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「ヨセフのように、」

「ヨセフのように、」
                       2009年1月18日
                マタイによる福音書 第2章1節~11節

  占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
 

先週は、第2章の前半、東方から占星術の学者たちが、はるばる800キロの道のりを越えて、星に導かれて主イエスのご誕生、ご降誕の出来事を目撃したという物語を学びました。2000年の歴史のなかで、どれほどの画家たちの絵心を刺激し、実際にこの物語が描かれてきたことかと思います。この物語は、まさに私どもの想像力を、イメージを豊かに刺激します。ファンタジーと表現するなら、第一級のファンタジーです。有名な画家たちだけではありません。教会や、キリスト教主義の幼稚園などでは、毎年のようにこのテキストをもとに、劇を演じます。クリスマスページェントです。それは、とても美しくも、荘厳な劇になるのです。

さてしかし、そのような劇を演じる時、本日の聖書の箇所までは、演じないことが普通かと思います。何故、でしょうか。ここには、マタイによる福音書の中でも、いへ他の福音書、さらに申しますと、新約聖書の中でも、最も悲惨な事件についての報告がなされているからです。ヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたというのです。何と言う悲惨なことが起こったのでしょう。

そもそも、ことの発端は、ヘロデ王が占星術師たちに、ひとつの命令を出したことによります。占星術の学者たちは、エルサレムまではるばる800キロの道のりをやってきて「ユダヤの王が誕生したので、拝みに来た」と言うのです。これを聞いて、だれよりもすばやく反応したのは、ユダヤの都エルサレムに住むヘロデ王でした。

彼は、ヘロデ大王とも呼ばれます。生粋のユダヤ人ではありません。むしろ生きた信仰など、ほとんどありません。形式的にはユダヤ教を重んじます。何よりも、彼こそは、この当時、バビロニアによって破壊されてしまったダビデ王の神殿を見事に再建した、大立役者なのです。それによってエルサレムの住人からは、一定の評価を得ていたはずです。自分たちの力では成し遂げられなかった神殿再建をユダヤ人の血は半分しか受け継いでいない王が成し遂げたのです。

しかし、このヘロデはまた、歴史上、暴虐の王として有名でした。説教でも何度も紹介したことがありますが、太宰治の「走れメロス」に登場するディオニス王のような王なのです。ディオニス王も、妻を殺しました。自分の子どもたちを殺しました。親戚を殺しました。何故か。それは、疑いのゆえでした。自分の命、自分の王位をねらっている、自分を裏切っているその疑いが嵩じて、最愛の妻ですら殺してしまったのです。優秀ではありますが、しかしそのような暴虐な王なのです。

実は、このヘロデこそ、まさにそのような王に他ならないのです。ユダヤの人々は、このヘロデのふるまいを知っています。知りながら、心の中では軽蔑し、憎んでいましたが、この王が権力を執行することによって、自分たちの暮らしは平和であった故に、この王の統治を受け入れていたのです。彼と戦おうとは、誰も思わないのです。何よりも彼を重んじていれば、神殿ですら建造してくれるほどの権力を持っていたからです。

東方の学者たちに誰よりもすばやく反応するのは、よく分かります。自分の王位が危険にさらされるかもしれないからです。ですから、彼は、占星術師たちに、学者たちに調べさせた「ベツレヘム」という場所を教えます。ヘロデは言いました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」もとより、彼には、拝む気持ちなどありません。とにかく、自分のしたいことをまっすぐにするだけです。つまり、その王子とは誰で、どこにいるのか、それを突き留めたいだけです。そして、その赤ちゃんを、ピンポイントで、部下に命じて殺してしまえばよいのです。

しかし、神の御使いは、占星術師たちにその危険性を教えて、「ヘロデのところへ帰るな」と告げられます。つまり、ヘロデ王の側から言えば、裏切られたわけです。騙されたわけです。もとより、自分だって拝むつもりなどまったくないわけですから、騙されたなど文句を言うのは、お門違いのはずです。しかし、王のメンツがあります。王の権威にかけて、そのまま放免することもできなかったはずです。

ヘロデ王は、占星術師の報告を、「遅い、遅い」とイライラしながら待ったことでしょう。しかし、ついに騙されたと気づきます。マタイによる福音書は「大いに怒った。」と報告します。そして、悲劇が起こります。ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を皆殺しにします。惨劇と言ってよいと思います。学者によれば、その数は、20人から30人ほどであったであろうと言われます。20人から30人。多いと思うか、少ないと思うか、いかがでしょうか。しかし、たった一人の赤ちゃんにも名前がついています。一番かわいいときです。お父さんとお母さんの嘆き、涙、憤りはどれほどのものであったことでしょうか。ヘロデ王の横暴を憎み、憤ったことでしょう。同時に、わが子を守れなかった自分たちの力のなさ、無力を嘆いたことでしょう。言葉にはできないほどの深い、悲しい、苦しい涙が流されたのです。何の罪もない赤ちゃんが、殺されたのです。犠牲になったのです。

さて、主イエス・キリストのご降誕の背後にこのような事件が起こってしまったこと、聖書を初めて読んだ方の中で、大きな戸惑いや、そればかりか批判的な印象を抱く方もおられます。最近のことですが、私が教えている学生の中で、はっきりとこのように書いた方がいます。「イエスが生まれてこなければ、こんな悲惨は起こらなかった。」「神は、こんなひどいことをどうして許されるのか。」このような印象を持ったのは、かつてのわたしでもあります。

しかしそれにしても、聖書は、マタイによる福音書は、なぜ、ここまで恐ろしい事実を、主イエス・キリストのご降誕、誕生のエピソードとして書き留めるのでしょうか。

そもそも、我々が、しばしば聖書を読み損ない、神さまとすれ違って、救いや真理に対して素通りしてしまう原因がそこにあります。それは、人間の、読者の罪のなせる業なのです。我々は、「神は、なぜそんなひどいことを許したのか、正義の神であるなら、全智全能というのであれば、そんなひどいことが起こらないようにするべきではないか。」こう考えてしまう。つまり、いつでも、読者の方が、神の上に立って読んでいるのです。上とまでは、言い張らなくとも少なくとも神と同じレベルで、考えているのです。

しかし、間違えてならないのは、このあまりにも悲惨な、残虐な行為の責任は、イエスさまにも、父なる神さまにも、まったくないということであります。マタイによる福音書が、ここでわれわれに告げていることは、神の正しさと神の愛とが、我々、罪にまみれた世界の中に提供され、明らかにされるとき、それは、おおいに喜ばれるのではなく、むしろ反対に、このような反応、応答を引き起こす、引き起こしたということであります。マタイは、その事実をここで、事実として告げているのです。

それならいったい何故、我々のために差し出された神の愛と神の正義を、彼らは感謝して受け入れられないのでしょうか。そこに大きな問があります。先週は、占星術師たちはこの赤ちゃんの中に、宝を発見した物語を学びました。彼らは、イエスさまを神の至宝、宝の中の宝として認識しました。それに値段をつけるとしたら、全財産であったというわけです。自分の仕事道具です。自分の生活の手段を、自分の地位を保証するそれらの宝をイエスさまに差し出します。彼らは、この赤ちゃんの中に、神の宝、神のプレゼントを発見しているのです。神の宝を前にして、自分の持っている宝を差し出すことがふさわしいと考えたのです。そして、別の道を通って帰ってゆきました。つまり、これまでの人生とは違う道が示されるのです。変化するということです。変わることです。御言葉によってこれまでの自分中心の生き方を止めることです。しかし、ヘロデ王もエルサレムの住民たちも、これまでの生き方を続けようとするのです。だから邪魔なのです。神が、その独り子が邪魔なのです。

しかしそのような人々の中で、忘れてならないのは、ヨセフのことです。父ヨセフです。彼は、結婚前に、神の御子を聖霊によって身ごもったマリアを妻に迎え入れました。決死の覚悟で、彼女を迎えたのです。そして、遂に無事、出産のときを迎えます。ところが、その喜びもつかの間です。すぐに、神の天使は、なんとエジプトまで逃げて行けと命じるのです。彼は、夜の夢で告げられました。その時、彼は、パッと起きだします。いくら信仰的な人であっても、おそらく朝早くに旅立つものではないでしょうか。しかし、ヨセフは違います。直ちに従います。驚くべき行動力ではないでしょうか。ヘロデ王がこの赤ちゃんを狙っているというからです。ヨセフは、目立ちませんが、ここでも、どんなことがあっても妻のマリアを守抜くのだ、そしてイエスさまを守り抜くのだという並々ならぬ決意が感じられます。ヘロデ王が死んだ後は、あらためて家族をイスラエルまで連れて帰ります。

このとても短い箇所に、繰り返されている言葉は、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであったということです。15節にあります。23節、「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」とあります。しかし、17節には、似ていますが、こう記されています。「こうして、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。」「実現するためであった。」ではなく、「実現した」です。これは、明らかに、この幼児虐殺が神の御心であったとか、計画であったということではないのです。彼らの不信仰によって、実現してしまうのです。そうであれば、原理上は、食い止めることも可能でしょう。神の警告に、真実に対応していれば、よいのです。

神のみ言葉が実現するとき、そこに、ヨセフが必要です。いへ、神は、ヨセフのような信仰者を育て、用いられます。神のご計画は、不信仰者、不真実で従わない人間を通しても実現されて行きます。しかし、その主人公になるのは、み言葉に応答する人です。私どもにとって、イエスさまは救い主。その救い主を救い主として信じるなら、そこにみ言葉への聴従が必要です。

ある人は、考えます。彼らは、夢を見たり、星を見たり、神の働きは鮮やかにあるけれども、自分の生活の中には、神の働きがどこにあるのか。それは、まったくの見当違いです。私どもキリスト者には今、この主日礼拝式があります。ここで生ける神、父と御子と聖霊なる三位一体の神を礼拝し、このお方のみ言葉、御声を聴くことが許されています。これ以上に確かなものがあるでしょうか。夢とか星に応答することは、もっと困難でしょう。私どもには、これほどまでにはっきりとした、客観的な神のみ業、神の御心が鮮やかに示される場所、時が与えられているのです。私どもは、前向きに、み言葉を聴きましょう。そして、主の御心を知ったなら、彼らのように、直ちに、あるいは、行き先を知らずとも、800キロもの道のりですら進み行きたいと願います。

私は、今回、三つの小さな物語を一回で学びながら、実は、今回、改めて気付かされたことがあります。それは、マタイによる福音書が、そしてこの一連の出来事が、実に、旧約聖書の神の民の歴史の物語をその基本においているということです。このように申しますのは、この物語が決して、創作であるということを言うのではありません。驚くべきことですが、かつて起こった出来事に、あまりに似ているのです。そしてマタイによる福音書は、本当にそのことに気づいたのです。その驚きと感動をもとに、この福音書が、この物語が語られているのです。そのように気づくこと、それが信仰です。それが信仰の眼です。信仰の目が、観るのです。信仰の目が観ると、物事、出来事の背後に神のお働きを見るのです。神の御心を見るのです。マタイに教えられたいと思います。マタイ自身が観たように、私どももこの物語、この出来事の背後にある神の御心を見抜きたいのです。

先ず、東方の学者たちの存在です。旧約聖書の中にこの人々と似ている人などいるはずはないと思われるかと思います。イスラエルの父祖アブラハムのことを思います。彼の生まれ故郷、ハランは、まさにエルサレムはるか東方です。彼の故郷で人々は、月を拝んでいました。東方の占星術師たちは、アブラハムの時代からくだること2000年。相当に、天体の知識や観測の技術が発達したのでしょう。アブラハムは、月を拝む故郷から行き先を知らないまま、旅立つことを神に命じられたのです。占星術師たちは、み言葉ではなかったのですが、星によってそのように導き出されました。アブラハムも占星術師たちも真の信仰、真の神に出会うのです。神によって出発する人、神のみ言葉の導きによって出発する人、それが真の信仰者の姿なのであると、まるで旧約聖書を、おさらいさせられているように思います。

次に、ヨセフのことは、同姓同名のヨセフを思います。アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブです。第1章冒頭の系図の中には、ヤコブの子全員は記されていません。ヤコブの12人の子どもたちの中に、ヨセフがおります。ヨセフは、エジプトに売り飛ばされてしまいました。そしてそれから300年あまり経って、エジプトから脱出させられます。モーセによってです。そのようなイスラエル民族の歴史が、このクリスマスの出来事のなかで、思い起こさせられます。
多くの学者が指摘しますが、ナザレ人とはナジル人という発音であって、ナジル人とは、神がイスラエルの中でも特別に選ばれた聖なる奉仕にあずかる人のことです。そうなりますと、我々の中で、それはこじつけにならないかという疑いが生じかねないかと思います。

そもそも、ここに取り上げられた旧約聖書の言葉は、もともとの文書の流れから言えば、文脈から、主イエス・キリストのこの出来事の預言として読むことは、とても困難と思います。はっきりと申しますと、少なくとも文脈からは、抜き取られた仕方で引用されているのです。まったく自由な、驚くべき引用です。ですから、信仰のない方、ユダヤ人であれば、おかしな預言だと退けられます。我田引水という諺のように、マタイは旧約聖書を自分勝手に引用しているのだとの批判は、おそらく甘んじて受けるかと思います。

それなら、マタイのこの記述は、信ぴょう性、確かさはないのでしょうか。いいえ、そうではありません。信仰の眼が開かれ、イエスさまが神の御子であることが分かった人には、この福音書がそのまま受け入れられるはずです。信仰の想像力が、それを可能にするのです。

それはまるで、ここに記されている事柄が、あの当時同じように信じられず、受け入れられなかった人々が主イエスを拒絶したのと似ています。マタイによる福音書を読みながら、結局、私どもがそんなバカなことがあり得ようか、と無視するとき、自分の人生の中で、主イエスを無視して済まそうと考えるとき、いつでも、私どもは、あのヘロデや、エルサレムの住人のように、主イエスを拒絶するのです。

マタイによる福音書がここで告げていることは、単純な事実です。この幼子こそ、イスラエルに約束され、そのようにして全人類に約束されていた神の御子の降誕であった。やがて、成長して奇跡を行い、力ある神のみ業をして見せたイエスさまが神の御子であるのは当然ですが、しかし、マタイは、この幼子こそ、ユダヤ人の歴史をついに完成する、救いの歴史をついに成就するお方なのだと告げるのです。

しかしだからこそ、殺されようとするのです。抹殺されかかっているのです。そこに明らかに、神の救いのご計画に抵抗しようとたくらむ悪魔の存在が見て取れます。サタンは、権力の魔力に囚われているヘロデ王を思う存分操るのです。ヘロデは、やすやすとサタンの道具となりました。サタンもヘロデも、要するに幼子イエス、神の御子を地上から追放したいのです。自分が王になりたいからです。自分を、中心に世界を、人生を動かしたいからです。

しかしサタンの巧妙な作戦は、神の救いのご計画を、破壊することはできませんでした。神は、徹底して御自身の御子の命を守られるからです。サタンの策略によっては、決して主イエスのお命は、奪われるはずがありません。サタンと神とが、同列で戦うことなどありえないからです。神の勝利は、揺るがないからです。

ところが神は、なんということでしょうか。やがてこのイエスさまの命を、ご自分で奪われます。サタンが奪ったのではありません。イエスさまの父なる御神が、私どもの罪を贖わせるために、父なる神御自身の御手によって、私どもの罪を赦すために、贖いの代価として御子のお命を十字架で奪われたのです。

この福音書の読者はやがて、この幼子が十字架で殺されることを知ります。つまり、読者は、このベツレヘムでヘロデの欲望の犠牲となって殺された幼子たちの死は、十字架の死を予告する死として、思い起こさせられる、悟らされることとなります。そこで、あのイエスさまの十字架の上での犠牲の死のときに、嘆かれた悲しみは、ベツレヘムの幼子を奪われた母の嘆きや悲しみの叫びをはるかに越えた、父なる神の涙であることをも、悟らされるのではないでしょうか。その涙、その嘆きに負けたまわない神の私どもへの愛が、そこで勝利されたのです。父なる神は、私どもを救いの中へ、私どもを神の子とするために、ご自身の罪への怒り、罪の支払うべき刑罰を、私どもの代わりに御子に下されたのです。父なる神は、ただお一人で、その恐ろしい苦しみ、嘆きを忍耐されたのです。

そうであれば、この幼子たちのことを、改めて、信仰の目で見ればどうなるのでしょうか。これは、孫引きになりますが、ある説教者がドイツの神学者、ナチスドイツ、ヒットラーによって殺されたデートリッヒ・ボンフェッファーの言葉を紹介していました。ボンフェッファーは、こう言ったそうです。「この殺された幼児は、気の毒だと思われるかもしれないが、違う。この子どもたちは幸せだった。この子どもたちは祝福されたのだ。何故か。彼らは、イエスさまのために死んだからだ。そしてイエスさまは、彼らから離れられないのだ。」

この神学者もまた、この悲惨な出来事を、マタイによる福音書のように見ていると思うのです。わたしは、そこにこそ神学者の眼差しがあると思いました。そしてそれは、何もボンフェファーだけのものではないとも思いました。神を信じる者は誰でも、この神学者の目を持つことができるのです。確かに今は、まだ、うすぼんやりとしか見えなくとも、やがてはっきりと見ることもできるのです。

ただし不信仰は、いつまでも見れません。不信仰者、頑なに自分の立ち位置、自分の生き方、考え方にしがみつく人には見れません。しかし、信仰は見るのです。どんなに悲惨と言われようと、主イエスと関わりを持つのであれば、それは、神の愛の中に、イエスさまの救いの中に、巻き込まれ、神の祝福の中に巻き込まれているという現実をです。

そうであれば、私どもは、他ならない自分の幸いをここでどれほど感謝したらよいのか分からないほどです。確かに、信仰者にも、キリスト者にもさまざまな戦いと不安があります。病があります。将来の、現在の不安があります。私どもも現実の様々な問題、課題に翻弄されているかもしれません。しかし、御子は、お生まれくださいました。そのお命は、ヨセフによって守られました。そして、イエスさまは、私どもの罪の贖いのために、十字架でまことの死を死んでくださったのです。その死がもたらす祝福、永遠の命、神との交わりの中に私どもは今います。祝福されているのです。私どもは、ヘロデのように、自分の王座、自分の権威、自分の殻に閉じこもりません。かなぐり捨てるのです。ヨセフのように、大胆に、信じるのです。従うのです。「預言が実現するためであった」と、ヨセフの信仰を、マタイは評価しているのです。私どももまた、同じであります。私どもの場合にも、そのようにして、神の預言が、神のご計画が、神の世界を救う歴史が成就するのです。

私どもは今朝、自分の信仰の生活もまた、そのような大きな、とてつもなく大きな神の救いの物語の一部分とされていることを信じるのです。そこでこそ、自分の人生の責任を深く自覚するのです。お互いの人生の責任は、誰にあるのでしょうか。他の誰かにあるのでも、自分自身にあるのでも決してありません。ただ、命を与えて下さった神に、神にのみあります。私どももまた、ヨセフのように、目立たなくても、しかし、み言葉を信じて従う生涯を送りたいのです。

祈祷
ヘロデは誰も信じることができないで死にました。自分の王位を守るために、神のみ業すら無視し、それを踏みつぶそうとしました。天の父よ。今私どもは、この礼拝式で御子イエス・キリストとの交わりを与えられています。こうして、救いと祝福の中に巻き込まれ、招き入れられています。あなたのために生き、そして死ぬことができるものとされています。私どもの人生もまた、あなたの救いのご計画の中に組み入れられているのです。悟らせて下さい。そして、喜んで自分を差し出し、用いられるようにしてください。信仰を与え、富ましめて下さい。アーメン。