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「使徒よりの教会形成」

「使徒よりの教会形成」
2008年9月29日(教会全体研修会)
聖書朗読  テサロニケの信徒への手紙一 第1章5-8節

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」  

私ども名古屋岩の上教会は、今年で、開拓伝道を開始して14年を迎えています。来年は、15周年の記念のときを迎えます。本日は、今年度の計画の中で、最も大切な集会の一つを、午後に開催いたします。教会全体研修会です。 

さて、言うまでもないことですが、15年前には、この名古屋の地に、この地上に、この教会は存在していませんでした。しかし、今は、ここにあります。どうしてここに神の教会があるのでしょうか。神の教会、-わたしは、いつも、こう語るとき、驚きを禁じ得ません。-ここに神の教会が、存在しているのは、何故なのでしょうか。

 その問いに対して、明らか応答する箇所が、今朝の説教のテキストである、テサロニケの信徒への手紙一第1章6節です。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」今まで存在していなかった教会が、ここにあるということは、つまり、「ひどい苦しみ」の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた人、キリスト者がいたからです。

 「ひどい苦しみ」について、あえて少し語ってみたいと思います。私も開拓伝道に従事してきた牧師として、自分の全存在を根本から揺さぶられるような苦しみを味わいました。そればかりか、実生活の上での困窮も経験させられました。そもそも、牧師として奉仕を開始したところが、開拓伝道でした。礼拝堂も何もないところから、牧師の生活が始まったのです。生活の面でも、厳しいところを通りましたが、それは、覚悟の上でのことでした。しかし、この教会の開拓伝道のときは、会堂建築のために思い切って献金した後でもありましたし、経済的支援のないところでの自給開拓伝道になりました。幸いに、子どもたちは、まだ小さくて、学費などがかかりませんでしたから、助かりました。

 「ひどい苦しみ」、これはしかし、わたしのことをつらつら、述べることもありません。何よりも、教会に導かれた方の多くは、ご自分の生涯のなかで、平坦な道を歩んでいたときではなく、むしろ「苦しみ」の只中で導かれた方だと思います。そのような、自分の人生ってこれでよいのだろうかと、何なのだろうかと立ち止まって考えるように、言わば、追い込まれた方だと思います。しかし、キリスト者になったとき、その苦しい経験のことを、むしろ、肯定的に受け止められるようにまでなってまいります。

さてしかし、当然のことですが、「ひどい苦しみ」を受けるのは、何も、私どもだけではありません。多くの方が、それぞれの苦しみを味わい、それに耐えながら、付き合いながら生きていると思います。ですから、「ひどい苦しみ」を味わった人であれば、その経験によって、神の教会がそこにできるということでは、決してありません。教会がそこに形成されるということは、その苦しみのたた中で、驚くべきことが起こる、起こったからなのです。つまり「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」るという驚くべき出来事が起こったからであります。

「御言葉を受け入れる」それは、具体的にはどのようなことでしょうか。聖書の御言葉を読んで、そこに書かれている内容を頭で理解して、受け入れたということでしょうか。それを否定するわけにはまいりません。しかし、この手紙で、ここで言われていることは、はるかに大きなことです。
 神の言葉を受け入れる、聖霊の喜びを伴って聴く、それは、信じて聴き取るということに他なりませんが、聖書の説教がそのように聴き取られるとき、まさにそこに神が、神の教会を起こしてくださるのです。お立てくださるのです。それは、聴いた人の力というのより、むしろ徹底的に、神の力、神の御言葉の力なのです。この力が信じる人に働くとき、彼は、神の民の一員となり、キリストの体なる教会へと入り、自ら、その体の一部分としての生き方を始める。こうして、地上に、キリストの教会、神の教会が出現するのです。

 これは、テサロニケの教会だけのことではありません。私どもの教会のことでもあるのです。私どもの教会もまた、このテサロニケの教会と同じであります。説教者である私自身も、この教会の聖なる伝統を継承することを目指しました。これ以外では、教会は立たない、教会にならないと信じたのです。悟った、体験したのです。ですから、私にとって説教することが、神から受けた務めなのです。これをしなければ、わたしは、神の器ではないし、天からの使命、召命に背くことになります。端的に申しますと、罪を犯すことになるということです。わたしの言葉が、しかし、信じられるとき、信じて受け入れられるとき、そこに教会が起こる。開拓伝道は、まさに冒険でした。本当に、聖書どおりなのか。まことに、ここで記された形、原型は、普遍的なものなのか、本当に、神は、そのように今日もまた同じようになさるのか、これは、私にとっての大きな挑戦でもありました。しかし、私どもは、すでにこの目で見ています。まさに、ここに神のものなる教会が形成されているのです。

 そして、教会の形成とは、常に形成され続けるものです。それは、たとえば、自転車が立っていられるのは、常に、前へ進む限りにおいてであるのと同じです。教会こそは、常に、御言葉を神の言葉として聴き続ける限り、教会となり続けることができるのです。教会は、ここまで来たらもうよいというような、目標の度合いは、達成の度合いはありません。「御言葉によって絶えず改革される教会」という、私どもが先輩たちから譲り渡されて参りました教会のモットーは、まさに聖書的真理そのものです。御言葉を繰り返し受け入れるとき、教会は、新しく教会となる。つまり、御言葉が神の言葉として受け入れられるとき、御言葉の力がこの現実に、この「ひどい苦しみ」の只中で、教会を起こす、形成する力となるのです。

 しかも使徒パウロは、「聖霊による喜び」をもってと申します。使徒パウロが説き明かした旧約聖書、主イエス・キリストの十字架と復活によって新しく解釈され、隠されていた真理が明らかにされました。しかし、そのような言葉を、理解することは、信仰によるわけですが、その信仰こそは、天からの賜物に他なりません。そこに、聖霊のお働きがあります。聖霊が注がれたとき、私どもは、聖書の御言葉が、ただの人間の言葉ではなく、神の啓示、神の御言葉としての権威、力をもって受け入れられるようになります。そして、その力が、私どもの生きる力となります。そして、福音の事実にあずかった故に、救われた故に、喜びを注がれ、「ひどい苦しみ」の只中で、しかし、喜びに溢れることができるのです。御言葉を信じて救われたら、直ちに、苦しみがなくなるわけではないのです。そのことは、聖書のどこにも保証されていません。記されていません。しかし、その只中で、聖霊の喜びがある。なんと不思議なことでしょうか。まさに、それが救い、神の御業です。天国が、この苦しみの多い地上で確実に始まってしまうのです。信じる人、御言葉を受け入れる人の上に、天国が始まるのです。それゆえに、この地上に神の国の現われである教会として形成されるのです。

さて、これまでの議論は、言わば、客観的な「しるし」を問いました。まことの教会を識別する基準であり、判定する材料です。小学生のとき、リトマス試験紙で実験をしたことがあります。酸性、アルカリ性を確実に客観的に判別します。例えば、教会は、洗礼入会志願者たちを試問します。誰に洗礼を授けるのかを教会が決定しなければなりません。確かに、厳密に申しますと、客観的に判定することは、神さまでなければ、できません。しかし、神はご自身の教会にそれを委ねられました。教会はその責任をもって、この畏れ多い権能を執行しなければなりません。そのとき、何を尋ねるのか、何を基準にするのかと言えば、第一に、その人の人柄や熱心さではありません。世々の教会が継承してきた信仰の言葉、信仰告白を受け入れるかどうかということに集中するのです。これが、我々の伝統なのです。これからも、動かすことはできません。ぶれてはなりません。
 
さてしかし、実は、使徒パウロは、そこで終わらないのです。教会が地上に起こる、形成されるためには、なおその先があるというわけです。このことは、特に、今日の私どもにとって、名古屋岩の上伝道所にとっても、日本キリスト改革派教会中部中会、日本キリスト改革派教会にとっても、極めて重要な事柄です。

それは、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」です。ここでの、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それは、使徒パウロを中心に、この手紙の共同の執筆者たちのことが第一にあげられます。つまり、パウロ、シルワノ、テモテの三人です。伝道チームです。倣うとは、どのような意味でしょうか。真似ることです。パウロ、シルワノ、テモテの何を真似るのでしょうか。
第一には、彼らの交わりの姿ではないでしょうか。そこに、教会の交わりの原型があります。自分たちの使命において一致して、共に生きたのです。運命共同体と言っても良いかもしれません。平和の絆で結ばれて、共に祈りあい、共に励ましあい、共に学びあい、共に、生きたのです。この小さな共同体は、教会とは呼べませんが、教会のあるべき交わりの姿のモデルとなります。

第二に、彼らが、宣べ伝えている福音の宣べ伝え方を真似るということです。それは、福音と言う情報、言葉を録音機で録音することではありません。彼らの説教を原稿に起こして、印刷することではありません。彼らが、主イエス・キリストを信じ、従い、主から受けた務めを、誠実に、しかも命をかけて語った、その語り方に倣うのです。真似るのです。つまり、それは、生き方のことです。生活の仕方のことです。全存在のことです。使徒たちは、主イエス・キリストに倣い、真似て生きています。私どもは、使徒たちに真似るのです。

そのようにして、結果的に、私どももまた主イエスに倣うことになるのです。そしてそれは、御言葉を受け入れることと別のことではありません。一つのことです。御言葉が私どもをそのように促し、そのようにさせてしまうのです。その意味では、御言葉を受け入れるということは、単に知的な営みではありません。頭の中で、分かる。認識する、それだけなら、信仰ではないのです。この知識は、単なる知識ではない。キリスト教の知識は、私どもの現代世界を紐解くために、必須の知識です。まさに一般教養として、不可欠のものです。グローバルスタンダード、世界基準、世界標準として、聖書やキリスト教の知識、思想を理解することは、およそ知識人としては、最低限のことです。
 しかし、それを信仰とは呼びません。信仰とは無関係です。倣うとは、知識が生き方になるということです。私どもはそれを、体得と呼んでまいりました。体で得る、身につけるのです。

 パウロは、このように申しました。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」福音の宣教、説教とは、「ただ言葉だけによらない」というわけです。日本では、「言挙げせず」と言うことが主張されます。これは、神道の考え方です。神道には、文書化され、体系化された教理、教えというものがありません。それを試みた歴史があります。キリスト教との出会いによります。ところが、それは、どう試みても不可能なのです。そこで、神道の関係者は、むしろ、これを肯定的に主張するわけです。

しかし、このような考えが、いかに世界の中で、理解しがたい日本人像をつくっているかです。日本人の顔が見えない。何を考えているのか分からないということです。我々は、自分たちだけの狭い間柄だけで通じる、厳密に言えば通じていると錯覚する擬似的な家族関係を重んじます。ですから、しばしば、この家族関係をなじまないような存在に、排他的になります。
さて、それに反して、キリスト教という宗教は、徹底的に厳密に、言葉で言い表すことを基本にします。「はじめに言葉があった」「神は仰せられた。光よあれ」その意味では、私どもは徹底して、言葉の宗教なのです。

私どもは、聖書に教えられ、「言葉に命がある」と確信しているのです。言葉が、もし、言葉、「言の葉」であれば、つまり、事柄が伴っていなければ、死んだ言葉でしかありません。霊的な、命を持つ言葉ではありません。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅱのなかで、こう主張しました。「文字は殺しますが、霊は生かします。」「文字は、殺す」と言うのです。要するに、文字とは、死んだ言葉という意味です。聖書に記された文字。それは、間違いなく神の言葉です。ところが、それが、聖霊による喜びをもって受け入れらなければ、ただの文字のままです。聖書が本棚にしまわれたままなら、ゴミ箱に捨てられているようなものです。生きて働かないのです。死んだ言葉でしかないのです。その意味で、私どもは、ここで言葉を聴いているのです。神の命の言葉、本物の言葉を今、聞いているのです。

 私どももまた、あの人は、「口だけ」の人と言われたら、それは、その人の人格、全存在を否定するような、批判です。そう言われないために、何も言わなくなるというのも、口だけの人とほとんど同じことでしょう。
 使徒パウロは、言葉と行い、言葉と現実とを分けて考えません。もともと、旧約聖書の確信とは、神の言葉が語られたら、必ず、実現、成就するということでした。詩編第147編「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」イザヤ書第55章「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 パウロもまた、この御言葉の力を体現しています。彼自身こそ、御言葉がつくった人間です。自分で自分を成長させたり、自分の内側の思い、計画、能力が彼を彼たらしめたのでは全くありません。パウロは、神の言葉を聖霊による喜びをもって受け入れたからです。その結果、主に倣う者となったのです。結果です。

使徒パウロは、申しました。「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」「力と聖霊と強い確信」、これらは、決して、御言葉と他に別のものがあるということではありません。ときどき、極めて残念ですが、御言葉だけでは、足らないなどという、おかしな主張をする教会がありますが、断じて、そうではありません。むしろ、御言葉そのものが、これを受け入れる者に力を与えるのです。本当に強い確信です。どんな力あるこの世の権威でも捻じ曲げることのできない、押さえ込めない福音に生きる確信、福音の宣教を第一にしなければならないという確信、福音が真実なもの、神の恵みの真理であるという揺るぎない確信を与えるのです。御言葉こそが、聖霊をあふれるほど注ぐ通路になるのです。

実に、御言葉が、パウロを走らせたのでした。世界中にそして世界の果てまで、伝道させた力は、それを担うための強い確信は、ひとえに御言葉から与えられたものです。神の言葉、福音が、パウロを使徒パウロにした。福音の作品として、使徒パウロが存在しているのです。
しかし、そこで、御言葉と力とを強調するのは、気の利いた言葉だけを誇りとする伝道者への対抗という思いが込められているのでしょう。御言葉の真理を裏付けるもの、いわば、しるしとなるものが、実際の生き方、倣うというあり方にあると、彼は信じ、強調しているのです。

神の命の言葉そのものであられるのは、主イエス・キリスト御自身です。このお方が語られた言葉は、すべてこのお方と一致するのです。言葉と存在が一致してしまう。私どもは、それだけを取ってみても、イエスが神であられると認めざるを得ないと考えます。主イエスが、その友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はないとおっしゃったとき、まさに、イエスさまが、十字架で、命をお捨て下さったとき、わたしは、イエスさまの友とされたのだと知りました。本当に、主イエスの語られた愛と行われた愛は、一つなのです。ここに言葉と行いとが完全に一致した御言葉なる神の姿があります。

 私どもは、神の命の言葉を、聖書を通し、その説教を通して今日も、聴いています。説教者としては、力と、聖霊と、強い確信をもって語っています。厳密に申しますと、いよいよそれを目指し、自分自身が御言葉の力の作品となるようにと、務めております。聖霊による喜びをもって、語ります。そして、それは、皆さんも全く同じです。御言葉が語る者、聴く者を、丸ごと、主に倣う者として整えてくださるのです。そこに教会の形成の原動力があります。御言葉が、受け入れられ、主イエスに倣う教会となるとき、その御言葉じしんが、教会を建てあげる、私どもが御国を受け継ぐ者とされるのです。

第一世紀、テサロニケ教会の信仰と生活によって、神の言葉、福音が全世界に響き渡っています。神の言葉、神の愛の鐘、神からの喜びの鐘、罪と死からの勝利の鐘、福音が、教会を鐘のようにして、鳴り響いているのです。言葉が、その人の存在によって共鳴するのです。スピーカーと箱の関係です。

いへ、それだけではありません。実に、ここで明らかにされたのは、テサロニケの人々が自ら語りだしているだけではないということです。彼らを見た人々が、彼らの信仰を伝えているのです。伝えた人たちは、おそらく驚きをもって伝えたのでしょう。「ひどい苦しみの中で」しかし、喜んで生きている。天国の喜びを覚えながら、味わいながら、御言葉を受け入れている、それは、まさに驚きです。苦しみがなくなって、ついに喜びの境地に至ったというのではないのです。苦しみの真ん中で、しかし、彼らの頭上には、天が大きく開かれ、神の喜び、聖霊による天の、永遠の、確かな喜びが与えられ、そこに生きているのです。この地上に囚われて生きていないということでしょう。横、水平の世界で、神の国が、すでにこの地上で始まっているという驚きが、この共同体を宣伝した人たち、口コミで伝えた人たちの関心ではなかったかと思います。

さらには、テサロニケのキリスト者たちが、使徒たちの生き方、あり方を真似て、そうして主イエス・キリストが生き抜かれた歩みを真似ている生き方にもショックを受けたと思います。その生き方は、ここに具体的には、記されていませんが、一言で申しますと、十戒を正しく生きるということだと思います。主イエスがお教えくださったように、十戒とは、要するに、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きることです。

 私どもの教会は、それをディアコニアとして学んでおります。神と隣人に奉仕する。仕えるあり方です。福音の言葉が、私どもを罪から救い、天国の民としてくださる、神の子としてくださるあの主イエス・キリストの十字架と復活のメッセージ、喜びの知らせが、宣言されます。しかし、そこに、その喜びに自ら巻き込まれ、体験している人が語りだすとき、世界中に巨大な鐘のように、鳴り響く、とどろき渡るのです。うるさい音ではありません。人間を優しくし、立ち上がらせる、神と人への愛へと駆り立てる音です。そして、そこでは、その音、情報、知識だけではなく、その鐘を鳴らしている人たちの存在もいっしょに伝わってゆくという、不思議な音です。

御言葉を語る人、音を出す音源は、もとより神ご自身、聖霊御自身ですが、聖霊は、キリスト者を共鳴版としてお用いになるのです。小さなスピーカーでも、共鳴板さへしっかりしていれば、驚くようなクリアで、豊かね音色が出ます。

名古屋岩の上伝道所は、小さな、とても小さな教会です。しかし、この小さな群れのことは、もはや、自分たちだけしか知られていないわけではありません。皆様にも、牧会通信で、お伝えしたこともありますが、インターネットで「子どもたちに人気の教会」と言うタイトルで、私どもの教会が紹介されていました。とても、びっくりしました。もとより、私どもが掲載したわけではありません。名も知らぬどなたかが、宣伝してくださったのです。「子どもたちに人気の教会」、なんとすばらしい教会でしょう。私は、それを見たとき、本当に、そうなりたいと思いました。私どもが自ら宣伝しなくても、キリスト者でない方が宣伝されるのです。私どものこれまでの夏のキャンプなども、まさにそうでした。
私どもが徹底して、苦しみの中にあって、聖霊による喜びに溢れて御言葉を受け入れ、使徒たちに倣い、主イエスに倣うなら、教会は、堅固に形成され、福音伝道は進展してまいります。それが、使徒よりの教会、使徒たちに倣う教会の姿です。私どもは、これまでもそれをひたすら目指して進んでまいりました。これからも進んでまいりたく願います。

午後、皆様からの発題を互いに耳を傾けながら、これまでの歩みを総括し、また、変わらぬ志、高い志を堅持し、志新たにして、進み行くための記念碑としたいと願います。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、この日本に神の教会が起こされて100年をはるかに越しています。この名古屋の町にも、私どもの教会が起こされました。使徒たちの伝えた福音が、ここでも伝えられ、あのテサロニケ教会と同じように、御言葉を受け入れ、主に倣う、主の民が起こされたからです。天の父よ、私どもの教会を、いよいよ祝福し、平和の福音を宣べ伝え、証しする共同体として、ディアコニアに生きる群れとして形成してください。召し出された一人ひとりの兄弟姉妹が、今、厳かな思いで、あなたの御心を確信し、自分を神に喜ばれる供え物として献げ、あなたの栄光のために用いてください。
アーメン。