス・キリストの父なる御神を賛美することです。ここでのキリストに倣うとは、どういうことでしょうか。イエスさまが父なる神さまを礼拝したそのお姿に倣うことでしょうか。それもそうかもしれません。しかし、ここで、あらためて第12章の1節2節の御言葉をおさらいしましょう。献金を捧げるときに読み上げる御言葉です。本来、2節まで読みたいのですが、時間の関係で、しばしば割愛します。2節はこうです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」ここで倣うという言葉が用いられます。倣うとは、型にはまる、ということと学びました。この世の型に、当てはまる、鉄を成型する金型のようなものです。この世の価値観、考え方にピタリと型あわせをされてしまうということです。そうされるなということです。むしろ、私どもはキリストの型にはまること。キリスト御自身にぴたりと結び合わせられることを求めよと言うのです。どうしたら、そうなるのでしょうか。それは、御言葉と祈りです。特に、今ここでは、パウロは祈っているのです。祈りによって、キリストに倣う、キリストと結ばれる、一つにさせられるのです。そうするとそのとき、直ちに、キリスト者一人ひとりはまったく別の人格にもかかわらず、同じ思いを抱くのです。神を礼拝することです。栄光が神に永遠にありますように、アーメンと言うことです。一人ひとりまさに個性的なお互いです。キリスト者とは、まさに、個性的になるものであり、救われるとは、その人を本来のその人へと取り戻すことに他なりませんから、まさにその人らしさ、個性が花開きます。しかし、その個性が、バラバラで、まとまらないような個性ではなく、キリストに倣うお互いですから、何が神に喜ばれるのかを求めるのです。自分を献げ、礼拝するのです。それを意志するのです。それが、ここでの「思い」です。志の問題です。志を一つにするのです。私どもの志、それは、神の栄光をあらわすことであって、それが最大の喜びなのです。

さらに、私どもは「」を合わせます。それは、お互い一人ひとりをよく見ることです。そこでは、私どもは、もとより、主イエス・キリストの型にはまることを、第一にするのですが、ここでは、そのニュアンスではなく、お互いです。共に生きる教会員の心に寄りそうことです。

私どもはしばしば正論を語って、自分の正しさを主張して、それで良い気持ちになることがあります。しかし、その正論、正しさが、相手にどう伝わるのかまで考えなければ、強い人間とは言えないし、隣人を喜ばせることにもなりません。そこで、心です。心を合わせることを求め、配慮するとき、私どもはまさに大人のキリスト者、強いキリスト者へと進むのです。

そしてそのとても具体的な例が、「声をそろえる」ことです。かつて講壇交換であったか、他の教会に伺ったとき、子どもたちが大きな声で主の祈りを唱えていました。最初のうちは、良いのですが、途中でどんどん早くなるのです。おそらく、覚えたことが嬉しくて仕方がないのでしょう。教会の皆さんと声をそろえることができません。それが、幼子らしさです。しかし、私どもはそうであってはならないわけです。隣の人の声を聴きながら、そして、小さな声ではなく、神を賛美するのですから、大きな声で、共に主の祈り、十戒、ニカヤ信条そして賛美を歌うのです。

ただし、声をそろえることは、練習すれば、できます。しかし、心を合わせることは、単なる練習では、まったく及びません。そのためには、共に御言葉を聴くことが必要です。しかも、バラバラにではなく、思い思いにではなく、説教が「互いの向上に努める」ため、つまり教会の形成を目指しているのですから、そのような同じ理解に立って説教をし、説教を受け入れ、それに応答することです。そのとき、同じ思いを抱き、心を合わせられるようになります。

最後に、私どもの希望、そして何よりも神が私どもに約束し、実現してくださる究極のゴールとは、何でしょうか。それは、神の国、天国に入ることです。それならその天国では何がなされるのでしょうか。それこそ、神礼拝に他なりません。そこでは、男も女もなく、子どもも大人も一つになって、いへ、そればかりか民族の違いもはるかに越えて、全人類が一つになって、神を賛美するときが来ます。全人類がまるで一人のようになって、神を賛美するときが来る、神の国の完成です。

それを私どもは今朝、ここで始めているのです。始めることが許されているのです。主の日の礼拝式は、天国の前味です。キリストの教会は、神の国の中心的な現われなのです。使徒パウロがここまで記してきた手紙の締めくくり、結論とは、そのような礼拝式を毎週目指して歩むことであると言っても良いのです。礼拝式で、互いに同じ思いを抱く、そこに神の平和、人間の真の平和があります。平和が実現します。教会には、真の喜びと真の平和とが、礼拝式によって与えられ、実現され、私どもに与えられているのです。

今、聖餐を祝います。この聖餐こそ、私どもをして、キリスト・イエスに倣わせていただける恵みの手段なのです。聖餐の礼典を通して、私どもは主イエス・キリストと一つに結ばれます。まさに、私どもはここでバラバラの集りではなく、キリストの一つの体の一部分とされ、私どもは一つ体とされるのです。ここに天国のモデルが実現されるのです。この平和こそ、教会の宝であり、この平和に招き入れられるため、私どもは救われたのです。そして、この平和をこの世界にあまねく布告し、平和をつくる務めが与えられているのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、かつて弱さの中でとぐろを巻くようにして、へたり込んだり、その反対に、神などなくても自分の力で上手に人生を切り開けるし、切り開くしかないと信仰を否定し、自分に頼る究極の弱さのなかに閉じこもっていました。そのような私どものために、御子イエスさまがその忍耐の限りを尽くして、御言葉を語り聞かせ続けてくださり、信仰を与え、罪の赦しの恵みにあずからせていただきました。ですから、もはや、わたしどもは自分のものではなく、あなたのものです。そのようにして究極の強さの中に招き入れられました。どうぞ、この事実の中にしっかりと立ち続けさせてください。そしてその使命に生きる者とならせてください。弱い人の弱さを担う務めに生きる者として、私どもを用いてください。そのために、今、あなたへの信頼と服従を新しくし、深めてください。そして私どもの全存在を、隣人を喜ばせる生き方、隣人に奉仕するあり方、ディアコニアのあり方へと導いてください。そのようにして、私どもをいよいよ真実に強い人間、優しい人として遣わしてください。アーメン。