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「わたしたちを神の家族とするクリスマス」

「わたしたちを神の家族とするクリスマス」
2008年12月14日 
ファミリー・クリスマス礼拝
マタイによる福音書第1章1~17節

1)アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
16)このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
17)こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」
18)「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。  
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 今朝の主の日の礼拝式は、「ファミリー・クリスマス」として特別に祝い、お捧げいたします。いつもは、幼稚科や小学科のお友達、そして中学生と高校生たちは、日曜学校の礼拝式に出席してくれていますが、今朝は、一緒に礼拝をささげます。そして、送りだしてくださっているご両親をもお招きしたいと心から願って、このような「ファミリー・クリスマス」として特別の礼拝式を捧げています。

 ただし、考えてみますと、そもそも私どもは毎週の主日礼拝式において、赤ちゃんから年を重ねた先輩たちも合わせて、全員で礼拝をささげているのです。教会とは、神の家族の集いなのです。父なる神さまによって、呼び集められた神の子どもたちの集いなのです。神の家族、神の民、神の家、それが教会です。そして教会は、私たちをここに呼び集め、一つに結び合わせてくださった父なる神さま、天のお父さまを礼拝するのです。ですから、毎週の礼拝式が、神によってファミリーにしていただいた私たちの礼拝であるわけです。
 
 ここに集う私たちは、神さまの家族、神さまの民です。もちろん、この中には、血の繋がった家族、親子、夫婦もいます。ファミリー、家族で教会に通って来ている方々もおられます。家族でたった一人でこの礼拝式に出席している方々もおられます。けれども、ここにいる私たちは、皆、神の家族なのです。丁寧に、正しく言えば、ここにいる私たちは、今は、まだそうでなくても、そのようになるようにと招かれている方々なのです。それは、確かなことです。

 さてそれなら、私たちが血のつながりがなくても、神さまのファミリー、神の家族にしていただけたのは、どうしてなのでしょうか。

 その質問への答え、それこそが、実は、クリスマスの意味なのです。「ファミリー・クリスマス」礼拝という名称は、あらためてそのことを私たちに思い出させてくれます。

 先週から、私たちは、マタイによる福音書を礼拝で読み始めました。特に第1章第1節を集中して学びました。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
この福音書を書いたマタイという人は、イエスさまの12人のお弟子さんの一人です。弟子のマタイさんは、他のお弟子さんたちに比べると遅れて弟子になった人なのです。もしかすると最後に12弟子に選ばれた人なのかもしれません。この人は、自分のことをとても正直にこの福音書に書きました。正直に、とわざわざ言うのは、実は、普通なら、隠しておきたいことがあったからです。人の前にそんなことを自慢できない、自慢どころか、恥ずかしいことがあったのです。それは、自分が徴税人であったということです。自分の仲間たち、ユダヤ人たちに、憎むべき敵の国、自分たちを軍隊や経済の力で支配しているローマ帝国の側に立っていたからです。このローマ帝国から課せられた税金の取立人、それが徴税人です。しかも、この徴税人が二重の意味で、恥ずべきことをしていたのは、正しく税金を取り立てていたのではなく、多くの場合、不正に多くの税金を課して、税金を横取りしていたからです。そんなことをする人間は、神様を信じているユダヤ人、神さまの側に立つべきユダヤ人として、最低のことと考えられていました。ですから、当時の人々は、徴税人イコール、もっとも神さまから離れている人間、罪深い人間の中でも、最低、最悪の人間、ユダヤ人の屑、つまり神さまを知らない人々より悪質の人と考えられていたのです。

 ところが、イエスさまは、そのようなマタイが、収税所に座っているところに行かれて、このマタイさんに、「わたしに従いなさい」と招かれました。そして、マタイさんは、イエスさまに従ったのです。お弟子さんになったのです。

 さて、マタイさんにとっては、イエスさまのお弟子にしていただいたことは、どんなに嬉しいことであったでしょうか。どんなに誇らしいことであったことでしょうか。ユダヤ人の仲間から、恐れられてはいました。威張り散らして、お金を集め、むしり取っていました。けれども、ユダヤ人の仲間からは、軽蔑の眼で見られていました。嫌がられていました。そんなマタイさんにしてみれば、イエスさまからお声をかけていただいたことがどんなに大きな驚きで、喜びであったことでしょうか。
 
 けれども、反対のことを考えてみてください。イエスの側から考えてみましょう。立派な、優秀なお弟子さんたちを集めるなら、イエスさまのお名前も又、ますます高められると思いませんか。ユダヤ人の社会の中で、すでに尊敬を集めている人、将来が有望な青年、そんなお弟子さんたちが12人集まれば、イエスさまのお名前もまた、いよいよ尊敬を集めると思います。ところが、イエスさまの顔に泥を塗るような職業をしていた人を、他ならないイエスさまご自身が、「わたしに従って来なさい」とお招きになられたのです。イエスさまには得がありません。

 わたしは、今でも、忘れがたい一つの説教のエピソードがあります。すでに天に召された一人の牧師の説教をカセットテープで聴いたのです。その先生は、戦後、牧師になられました。牧師になってすぐのこと、故郷に帰られたときのお話です。道を歩いていると、幼馴染の友達に会ったそうです。すぐに、こう聞かれます。「おい榎本、今、何をしているんや」先生は、とても恥ずかしかったそうです。幼い頃のことを、全部知っている友達に、自分が牧師になったことを告げるのは、とても恥ずかしかったのです。小さな声で、「牧師や」と答えたそうです。聞き取れなかったようで、繰り返して聞かれました。「今、何、しとるんや」榎本先生は、もう開き直って、大きな声で、「牧師や!」と答えたそうです。すると、幼馴染はびっくりしてこう言いました。「キリストさんも、えらい、損しはったなぁ」

 この説教は、私自身がまだ牧師になる前に聴いたものです。榎本先生は、子どもの頃、相当にやんちゃをしていたようです。ですから、「お前のような男が、キリスト教の坊さんになると、キリスト教という宗教にとって、マイナスになるだろう」と言うわけです。

 わたしもまた、すでに自分がどんなに罪深い人間であるかを知らされていました。しかも人に誇れるような特別の何か、才能があるともまったく思えませんでした。しかし、イエスさまは、このわたしにも、「わたしに従って来なさい」と仰ったのです。だったら、どうして断ることができるでしょうか。自分がどんなに、人から尊敬などされない人間であっても、いへ、だからこそ、イエスさまは、わたしを罪から救いだし、罪を赦し、わたしのために十字架について死んでくださったのです。イエスさまの命を犠牲にして、このわたしを、イエスさまを信じる人間にしてくださったのです。信じるようにと、招いてくださったのです。それが、わたしの体験です。それが、榎本牧師の体験です。そしてマタイの体験なのです。いへ、キリスト者みんなの体験なのです。

 イエスさまは、本当に、損されました。損どころの話ではありません。イエスさまは、神のひとり子なのです。いつまでも、天の王座におられるべき神さまなのです。ところが、その神さまが、わたしを救うために、私たちを救うために、天から降りてきてくださったのです。降りてくださって、王様としてふるまわれたのではなく、私たちの救いを実現するため、人間の中でも誰も経験したことのない苦しみを味わわれるのです。

 マタイは、17節で、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン移住まで14代、バビロンからキリストまでが14代と数えました。きちんと14代にそろっています。いったいこれは、何を告げようとしているのでしょうか。それは、イエスさまは、「たまたま」「偶然に」この地上にお生まれになったのでは、決してないのだと告げるためです。神さまが、きちんとご計画をし、ちゃんと準備を整えて、今こそ、そのときだとお定めになられて、わたしたちを救うため、罪から救うために、独り子なる神をこの地上に送られたのです。どのように送られたのでしょうか。

 21節から22節を読みます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 ここにイエスさまの名前の意味が、はっきりと記されています。イエスさまは、ご自分の民を罪から救うから、「神の民を罪から救う」それがイエスという名前に込められた意味なのです。しかも、それは、お父さんがつけたものではありません。ユダヤ人の名前は、普通は、お父さんがつけるものなのです。ところが、お父さんになるはずのヨセフさんに、神さまからの天使が、つけるべき名前を指定する、告げるのです。それは、イエスさまの真の父は、父なる神さまだからです。
天使は、神さまのみ言葉を伝えます。「ヨセフさん、いいなずけのマリアのお腹に宿っている赤ちゃんは、神さまの聖霊によって宿ったのです。それは、決して偶然のことではありません。神さまが、ちゃんとご計画しておられたことです。あなたもよく知っている通り、これまで何人もの預言者、神さまの言葉を神の民に告げる人を通して、言われていたことなのです。つまり、旧約聖書に書いてあるすべてのこと、それは、実にこの赤ちゃんによって実現するのですよ。この赤ちゃんこそ、やがて、イエス、つまり、神の民を罪から救うお仕事をなさるお方なのです。」ヨセフさんは、こう天使を通して、神さまのみ言葉を聞いたのです。
 
 マタイによる福音書の著者のマタイが心から、読む人に教えたくて、伝えてくてしかたがないことは、一言で言うと、こう言うことです。「本当に、イエスさまは、イエスさまこそ、神さまの約束のすべてを実現する人、つまり救い主、それをギリシャ語で言うと、キリストなのです。」マタイさんは、このイエスさまこそ、わたしたちのあのイエスさまこそ、本当にイエスさま、ごじぶんの民を罪から救いだしたお方であって、キリストさま、救い主なのですと、嬉し涙を流して、この福音書の読者に告げているのです。

 繰り返しますが、マタイさんは、ユダヤ人の名折れ、ユダヤ人の損、ユダヤ人の面汚しでした。ユダヤ人から、「お前なんか神の民ではない」と軽蔑されていました。しかし、イエスさまは、そんなマタイさんを、ご自分の民、神の民、神の家族として受け入れてくださったのです。
ユダヤ人にとって神の民、神の家族ということは、アブラハムの子孫ということを意味します。アブラハムに与えられた神の救いの約束は、アブラハムに繋がる人々にもたらされる、これが旧約聖書の基本中の基本のメッセージだからです。

 しかし、マタイさんは、開口一番、1章1節で、正真正銘のアブラハムの子孫であられるイエスさまは、キリスト、救い主ですと告げます。それは、ただ客観的に、イエスさまはキリスト、救い主であると宣言しているだけではありません。

 このイエスさまがキリストであって、アブラハムの子孫である以上、このユダヤ人の損、ユダヤ人の面汚しのような自分でさへも、神の子、アブラハムの子孫なのだと、自分のこととして宣言しているのです。自分を救ってくださったイエスさまを讃美しているのです。

 そして、イエスさまがキリストである限り、たといもうアブラハムと血のつながりがなくても、神さまの子どもにしていただける、救われるということをも告げています。もう、アブラハムと血のつながりを持つことなど、救いにとっては、関係なくなっているということでもあるのです。どうしてかと言うと、このイエスを信じれば、このイエスさまと関係があれば、誰でも、イエスさまを通じて、イエスさまと繋がって、イエスさまをさかのぼって、アブラハムの子、アブラハムの子孫となれるからです。つまり、神さまの子です。神さまの家族です。

 つまり、マタイさんも神さまの子にしていただけたのです。マタイも神の民、そして救っていただいたということです。すべては、イエスさまのおかげです。神さまは、収税所に座って、世の中は、金がすべてだと、自分に言い聞かせながら、しかし、心の深いところで、そんな自分の考えが空しく、間違っているのではないかと、考えていたマタイさんのことを、決してお忘れにはなられなかったのです。

 今朝、ここに神さまに呼び集められたお一人お一人は、どうして教会に来るようになったのでしょうか。お父さんかお母さんがイエスさまを信じているから、赤ちゃんのときから気付いてみたら、日曜日は教会に来ているお友達もいるでしょう。小学校に入って、お友達に誘われた方、教会の他の集会に通い始めて、教会は、日曜日に礼拝することを、新しく知って来てくれているお友達、学校に入って、日曜日には、近くの教会に行きなさいと先生方に言われて、けれども今では、喜んで来てくれているお友達もいます。理由は、一人一人違うでしょう。けれども、大切なことは、それは、たまたまとか偶然なのではないということです。それは、神さまが、私たちを神さまの子ども、神さまの家族となるようにと、イエスさまをこの世界に誕生させ、イエスさまを十字架につけてくださった神さまのご計画に基づいているということです。神の真理に基づいているのです。

 そうであれば、神さまのその恵みと愛を大切にして下さい。神さまの方では、私たちを救う責任はなかったのです。私たちを神さまの子とするということは、神さまの方では、言わば、損することです。大損です。本当に、イエスさまは、ご自分の命を犠牲にされたのです。けれども、天のお父さまは、それでも僕たち私たちを、神さまの家族としたかったのです。そのために、イエスさまを、人として、この地上に誕生させて下さったのです。

 クリスマスは、このイエスを改めて信じる、あらためて感謝するときです。クリスマスに関係のない人など、本当は、一人もいません。もしいるとすれば、自分は神の子としての資格を十分に持っている、神の前にも人の前にも完全に恥じることなく生きてきたと胸を張るような人だけです。わたしは、胸を張るどころの人間ではありません。ですから、わたしにとって、クリスマスがなければ、生きること、希望をもって生きることはできません。来週は、降誕祭の主日です。来週もまた、皆様とここで礼拝をささげ、神を讃美いたしましょう。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天のお父さま、約束通り、信じるすべての人の罪を赦し、神さまの子、神さまの民、神さまの家族にしてくださるためにイエスさまをお送りくださいましたことを感謝いたします。罪から救われて、今、イエスさまに従う幸い、喜び、特権が与えられました。しかし今もなお、イエスさまになお損をさせてしまうような、拙い歩みしかできていません。どうぞ、これからも、あなたの民として、神の家族である教会に生き、信仰の生活に励むことができますように。

 今朝、初めて来られた方の上に、信じる心を与え、神のみ言葉を理解する知恵を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン