「神の平和をつくる人々」
2008年10月12日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章1-16節②
「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。 わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。 真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」
4年間に渡って、ローマの信徒への手紙を読み、そこに記された福音の真理に導かれ、励まされながら、皆様と礼拝式を捧げ、この町で名古屋岩の上教会の形成に励んで参りました。
さて、わたしはローマに行ったことがありませんし、そもそも、この手紙が読まれた2000年前のローマのことは、さらに遠い世界のことであります。しかし、この手紙を読み続けるなかで、時に、使徒パウロがそこに行くことを熱望したローマの教会、その教会を構成しているキリスト者、教会員たちはどのような人々であったのだろうかと、どのような状況のなかで、戦いのなかでこの手紙に耳を傾けたのか、思い巡らすことがありました。とても、興味があります。4年ものつきあいになりますから、彼らのことを、時空を越えて、自分たちの仲間のような気持ちすら抱いてしまいます。不思議な感覚です。
今朝は、先週に引き続いて、ローマの信徒への手紙の最後の章を読みました。そこには、26人ものキリスト者その一人ひとりのお名前が記されています。皆様は、私どもの教会の現住陪餐会員が何人であるかさっと言えるでしょうか。何人というとたじろぎます。しかし、朝夕の祈祷会の折に、「祈祷会のしおり」を用いて、土曜日の箇所にあたった方々は、手分けをして、そこに記されている現住陪餐会員そして、他住会員、いへ、すでに他の教会に籍を移しておられる方々のために執り成しの祈りを捧げます。その一人ひとりの名前を、祈りのなかで覚えているはずです。
今、奉仕している大学は、後期が始まっていますが、降誕祭の季節には、何人かの学生たちが、私どもの教会の礼拝式にも出席されることと思います。大変、率直に申しますと、そしてとても恥ずかしいことでもありますが、出席される学生の名前と顔とは、まだまだ一致しません。わたしの目も悪いのからですが、後ろの席に座っている学生の顔ははっきりと見えません。これは、本来、聖書を講じる場合に、大きな問題です。もともと福音は、顔と顔を合わせ、膝を突き合わせるようにして、証しされ、伝達されるべきものだからです。それは、福音にとって、大学という特別、特異の場所での関係だからそうなるのです。福音が本来持つべき、あり方ではないのです。
神が御子によって私どもを一方的に救ってくださったこの知らせ、つまり福音を聴いて、信じた者たちは、必ず、そこにキリストの教会をつくります。私どもは言わば、福音の作品であります。そもそも私どもは、教会の中で、福音を聴いて、これにあずかっているのです。それゆえに、信じた私どもは、洗礼を受けて教会に入会し、神の民の一員とされます。つまり、神の民の交わりをつくる奉仕者の一人となるのです。
福音は、これにあずかった者を決して、独りぼっちにはさせません。福音とは、神の平和の福音だからです。父と子と聖霊なる神は、私どもをこの交わりの中で生きる人間、神の子としてくださるのです。これが、救いです。救われた人間は、救われた者同士の交わりをつくるように召しだされています。それが教会です。教会は、平和の神によって、お互いの間にも平和の交わりをつくる家なのです。
平和の交わりを築く上で、最も大切にしなければならないこと、鍵になることは、一体、何でしょうか。それが、この手紙の最後の章にも、無味乾燥のような挨拶の文章のように読み飛ばされてしまいやすいこの章にも、豊かに記されています。
私どもは、今年、一人の兄弟を洗礼入会者を迎え入れることができました。また、一人の姉妹を結婚によって牧師夫人として送り出しました。現住陪餐会員は、差し引き、30名です。しかし、私どもにとって、30名という数ではなく、その一人ひとりの名前つまり、その存在に関心があるはずです。一人増えた、一人減った、と言う事ではなく、「あの兄弟が仲間に、家族に加えられた。あの姉妹が旅立った。」これが、私どもの関心であります。
使徒パウロのこの終わりの挨拶を何度も読みながら、しみじみ思うことがあります。パウロという大使徒、大伝道者、つまり大勢の人々に福音を宣べ伝えたこの人にして、一人の人間の重さ、一人の人間のかけがえのなさをよく知っているということです。これは、一つの驚きです。しかしまた同時に、驚いている自分に驚いている自分がいるのです。何故でしょうか。それは、あまりにも当たり前のことに、驚いているからです。神の御前に、私どもは30人として見られているのではありません。私どもの神は、皆様、お一人ひとりがどのような人生を重ね、信仰の歩みを重ねて来られたのか、つぶさに知っていてくださいます。使徒パウロは、まだローマの教会に行ったことはありません。しかし、そこには既に親しく知っている仲間が少なくないのです。彼らを26人として数えているのではなく、一人ひとりを親しく思い起こして、その一人ひとりを神に感謝しているのです。
この箇所を読みながらわたしは、教派は異なりますが、ある一人の牧師から伺ったことを思い出しました。彼が、ある教会の後任者として招聘される前に、その教会で説教したそうです。その後、お昼のときに、そこで何十年と牧会された牧師が、彼のために会員を一人ひとり立たせて、紹介をされたというのです。100名をはるかに越える大きな教会であります。しかし、丁寧に家族構成から始めて一人ひとりの信仰の歩みを語られて、一時間に及んだのだそうです。その先生は、到底、自分にはできないと仰いました。実は彼も、大きな教会の牧師をしていたのでした。牧師が会員、現住陪餐会員のことを知っているのは、当然のことであります。しかし、その当然のことが、実際には難しいことがあるかと思います。私などは、30名の、しかも開拓伝道からの牧師ですから当然のことでありましょう。しかし、わたしは、その話を聞いたとき、自分自身の牧師の姿勢を改めて省みるときとなりました。
実に、一人の重さ。それを本当に、分からせるものこそが、また、神の福音なのです。確かに、そのような言葉そのものは、ここに記されていません。しかし、パウロが一人ひとりの名前を読み上げたとき、「ああ、この人は、イエスさまの御血によって贖われ、神の子とされ、本当に自分の兄弟、姉妹とされた人なのだ、本当に神の御前にかけがえのない人間なのだ」このように、分かったのでしょう。
このわたし、そして皆様もまた、まさに御子の命と引き換えに、こうして礼拝することのできるキリスト者としていただいたのです。もしも、「自分なんか、どうなっても良い。自分ひとり、いなくても、この世界は、変わらないし、自分のことなんて誰も心にかけてもらっていない。」そのように、考えるなら、それは、まったく違います。神は、私ども一人ひとりを、その名前を親しく、愛を込めて、呼んでいてくださいます。名前がある。それは、偉大なことです。名前は呼ばれるためにこそ、あるものです。それは、人間に呼ばれるために大切なのではなく、むしろ、神さまに呼んでいただくためにこそ、大切なものであります。つまり、神さまに無視されている人間など、一人もおりません。
ところが、どうでしょうか。我々の方では、その神さまを無視しているのではないでしょうか。神さまを無視し続け、軽んじてきたのです。それがかつての私どもの姿でありました。しかし、今、ここで、聖書の福音を聴くことが許さました。主イエス・キリストがわたしの罪のために十字架で身代わりに死んでくださったことを知りました。自分が、この神さまに命をかけて愛されてきたこと、今も、その愛は2000年前とまったく変わらず、全力で、このわたしに注がれている。この恵みの事実を知り、体験している、それが、キリスト者の幸いです。力です。誇りです。
使徒パウロがここで名前を挙げている一人ひとりもまた、そのような御子の十字架の御血によって贖われた神の子たちの名前であり、存在なのです。かけがえがないのです。
しかも、ここで私どもは、使徒パウロが、このようにキリストにある兄弟姉妹、教会員の名前を具体的に挙げていることから、パウロ先生の伝道者、キリスト者としてのあり方をさらに考えてみましょう。先週、学びましたフェベやプリスカとアキラたちのことは、丁寧な紹介が施されています。しかし、最後に読み上げられた人々には、紹介はありません。「アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。」しかし、しっかりと名前が覚えられているのです。それは、すでに深い絆で結ばれているということを意味しているはずであります。
ここでわたしが思い起こしたもう一つのことは、「星の王子さま」というすぐれた書物のことです。もし時間があれば、サンテグ ジュペリのこの書物を、丁寧に読んで行きたい、研究したいと考えているほど好きな書物です。星の王子さまが、第七番目の星、つまり地球のアフリカの砂漠にたどり着いたとき、最初に蛇に会います。さらに、キツネに会います。他ならないこのキツネと王子さまとの出会い、その会話の中には、この書物全体のメッセージが込められているかのように大切なものです。
王子さまは、砂漠の真ん中で独りぼっちでした。自分の星には、たった一つだけ赤い薔薇が咲いていました。ところが、地球に来てみると、そのような赤い薔薇は、なんと数え切れないほど咲いてあったのです。それを知った王子さまは、とても悲しくなりました。ちょうどそんなところに、突然、キツネが現れます。キツネの方から、「こんにちは」と挨拶をかけてきます。王子さまもまた、「こんにちは」と挨拶をかえします。そして、王子さまは、「ぼくと遊ぼうよ」と言います。ところが、キツネは、こう言います。「君とは遊べないよ」理由は、「なついていないから」と語ります。
そこから意味の深いやりとりが始まります。「なつく」とは、何か。それは、「絆を結ぶこと」と、キツネは、言います。このお話を丁寧に解説するには、まったく時間が足りません。しかし、今、この「絆を結ぶ」ということが、ここでの御言葉を理解するためにとてもよい洞察を与える言葉だと思います。
「君はまだ、ぼくにとっては、ほかの10万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もし、きみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって世界にひとりだけの人になる。ぼくも君にとって、世界で一匹だけのキツネになる。」
なつくとは、絆を結ぶことなのです。その絆の結び方について、キツネの方が王子さまに教えるわけです。傑作です。絆を結ぶときだけ、私どもは友達になることができる、あるいは、恋人になることもできます。逆に言って、血の繋がった親子と言えど、この絆を結ぶことなしには、真実の親子にはなれないとも言うことができるかもしれません。
さて、それなら、使徒パウロは、ここで名前を記した兄弟姉妹たちとどのようにして、「なついた」のか。つまり、絆を結んだのでしょうか。それは、他でもない、信仰による絆です。さらに言えば、使命を共にする絆です。共に働いたことよる絆です。フェベは援助者でした。使徒パウロは、彼女の細やかで、しかも、本当に助けてもらいたいとき、そこにさっと助けの手を伸ばしてくれたのだと思います。プリスカとアキラは、福音の伝道のため共に働いたのです。
さらに「一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアス」さらに、「わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキス」たちがいます。使徒パウロとともに、一緒に捕らわれの身になった人たちであれば、まさに深い絆を結ぶこととなったはずです。
しかし、注目すべき事は、そのような人々だけが記されているのではありません。例えば、「わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。」彼は、パウロを助けているわけではないようです。パウロが信仰に導いた人、アジア州で初めて導くことができた人です。もしかするとそれだけかもしれません。しかし、パウロは、この求道者、そしてキリスト者になったエパイネトのことを、キリストにあるというだけで愛したのです。
ここで繰り返されている言葉があります。「主に結ばれて、主のために、キリストを信じる」という言葉です。「主に結ばれている愛するアンプリアト」です。「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサ」あるいは、「キリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキス」「 真のキリスト信者アペレ」この人々は、使徒パウロと直接のかかわりがどれほどあったのかよく分かりません。しかし、ただ主に結ばれていること、主イエスのために奉仕していること、主のために苦労していること、ただそれだけで、使徒パウロと深い絆で結ばれていたわけでありましょう。
ここにキリスト者同士の絆の不思議さ、特別さがあります。キリスト者同士の絆、なつくということは、キリストにある交わりによるものだということです。教会のことを基本信条の、使徒信条では、「聖徒の交わり」と告白します。キリスト者同士が主イエス・キリストにあって、主イエス・キリストにおいて一つとされている場所、神の一つの民とされているのが、教会です。その交わりの性格、性質こそは、平和であります。神の平和なのです。平和の源なる神がそこに御臨在され、その神によってそれぞれの場所から呼び集められ、一つにされている。そこに神の平和が映し出されます。天国の交わり、平和が反映されるのです。
その絆の原点、この平和の絆で結ばれあっている教会の原点は何でしょうか。それこそ、神がその独り子、御子イエス・キリストにおいて、決定的に、最後的に私どもに絆を結んでくださった、あの十字架にあります。十字架におかかりくださることによって、神から切り離され、神から遠く隔たって、敵として歩んでいた私どもが、神の一方的な愛と恵みとによって、神との交わりへと招かれたのです。神は、一方的に私どもに絆を結んでくださったのです。その絆を、聖書は「愛」と言い表します。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。』しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」第8章の最後の箇所であります。まさに神の平和の原点、十字架による平和つくりの真理が鮮やかにしめされています。
そうであれば、いったい誰が、わたしとイエスとは無関係だ、わたしと聖書の神、キリスト教とは無関係だと言えるでしょうか。神は、一方的に、関係を結んでくださったのです。私どもは、この神の平和の中に、今、招き入れられています。そのことを心から感謝する者たちであります。
それなら、使徒パウロとともに、いよいよこの平和の交わりを堅固に構築することが、私どもに与えられている使命であり、務めであります。
現住陪餐会員30名。これは、私どもにとってすぐに出てくるのです。しかし、わたしはなおあえて、付け加えて申し上げたいと思います。それ以外の会員のことも忘れることがないようにと思うからです。それは、一体どなたのことでしょうか。それは、信仰を離れ、あるいは捨ててしまった方々のことでしょうか。それもそうでしょう。今朝は、もう一つのことに集中したいと思います。
先週の伝道所委員会で一つのことが報告され、承認されました。それは、小さなことかもしれません。しかし、わたしにとっては大きなことであります。それは、すでに長く私どもとともに礼拝を捧げていてくださる方のお嬢様のことであります。もとより、その方は、ここに来られたことがありません。既に、天に召されておられます。その方の逝去一周年を記念する会を、この礼拝堂で捧げます。逝去者を覚えるのです。私どもの会員の中で、すでに天国に籍を移された方もおられるのです。聖徒の交わりとは、実は、地上にある、地上に生きている私どもキリスト者だけであると思うなら、それは、大きな間違い、勘違いであります。既に、天にあるキリスト者たちも教会の交わりのなかにあります。
さて、使徒パウロは、一人ひとりの名前を挙げて、「よろしく」「よろしく」と挨拶をします。それは、彼らを覚えているということです。忘れないということです。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第4章でこう言いました。「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」私どもキリスト者は、神によってお互いに結ばれている、平和の絆で結ばれているというのです。
私どもも、お互いのことを決して忘れたくないのです。わたしは、心から思います。もし、皆様の中で、お互いのことを執り成しの祈りのなかで一週間覚えることをすっかり忘れているなら、私どもは、お互いの神の平和にもとづく交わり、聖徒の交わり、教会をここで、力強く構築することができるのかということです。いへ、そもそも、礼拝を成り立たせることができるだろうかと思います。私どもの礼拝堂は、どうしてこのようなお互いに向かい合うような、主の食卓を囲むようにして座っているのでしょうか。それは、私どもが神の民であることを、常に、意識し、明らかにし、それを目に見える仕方でも表現したいからであります。それなら、一週間のなかで、執り成しの祈りを怠って、どうして主の日を迎えることができるでしょうか。万一にも、土曜日の備えの日、集い来る教会員や求道者の方々のため、説教者であるわたしのために祈らなければ、礼拝式を捧げることによって名古屋岩の上教会を形成するというこの、最も重要な使命を担うことなど決してできません。私どもは「神の民の祈りの家を築こう」という言葉を言わば、合言葉にしています。それは、福音によって生み出される神の平和の家のことです。それをイスラエルの首都はエルサレムです。エルサレムとは、平和の基と言う意味であります。今、神は、私どもを新しいイスラエルとし、教会をまさにエルサレムとされました。平和の基、神の平和の拠点、橋頭堡です。
最後に、教会の奉仕者、女性執事フェベは、援助者でした。助ける人でした。どうして助ける人になれたのでしょうか。先週、家内がいただいた誕生カードを、こっそり、読ませていただきました。「わたしも心配り、心遣いができるようになりたい」という言葉がありました。すでによくなさっている方であります。しかしまた、そのような心配り、心遣いは、祈りの中で、上から与えられ、示されるのではないでしょうか。ローマの教会員たちは、「援助者フェベがいれば、自分たちは援助を受ける側だ、助けられて良いなぁ」、などと言う者はいなかったのではないでしょうか。むしろ、彼女から学んで、皆が、お互いのフェベになる。なろうとする。援助者となる。なろうと志したのでしょう。そのようにして首都ローマの町に、神の平和の家、聖徒の交わり、キリストの教会を築くために戦ったのです。神のイスラエルとして、ローマの町に、真実のエルサレム、神の平和の町をつくろうと、福音の証し、伝道にまい進したのです。そうして、この平和の家は世界中に拡大して行ったのであります。私ども名古屋岩の上教会の使命もまた、同じであります。この名古屋の町の真ん中で、この平和とつくる人々の信仰とその戦いを継承するのであります。あらためて申します。そのような皆様一人ひとりの上に、ここに呼び集められたキリストにある兄弟姉妹の一人ひとり、皆様の上に、よろしく、主の平安、神の平和がありますように。
祈祷
罪人である私どもをいつも御心の内に覚え続け、その一人ひとりの名を呼んで、祝福していてくださる主イエス・キリストの父なる御神。あなたの福音が、地上に神の平和の家である教会を作り出してくださいました。そこに私どもは招かれ、今朝も憩うことが許されています。心から御名を崇め、感謝いたします。どうぞ、この恵みを感謝する私どもを、あなたの平和の道具として、平和の交わりを堅固に築き、何よりもこの交わりを広げる伝道の働きになお従事することができますように。アーメン。