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「使命に生きる教会」

「使命に生きる教会」
2008年9月7日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章22-29節①

「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」

9月に入りました。ちょうど4年前の9月の第一主日、「世界の中心で」という説教題で、ローマの信徒への手紙の講解説教を始めました。当時の世界の、まさに中心、今日では比べることができないほど、圧倒的な権力を誇ったローマ帝国の首都に世界で、福音を語る。語りたいと願うパウロがいました。そして、その中心には、すでに福音が届けられ、教会が誕生していました。

そして、使徒パウロは、この手紙の冒頭、挨拶のところで、こう書き送っています。10節、「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」パウロは、ローマの教会のキリスト者のため、そしてそこに行けるようにと、祈りのたびに覚えているわけです。それほど心に留めている教会の一つがこの教会です。さらに、続けて、ローマ教会訪問の目的を記します。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

使徒パウロは、ローマの兄弟姉妹たちに、霊の賜物を分け与え、力になりたい、互いの信仰によって、励ましあいたいと願っているわけです。つまり、お互いの交わりを心から求めているのです。15章24節にあるように、「しばらくの間でも、あなた方とともにいる喜びを味わう」キリスト者の交わりの幸いをパウロ自身よく知っているのです。キリスト者と共に集い、霊的な交わり、共に祈り、共に礼拝を献げ、御言葉を学ぶときそこにまさに、天の喜び、天国の喜びが与えられます。ですから、パウロは、それを求めているのです。しかし、現実には、こう続きました。「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。」まさに、今日の今日まで、「妨げられて」いるわけです。

さて、第15章22節で、パウロは、「こういうわけで」と申します。つまり、こういうわけで、ローマ教会に行けなかったのだと、その理由を記したのです。そしてそれは、しかたのないことでした。なぜなら、パウロは異邦人のための使徒として、まだ福音を聞いたことのない人々のところへ行くことを優先しなければならなかったのです。そこに、神から与えられた使命があったからです。その意味で、おかしな言い方になるかもしれません。しかし、わたしはこう思います。「妨げられてきた」その最大の理由は、神さまにあるということです。

いったい、神が伝道を妨げる、そのようなことがあるのでしょうか。そこで直ちに思い起こすのは、使徒言行録第16章の記事でありましょう。そこに、福音がはじめてヨーロッパ大陸に渡ることとなった不思議な経緯が記されているのであります。長いですが、お聴き下さい。「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」神が禁じることがあるのです。そしてその後に有名な、パウロが見た幻が紹介されます。「わたしたちを助けてください」とのマケドニアの人々の叫びであります。その意味で、実に、いつでも私どもが、わきまえるべき重要な真理がここに明らかにされているのです。つまり、福音の伝道、教会の形成、これは、神の主権の御業であるということです。人間の企てではないということです。徹底的に、教会とその働きは、神のお働きであるということです。

私ども教会は、自分の計画を主にゆだねるのです。ゆだねなければならないのです。もとより、教会は年間計画を立てます。予算を立てます。そのようにして、新しい一年を踏み出します。しかし、もしも、皆さんが、何よりも伝道所委員が、「計画以外のことはしません」という姿勢でいれば、それは、結局、神を計算にいれないということではないでしょうか。一年を振り返り、計画通りしましたということで、満足するのではなく、むしろ、私どもの計画をはるかに超えたかたちで、神の御業がなされることを期待し、それに従う教会となることを祈り求めるのです。神が私どもの計画を妨げることがある、それを私どもは真剣に考え、私どもの奉仕、わたしどもの信仰の人生がまさに、神の御業、聖霊の道具なのであることを、かみ締めたいのです。

先々週学びました、私どもは神の鉛筆であります。鉛筆は、自分勝手に動けない、動いてはならないのです。神に握られ、神に導かれて、記されてゆく道具なのです。パウロの人生そのものが、それを見事に証ししているのです。

実は、多くの学者が、指摘することですが、使徒パウロは、実際には、イスパニアにまで行けなかったと言うのです。ローマで殉教したのだから不可能であったというわけです。それを断定することもまた難しいと私は思いますが、しかし、いずれにしろ、イスパニアに行ったかどうか、それが、決定的に重要なことではありません。使徒パウロが、はるかイスパニアを目指し、地の果てまで異邦人のために、福音を宣べ伝えようとして、神に従ったこと、これこそが、重要なのです。私どもに遺したパウロの真実の、すばらしい信仰の遺産なのです。

さて次に、今朝、与えられたこの箇所、ここでの文章を何度も読み直して、やはり思うことは、これは、とても複雑な文章だということです。込み入っています。いったいパウロ先生の本音、それは、どこにあるのだろうかといぶかる方も出てくるのではないでしょうか。

パウロはこう言っているのです。「ローマにぜひ行きたい。しかし、福音を聴いたことのない人々に宣べ伝えることこそが、自分の使徒としての使命であるから、のびのびになっていた。しかし、ついに、エルサレムからイリリコン州まで、福音をあまねく宣べ伝えたので、いよいよローマの皆さんたちに会って、自分に与えられている霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい、お互いの信仰によって励ましあいたい。祈りのたびに、ローマの信徒たちのことを祈っている。それは、神が証ししてくださること、本当のことだと」

これほどまで、ローマに行くことを楽しみにしていたし、遂に、その道が開けたと書きながら、いかがでしょうか。ところが、パウロは言うのです。「その前になお、しなければらないことがある。」それは、もう一度エルサレムに戻って、かの地の教会にいる貧しい人々、教会のために献金を持ち運んで行かねばならない、そう言うのです。しかも、なおことは複雑です。ローマには、行きたいし、行くけれども、ただしそこに定住はしない。安住しないというのです。自分としては、あなた方の力を借りて、イスパニアに伝道したいと言うのです。

わたしはこのような使徒パウロの手紙を読みながら、最初の読者たちは、どのように受け止めたのかと思います。パウロは、本気で、本当に、このローマの教会を信頼し、信用していたのだと思うのです。14節で、こう言いました。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」本当に、そう信頼していなければかけないような文章だと思います。ところどころかなり思い切って書いたと振り返りますが、今ここでも、思い切った書き方だと思えてならないのです。

しかし、わたしはまた同時に、この教会もまた、パウロの心、パウロの本音、パウロの深い思いを理解できたのだと考えます。パウロの信仰の思いを共有できたと思います。その意味で、深く、信仰によって心が通い合ったと思います。それは、結局、パウロもローマの教会も、ただ神の栄光のために生きようと考えていたということです。

確かにローマ教会としては、使徒パウロ先生という、ビッグネーム、比べることのできないような有力な伝道者に自分たちの牧師、自分たちの監督として赴任していただいたらどれほど光栄かと思ったでしょう。その先生と親しく交わり、指導を受けられたらどんなに幸せかと思ったことでしょう。しかし、彼らは、自分たちのそのような思いに負けないのです。つまり、使命を優先するのです。
いったい、教会の交わりとは、何でしょうか。それは、決して、仲良しクラブではありません。同好会ではないのです。家族的な親しさとか、長く一緒に信仰の生活をした者どうしの仲のよさ、もとより、それを否定することはありません。しかし、万一にも、それが前面に出るようになれば、教会は、たとい傍目には順調で、問題がなく、楽しいかもしれませんが、神の御眼には、危機です。つまり、教会は、神のために、ただ神の栄光のためにあるのです。その使命を見失って、あるいは、それを後回しにして、自分たちに居心地のよい教会を造ろうとするなら、知らない間にそうなってゆくなら、それは、致命的な危機です。私どもは、使命に生きる交わりを造るのです。神から与えられた使命を、お互いに励ましあいながら、担うのです。ですから、ローマ教会の使命は、この使徒を教会をあげて支援することとなります。また、使徒パウロもこの教会の支援を受けて、エルサレムに行くこと、そして遂には、イスパニアに赴くことへと神からの務めを果たすのです。
使徒パウロにとってローマは、ゴールではないのです。わたしは、そのことを考えると何か空恐ろしい思いすら抱きます。先週も学びましたが、神の声、主イエス・キリストの私どものために執り成し祈っていてくださる声を聞いた人、その罪を赦され、恵みによって神の子とされた者にとっては、地上的な、人のうらやむようなポジション、立場、役職に就けば、人生ゲームで言えば、上がりのようには決してならないのです。福音は、私どもをいつでも、これでもうよい、安泰だ、悠々自適の生活が待っているというようなことにはさせないのです。

パウロは、考えます。あのローマの教会であればこそ、つまり、ローマのように強い教会、基礎が整った教会であればこそ、パウロを「送り出す」教会として十分な教会であるし、送り出してくださるに違いないと考えているのです。送り出すとは、どういう意味でしょうか。それは、軽い意味ではありません。旅の途中で立ち寄らせてもらいますというようなことでは、ないはずです。使徒を、今日で言えば、宣教師として派遣する母体となるということです。ローマの教会に期待するのは、自分を派遣する母体、今日で申しますと、支援団体です。もとより、伝道者を送り出すべきは、基本的には、教会ですから、派遣教会と言ったほうが正確になります。教会がその全責任を負って、伝道者を宣教師として派遣するのです。例えば、私どもの敬愛する後藤公子宣教師は、日本キリスト改革派教会、大会からインドネシアに派遣されていました。そのような意味で、ローマの教会が派遣する。お金を出すことです。あるいは、同行する仲間たちも必要でしょう。語学ができる人、地理に詳しい人、何よりも伝道の心に熱く燃えている人が、伴って行けるなら、心強いでしょう。

「イスパニアへ向けて送り出してもらいたい」とは、そのような意味が込められているわけです。そして、ローマの信徒たちも、すでにこの手紙をここまで読んできたのであれば、本当に、自分たちもまた、この福音によって神の平和、神との間の平和、平安を受けている以上、地の果てのようなイスパニア伝道に使徒パウロを送り出すことによって、共に福音宣教の働きにあずかりたいと願ったのではないでしょうか。そして、共に一つの使命、福音を宣教し、そこにキリストの教会を建てあげ、そのようにして、地上に神の国の前線基地、橋頭堡としての教会を造り、それを世界中に点在させ、そのようにしてこの世界に平和の砦、拠点を作ること、そのようにして地上に神の国を拡大させるのです。それが使徒パウロの使命でありますし、それはまたローマ教会の使命そのものなのです。そのようにして使命を一つにする、働きは違いますが、しかし、福音宣教の使命を担う教会として、パウロはローマの教会を見なし、ローマの信徒たちも、それを意気に感じ、パウロを支えたと思います。

さて、それならなぜ、今は、エルサレムに行かねばならないのでしょうか。それは、来週の説教にもすでに深く関わります。パウロは、ここで「マケドニア州とアカイア州の異邦人教会の人々が、エルサレム教会に喜んで献金した」と言いました。それをローマ教会にも伝えているわけです。おそらくパウロの心の中には、当然、あなたがたもエルサレム教会に献金を送って、彼らを助けるべきだという思いが込められていたのではないでしょうか。しかも、それは、ごくごく当然のこととしています。27節でこう言います。「実はそうする義務もあるのです」義務がある。責任があるのです。この御言葉を思うとわたしは直ちに、序文の挨拶を思い出します。第1章14節にこう書きました。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
パウロは、福音の宣教の責任を言います。自分のような者、つまりキリストを迫害し、キリストの教会を迫害した罪人の頭が、一方的にその罪を赦され、ただ恵みによって神の平和を受け、この上ない喜びと祝福とにあずかっているので、この祝福、この幸いをもたらした福音の真理をどうしても告げ知らせる責任があると言います。それは、言うまでもなく、私どもの責任です。この責任を、私ども岩の上教会も共有すべきですし、共有していると信じています。

それと同じようにパウロは、献金のことも申します。異邦人諸教会は、エルサレムからもたらされた福音によって救われたのです。その意味では、エルサレム教会は、まさに教会の本山、教会の出発地、母なる教会です。ですから、エルサレム教会が、激しい迫害の真ん中で、労苦しているのであれば、同じように世界中にある諸教会も裕福ではなかったかもしれませんが、自分たちのことだけを、考えてはならないと言うのです。教会は、単独では存在しないということがここで当然視されています。自分たちの教会のことは、自分たちだけでする。それは、実は、教会らしからぬ態度なのです。日本キリスト改革派教会は、日本の各地のそれぞれに中会を形成しています。東北、東部、東関東、中部、西部、四国、六つの中会が大会を構成し、それが日本キリスト改革派教会です。現住陪餐会員の私どもは、中部中会と大会のために、自動的に献金しているわけです。いわゆる負担金です。年間100万円ほどです。しかし、私どもはそれ以上に、中部中会より伝道支援を受けている伝道所なのです。経済的自立、自給は、私どもの責任です。しかし同時に、献金を受けている伝道所は、常に、諸教会からの祈りを受けていることをそこで意識すべきでしょう。そしてそのような仕方で、自分たちが大きな教会の一部であり、中部中会が一つの教会であるということを、身をもって理解させられると思います。

最後に、私どもは、ここでのパウロの言葉遣いに注目したいと思います。ここで「貧しい人々を援助することに喜んで同意した」「援助」とある言葉は、大変有名なギリシャ語です。それは、コイノーニアと申します。多くの場合、それは、「交わり」と言う意味です。教会にとって特別に重要な言葉の一つです。ですから、私どもでは、ディアコニアというギリシャ語に親しんでいますが、コイノーニアという言葉も負けず劣らず、教会のなかでそのまま用いる場合が少なくありません。教会とは、聖徒、キリスト者の交わりであるというのは、使徒信条の中で告白されている教会理解です。キリスト者相互が交わりをする。そこに教会がある。その交わりの中核にあるのは、言うまでもなく、主イエス・キリストです。各々が、主イエス・キリストとの交わりがあって、それゆえに、ばらばらではなく、キリスト者は、キリストにあってお互いが交わりを与えられているのです。これが、教会の基本的理解です。キリスト者とは、この交わりの外で生きることはできません。教会なくして信仰なしと言えるのです。イエスさまのおかげで、私どもは神の家族、キリストの兄弟、姉妹とされたのです。そして、まさに本日、お祝いする聖餐の礼典こそが、目に見える形で、キリストの交わりにあずかる祝福の手段です。そして、聖餐の食物、飲み物を受けるとき、お一人のキリストの御体と御血にそれぞれがあずかりますが、一緒にあずかるわけで、一つのパンを裂きながら、食べるのです。そして、お互いが一つの体に結ばれていること、それを交わりと申しますが、その交わりを聖霊によって与えられていることを保証され、記し付けられるのが聖餐の礼典です。

しかし、ここでパウロはコイノーニアを、献金の援助に用いています。献金することが、コイノーニアであるという理解です。他教会、エルサレム教会と結ばれて、ローマの教会もまた一つの全体教会の一部分である自覚が増すのです。そのようにしてキリストの体の交わりにあずかるのです。
献金を捧げて援助すること、つまりコイノーニアという理解です。さらにまた、この御言葉にも注目しましょう。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」

ここで霊的なものにあずかるという「あずかる」ということばもまた、コイノーニアという言葉が用いられているのです。交わりです。福音を届けられた、福音の恵みにあずかるのもコイノーニアです。その意味では、肉のもの、お金も霊的なものも、イエスさまのため、神のために全部、霊的なものになると言えると思います。キリストにある教会の交わりをつくるのです。それが献金であり、福音の恵みなのです。しかもさらに驚くべきことは、「献金で彼らを助ける義務」といったとき、「助ける」という言葉は、レイトルギア、しばしば礼拝、礼拝式と訳される言葉です。献金で礼拝するのです。私どもは、まさに献金を礼拝式の中で捧げます。レイトルギアはまた、奉仕という意味でも用いられる言葉です。特に、神への奉仕として用いられます。献金することが神奉仕、神礼拝になるのです。用いるのは、神さまではなく人間です。

今、エルサレム教会の会員たちは、窮乏の中にいるのです。その第一の理由は、ユダヤ人社会の只中で、キリスト者として存在しているからです。つまり、生活の基礎は、ユダヤ教とのかかわりのなかにあります。わたしは、名古屋に来る前に、豊田の町には、トヨタの車しか走っていないと聞いたことがあります。トヨタの系列のさまざまな会社、工場が近くにあるわけですから、その中では、必然的にトヨタの車を選ぶことになるのは、よく分かります。しかし、エルサレムで、ユダヤ社会の中心地で、キリスト者として神殿から距離を置いて生活を始めるなら、職業生活の面で、実に厳しい立場に立たされることは、容易に想像できます。しかし、彼らがエルサレムを離れず、そこでキリストの教会として伝道することは、大きな意味があります。しかも、やもめたちの世話を初代のエルサレム教会は熱心にしていたことは、使徒言行録によって明らかです。ですから、自分たちだけでも容易ではないところを、彼女たちをも支えるエルサレム教会は、困窮の中にあったのはよく分かります。しかし、皆で、自分のものを献金して、そのようにして貧しい人々の生活を支え、助けたのです。それこそが、まさにレイトルギア、神奉仕なのです。

そして世界に散在するキリストの教会が、皆で力を合わせ、助け合う交わりを築く、それが、使徒パウロにとって、まさに福音の力なのです。キリストは一つ、教会は一つ、そしてその教会の交わりを結ぶ絆として福音があり、福音の宣教があり、福音の宣教者パウロがいるのです。

私どもの教会もまた、この使命に生きる教会として存在しています。使命を共にする交わりです。これこそ真実の交わりであり、これを重んじるのです。そのようにして、いよいよ、他の教会を援助する教会となりたいのです。霊的な恵みを共にあずかることによる交わりをいよいよ深めたい。

祈祷
私どもに教会の交わり、共に生きる兄弟姉妹、共に一つの使命を与えられ、その使命に生きる仲間、交わりをお与えくださいました主イエス・キリストの父なる御神。ともすれば、私どもは、この交わりそれじたいで満足し、時に居心地の良さばかりを求める誘惑があります。そのようにして、パウロのようなはるかかなたを目指して走る信仰、使命に生きる信仰ではなく、信仰の幸いそれだけを目的にしてしまい、霊的に眠り込んでしまう誘惑があります。しかし、御神、絶えず目覚めさせてください。福音を宣べ伝える負債を負っていること、貧しい人々、教会を援助する義務を負っていること、そのように、熱心に、自分たちの計画実現を求めるのではなく、ひたすら神のご計画実現に奉仕する教会、神の使命に生きる教会として、御前に立たせてください。アーメン。