過去の投稿2008年11月23日

11月23日

☆昨日は、教会学校教師研修会が名古屋教会にて開催されました。毎年、11月23日に開催してまいりましたが、昨年の出席者の要望を受けて、初めて、土曜日の開催といたしました。参加者は、30名弱であったでしょうか。少なかったかと思います。牧師たちにも出席を願う思いが強いのですが、土曜日開催では、仕方がありません。
日本キリスト教協議会から刊行されたDVD「日曜学校から始めるキリスト教育の歩み」を45分間観て、50分間のわたしの発題、そして懇談でした。DVDはいつか教師会でも見たいと思います。
 
 そもそも日曜学校の歴史は、1780年、イギリスの印刷業者、ロバート・レイクスの働きから語り始められます。その「日曜学校」運動を聖書的、信仰告白的、歴史的に検証することが私どもの課題です。
日曜学校運動の性格、特徴とは、
①「子どもたちを回心に導く救霊運動」
②「信徒中心の運動」
③「超教派運動」
④「慈善運動」とすることができます。

特に4番目の慈善運動は、日曜学校運動の成り立ちの動機の主要部であり、全体の通奏低音として流れていると思われます。そして、その本質を一言で言えば、「運動」であるということです。運動と教会とは、まったく違います。実は、日曜学校から教会になった教会もキリスト教揺籃期には、少なくありませんでした。運動からどのようにして、「キリスト教会の教育的伝道の働き」へと、取り入れ直すか、果たしてそれが可能なのか・・・。議論したいと思いました。基本の基本、それは、教会論、教会形成の要となるものは、そのまま、日曜学校の働きを規定するということです。大人も子どもも、その意味では、変わるところはまったくありません。福音を正しく語ることです。その福音の真理を、大胆に、真実に語ることです。わたしの原稿には、書きながら、昨日、はしょってしまったのですが、懇談で、木下牧師が「聖餐卓への招き・・・、これが根本」とおっしゃいました。 高蔵寺教会の週報には、「子どもの教会」と記載されています。それは、すでに日曜学校「運動」との「決別」を表しているとも思います。日本キリスト改革派教会の日曜学校像、その基本、根本は当たり前のことです。旧約聖書以来の神の民の教育の伝統を継承することです。新約聖書によってさらに明示された、教育的伝道をなすことです。しかも、古代教会、ひいては16世紀教会の改革者たちのカテキズム教育の歴史を継承することです。

・・・、このような議論は、本来、まず、牧師たちがきちんととらえていなければならないのです。そこにも、事柄の問題があらわにされています。信徒運動・・・の課題です。牧師の課題でもあるのです。

講演では、この四つの影の部分、負の部分を私は、しっかりと認識すべきであると主張しました。そうでなければ、戦前、戦中のような戦争遂行のための機関となりさがる、おそるべき罪を、悔い改めてことにならないからです。今もなお、時代の空気に染まり、流されて行く体質を克服しえず、神の御心に応答できない働きになり下がるでしょう。

しかし、日曜学校運動を今日に正しく活かす道!これも私どもの責任ではないでしょうか。講演記録は、会員全員に読んでいただきたいのです。「日曜学校を教会のディアコニアとして捉え直す」、これは、教会のディアコニアを考える、私どもの祈祷課題です。講演でも紹介しましたが、その「兆し」は、すでに与えられています。お絵かき教室に言及し、公園での子どもとの触れ合いの可能性にも言及しました。「伝道する日曜学校」これは、教会学校教案誌の目標でもあります。
「教会学校教案誌」も実に、来年で8年目を迎えようとします。どれだけの結実をあたえられたか、これも歴史の評価を受けることとなるでしょう。・・・一人、何役も兼ねているような思いです。最近もある教会に、「教案誌」のことで、お電話したとき、 そこの牧師夫人から、「相馬先生?ああ、日曜学校専門の先生ですね!」と言われたことがあります。とても複雑な心境になります・・・。牧師が専門で、その働きの「ひとつ」の領域が日曜学校(教会教育)なのですが・・・。

★今月は、中部中会の連合青年会での講演、そして昨日、そして明後日からは、神戸の全国研究会議です。ハードな日々です。神戸では、「今日の日本における伝道の神学」が主題のです。本日午後は、読書会。「伝道」を主題に講演原稿を読みます。皆さんと、正しい伝道について学び、その実践へと進んで参りましょう。いよいよ、待降節。伝道新聞も着々で準備が整っているようです。わたしのメッセージは、「クリスマスとハリネズミ」 杉山誠兄の証も、期待してください。そして、これを用いてください。

☆毎日の執り成しの祈りの中で、中尾兄弟の癒しを祈ります。祈祷会を大切に。祈りを束にしましょう。