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「恵みによる悔い改め」

「恵みによる悔い改め」
                       2009年1月25日
                マタイによる福音書 第3章1節~11節

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」      」
 

先週は、アメリカ大統領の就任式とその演説が世界中に配信されました。これは単にアメリカの歴史の中だけでとらえることのできない、人類の歴史に刻まれるべき大きな出来事であると思います。そこに至るためには、何よりもあのマルチン・ルーサー・キング牧師たちの指導による自由と人権を求める戦いがあったことは明らかです。そして一気に歴史をさかのぼれば、そもそもアメリカの歴史の発端、建国の動力になったその背景にある聖書的な価値観、キリスト教的価値観にあることもまた明らかです。それはプロテスタントキリスト教の精神です。国教会ではなく、キリスト者たち、自分たちの主体的な決断による教派を形成しなければならないという自由教会の理念です。そして、それは今日の人類普遍の価値観になっていると考えることができるはずです。人権であり、ひとりの人間の尊厳です。これは、全人類が共有できる普遍的な価値観です。数少ない一致点であるかと思います。

 しかしこのようなすがすがしい思いばかりに浸ることはできませんでした。それは、イスラエル軍のガザ地区への攻撃のニュースであります。市街戦となり、無辜の住民に、子どもたちにも銃弾が浴びせられたということです。そこでは、人権、人間の尊厳の価値観がまったく失われている。そう断罪せざるをえません。もとよりすべての戦争には、このようなことがつきものであることは、歴史の教訓のはずです。ただし、今回のこの悲惨の原因の一つが、どこかにユダヤ人たちの宗教的優越感が潜んでいるのではないかと、案じてしまうのは、私だけでしょうか。

 さて、なぜ、本日のテキストでこのような長々とした先週の世界のニュースが紹介されるべきなのか。さっさと、テキストの解き明かしに入ればよいのではないかと、御考えになられる方もおられるかもしれません。確かに一回の説教で、このテキスト全体を解き明かすことは、到底できませんから、先を急ぐべきです。又、今週の祈祷会でもこのテキストを学ぼうと思います。しかし、ここで登場するヨハネという人が呼びかけたメッセージは、現代世界の最大級のこの問題にも、光を注いでいると考えるからです。

 さて、それはどのようなことなのかを、学んで参りましょう。洗礼を施す人ヨハネという人物は、四つの福音書のすべてにおいて、イエスさまの公のご生涯が始められる直前に必ず登場致します。特に、ルカによる福音書は、ヨハネのことを丁寧に紹介します。そこで分かるのは、彼は、イエスさまの半年先に生まれた人で、親戚であるということです。洗礼者ヨハネの誕生もまた、イエスさまのご降誕のために神が前もって選んでおられた人であり、働きを担う人であることが明らかにされています。マタイによる福音書では、預言者イザヤの言葉が、3節であげられます。「「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」救い主が進み行く道を整えること、救い主のお働きのためにその道筋をまっすぐに準備する働きをする人です。ヨハネ自身は、30年の年月を経て、ユダヤの社会をつぶさに見て、人生経験、信仰の歩みを重ねる中で、神からそのような召命を受けたのだと思います。

 救い主が来られてそのお働きを進めるために、どのように準備すべきか、何をすればその助けになるのか。そこで彼がしたこと、それは洗礼を施すことでした。この当時、洗礼は、珍しいことではありませんでした。宗教的な行為の中で水を用いるということは、ほとんどの宗教に共通して見られる現象でしょう。神社に行っても、お寺に行っても水が用いられます。教会でも洗礼において水を用いるわけです。ユダヤの人たちも、宗教的な意味での清めのための水は、日常的に用いられていました。我々で言えば、手洗いの励行のように、彼らは、外から帰ってきたら、宗教的な意味をこめた清めのための水で手を洗ったのです。逆から申しますと、実は、ユダヤ人にとって、人生で一回限り受けるような洗礼の儀式とは、無縁でありました。洗礼を施す場合は、異邦人たちがユダヤの神、イスラエルの神を信じたいと願い出たときにするものなおです。洗礼を受け、割礼を受けて、ユダヤ人として迎え入れられるのです。それは、これまでの偶像礼拝を止めて、天地の創造者なる、生きておられる唯一の神さまのみを神とすること、一言で言えば、これまでの歩みの方向転換を意味する行為でした。神を信じるとは、そのような生き方の180度の方向転換が求められたわけです。そしてそれを、「悔い改め」と言います。つまり、悔い改めの表明として洗礼とは、異邦人からの改宗者にだけ求められていたわけであります。

 ところが今ここで、洗礼者ヨハネは、実に、異邦人ではなく、ユダヤ人に対して洗礼を受けるべきことを呼び掛けているのです。この行為こそがこの人を際立たせるのです。つまり、そこで何が明らかにされるかと申しますと、ユダヤ人たちは、「洗礼を受けるべきは、異邦人たちであって、我々ユダヤ人は、すでに神の選びを受け、すでに信仰の恵みにあずかっているのだ」という立ち位置で生きていたという事実です。そのようにして異邦人を見下しながら、自分たちの誇りを堅くしていたわけです。今洗礼を施す人ヨハネは、そのようなユダヤ人のこれまでの基本的なあり方に対して、ここで根本的な、根元的問いを投げかけているわけであります。

 厳しくそして激しく悔い改めを呼び掛けるヨハネは、都会に出て行きません。荒れ野で生活しています。そこにもすでに社会批判、当時の現代社会批判が込められています。おそらく人間は、裕福で文明的で快適な暮らしを求めようとするとき、あるいは人と競って働こうとするとき、都会を、都市を目指すのではないでしょうか。それに対して、ヨハネは、荒れ野に出て、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」のです。当時の社会と人々に強烈な印象を投げかけたであろうことは、簡単に想像できます。たとえば映画などで、この役を演じられる役者さんは、イエスさま役の人の容貌に比べても、圧倒的に強い印象を与えるかと思います。まさにインパクトのある格好をして、何よりも生き方をしていたのです。

さて、そこでそれより何より、私どもが驚かされることがあります。それは、この「悔い改めよ!天の国は近づいた。」と叫んでいる、言わば、変わり者の宗教家の招きを受けて、なんと、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」という事実です。驚きです。彼らは、無視したのではないのです。改めて自分たちは、神の民であって、この世的な楽しみを追及して、ローマの人たちのような価値観に染まってはならない、自分たちの信仰の不熱心さ、神を第一にしていない信仰生活の罪を告白し、悔い改めようとしたのです。すばらしいことではないでしょうか。そのようなユダヤ人の正しい伝統に立ち返り始めていると見ることも許されると思います。

しかもそこで何よりも驚くうべきことは、その中に、一般庶民、大衆ではなく、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々もやって来ているのです。ファリサイ派とは、ユダヤ人の中で最も厳格に律法の掟に忠実に生きることを誓った人々です。社会的には、尊敬を集めていた民族の良心をもって自他ともに認めるような人々でした。サドカイ派とは、エルサレム神殿で働く人々であり、エリート層、富裕層であり、ユダヤ社会の支配層でした。ファリサイ派とサドカイ派はそれぞれ対立していた面もありますが、しかしいずれにしろ、ユダヤ社会、宗教的には、一般人とは立場がはるかに上にあると自他ともに認めていた人々であることは間違いありません。

さて、そしてそれよりもさらに驚くべきことがあります。ここでヨハネは、この人々を痛烈に批判しているということです。目もくらむような激しく、厳しい叱責が、容赦なく語られます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 

これがもしも、彼らがエルサレムの町の中に留まっていて、自分がしている洗礼運動、神の前に悔い改める運動を無視したままであるからというのであれば、よく分かることです。ヨハネは、彼らへの批判運動として洗礼運動を行っているわけですから。ところが、ヨハネは、自分の招きに応えて、わざわざ、洗礼を受けに来た彼らを名指しして、言い放ったのです。

たとえば多くの日本人は、生まれて初めて教会に行こうとするとき、そこで何が語られ、行われているのか、よく分からないまま来られるかと思います。ですから、教会に来て、説教者が、牧師が、声高く、「罪を悔い改めなさい。あなたがたは罪人です。」と語るのを聞いてびっくりされます。何もそこまで罪人呼ばわりされるような生き方はして来なかったと、抵抗や反発を感じてしまわれて、教会には行きたくないと考える人も出るわけです。しかし、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、洗礼を受けるためにヨハネのところに来たのです。つまり、自分の罪を認め、悔い改めて、罪を告白するためだと分かって来ているのです。

常識的に考えれば、おそらくその人に向かって、「ああ、よく来られました。ああ、あなたがたの立場、メンツを乗り越えて、良く来られました。さあ、洗礼を受けなさい。神の祝福があるように。」そう言うものではないでしょうか。ところが、ヨハネは、「蝮の子らよ」と叱責するのです。これに驚かないでいられましょうか。 

 いったいヨハネは、彼らの行動、存在をどのように見ているのでしょうか。はっきりと「蝮の子ら」と呼んでいます。マムシとは毒蛇です。聖書の創世記第3章で言えば、それは、悪魔、サタンを意味するのです。「悪魔の子どもたち」という意味です。失礼も甚だしい。目もくらむような言葉です。
 
しかし洗礼者ヨハネの眼、その眼差しが見抜いているのは、我々のような浅い物の見方、うわべのものの味方とは異なっているのです。彼は、彼らの心の奥底を見抜いているのです。彼らが考えていたことは、こういうことです。「我々は、あなたが批判しているような者ではないのだ。あなたは、荒れ野で、質素な生活をして、神の前に真実に生きることを願っているが、我々は、あなたがやっていること、願っていることと、基本的には変わらないことなのだ。我々は、神の前によいことなら、何でもしたいと願っている。だから、わざわざ来たのだ。」そのような自分たちの信仰心の篤さ、熱心さ、敬虔さを洗礼を受けることによって示そうと考えているわけです。一種のパフォーマンスを示したのです。しかし、ヨハネは、まさにそれが上辺だけの、単なるパフォーマンスであると見抜いているのです。本当のところ、最も深いところには、変化していないのです。彼らが意識しているのは、神の前ではなく、人間の前であったのです。自分たちが、宗教的に正しい人間、律法を守り、良いことをすべて行う人間であるのだと、自惚れているのです。ヨハネは、それを見抜いています。だから、上辺のことではなく、実を結ぶことを見せなさいと言うのです。

ファリサイ派の人々は、洗礼を受けることもまた、ひとつの善き行いと考えたのでしょう。彼らもまた、ヨハネがこの運動を始めるはるか前から、人々に律法を守って生きよう、悔い改めて生きよう、と呼びかけていたのです。しかしそれは、ヨハネの目から見れば、結局のところ神の御前でのことではなく、自分たちどうしの倫理道徳の次元に貶められているということです。清く正しく美しく生きよう。そう呼びかけている自分たちは、それができていると考えている、自惚れているのです。そうなると、本当の意味での罪人の自覚でもなんでもないはずです。それなら、真の罪人の自覚とはいかなるものでしょうか。自分の努力やがんばりでは、決して神の前に受け入れられる義を獲得できない、神に喜ばれ、受け入れられるような生活、行い、実りを、自分の熱心では、何一つとして成し遂げられない、言わば、神の前に0点でしかない悲惨な人間であると自覚し、認め、悲しみ、悔いることです。

ここにサドカイ派も登場します。彼らは壮麗な神殿で働く、エリート集団です。最も神に、聖なる場所に近いところで生きていると自ら考えているし、周りからも認められているのです。

しかし、ヨハネはかれらに言います。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 アブラハムの子孫であることが、ユダヤ人をしてユダヤ人たらしめるアイデンティティーであり、誇り、プライドです。しかし、ヨハネは、言うのです。「アブラハムとは何者か、そのアブラハムであっても、神の御前に、一人の罪人ではないか。彼もまた、この道に落ちている石ころの一つにしか過ぎないではないか。神が恵み、神が憐み、神の御手のなかで、輝ける宝石にしていただいただけではなかったか。だから、誇ることができるのは、誇るべきは、拾い上げて下さったこのお方、この神だけではないか。それを悟らないで、自惚れているのなら、神御自身が斧を取り上げて、木を根元から断ち切って、倒して、火に投げ込むのだ。」彼は厳しく警告します。これは、個人的な経験を予告するのではなく、民族的な、共同体全体に関わることです。神は、神の選びの民であるイスラエルそのものをも、滅ぼすことがおできになるのだと、ただ神の選びと恵みによってのみ、自分たちの存在が許されていると、指摘したのです。彼らは、自分たちもまた、もともとただの石ころから、しかし神の御手のなかで宝石にしていただいたのだと知るべきなのです。

 実に、このヨハネの叫びは、まさに今日的な課題ではないでしょうか。今も、今こそ、イスラエルの人々は、ユダヤ人の洗礼者ヨハネが告げる神の招きの言葉、この悔い改めを命じる叫びを聴くべきです。

 さて、このテキストは、現代の世界の問題に光を照射するみ言葉ですが、しかし何よりもこのみ言葉、このヨハネの行為は、キリストの教会にこそ、当てはまるのです。私どもにこそ、呼びかけられているのです。そうでなければ、このような福音書として纏められるはずはなかったでしょう。そのように読まなければ、まさに、他ならない私どもこそあのファリサイ派やサドカイ派の人々とまったく同じことになるでしょう。

 私どもキリスト者は、知っているはずです。悔い改めとは、何かを教理として、聖書の救いの教えとして、きちんと学んでいるはずです。たとえば、「子どもカテキズム」問29にこうあります。

「神さまの恵みとは何ですか。
  答 神さまが、一方的に、愛をもって、私たちを救いのうちに選んでくださったことです。私たちは、聖霊のお働きによって、自分を罪人と認め、悔い改め、イエスさまを信じることができました。ですから、私たちは、心をこめて神さまを賛美します。」

救いの恵みとは、神がまさに一方的に、私どもの行いや心持ち、能力や生活ぶり、精神的な清さ、宗教的素養などなど、私どもの側のよいとされるような一切の特徴によらず、ただ神が御自身の本質である愛をもって一方的に、私どもを愛してくださったおかげであるということです。その愛の中で、その恵みによって自分のことを罪人と認め、悔い改め、神が救いのためにお与えて下さった御子イエスさま信じることができるということです。悔い改めることは、自分中心から神中心へと悔い改めることは、聖霊なる神の賜物であるということです。

 しかしそこに誘惑と危険もあります。救いの教え、教理は、頭で分かることはとても大切です。信仰は、知的な、理解を求めるのです。分からないけど信じる、信じることが重要とは参りません。しかし、そこで分かるとは何かです。今朝も、私どもは皆さまを代表してわたしが悔い改めの祈りを捧げました。この悔い改めの祈り、罪の告白がない礼拝式は、そもそも礼拝として成り立ち前ん。基本的に重要なことです。ですから、多くの教会は、ジュネーブのカルバンの教会もまた、それをきちんと式次第の中に取り込んでいるのです。罪の告白が、ちゃんとプログラムの中に組み入れらられているわけです。しかし、それが、言わばプログラムとして自動的になされて、最後に「アーメン。主よ、憐れんで下さい」と唱えれば、自動的に悔い改めたことになるわけではないはずです。そこに、本当に、悔い改めが出来事として起こるのは、私どもが聖なる御神の前に出るそのときでしょう。神を信じることがない人、神のご臨在を知らなければ、人間にとって、悔い改めることは不可能なのです。人間の道徳心、良心が研ぎ澄まされれば、神に悔い改めることができるということではありません。ただ、神が近づいてくださる、神がそばにおられる、その恵みの故にのみ、悔い改めることができるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」ヨハネが言ったのは、まさにそのことです。天国、つまり神の国のことです。神の国が近づくとは、神が近づいておられるということです。そして、キリスト者である私どもは今まさに、この礼拝式の中で神の国の近づきを、もっとも体験させていただいているのです。

 
 ヨハネは、天国は近づいたと考えています。それは、救い主の到来が間近いと信じているからです。つまり、イエスさまが間もなく来られるからです。そして、ヨハネは言います。自分は、水でしか洗礼を授けられないが、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」その火とはいかなる火なのでしょうか。ヨハネは言います。「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」実にもみ殻を焼き払う火なのです。つまり、裁きの火、審判の炎です。間違ってはなりません。私どもは、火をもって焼き払われるから、その恐怖のなかで震え戦いて、「ああ、お赦しください、ごめんなさい。お助け下さい!」と悲鳴を上げることが、悔い改めへと私どもを促すことではないのです。

確かにこの時のヨハネは、まだそれをはっきりとは知らないのです。しかし、私どもはこの後、はっきりと知ります。それは何か。それこそ、ヨハネが告げた救い主、彼が予告した聖霊と火で洗礼を施すお方が、なんと、悔い改める必要のないお方が、洗礼を受けるという出来事です。そればかりではありません。救い主は、罪人の一人として洗礼を受けられるのですから、その罪の責任をとって、十字架で死なれたのです。つまり、火で焼きつくすご本人イエスさまが、火で焼かれてしまったのです。神の怒りをお受けになられたのです。それが主イエス・キリストの十字架の出来事に他なりません。

 私どもキリスト者はこのイエスさまの十字架とご復活を知り、信じることができました。この恵みの中でのみ、悔い改めることもできたのです。そして今朝も真実に悔い改めるのです。「天の父よ、あなたの御子の身代りの死、身代わりの滅び、身代わりの御苦しみの故に、ただその故に、わたしは罪が赦されました。その上は、今日も、今週も、御子イエスさまを主と信じ、主と告白し、イエスさまを中心に、イエスさまのために生きてまいります。」私どもは、そう告白する以外に、そのようにイエスさまに感謝する以外にもはや生きる道がありません。それが、私どもの悔い改めになるのです。

あのイエスさまの御苦しみのおかげで、まったくの石ころにしか過ぎないこの私どもは、神の宝石に変えられるのです。マムシの子になり下がってしまった私どもは、十字架という神の救いの御手の中で、アブラハムの子、神の子に変えられるのです。私は、悔い改めの実を結んだかどうか、検証することがまったく無意味であるとか不要であるとは申しません。ただしかし、そんな時間があったら、むしろこのイエスさまの十字架の御苦しみを正面から見上げ、見つめるべきだと思います。そのときこそ、私どもに悔い改めが与えられ、どんなに拙くても、それぞれにその実りを結ばせていただけるからです。今ここで、私どもが招かれていることは、この主イエス・キリストの救いのみ業を見つめ、御苦しみを見つめることです。その時こそ、私どもに真実の悔い改めの実りを結ぶことができると信じることもできるのです。今朝、そのような自分の信仰生活への望み確信にたちましょう。十字架のイエスさま、火の中へ飛び込んで行かれた救い主イエスさまの直下にひざまづくとき、私どもは今、神の御前に、本当に救われ、赦されているとの確信、私どもの悔い改めもまた真実のものであるとの確信を今朝、新しくさせていただけるのです。

祈祷
 悔い改めよと、ヨハネはその全存在で、神の民に宣言しました。いつの時代も、私どもが日々なすべきことは、神へと、あなたへと心を向けることであります。あなたは、私どもに常に、御心を向けていて下さるからです。あなたの恵は、常に私どもに注がれているからです。その恵みを軽んじて、私どもは、自分勝手な、自分を第一にする道を歩もうとあがきます。注がれている恵みに気付かず、自分の足らなさを嘆いたりします。どうぞ、憐れんで下さい。毎日、新しくあなたの御子イエスさまがそばにおられること。共にいて下さることに深く気付かせて下さい。なによりも十字架の真下に留まらせて下さい。あなたを畏れ敬う思いのなかで、赦され、愛されている喜びと平和の内に真実の悔い改めをなすことができますように。私どもの全生涯が悔い改めの日々となり、悔改めの実りを豊かに結ぶ生涯とならせてくださいますように。アーメン。