★本日は、いよいよ会員総会です。総会とは何でしょうか。年報のP42に、「教会規定」より抜粋して、総会についての文章を掲載していますから、そこで確認して下さい。私どもは、総会を、礼拝をもって捧げます。つまり、総会もまた、神への礼拝行為として考えているのです。昨年度の報告がなされ、新年度の計画が提案されます。経済と事業が報告、審議されるわけです。その相手は、もとより現住陪餐会員である「お互い」に対してとなります。しかし、ただそれだけなら、扱う事がらの違いだけで、他の諸団体の年次総会と基本的には変わりがありません。しかし、教会員総会は、神の御前でなされます。つまり、神に向かって捧げられるべきものなのです。教会のすべての会議を貫く基本線です。それをうっかり見失うこととなれば、霊的な会議ではなく、報告の結果に対する自己満足や卑下、あるいは無責任な批判や的はずれな意見となってしまいます。神に報告し、感謝と悔い改めの時とします。神に対して責任的に新年度の事業計画、予算案を受け入れ、ただ神の栄光のために、神の憐みにすがりながら、新年度へと全員で踏み出すのです。
☆かつての総会は、長くても1時間で終わりました。30分余りのときもあったように記憶しています。しかし近年は、2時間を越えています。それだけ充実してきたということです。回顧と展望は、12ページ。昨年と一昨年は、8ページで、これでは長すぎると反省しつつ、さらに長く記してしまいました。しかも、印刷後、なお手を入れ、なお補足して皆様と認識を共有できればと考えているのです・・・。
★昨年度、委員会は、今年の大きな目標として、「名古屋岩の上教会の原点を再確認し、その歴史(伝統)をさらにふかめ、揺るぎなきものとする」としました。委員たちの共通認識であったのです。そこで、全体研修会も、これを主題に開催しました。しかし、私自身は、実はこの認識を深く共鳴していなかったと思います。しかし、新しい委員会となり、年末に自由に懇談しながら、もう一度、加入前の学びをし直す必要性があるのではないかとの話になりました。旧委員会も新しく加えられた委員たちも同じ認識を示されたのです。そこで、祈祷会で皆さんのお話をも伺いました。私は、ついに腹の底から、皆さんと共通認識に至りました。つまり、今年度、もう一度、徹底的に基本を学び直すということです。新しい会員が増えているわけです。又、あの当時は、理解不十分、積極的ではなかったと考える方もおられるのです。先週から、祈祷会で名古屋岩の上教会文庫③「日本キリスト改革派教会とは何か」(牧田吉和、前神戸改革派神学校校長)を読み始めました。なぜ、ここに教会を開拓したのか、なぜ、その教会は日本キリスト改革派教会でなければならなかったのか、教会とは何か・・・。そのようにして整えられてきた私どもの教会の伝統を継承しつつ、さらに堅固にするわけです。私どもの教会は、主日礼拝式を重んじてきました。当り前のことです。しかし特徴とも言えるのは、祈祷会と読書会を重んじてきたことでした。そこで教理を学び、歴史を学び、み言葉を学び、そして志を一つにして教会形成に献身してまいりました。 今年、新しい企画はほとんど何もありません。結局、これまで志してきたことを、「徹底」することに尽きます。それがなされれば、神は、必ずや、今年度の私ども委員会が「改めて」表明する「教会設立」は、実現させてくださるはずです。5年後の経済的自立の課題も、この学び、名古屋岩の上教会の伝統の継承と徹底によって実現されると信じています。
☆総会で、○○兄の伝道所委員就職式を挙行する「予定」です。脅かすわけではありませんが、伝道所委員は「重責」です。伝道所においては、宣教教師が「法治権」のすべてを中会から委託され、執行します。言わば、その群においてはまったく監督政治の態様を示し、監督なのです。それが、長老主義政治においてどれほど残念な事態であるかは、言を待ちません。各委員たちは、宣教教師を助け、補佐します。その点、宣教教師が何を考え、今していることはどのような意図、意味があるのかを知ること、その力がなければなりません。宣教教師の指図を待って、手となり足となるだけでは間に合いません。(もとより、手となり足となっていただくことが、基本ですが!)将来の長老、執事職を目指すことが大切です。教会設立へカウントダウンを自ら切ろうと志します。その歩みにおいて委員会と委員の働きは決定的に重要となります。どうぞ、覚えてお祈りください。
★集会において「新しいこと」が一つあります。第二主日には、礼拝式後、「小さな祈りの輪」を作ります。そこでも委員が中心になって、膝をつき合わせながら、個人的な祈祷課題をあげて、共に祈ります。私どもはすでに「説教の分かち合い」で車座になって、最後に共に祈ります。実に、すばらしいときです。新しい集いは、言わばそれを、最小単位で行おうとするわけです。祈祷会を重んじる私どもの歩みの帰結です。