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「選ばれ、苦労する、真のキリスト者」

「選ばれ、苦労する、真のキリスト者」
2008年11月2日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章10-16節④

「真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。 わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。 主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。 あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」

先週は講壇交換で、留守に致しました。それだけに、今朝、愛する兄弟姉妹と共にここで礼拝を捧げることが許されていますことを、改めて嬉しく思います。心から、神に感謝いたします。
先々週に引き続いて、このローマの信徒への手紙の最後の挨拶の部分を、読みました。今朝はそのすべてを読みませんでしたが、ここでは、「よろしく」「よろしく」と17回、挨拶が、記されています。大切な、かけがえのないローマにいるキリスト者一人ひとりの名前を呼んで、「よろしく」「よろしく」と告げます。これを読みながら、私どもは、あらためて、こう思います。「ああそうだ。今日も、わたしは、神さまに名前を呼ばれ、呼び出されたから、教会に来れたのだ。神さまを礼拝できるのだ」
さらに申しますと、そもそも、神さまに名前を呼ばれなければ、「わたし」という人間は、わたしという存在は、生まれてくることができませんでした。わたしの命、私どもの命は、神さまがその愛をもって、ご計画をもって、呼び出してくださったから、ここに生かされてあるのです。「伸郎」と、そして「生きよ」と呼んでくださったからこそ、わたしは、「おぎゃー」と生まれたわけです。この「おぎゃー」という叫びは、おそらく最初に発する神さまへの返事なのでしょう。もちろん本人に、そのような自覚はありません。また、赤ちゃんの叫びを客観的に、医学的に説明すれば、わたしの意見は、簡単に、聞き捨てられてしまうかもしれません。しかし、もしも聖書を読んで、信じるなら、聞き捨てることはできなくなると思います。私どもキリスト者は、聖霊を受けて初めて、神さまを自覚的に、「アッバ」「天のお父さま」とお呼びすることができるようになります。ローマの信徒への手紙第8章に記されています。そのような関係を、主イエス・キリストが、その十字架と復活の救いの御業によって実現してくださいました。そして聖霊なる神は、その2000年前のイエスさまの御業を、今ここで、信じる私どもに当てはめて、救って下さいました。だから、「天のお父さま」と呼べるようになったわけです。反対から申しますと、そこで、私どもは、まさに、自分の名前が呼ばれていることを知り、悟りました。つまり、「天のお父さま」とお呼びできたのは、神さまのほうから、「わたしの愛する子どもよ」と呼んでくださったからです。「天のお父さま」とお呼びするのは、私どもの返事です。それが分かると、あの「おぎゃ」という叫びもまた、私どもの無自覚な神への叫びであると言うことを、否定することもできないように思います。いずれにしろ、私どもはキリスト者であろうがなかろうが、天地創造の神、聖書の真の神に呼ばれている、呼び出されて命が与えられているのであります。

続けてさて、これもおさらいですが、パウロは一人ひとりの名前を呼んで、「よろしく」と挨拶しています。こここでは、自分のことを「よろしくお願いしますよ。」と自分を売り込むために言っているのではまったくないと学びました。正反対です。よろしくという挨拶は、あなたの上に、神の平和がありますようにという意味なのです。神の平和とは、神との間に敵対関係がなく、神に愛され、神を愛し、愛し愛される、愛と愛で響きあう、愛の絆で結ばれている関係のことです。神との間に平和がある人とは、心の中に平安が与えられます。先週のコンサートで、「パラダイス」という賛美が歌われました。岩淵さんが信仰が与えられてすぐ作った歌のようです。パラダイス、楽園は、どこにあるのか、それは、わたしの心の中にある。イエスさまを信じたときから心のなかにパラダイスが始める。平和が与えられるという歌です。「よろしく」とは、あなたの心にパラダイスが始まりますように、パラダイスがしっかりとすえられますように、神の平和と祝福でみたされますようにという祈りと祝福の挨拶なのです。
わたしも、説教を始める前に、改めて、皆様、お一人お一人の上に、よろしくと、神の平和を祈ります。主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。そして、私どもは今、ここで神の究極の祝福に包まれていることを、確信します。ここには、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神が目には見えませんが、共にいてくださり、私どもはこの神の只中で、祝福を受けているからです。心の中にパラダイスがあるのは、ここに、この礼拝式の只中でパラダイスがあるからです。主なる神に心から感謝し、主の御名を心から賛美します。

さて、今朝もこの最後の挨拶の言葉を読みました。既に4回目です。前回、説教の分かち合いのとき、2回目のときですが、このところから、二回説教することに驚かれた方がおられました。ついに、4回目です。まだまだ終われないのです。本日は、この中で、特に、わたしの心に留まる何人かのキリスト者のことを取り上げたいと願っております。
順序は、前後しますが、まず、12節、「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシス」です。トリファイナとトリフォサ、そしてペルシスです。トリファイナとトリフォサ、この二人は、わたしはもしかしたら兄弟なのかもしれないと想像します。男女の双子であったのではないかなどと想像しています。
もう一人は、ペルシスです。この人は、女性です。訳せば、ペルシャの女性ということです。そうなると、名前ではなく、あだ名でしょう。しかもそれが何を意味するのかと申しますと、ペルシャから売られてきた女奴隷ということになります。ここで名前が挙げられている人々のなかでも、8節のアムプリアト、そしてウルパノ、スタキス、そしてこのペルシス、そして14節で、連名で呼ばれる、アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、彼らは皆、奴隷であったと言われます。奴隷の名前であると言うのです。大都市ローマにあって、厳しい労働を強いられていたのです。そのような立場の人たちが、大勢、ローマの教会にいて、この手紙を読んでいたわけです。

さて、この三人を紹介した言葉として共通していることに注目したいと思います。「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサ」「主のために非常に苦労した愛するペルシス」主イエス・キリストのために、苦労しているという紹介です。これは、彼らにとってどんなに嬉しく、また誇らしい気持ちで、聞いたことでしょうか。
キリスト者であること、地上でキリストに従って生きることは、十字架を担うこと、自分の十字架を負って主イエスに従って、生きることです。この人々は、そこからそれていません。逃げていません。主のために苦労しているということは、ただ個人的なこととしては理解できません。キリスト者が苦労するのは、場所があります。それは、教会です。ローマの教会を建てあげる、形成するために彼らは、しかもペルシスという女性が非常に苦労しているのです。
パウロは、愛するペルシスと呼びます。ユダヤ人パウロが異邦人ペルシャの女性、しかも奴隷、おそらく性的な奴隷、そのようなところから救われて、今では、キリスト者として、教会の真ん中で奉仕しているのです。ですから、主イエス・キリストによって、ユダヤ人伝道者パウロは、心からの尊敬と愛情を込めて、彼女をこう呼んで、キリスト者として最大限に評価して、そして励ましていると思います。
私どもの時代は、どうしたら手軽に便利に、サービスを提供できるか、そのような消費社会です。サービスが買われるのです。最小限の努力やお金で最大限の効果を発揮することが求められます。勉強、学びでもそうです。この数週間、とうとうパソコンは、インターネットに接続できなくなりました。昔は、調べものをするとき、辞書を開いたのです。昔は、説教作成のために、図書館に出向いたこともあります。今は、そのような時間もありません。しかし、ネットで調べられます。これは実に便利で、すばらしい技術です。
しかし、うっかりすると人間の成長にとって、重大な問題をもはらみます。たとえば、キリスト者が教会に奉仕するとき、できるだけ苦労を少なくしたい、避けたいと考えてみてください。もしも、そのような教会生活を求め始めたら、いったい、教会はどうなるのでしょうか。万一、牧師や長老、伝道所委員が、最初から、苦労することを嫌がっているなら、主のお働きを担うこと、伝道すること、ディアコニア、奉仕に生きる教会の形成など夢のまた夢ではないでしょうか。

ただし、主イエスのために苦労する。労苦する。これは、誰かから発破をかけられて、「よし、がんばろう」「よし、わたしも、イエスさまのために苦労しよう」と思えるような次元のことでは、決してありません。ただ神からのみ、聖霊の賜物、聖霊の励ましを受ける以外には出てきません。そうでなければ、人間的ながんばりでしかないのです。人間的ながんばりで、主イエスにお仕えすることはできません。調子よく行っているときならまだそれがはっきりしませんが、しかし、誰からも認められず、自分だけが苦労している、そんなときには、萎えてしまいます。それどころか、不平がでます。なぜ、自分だけなのかということです。そして、教会の仲間たちに対して、「私だけがんばっているのは不公平ではないか、あなたも、ちゃんとして欲しい。」つまり、批判が出るのです。それが嵩じれば、ついには、神さまに対しても文句を言い始めるかもしれません。
ヨハネの黙示録第2章にエフェソの教会へ当てた手紙に、神がこのように書き送られました。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」主なる神は、私どもの労苦、苦労をご存知です。パウロが知っているから、認めてくれるから、トリファイナとトリフォサ、そしてペルシスは、忍耐して、苦労して主に仕えているわけではないと思います。思いがけず、自分の名前が呼ばれて、しかもそう認めてくれたことに驚いたのではないかと思うのです。しかし何よりも、それによって、「ああ、神さまは、わたしたちの苦労、労苦を御存じていてくださるのだ」と、つまり、勇気や力は天から、神さまから与えられたのだと思います。

しかし、何よりも主イエスのために苦労できる秘密があります。その秘密とは何でしょうか。そのために今、私どもは、第13節に注目したのです。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」このみ言葉を読んで、ただちにルフォスとは誰のことであるかを、想像できた方は、とても聖書に詳しい方であると思います。マルコによる福音書の第15章17節以下を、少し長いですが、朗読します。
「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。」
 
主イエスが十字架の丘、ゴルゴダ、骸骨という処刑場につれて行くとき、ローマの兵隊は、最初から、十字架の木を主イエスに担がせて行きます。しかし、途中で、一睡もせずに、裁判にかけられ、鞭打ちの刑を受けて、肉体的には極限の状態にあった主イエスは、途中で倒れられたのです。そこに、たまたま、偶然に通りかかったキレネ人のシモンに十字架の木を無理やり担がせたのでした。キレネとは、北アフリカ、リビア沿岸の地方です。シモンは、アフリカ在住のユダヤ人であって、過ぎ越しの祭りのために、はるばるエルサレムに詣でて来た、敬虔なユダヤ人であったのだろうと思います。ところが、人間的に言えば、まったく運が悪かったのです。「木にかけられる者は神に呪われた者」という聖書の言葉を、シモンは知っていたに違いありません。そんな犯罪人の処刑道具を運ばなくてはならなくなったことを、心から嫌がった、不運を嘆いたと思います。しかし、ローマ兵には逆らえません。ですから、担う以外にないのです。
さて、このシモンの子どもに「アレクサンドロとルフォスがいたと言うのです。なぜ、マルコは知っているのでしょうか。この二人が既に有名なキリスト者の兄弟であったからであります。そうなれば、このシモンは、後に、キリスト者になったということは、明らかであります。シモンは、無理やりに十字架を負わせられたのです。ここから、キリストの教会において、「強いられた恵み」という言葉が、語り継がれてまいりました。自分から積極的に奉仕を始めるのではなく、無理やり、重荷を負わせられるようにして、始める。しかし、まさにその重荷こそが、自分を主イエス・キリストに導き、主の救いに導きいれられ、主の栄光のために用いられることになるということであります。これは、キリスト者として経験を深めて行くなら、誰でも、リアリティーをもって、体験できることだと、私は思います。望まない十字架、避けたい重荷、苦労。しかし、神がそれを負わせられるのです。そしてまさにそこから、十字架の恵みがあふれて行く、流れ込んでくるのです。

シモンの奥さんは、今では、パウロの母でもあるというのです。これもまた、最高のほめ言葉でしょう。独身のパウロ、伝道者パウロを母親のような気遣いで、助けたのです。どれほど、すばらしい母親であろうかと思います。想像の翼を広げれば、小説でも書けそうです。どんな物語がそこで織り成されたのでしょうか。パウロにとって母と呼ばれたその人の奉仕ぶりを思います。何よりも、息子、弟であろうルフォスは、この父と母の信仰の教育の中で、今では、ローマ教会のなくてならない奉仕者になっているのです。

主のために苦労することは、まさに、神の御業です。パウロは、言います。選ばれた人と言います。父親のキレネのシモンは、まさにその初穂になっています。息子もまた、主イエス・キリストに結ばれ、選ばれているのです。パウロにこの手紙の頂上において、第8章において、こう言いました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
シモンもその妻もルフォスも、鮮やかにこの御言葉の証人とされています。モデルです。彼らは、神のご計画によって選ばれ、呼び出されたのです。最初は、自分の運の悪さにあきれたかもしれません。しかし、主イエスさまの傍らに立ちながら、重い木を担い運ぶ途中で、シモンの中に大きな変化が起こったのではないでしょうか。そして何よりも、十字架につけられたイエスさまを見上げたとき、この人は、極悪人などではない、はっきりと悟ったのではないでしょうか。十字架の上で、語られ、祈られたイエスさまを十字架の真下で見上げたシモンは、この人こそ、過ぎ越しの祭りで捧げられる犠牲の死、動物の血などではなく、神の御子のあがないの死としての理解を持った、言い切れないかもしれませんが、そのような大きな感動をもって、十字架のイエスさまを見つめたに違いありません。
それは、選びなのです。私どもも、今、不思議にキリスト者とされてここにおります。結局、それは不思議としか言いようがありません。そこでも、結局は、主イエスが教えてくださったとおりであると納得させられるのです。「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。それは、あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」本当に、主イエスの恵みで主イエスに結び合わされ、選ばれたのです。そして、十字架に仕えるように、教会に仕えるようにと招かれているのです。ですから、主のために労苦する、苦労することは、神の選び、神の恵みであるわけです。決して自分を誇ることはできないのです。

最後に、アペレについて学びましょう。「真のキリスト信者アペレによろしく。」わたしは、この言葉を読んで、ドキッとしました。これは、自分の課題、問題意識の深いところを突かれるように思ったからです。真のキリスト者、本物のキリスト者です。このみ言葉を読みながら、自分自身にこう尋ねてみます。「あなたは、真のキリスト者なのか。」真とか本物とかを問うことは、偽り、偽物ということが頭に浮かびます。キリスト者として、牧師として本物かと問い続けたことがありました。今でも、本物であるべきだし、ありたいと願います。
しかし、もし一歩間違えると、キリスト者とは何か、福音とは何か、その理解について決定的な間違いを犯すことがあるはずです。ここで挙げられたキリスト者たちの中で、真のキリスト信者と紹介されたのは、アペレだけです。それなら、アペレ以外は、真ではないのでしょうか。けっしてそうではないはずです。それなら、アペレの真とは、何でしょうか。その前に、いったい「真」とは何でしょうか。
改めてローマの信徒への手紙をおさらいします。救いとは、ただキリストの恵みによるのみでした。キリスト・イエスを信じる信仰による義を受けるだけです。それ以外に、本物のキリスト者になりようがありません。決して、キリスト者の存在に、偽のキリスト者から本物のキリスト者になる道があるのではありません。キリスト者は、キリスト者以下でも以上でもないのです。恵みによって救われただけではだめで、自分で努力して完成させなければならないということでは断じてありません。これは、ごく基本です。しかしそれだけにいつでも決定的に重要な福音の理解です。
しかしそれなら、何故、使徒パウロはこのような表現を用いるのでしょうか。わたしは、ここでもパウロがこの手紙の読者に、言わば、おさらいをしているような気がするのです。おさらいすることは大切です。
「真」をこれまでの翻訳では、練達と訳しました。「キリストにあって練達したアペレによろしく。」そうなると、この御言葉を思い起こす方はおられませんでしょうか。第5章です。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
信仰によって義とされ、つまり救われ、神の平和が心に与えられています。その人は、神の栄光にあずかる希望も与えられています。そして、次に、苦難をも誇りにすると言います。パウロは、苦労について語りました。それは、キリスト者の信仰にとって不可欠なものと考えているのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
練達です。本物です。火で精錬されなければ真鍮にならないのです。神は、キリスト者を、苦難を通して、真へと、練達へと訓練してくださいます。その苦難とは、キリストの苦難にあずかることです。キリストへと飛び込んで行くそのときに、私どもは、練達される。磨かれる、整えられる。そして、希望に生きるキリスト者となることができるのです。それは、人間的な修養努力の力ではありません。修行ではありません。ただキリストの恵みのみです。それはしかし、自分が何もしなくてもただ座っていればよいわけではありません。キリストに選ばれ、キリストの十字架を担う者と信頼されているのですから、信仰の恵み、その力、練達の道はただキリストとの交わりにのみあるのです。「真のキリスト信者」「キリストにあって練達した」人のことです。キリストにある、キリストと結ばれるということです。そうなれば、私どもはいよいよ、この礼拝式に集中せざるを得ません。週日の祈祷会に励まざるを得ません。毎日、毎日、こつこつと聖書を開き、祈りを捧げて、主イエス・キリストとの交わりを楽しみ、喜ぶ道を続ける以外にありません。そのとき、私どももまた、真のキリスト信者であるのです。練達された人、希望に生きる人、平和を奪い去られない人、いへ、造り出す人に用いられます。

 今、聖餐の食卓にあずかります。私どもをこの恵みによって神は、主イエス・キリストの交わりへと深め、その絆を固く結んでくださいます。ここにこそ、練達への道があります。今、深く、聖餐の礼典にあずかりましょう。

祈祷
自分の十字架を負って私に従いなさいと、キリストのために苦労することへと招かれる主イエス・キリストの父なる御神。なんとしばしば、そこから逃げ出し、そのようにして練達の道から、希望に生きる道から離れてしまうことかと悲しく、恥ずかしく思います。しかし、あなたは、そのような私どもに今朝も、先回りをし、立ちはだかるようにして、命の恵みを豊かに与えてくださいました。自分の力で担おうと企てたら、つぶれます。また、逃げてしまえば、それっきりです。天のお父さま、今、私どもを選び、主イエス・キリストに結ばせてくださったあなたにだけ信頼します。私どもを支え続け、信仰の道を、平和をつくる道を、兄弟姉妹と共に歩ませてください。アーメン。

祈祷
主イエス・キリストの父なる神さま
今朝もわたしたちの名前を呼んで、礼拝へとお招きくださいましたことを心から感謝いたします。今朝は、説教と聖餐の恵みによってわたしたちに神さまの祝福そのものであるイエスさまとの交わりをさらに深め、今一度新しくし、いよいよ堅くしてくださいましたことを信じて、心から感謝いたします。
私たちは、イエスさまを信じるときに、嬉しいこと、楽しいこと、喜びばかりではなく、イエスさまのために苦しむことも学びました。けれども、わたしたちの弱い力では、決して担えません。ですから、いつも、み言葉と御霊によってわたしたちを励まし、強めてください。そして、わたしたちも、選ばれた者らしく従って、真のキリスト者として成長させてください。
今、神さまから与えられたものを、献金として、お返ししました。この献金を神さまのお働きのため、教会のお働きのために用いてください。私たちももっと神さまのお働きのためにさらに用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン