「平和の源なる神と教会の勝利」
2008年11月16日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章17-20節
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」
先週から引き続いて、17節から20節を学びます。先週は、20節には触れませんでしたが、本日は、むしろこの20節を中心に学びたいと願います。パウロは、この16章で、まさに自分が親しく知っているキリスト者、ローマにいるキリスト者たちの名前を呼んで、「よろしく」「よろしく」「よろしく」と告げました。それは、自分をよろしくというのではなく、誰それをよろしくお願いするというのでもありません。ただ、その人自身の上に、神の平和がありますように!と、その人自身の祝福を祈る挨拶なのです。
この手紙がローマの教会で、最初に読み上げられたとき、そこには、まさに神の平和がしみじみと味わわれたのではないかと思います。温かい空気が流れたと思います。「キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」こう告げられたとき、まさに、自分たちは、世界中の諸教会と、主イエス・キリストにある暖かな交わりのうちにあるのだなぁ、まさに神の平和を受けているのだなぁとしみじみと思ったと思うのです。
ところが、パウロは、17節で、急転直下、鋭く勧告します。「警戒しなさい!」油断するなと言うのです。何故なのでしょうか。それは、この神の平和は、絶えず、それを破壊する力にさらされているからです。神が与えてくださる平和は、常に、それを分裂させる力に攻撃されているからです。しかも、もしかすると皆さんの中で驚かれる方もおられるかもしれませんが、その力とは、教会の外から出てくるものではないというのです。教会の中から出てくるのです。「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」
パウロの語った福音の教えに反するもの、それが、神の平和を破壊するもの、不和やつまづきをもたらすのです。逆に申しますと、それ以外のものでは、教会は壊されないということであります。確かに、現実の地上の教会には、まことに私ども罪人たちが集り、教会を形成しているのです。まことに欠けだらけの人間の私どもが教会員なのです。つまり、私どもは自分のことを「人格円満」と認めることはできないと思います。円満どころか、でこぼこだらけかもしれません。だからこそ、神は、「イモ洗い」ではありませんが、教会の交わりの中で、ときに、ぶつかり、傷つきながらも、しかしそのことを通して、私どもは、神の恵みと憐れみによって、練られて行くわけです。
さて、しかし、教会の平和の交わりの危機とは、実は、円満な人格を持たない私どもの弱さや欠け、罪深さにあるというのではないのです。教会が破壊される、分裂させられる、それは、ただこの一点にあるのです。それは、福音の教えに生きないときです。福音の教えが正しく語られ、聴かれているなら、教会は、いかなる力によっても壊されないものなのです。それほどまでに、強いのです。しかし、福音の教えが、軽んじられたら、そのときには、教会がどれほど、この世的な力を誇っても、しかし、平和を失っているのです。使徒パウロは、それを真剣に訴えています。しかも私どもが恐れおののかなければならないことは、私どもが、福音の教えから離れることは、とても簡単なことだということであります。説教において福音が語られても、しかし、実際の生活において、あるいは、具体的な教会生活のなかで行動し、発言するとき、私どもは、学んだ教えをつい後回しにして、自分の世の中での体験や知識、そこでの知恵で生きよう、行動しようとするのです。そこにこそ、私どもの落とし穴が大きく、広く口を開けているのです。
今、このローマの教会がそうなっているのではありません。そうなっていないからこそ、使徒パウロは、「警戒しなさい!」と注意を喚起し、神の平和を維持し、広める必要があると考えているのです。
そこで私がいつも思い起こすのは、教会の憲法と言われる有名な、使徒言行録第20章です。その中で、パウロは、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せて、別れの説教を語りました。そのとき、彼はこう言っています。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」心に激しく迫るのは、実に、今この説教を聴いている指導者たちの中からも、学んだ教えに反して、邪説を唱え、キリストにではなく、自分に従わせようとする者が起こる可能性があると見ていることです。自分の欲望に仕えようとする者が出現するとまで言うのです。そのときには、まさに教会の平和が壊されます。
しかし、逆に申しますと、教会は、それ以外では、壊れないのです。そうなりますと、私どもが、どれほど、み言葉を、教会の教えを学ぶことを重んじなければならないのかが分かります。この現実を知っているなら、なおさらのことです。学びをやめたら、学ぶことの熱心を失ったら、まさに、危険なのです。あるいは、時既に遅く、平和を失っているのかもしれないほどです。
さて先週、私どもは、神との関係においては、純朴であるべきと学びました。しかしその純朴は、高度な純朴さであると申しました。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」さといとは、知恵深いということです。うっかりするとこの世の知恵は、悪に対抗するためには、悪知恵を見破るほどに、悪について知識を持つ必要があると考えるのです。教会が、まさにこの世的な発想に流されることがないとは言えないと思います。この世的な考えには、当然、説得力があり、分かりやすいものです。しかしそれは、教会や、信仰の世界では、通用しません。それでは、神のみ業、神の原理、神の勝利の法則に奉仕することはできません。
使徒パウロは、その意味で、正にここで徹底するのです。ものすごい確信といってよいでしょう。信仰の開き直りとも言えるかもしれません。悪には疎くあってかまわない。悪の知識がなくてもよいというのです。
我々は、そこまで信じられなくて、少しは、敵の知恵を用いることも必要ではないかと思うかもしれません。しかし使徒パウロは、信仰の戦いとは、「神の」戦いであって、何も自分たちが悪を叩きのめすことを、期待されているのではないとわきまえているからです。悪、サタンに勝利するのは、私どもの力ではありません。私どもは、自分たちを過大評価してはならないのです。サタンの悪賢さは、私どもに太刀打ちできません。
しかし、彼は、まさに悪賢いだけなのです。言わばそれは、愚かの極みなのです。何故、サタンは、愚かの極みなのでしょうか。それは、自分たちが、していることが、敗北することを知りながら、なお、降参せずに、戦っているからです。彼らは、自分たちが神に勝てるとは信じていません。しかし、戦いを止めません。自暴自棄です。神への反抗を、人間を利用して実行しているのです。
サタンの企みとは、神の与えてくださる平和、神がお造りくださった平和を破壊することにあります。彼は、神と人間との間の平和が、憎いのです。ねたんでいるのです。なぜなら、彼には、この真の平和がないからです。ですから、悪魔は、アダムとエバを誘惑しました。自分たちの世界である、争いの世界へと人類を陥れるためです。彼は、人間を、神から引き離して、自分の仲間に陥れるわけです。
ところが、サタンは、人間を仲間にするのに、人間を愛しません。なぜなら、サタンには愛がないからです。サタンは人間をただ自分の欲望のために利用します。利用したら、捨てます。彼の狙いとは、神への反抗にあるからです。神は、人間を愛されます。ですから、サタンは、人間を自分の道具、戦いの兵士として利用して、そのようにしていよいよ、神に挑戦し、神の御心を悲しませます。彼が憎悪しているのは、神なのです。
20世紀、このサタンが猛威を古い、21世紀もまた、サタンは猛威を古います。どれほどの人間が、人間に殺されたのでしょうか。どれほどの子どもたちが大人に殺され、傷つけられたのでしょうか。どれほどの女性が、男の欲望によって殺されたのでしょうか。例を挙げれば、それだけで、一日が終わるはずです。
しかし、パウロは、徹底的に信じます。神が必ず勝利なさることを信じるのです。ですから、使徒パウロは、このサタンとの戦いの仕方を、キリスト者たちに呼びかけるのです。それは、まさにこの世的な知恵ではありません。悪をもって悪を制するのではないのです。すでに第12章21節で学びました。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」これは、徹底した態度決定です。中途半端なことではありません。悪に勝つとは、彼らの悪賢さの上を行くような賢さで対抗するのではないということです。善をもって、神に喜ばれる仕方で、神ご自身の戦いの仕方で、勝つことです。
さていよいよ第20節です。この一句は、きわめて重要なみ言葉です。ローマの信徒への手紙の全体をおさらいできる、全体を要約できるほどのものです。パウロがこの手紙を通して、一生懸命訴えたのは、神の勝利でした。父なる神が御子イエス・キリストの十字架によって、この世界に平和をもたらしてくださったこと、この平和は、地上に何者によっても壊されることはないということを、情熱を込めて、力の限りに証し、解き明かし、弁明しました。神がついい完全に勝利なさることを、この手紙は告げているのです。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」
平和の源である神!これは既に、第15章33節に記されていました。第15章で、言わば本文は終わるわけで、その結びの言葉、祈りの言葉として、平和の源なる神という神の紹介がなされました。そして今、ついに、ローマの信徒への手紙の結びとして、この「平和の源なる神」という言葉が用いられます。そして、この神が、間もなく、サタンを打ち砕かれるのです。しかも驚くべきことに、それは、教会の足の下で打ち砕かれるのです。まるで、教会がサタンを打ち砕くかのように言うのです。神の勝利は、即、神の教会の勝利であると言うのです。こうして、この世界には争いが完全になくなり、不和が完全になくなり、完全な平和、神の平和が確立するのです。
平和とは何でしょうか。平和とは一致です。平和とは和解です。平和とは安定です。平和とは安心です。平和とは健康です。平和とは命のです。平和とは充実です。平和とは信頼です。平和とは喜びです。平和とは希望です。平和とは、実に神ご自身の御存在のことです。聖書の神、主イエス・キリストの父なる神こそが、平和なのです。平和の源なのです。
平和とは、独りでいることではありません。孤独のなかでは、平和はありません。その平和はどこにあるのか。その回答が、平和の源なる神なのです。平和とは、神ご自身のことに他なりません。その神とは、どのよう神でいらっしゃるのでしょうか。聖書の神、教会が告白している神は、三位一体の神です。三一の神です。父なる神と御子なる神と聖霊なる神にていましたもう神です。この神は、三人の神ではなく、それぞれに全く異なる人格を持ち、しかも、完全に一致しておられるお方、存在です。そこに平和があるのです。お互いの間には、完全なる一致があります。信頼があります。喜びがあります。命があります。愛で満ち満ちておられます。お互いの間に、一切の隔てがありません。
この平和の神は、ご自身の平和にあずからせるご目的で、この世界を創造されました。天と地は、神の平和の舞台です。この舞台の上に、最後に、人間を置き、そこで、人類に神の平和を味わわせようとなさったのです。アダムとエバは、まさにそれを味わいました。エデンの園で、お互いを愛しあい、アダムは妻のエバを、わたしの骨からの骨、肉からの肉と呼びました。二人は、別々の人間、男性と女性ですが、しかし、一体なのです。愛の絆で結ばれていました。父と御子と聖霊の交わり、絆で結ばれている神に似せて創造されたのですから当然の祝福です。そしてエデンの園には、命と調和だけがありました。自然界が、人間に災いをもたらすことがなかったのです。そのような災いのイメージは、最初の平和の場所、エデンの園にはまったくありませんでした。
ところが、それは、破壊されます。蛇によって、つまりサタンによって破壊されます。エデンの園は破壊されます。人間は、そこから追放され、労苦しながら生きる世界におかれます。それが、我々のこの世界です。
神との関係、神との正しい関係、正常な関係、それを義と呼びますが、神の義を失った人間は、お互いの間に平和を失いました。その証拠に、アダムとエバは直ちに喧嘩を始めました。神との関係を壊したとき、彼らは自分たちの関係をも破壊してしまったのです。あれほど、愛しあったはずなのに、憎しみ合うのです。さらに悲劇的なことは、彼らの息子たち、カインとアベルの仲も不穏になります。カインは、アベルを殺してしまいます。兄弟が共に座っているのではなく、兄弟が、兄が弟を殺したのです。人類最初の殺人です。神との関係を壊し、神との間に平和を失ったとき、それは、結局、人間と人間との間に平和を壊し、失うのです。
そればかりではありません。実に、罪によって自然の秩序、大自然をも、崩壊させました。そのせいで、今や、自然が人間を損なうことも起こってしまうのです。ローマの信徒への手紙第8章で記されていたことです。「被造物は虚無に服しています」とあります。全被造物、すべての造られたものは、虚無、空虚になっている。むなしいのです。調和を失いました。なぜでしょうか。それは、人間の罪のせいです。神さまとのあるべき関係を破壊した罪の結果です。アダムとエバの罪は、自然環境を破壊したのです。本来、あってはならないはずの病も、自然災害も生じてしまっています。大自然は、うめいているのです。宇宙全体がきしんでいるのです。平和を失ったのです。
しかし、神は、それをそのままになさったのではありません。サタンが企み、破壊して失った平和を、神ご自身が取り戻されるのです。その方法、その手段はいかなるものであったのか。使徒パウロは、そのことをこそ、この手紙で十二分に解き明かしました。それが、主イエスさまの十字架のみ業です。あの十字架によって、世界に神の平和が取り戻されるのです。その新しい平和が始まったのです。十字架によって、私どもの罪が赦されたからです。罪があがなわれたからです。神との間にイエスさまの十字架の死、私どものための身代わりの死によって、罪が帳消しにされ、消滅させられたからです。
この十字架の手続きなしには、地上に平和が作られること、味わうことはかないません。
今朝の礼拝式の招きの言葉で、詩編第133編を読みました。私どもの平和とは、何か、それを歌ったものです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんとういう恵み、なんと言う喜び。」人間が地上で、具体的に味わう平和、人間同士の間における平和とは、兄弟が共に座るということです。しかし、それがどれほど困難であるのか、これが、私どもの地上の現実の姿ではないでしょうか。ここで詩人が歌っている兄弟とは、肉親の兄弟ではなく、神の民のことです。神の民、神の家族としての兄弟、ユダヤ人が共に座っている。これは、エルサレム神殿に上るときの歌ですから、神殿のなかで、神の前で、神の民が一緒に座っている、礼拝しているそれを喜んでいるのです。祝福ととこしえの命がそこに伴っている、かぐわしい油、香油がしたたり落ちる、我々も、香油、フレグランスの効果を知っています。アロマテラピーということが、言われ、大人気です。その香りを吸うと、心が落ち着く、精神を安定させることのできる油があるわけです。しかし、兄弟が共に座っている、それは、どんなアロマテラピーにもまさる効果なのです。しかし、同時にそれは、まさに神の賜物、神さまだけが与えてくださるプレゼントなのです。
有名なゴッホという画家の絵に、二つのベッドがあります。ゴッホは、友人の画家ゴーギャンと共同生活を営みました。ところが、やがてゴーギャンは、ゴッホの部屋を出て行ってしまいます。仲たがいしたのです。ゴッホじしんは、彼を心から慕っていました。しかし、仲良くなれなかったのです。うまくコミュニケーションできないのです。ベッドは、空っぽです。それは、平和のない部屋の象徴です。主人公が不在なのです。平和があるべきその場所に、その平和がない。空虚なのです。どのような思いで彼は、その絵を描いたのか。心が痛む思いがいたします。兄弟が共に座る、それを心から憧れ、願っているゴッホなのです。しかし、それを妨げる力があるのです。
ゴッホ自身は、自分自身のなかにも、生きにくさを感じていたように思えます。つまり、生きるのがつらい、生きているのがしっくりこないのです。自分の内部にも平和を失う、一致を失うのです。ここに、平和の問題の深さがあります。
これは、ゴッホを貶めるために申すことではありません。ゴッホの問題は、他ならない人類の問題、私どもの問題なのです。それは、何でしょうか。それは、人間の罪、自分の罪以外のなにものでもないのです。罪は、神との間に争いを起こすことです。神を敵とすることです。あのアダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたことです。そのように神に反抗し、反旗を翻し、神に挑みます。サタンは、そうすることで、彼らは神になれるとそそのかしました。ところが結局、彼らは、本来の人間であることすらできなくなってしまったのです。まさに惨めな姿に成り果ててしまったのです。
しかし、神は平和です。父と子と聖霊の三位一体の神ご自身が平和の源なのです。ですから、二人の間に平和が築かれるためには、この二人の間に平和を迎え入れることです。平和の主をお迎えすることです。私どもは、この平和の主なる神、平和の源なる神を信じることです。赦していただくことです。キリストの成し遂げられた十字架の赦しを単純に、しかし深く信じることです。
最後に、唐突ですが、ハリネズミのことを思います。ハリネズミは、自分を守るために、針のようなとげを立てます。ハリネズミ同士、近づくと怪我をするのです。なんという悲劇でしょうか。敵ではないのに、近づけない。それは、ハリネズミだけの悲劇ではなく、むしろ、それこそ人間存在の悲劇そのものです。
しかし、神は、その独り子によって、その針を抜いてくださいます。その針をご自分が引き受けてくださるのです。私どもがこのイエスさまを真ん中に置くときに、一緒に過ごせる。クッションとなるのです。イエスさまが緩衝材となるのです。バンパーのようです。そこに主イエス・キリストの犠牲があります。お苦しみがあります。しかし、神は、私どものご自身の平和を与えるために、御子に苦しみを強いられたのです。それなくして、神の平和は実現できないからです。それほどまでに私どもの罪、不和、不安、争い、混乱ははなはだしいからです。しかし、神は、今や、御子イエス・キリストにおいてこの世界を神の和解、仲直りの中へと招いてくださいました。誰でも、キリストを信じるだけで、今や、この和解、この平和を喜び、味わうことができるのです。兄弟が和合する。共に座ることができるのです。そこに、人類の平和があります。
私どもは今ここでまさに、兄弟と共に座っています。この平和を心から感謝いたします。平和の源なる神の恵みです。それは、主イエス・キリストの恵み、主イエス・キリストという恵みを私どもが受けているからです。そうであれば、今朝、改めて心から主イエス・キリストを賛美しましょう。感謝しましょう。そして、平和の源なる神を、証し、主イエス・キリストの恵みによる神の平和を世界に告げましょう。証してまいりましょう。そのために、先ず私ども教会こそが、ゆるぎなき神の平和にいよいよ堅固に築き上げられるようにと励んでまいりましょう。平和を壊すサタンは、既に主イエスさまが、十字架つけられたあのとき、予告どおり、その頭は砕かれたのです。お
よみがえりになられたことによって、主イエスの勝利つまり、私ども教会の勝利も確定しているのです。まだ歴史において、地上においてそれを完成されていません。しかし、パウロが告げているように、「間もなく」、速やかに、神は、サタンを最後的に打ち砕かれます。その日が迫っているのです。その日は、神の勝利であり、また同時に教会の勝利なのです。教会自身の内側、私ども自身には力はありません。しかし、教会の頭なる主イエスの力は、勝利するのです。そしてこの主に結びついている限り、主イエスの教会もまた、平和の勝利が実現する、神の完全な平和はこの地上に実現するのです。それを信じるから、私どもはへこたれません。めげることはありません。どんなに、不安が襲い、自分を振るうような事件が起こっても、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」のです。神の勝利の中に、教会も招かれ、教会の足の下で、サタンが打ち砕かれ、争い、ねたみ、殺人も、戦争も、ありとあらゆる悪は、サタンの、攻撃は、終わるのです。忍耐をもってその日を待ち望み、私どもは今、信仰の戦いへともう一度、立ち上がるのです。
祈祷
平和の源なる御神、私どもはあなたから与えられた平和を、まことに愚かにも捨て去りました。罪のとりことなり、人間どうし、国どうしの間の平和をも失いました。さらには、自分の内側にも平和を失い、不安と恐れのなかで、自分を見失い、なんとか、自分の中に統一をはかろうと右往左往しています。しかし、あなたは、そのような私どもをもう一度、神の平和にあずからせるために、私どもの罪の棘を抜き取り、その罪を十字架で負わせられ、刺し通されました。その贖いよって、今、私どもは神の平和を楽しみ、このように神の民、キリストにある兄弟姉妹と共に座り、礼拝することができています。この幸いを心から感謝いたします。どうぞ、この平和の中へ、多くの人々を招きいれてください。そのために、私どもがここから立ち上がり、あなたの平和を作り出す戦いへと派遣してくださいますように。アーメン。