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「かなたを目指す福音・パウロ」

「かなたを目指す福音・パウロ」
2008年8月31日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章14-21節④

「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。」

私どもはこの手紙を丁寧に読んでまいりました。その中で、いったい、著者パウロというキリスト者は、どんな人、風貌の人であったのかと想像してみることが、何度か、あったのではないでしょうか。時に、パウロを描いた絵画を見たりします。学者のようなパウロがいます。またどこか、風采の上がらない風貌のパウロもいます。それは、おそらく、コリントの教会員に送った第二の手紙の中で「わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。」に求められるイメージなのかもしれません。しかし、詳しく語る暇はありませんが、パウロほど、つまらない人とかけ離れた人はいないと思います。おもしろい人、興味深い人、それは、神が造られた世界のすべてに関心を持つ、興味を持つような人と想像できるからです。しかも、それらをただ一つの目的、目標へと収斂させる人です。福音のため。神の栄光のためにです。そのような人が、人間として魅力にあふれていないわけはないと思います。

さて、それなら、わたしのパウロのイメージは、どのようなものであるのか。それは、学者ではありません。むしろ、伝道者タイプ、動く人です。じっと座って、瞑想する。自分の内面世界を掘り下げて、神との交わり、神秘の世界をのぞき見る、そのような、宗教家のようなイメージではまったくありません。

むしろ、彼は、自分の内面世界を覗き込むのではなく、福音を覗き込むのです。福音とは、神の、イエスさまの福音ですから、外を見るということです。外を見るのですが、しかし、外を覗き込むと言う表現では、間に合いません。むしろ、使徒パウロは、福音の中に入り込んでしまって、その中から、福音の天へと至る高さを見上げます。福音の底知れる深さを見ます。そして横を見て、その巨大な広がり、大きさを見るのです。そして、その福音の恵みのど真ん中にいる自分自身を、見て、誇りにあふれ、喜びにあふれ、感謝にあふれている、賛美にあふれているのです。そして、そこに留まり続けるのではないのです。

映画を見て、感動して、それで終わる。そのようなタイプではありません。また、福音とは、その程度のものではありません。福音は、それを見た人、それを中から見た人をして、動かすのです。揺さぶるのです。揺さぶられた人は、あるがままの自分を愛されているのですが、しかし、このままの自分で留まるのではなく、新しい自分へと日ごとに歩み出す人になるのです。新しい自分へと動き出すということは、自分の外に出ることです。自分の外へ、それは、神へということです。そして神へと出て行くとは、どういうことなのかと申しますと、それは、隣人へと出て行くことなのです。

そのことを、使徒パウロほど明らかに、典型的に示した人はいないのではないかと思います。彼は、言いました。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」イリリコン州というのは、バルカン半島の一帯と考えられています。イタリア半島の東向かいにあります。現代の、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロなどなど、10年前の地図には、なかった国の名前が並ぶ地域です。昔は、ユーゴスラビアと言っていました。その辺り一帯を、パウロの昔、イリリコン州と呼んだと思われます。パウロの伝道旅行の地図を見ますと、必ず、イリリコン州、つまり、バルカン半島の沿岸地域の港湾都市の名前が記されています。使徒たちの中で、歴史上、彼ほど、福音を宣教するために、歩き回ったキリスト者はいたのでしょうか。

さて、使徒言行録の第20章という極めて重要な箇所のなかで、パウロは、エフェソの長老たちに別れの説教をした際にこう言いました。「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」自分の決められた道とは、人生のことであります。彼は、その人生の道を走りとおすと表現します。それは、誇張ではありません。

しかし、いったい私どもの普段の生活で、走るということがあるでしょうか。若いときは、走ることはありました。しかし、わたしは今、短い距離を小走りすることは、ありますが、走って出かけてゆくということは先ずありませんし、できません。我々は、人生を「歩み」「歩む」と表現します。日本だけのことではありません。それだけに、使徒パウロの言葉遣い「自分の決められた道を走りとおし」は、言わば、異常な感じ、何か大変な響きすら致します。

使徒言行録のその別れの説教の中で、パウロは、自分はどうしてもエルサレムに行かなければならないと言いました。しかし、そこで、どんなに苦しい目に遭わなければならないか、聖霊なる神によってはっきりと教えられているとも言いました。おそらく、ローマの信徒への手紙第15章25節で、彼は、ローマ教会に行く前に、エルサレムに向かうと言っていることだと思われます。ところが、彼は、それで終わらずもう一度、エルサレムから、ローマに行くことを希望するのです。
その目的、理由は、第1章11節に明らかにされています。「あなたがにぜひ、会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなた方とわたしが持っている信仰によって、励ましあいたいのです。」これを読めば、明らかに、ローマに行くのは、新しい福音宣教のためではないことが分かります。すでにローマにはキリストの教会があるわけです。新しい宣教の場所ではありません。もうすでに、他のキリスト者が述べ伝え、教会は存在しています。20節でこう言いました。「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」パウロにとって、ローマ教会に行く理由は、福音宣教ということではないというわけです。しかしそれならなぜ敢えてローマなのでしょうか。

24節に理由が明かされます。「しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアに向けて送り出してもらいたいのです。」ここにこそ、パウロの熱望があります。パウロが真実に追い求め、熱く願い求めていることがあります。見たことのない地、イスパニア。ユダヤ、エルサレムから見れば、それは、世界のまさに果てです。地の果てです。

そもそも、当時の人々は、地球が丸いことを知りません。この大地には、地の果てがあると考えられていました。地の果てに行くと、そこは、断崖絶壁になっています。そのような地理感覚のなかで、イスパニアをはるかに目指す。それは、恐怖ではないでしょうか。21世紀の我々が、海外旅行をしたり、出張したりすることとは、まったく違います。飛行機ではない、自分の足で行くのです。確かに船も利用しますが、しかし命がけです。そして、歩くより、走る気持ちです。

多くの場合、ローマまで行けば、もはや、そこに安住しても良いではないか、と思ってしまうのではないでしょうか。「すべての道はローマに通じる。」それが、当時のローマです。世界の政治、経済、文化の中心なのです。そこでこそ、福音を語り、証しすれば、それは、どれほど大きな成果をもたらすことになるか分かりません。いわゆる大都市伝道です。この教会は、今日、ローマカトリック教会の本山、バチカンになっていると考えられているのです。そのような教会に拠点を据えて、何年も伝道、奉仕すれば、また違った、また大きな成果が見込めるのではないでしょうか。あるいは、そこで、パウロであれば、著作に専念していれば、などと空想したらどうでしょうか。それは、決して悪いことでもなんでもないはずです。

しかし、パウロは、走ります。それは、イエスさまからこのように、命じられているからです。異邦人の使徒なのです。少し長くなりますが、使徒パウロの救いの原点についての証を読みます。使徒言行録に三度記されていますが、その三番目の記述です。26章15節以下、「私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

パウロは、復活のイエスさまから、宣教者として、使徒としての使命を与えられました。異邦人の中から救い出され、彼らのもとに遣わされたのです。それは、サタンの支配から神に立ち帰らせ、罪の赦し、恵みの分け前をもって、神の民の一員に加えるためです。

そして、パウロは、自分を捕らえ、尋問する王にこう言います。「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。」天からの啓示、天から、神からの使命に背かない。罪とは、神に背くこと、不従順でした。彼は、異邦人に信仰の従順を伝えるために、宣教しているのです。そしてまさにその彼こそは、信仰の従順に生き抜いている典型、モデルなのです。

だから、異邦人のところに行く、行きたいのです。まだ、福音を知らない人たちのところに行きたいのです。それが、彼の独自の使命だからです。わたしのように、その場に定住して、その町に住んで、一員となって伝道する牧師も、これは、なくてはならないのです。しかし、それも、神の啓示です。天からの使命に背かないためにするのであって、それが、自分にとって一番、楽だとか、都合が良いとかでは、そもそもありません。それは、神の召命なのです。お召しです。天からのお示しです。ですから、天からのお示し、お召しがあれば、そこを離れる覚悟と用意が、私ども伝道者には求められていると言わなければなりません。

パウロは、信仰は、聴くことによる、しかもキリストの言葉を聴くことにより始まると申しました。第10章です。ですから、良い知らせを伝える伝道者、宣教者の足は、なんと美しいかと、イザヤ書を引用して、たたえました。そこには、パウロは自分自身の足を誇る思いがあったに違いありません。自分を通して、自分の足を通して、福音が語られ、神が用いてくださったからです。パウロは、神の足です。パウロは、神の口、神の鉛筆なのです。

パウロは、まだ真の神、主イエス・キリストを知らない人々のところに出かけて行き、伝えたい、教えたいと願っているのです。しかも走るという言わば、異常なあり方、自然な生き方を揺り動かして、立ち上がり、急ぎたくなるあり方へと、突き動かすのです。かつて主イエスを迫害し、キリスト者を迫害し、そうすることによって神に仕えていたと確信していたパウロは、今、まったく方向転換して、地の果てまで、はるかかなたまで、走ることを願うのです。

確かに主イエスの命令ですが、しかし、いったいその命令に喜んで従う力の秘密、源はなんでしょうか。それこそは、ここで明らかにして来た、福音の真理に他なりません。これまでのすべての喜ばしい知らせが、命の知らせが、彼を駆り立てるのです。

教理の言葉で言えば、それは、義認であります。信仰によって、罪深いこのわたしが、そのすべての罪を赦され、神に受け入れられ、神との敵対関係は終結し、それどころか、一気に、神の民の一員に加えられたのです。それ以上に、すばらしい表現と思いますが、天地創造の神を、アバ、わたしのお父さまとお呼びする関係、つまり、神の子とされたのです。これが、パウロが告げた福音です。神との間に平和が樹立する、平和が構築されること、神の平和の福音です。まだ罪人であったとき、神が、その罪のすべての責任を御子イエス・キリストに負わせになられたからです。私どもの罪の支払うべき報酬のすべてを、御子イエス・キリストにおいて支払わせられたからのです。まだ敵であったときに、神の方から一方的に愛し、私どもと和解し、私どもに平和を与えてくださったのです。パウロは、キリストと教会を迫害している真っ最中に、つまり最大の敵であったそのときに、この復活のキリスト、神の愛に出会ったわけです。だから、立ち上がる。だから走り出すのです。敵を愛するイエスさま、敵を赦してしまうイエスさま、そればかりか、その敵をご自身の福音の栄光の器として用いられる全能の神。その神が、パウロを地の果てまで、走り行かせる原動力です。福音の力なのです。神の義です。義の力です。信じない者を、信じて従う者に造り替えてしまう神の義、キリストの真実なのです。しかも、その神の愛は、使徒パウロにとって、あの日、あの時一回限りのものなどではありませんでした。

パウロは、第8章の最後で申しました。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

どうして常にこの確信に立ち続けることができたのでしょうか。それは、34節、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
使徒パウロは、いついかなるときも、この天にましますお方、主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、このお方の執り成しを聴き、見ていたのです。

 先日のオリンピックで、覚えた中国語がありました。先週も申しました「加油」です。頑張れという意味だそうです。人への応援、声援です。私どもは、天の故郷から、まさにキリスト者の数え切れない先輩からの加油の声を聴き取りたいと願うものです。ヘブライ人の手紙第12章にありますように、「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」とあります。おびただしい証人の声援が聞こえてくるようです。しかし、どれほど大勢の証人の声援よりも、イエスさまが、わたしのために、私どものために、天のお父さまの右に座して、執り成していてくださる声が聞こえたら、もうそれ以上、何を望むことがあるかと思います。

 しかしパウロは、それを毎日、聴いたはずです。彼は、伝道に疲れた経験がなかったとは思えません。誰よりもキリストの福音のための迫害を受けながら伝道したのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ第4章でこう言いました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

倒されたことは、何度もあったからこう言ったのです。途方にくれたことは数え切れなかったかと思います。しかし、失望しない。しかし、ノックダウンしても、ノックアウトされない、滅ぼされない、負けないのです。しつこいほど、立ち上がって、走り出すのです。

 パウロに比べたら、恥ずかしくなるような私どもであります。しかし、私どもの生活にもまた、数々の労苦があり、試練に満ちています。悩みに事欠きません。心配事を数えれば、両の手では、数えられません。もしかすると、このような使徒パウロの世界伝道、世界の果てまで福音を宣教して走りぬく、パウロの姿は、信仰の英雄であり、ヒーローではあるが、自分とは、かけ離れていると考える人もいるかもしれません。そうなると、パウロは、ヒーローだけれど、自分の生活を見れば、その話をきいてもしらけてしまう。落ち込んでしまうという危険もあるかもしれません。

 しかし、パウロだけが、走るのではないのです。パウロはコリント教会員に呼びかけました。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」

走りなさい。しかも賞を得るように走りなさい。今回のオリンピックの一つの目玉は、マラソンでありました。女子、そして男子もメダル獲得がもっとも期待されていた種目の一つであったかと思います。しかし、いずれもかないませんでした。故障の故に競技に参加することじたいを棄権したり、途中で棄権した選手もおられました。キリスト者は、すでに、この信仰の人生に参加しています。自分自身の力で参加したわけではなく、まさに、神に選ばれて、参加させていただいたのです。それなら、途中を生きている私どもの責任は、途中で棄権しないことです。疲れ果てて、意気阻喪しないように、心したいのです。それには、この福音に自分自身が深くあずかることです。
 
 ここには、この信仰の競技に参加させていただいて日の浅い仲間もいれば、すでに何十年と走っている仲間もいます。しかし、その歩みの跡は、しっかりと主に覚えられているのです。その奉仕の歩みの跡、教会の14年の歩みは、皆様の信仰の歩み、奉仕の歩みでした。それは、残る。しかもその足跡は、まるで、イエスさまご自身の足跡のように思います。主イエスが、あのときも、このときも、導き、力を与え、わたしの言葉と行いが用いられた。わたしの奉仕の働きを通して働かれた、それが、残っています。わたしどもの誇りはそこにある。そこにのみあるのです。そして、それらは、まさに自分の功績ではない、主イエスのご功績なのです。それが、私どもの誇りなのです。私どもは神の鉛筆とされた、神の口とされた、そして、私どもも、パウロと同じではないでしょう、しかし、一人ひとりに与えられた人生を誠実に受け止めながら、その中で、精一杯、主キリスト・イエスにお仕えするのです。

 イリリコン州やイスパニアに行くだけが、信仰の道ではありません。遣わされた場所で、華々しくなくとも、そこで、神が生きておられること、神の愛が自分を支えていること、このような罪人、神の敵をなお赦し、むしろそのような自分を用いてくださる神の恵みを証しするのです。

 福音は、パウロを動かします。福音とパウロはまるで一つになっているかのようです。ですからパウロは、第2章でも言いましたが、最後の最後第16章でも、大胆に表現してはばかりません。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについて宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」パウロの福音です。神の福音は、パウロの福音なのです。そのように表現することも許されるのです。福音に生かされてしまっているからです。福音が自分を自分にしていただいているからです。

私どもそうです。キリスト者です。キリストのおかげで、今があるのです。それ以外に思う人がいれば、それは、キリスト者ではないのです。そして、この福音のおかげで強められるのです。
パウロは、地球のはるかかなたを目指しました。私どもも、かなたまで行きたい。走りたいと思います。決して、途中棄権などしたくありません。してはなりません。

それなら、私どもひとり一人の「かなた」とはどこなのでしょうか。私どものはるかかなたまで走るとは、いかなること、生き方、実践となるのでしょか。それらは、決して、説教者であるわたしが語ることはできません。一人ひとりが、それぞれに求めるべきことであります。それは、単に、空間的な距離のことではありません。しかし、共通するのは、キリストにある自分の人生、キリストと結ばれた自分の生活、キリストに救われている自分自身を極めて行くということです。キリストにあって生きること、福音に従順に生きることを極めることでしょう。中途半端ではなく、信仰に生きることです。パウロは、そうしたくなったのです。福音の力が彼を駆り立てたのです。そうであれば、私どもも今、同じ神を見上げています。同じ福音を知り、福音にあずかっています。私どもも、今週も、一人で、そして祈祷会に集って、ともに天を仰ぎ見て、主イエス・キリストの執り成しの祈りに支えられます。そして、地上を走ります。決して一人で歩み、走る人はいません。教会の仲間たちの交わり、祈りと共に走る、かなたを目指して走るのです。

祈祷
迫害者サウロをあなたの聖なる僕、福音の宣教者、使徒としてお立てになられた主イエス・キリストの父なる御神、まだ敵であったとき、まだ罪人であったときに、あなたが、彼を赦されました。まさに主イエス・キリストの福音そのものにあずかりました。天の父よ、私どもも同じ、福音の力にあずかっています。この福音を深く教え、体験させてください。福音によって今までの人生があり、自分があることを確信し、これからも倦むことなく、全力で、あなたを信じ、信仰の道を歩み、走る者とならせてください。私どもがどれほど小さな拙い器であっても、しかし、この土の器に福音の宝が盛られている限り、自分を誇り、人と比べず、自分の人生を極めてゆくことができますように。