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「喜びと平和に満たしてくださる神」

「喜びと平和に満たしてくださる神」
2008年7月27日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章7-13節

「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。
わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、
あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、
異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」

最近、毎日のように恐ろしい殺人事件が報道されています。いったい彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのではないでしょうか。そのもたらす結果がどのように悲しい、痛ましい、苦しみをもたらすこととなるのか、分からないのではないでしょうか。自分がしていること、したことが分からないのではないかと思います。私どもの心に悲しみと憤りが沸き起こります。

しかし、私どもは使徒パウロ自身がローマの信徒への手紙の第7章において、こう語った言葉を思い起こします。「わたしは、自分がしていることが分かりません。」と言うのです。どういうことを言うのかと申しますと、こう記されています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

 これは、犯罪加害者の心の中を記しているのではありません。キリストの使徒パウロの言葉なのです。そしてこれこそ、私どもすべての人間の、一人の例外もなく、その人間の根本にある姿なのであります。まさに、「わたしは何という惨めな人間なのでしょう」という使徒パウロの嘆きは、全人類の、一人ひとりの真実な嘆き、叫びでなくてなんでしょうか。確かにこの事実を、自分自身のなかでごまかしたり、あるいは友達の前で、隣人関係のなかで、ごまかすことはできるかもしれません。しかし、神さまの前には、決してごまかすことはできません。そして、ごまかしたままでは、何の解決にもなりません。

そのような私どもは、まさに、神さまに憐れんでいただくしかない存在です。神さまの憐れみなしには、生きて行けないのが、私どもの正直な姿なのです。私どもは、毎日毎日、神の御前に、神にのみ罪を犯し続けています。その罪の量は、もはや数えれきれません。ただこの罪の刑罰を受けることだけが、確かなことです。それは、神の怒り、神の裁きとしての死、永遠の死、永遠の滅びです。それだけが、私どもの将来であるはずなのです。私どもに確定している将来のはずなのです。

言うまでもなく、この罪の支払う報酬としての永遠の死、永遠の滅びを私どもは、自分で償うことは決してできません。また言うまでもなく、他の誰かに代わりに償ってもらうこともできません。この罪を償うことがおできになられるのは、私どもとまったく同じ人間で、同時に、まったく罪を犯したことのない人間だけです。そんな人間は、地上におりません。だから、父なる神は、この地上にそのような奇跡の人間を、送ってくださいましした。それが、神の憐れみに他なりません。神の憐れみの御業に他なりません。それは、人となってくださった神の独り子です。つまり、私どもの救い主イエス・キリストさまです。イエスさまが私どもに与えられたことが神の憐れみです。主イエスが、私どもの罪を十字架におつきになられることによってなしとげてくださいました。これが、神の憐れみです。使徒パウロは、異邦人が神の憐れみをたたえるようになるためと申しました。私どもは、この神の憐れみを受けているのです。受けたのです。ですから、今、この教会の礼拝式で、心の底から、主イエス・キリストにおいて明らかにされた神の憐れみをたたえているのです。

先週、中部中会の世と教会に関する委員会で、ローマの信徒への手紙における平和ということで、ごく短く発題させていただきました。準備の時間はごくわずかでしたが、しかし、これまでの4年になろうとするローマの信徒への手紙の講解説教を思い起こしながら、進めました。私は、この手紙全体の主題をそこで「平和」と致しました。実は、この説教を始めたときには、そのように明確に捕らえることはできておりませんでした。後半部分の第9章に入ってから、この手紙全体の主題について改めて考えさせられたのです。そして、今では、はっきりと、この手紙の全体のメッセージは、平和であると考えております。

使徒パウロは、この12章からここまでの議論を終えるにあたって、このように祈ります。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」祈りで終わるということは、とても意味が深いのです。私どもがする説教は、必ず、祈りで終わります。礼拝式の式次第、プログラムの中で、説教の後に、改めて「祈り」「祈祷」というプログラムは出てまいりません。しかし、説教の後で祈ります。いへ、説教は、祈って終わるものというほうが正しいのです。

使徒パウロは、ここまでの議論を終えるにあたって、いへ、こう言っても良いのです、第1章の最初からのすべての議論を終えるに当たって、それを結ぶ祈り、それを終えるための祈りを捧げているのです。それだけに、この祈りは、必ず聴かれる祈りであるということです。使徒パウロが、心を込めて語り続けたのは、ローマの教会が、ローマにある教会の仲間たちが、その一人ひとりが、これまで記したとおりに生きるなら、その結果として、喜びと平和とで満たされ、希望に満ち溢れる地上の生涯を歩みぬくことができるという確信であります。

それなら、ここで祈り求められている、「平和」とは何でしょうか。聖書が告げる平和とは何でしょう。使徒パウロが、この手紙のなかで明らかにした福音そのもののことです。神の福音です。神から聞かされる喜びの知らせ、嬉しい知らせです。それは、先ほども申しました、主イエス・キリストの出来事に他なりません。私どもの罪を償う救い主が来られ、事実、十字架の上で償いの御業、贖いの御業を成し遂げられたということです。私どもの罪を償うということを丁寧に申しますと、罪とは、神に背くことです。御言葉に背くことです。神を信じないことです。御心に従わないことです。罪の状態にあるということは、神と敵の状態にあるということです。神との敵対関係です。

私どもは、人と人との間に、職場の中で、地域社会の中で、学校で、誰かと敵対関係にあるとき、まさに、心のなかに喜びも平安もなくなってしまうのではないでしょうか。誰かに恨まれている、誰かが憎んでいる。誰かが、快く思っていない。その時、私どもは安心して生きて行くことが難しくなるでしょう。また、何よりも、自分自身との折り合いもそうです。自分を大切にすることができず、愛せず、受け入れることができないとき、ただ生きていることが苦しくなってしまいます。これも自分が自分の敵になっている状態です。そこには、平和がありません。殺人事件も、偽装事件も、すべて平和の反対です。戦いです。争いです。安心して共に生きることができなくなっているのです。自分自身のあるがままで、生きることができなくなっています。そもそも、自分自身のあるがままとは何か、どんな自分が本当の自分なのかも分からなくなっているのです。

聖書は言います。パウロは指摘します。そのような争い、憎しみ、敵対関係の究極の理由、原因は何かということです。それは、神との敵対関係にあるということです。神さまとのあるべき関係、正しい関係を、人間は、自ら断ち切りました。その最初の出来事として、聖書は、アダムとエバが食べてはならないと禁じられていて唯一の木の実を食べてしまったこととして説明しています。あれ以来、人類は、生まれながらに、神との敵対関係のなかに存在しているのです。しかも、私どもの方から、「ごめんなさい」と謝りませんでした。「赦してください」とお詫びしませんでした。それは、赦してもらう必要を感じないからです。それが、恐ろしいのです。それほどまでに、私どもは、「自分がしていることが分からない」状態に陥ってしまったのです。

私どもは、自分の方が100パーセント悪くないことが明らかであれば、どうするでしょうか。ほとんど間違いなく、相手が謝るのを待つでしょう。当然のことと思います。ところが、神さまと人間との関係においてはどうであったのでしょうか。神さまは、100パーセント悪くはないのです。あのとき、アダムは逆切れさへして神さまに反抗しました。あなたが、与えられてあの女がわたしを誘惑しました。「悪いのは、あの女です。ところで、あの女って、誰がわたしのところに連れてこられたのでしたっけ。それは、神さま、あなたではありませんか。」つまり、エバに罪を擦り付けるばかりか、神さまに責任転嫁してのです。本当は、あのとき、ただちに、「ああ、神さま、ごめんなさい。私の罪を赦してください」と言うべきでした。しかし、言いません。言えないのです。罪を犯した瞬間に、心が捻じ曲がったからです。神の前に罪を犯した結果と言うのは、私どもの想像をはるかに越える、それはそれは恐ろしいまでの破壊でした。神に造られたもともとの人間は、言わば、瀬戸物のお皿をコンクリートの地面にたたきつけて割ってしまったように、こなごなに破壊されてしまったのです。

そんな人間ですから、もはや、神さまに正面から向き直って、お詫びを言えないのです。言う必要などないと思っているのです。ところがどうでしょう。驚くべきことが起こったのです。何も悪くはない、神さまの方が、ご自分を犠牲にして、私ども人間を神さまの子どもとして取り戻そうとなさったのです。それが、御子の十字架です。御子イエス・キリストによって、私どもは、神との敵対関係を、神さまの側で一方的に赦してしまわれたのです。帳消しにされたのです。それは、しかし、神の御子の命が犠牲になりました。神の御子が、恐ろしいまでに苦しまれました。父なる神が、恐ろしいまでにお苦しみになられました。

そればかりか、神さまの方が、身を低くして、身をかがめて、私どもに手を差し伸べられるのです。まるで、悪いことをしたのは、神さまの方でもあるかのように、仲直りを求められるのです。この神の御業を、使徒パウロが記したコリントの信徒への手紙Ⅱ第5章18節以下で、鮮やかに要約して明らかにしています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

 長くお読みしました。ここでの和解とは、仲直りのことです。私どもが神に反抗し、敵対関係にあったのに、神の方から、和解を成し遂げてくださったのです。罪のないイエスさまに責任を負わせられたのです。そして、和解を成し遂げてくださいました。これが、神との平和の意味です。神との間にもはや仲たがいはなくなったのです。

 パウロは、キリストに代わってお願いすると申します。つまり、主キリストご自身がお願いしていてくださるのです。「和解を受け入れよ。和解させていただきなさい。」と、まるでイエスさまの方が頭を下げていてくださるのです。そうであれば、どうして私どもはこのイエスさまのお申し出を拒否できるでしょうか。して良いでしょうか。私どもこそ、頭を下げて、この和解を受けるべき、受けさせていただくべきであります。
 
 一般的には、平和とは、戦争のない状態という理解があります。日本は、平和憲法、憲法第九条があるから、すくなくとも今日まで、日本国内で戦闘行為は行われていません。だから今の日本は平和であるという理解があります。国家と国家との間に武力による戦いがないことは、平和です。しかし、それは厳密に申しますと、武力による平和、安全保障としての平和です。

 我々にとって、この安全保障としての平和を維持することも、とても大切であることは言うまでもありません。しかし、20世紀も21世紀も世界のなかで、この平和を維持することはできませんでした。今や、さらに、何と戦えばよいのか、という問題、国家間の戦いではなく、テロリズムとの戦いへと入り込んで行きました。私どもも、普段の買い物でも、人ごみの中を歩いて、いつ、命を奪われるとも分からないような心配があるのです。

 それは、私どもにとって、脅威です。その原因は、神との平和がないからです。実に、人間が人間の最大の敵となっているわけです。人間にとって狼より怖いのは、人間なのです。戦争ほどそれが良くわかる出来事はありません。

しかし神は、私ども自身の罪によって人間と人間との間の平和を破壊し、自分と自分との関係も破壊して、平和を失ってしまいました。そのようにして、心の平安、安心を失ってしまいました。
しかし、今から2000年前に、御子なる神が約束どおり、ユダヤ人として、ダビデの子孫として来てくださったのです。「神の真実を現すために、割礼ある者」つまりユダヤ人として誕生してくださったのです。そのことによって、イスラエルの救いは、確定しました。今は、イエスさまを十字架にはりつけ、なお、大勢のユダヤ人がイエスさまをメシアとして信じ受け入れていません。しかし、それによって、結局、ユダヤ人、旧約のイスラエルは、神に見捨てられて、滅びるだけで終わるのでは、決してないことが確定しました。イスラエルが滅びるのであれば、その時には、ユダヤ人イエスさまも共に滅びる以外にないのです。それが、御子のご降誕の意味です。イエスさまが旧約聖書の約束どおりに、地上にメシア、キリスト、救い主として来られた事によって、神の御言葉、神の約束の真実は貫かれました。

それが、使徒パウロが、第9章から第11章の36節までで語ったイスラエルの事柄です。そして、今ここで、イスラエルがイエスさまを拒絶したことによって、実に、驚くべきことが起こったことをあわせて告げます。それが、15章の9節です。「異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

主イエスが来てくださったのは、ただ単に、旧約聖書に予告されていたイスラエルの救いを成就するだけではないのです。それは実に、我々のような異邦人をも合わせて救うためであったのです。
もともとは、神との交わりの、神の平和を受ける約束も資格もなかった異邦人にも、救いが及んだのです。使徒パウロは、今ここで、この異邦人の救いについて、言及します。なぜなら、彼の使徒としての特別の使命は、異邦人を信仰の従順に導くことにあるからでもあります。パウロは、当然、ユダヤ人です。しかし、パウロは、他の使徒たちが同胞である、神の選びの民であるユダヤ人の救いのために励む姿を見ながら、自分は、異邦人に福音を告げ、彼らを振興の従順に至らせることが使命であると、この手紙の挨拶の部分で言いました。パウロにとって、ユダヤ人の救いと異邦人の救いが神の御心の中心であると確信していたからです。これまで、お互い反発していた者どうしが、しかし、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をほめたたえることができると信じたからです。そして、それは、このローマの教会でも、起こっていたからです。ですから、この教会のなかで、ユダヤ人からキリスト者となった者と異邦人からキリスト者になった者とが互いに反発し合っていることを知ったとき、いても立ってもいられないのです。教会こそ、平和の砦だからです。この平和がくずれたら、この世界に、人間と人間とがお互いに狼のように、喰いあって、反発しあって、共倒れになるからです。

それだけにパウロは、異邦人の救いのために、全力を注ぐのです。
パウロは、異邦人の使徒として、今、旧約聖書をあらためて引用します。それは、数は少ないのですが、しかし、はっきりと、神が旧約聖書においても、実は、異邦人を救うという御心が啓示されていること、示しておられることを証拠だてるのです。

先ず、詩編第18編49節です。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。」 次に、申命記第32章43節です。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」さらに詩編にもどって、117編1節です。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」最後にイザヤ書第11章10節です。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」使徒パウロは、ここで詩編、申命記、イザヤ書を引用しましたが、これは偶然のことではありません。旧約聖書は、三つのジャンルから成り立っています。ヘブライ語で旧約聖書のことを、タナクと申します。それは、創世記から申命記までの律法の書、トーラーと申します。諸書、ネイビームと呼ばれる文学書や歴史書、詩編はそこに含まれます。預言書、ケスビーム、イザヤ書からマラキ書までです。その頭文字をとって、タナクと言うのです。これがユダヤ人、ユダヤ教の聖書の分類なのです。その意味では、私どもの旧約聖書の配列とは若干違っています。とにかく、ユダヤ人パウロは、ユダヤ人の旧約聖書の配列にしたがって、異邦人も神を賛美するときが来ることを、証拠だてているのです。旧約聖書自身がはるかに予告していたことが、主イエス・キリストにおいて現実化した、実現したと言うのです。

これほどまでに神の約束は確かであり、真実なのだと言うのです。ですから、この神を信じるなら、必ず、希望の源である神が、信じる人に、つまり、信仰の従順に生きる人には、つまり、御言葉に従順である人には必ず、喜びと平和に満たされると約束するのです。喜びも平和も、神の支配される国、天国にあるものです。神の国は、飲食ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びです。それは、地上にあって、キリストを信じ従う教会において与えられるわけです。私どもは、それをまさに今ここで、主の日の礼拝式で味わっています。

しかし、今はまだ、この喜びも平和も完成されていません。現実には、このローマの教会もそうであったように、教会の中ですら争いが起こります。いわんや、我々の社会、会社、学校、家庭なおさらです。けれども、私どもは、へこたれません。なぜなら、希望は確かであるからです。神の平和にあずかる希望は確かだからです。ですから、地上にあってどれほど、平和が破壊され、争い渦巻くことがあっても、絶望しません。神の国は必ず来るからです。しかし、そのためには、私どもは祈って待つ必要があります。ですから、確信に満ち溢れているパウロ自身も祈るのです。そして、私どもも祈るのです。喜びと平和が今ここで、現実のなかで、実現するようにとです。この平和は、戦争や紛争、憎しみや不和という現実の只中で、与えられます。それは、この平和の核は、霊的なものだからです。神との関係、神の平和だからです。

先々週、私どもの親しい一人のキリスト者が手術台に登られました。それまで病気とは無縁の生活をなさっておられました。ですから、まさかご自分がとのお気持ちは強かったはずです。さまざまな葛藤もまた強かったと思います。しかし、ご本人もまた看取られたご家族も、人知でははかり知ることのできない神の平和によって守られました。フィリピの信徒への手紙にあるとおりであります。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、この世界にまことの平和を自ら実現するために、その唯一の方法として、あなたの御子をユダヤ人イエスとして私どもの只中に送ってくださいました。御子の贖いによって、それを信じる私どもに平和を実現してくださいました。神との敵意が崩されて平和がもたらされ、ユダヤ人と異邦人との間の敵意が壊されて一致がもたらされ、自分自身の内部にある分裂をも克服する道が与えられました。そのようにして、どんな苦しい状況に陥ってもなお、人知をはるかに越える神の平和が私どもの心を支配するようにしてくださいました。今、私どもの心にも神の喜びと平和が始まっています。どうぞ、この平和が、教会において確立され、教会を通して広げられますように。私どもを平和の道具としてもちいてくださいますように。
アーメン。