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「愛する子と呼ばれる幸い」 第3章12~17節

「愛する子と呼ばれる幸い」
                       2009年2月1日
               マタイによる福音書 第3章12節~17節

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」 

先週は、洗礼者ヨハネの物語を学びました。ヨハネは、洗礼を受けてはるばるやってきた当時の宗教指導者たちを「蝮の子らよ」と呼びつけました。ヨハネの目には、彼らは、形ばかりの悔い改めをしていると映っていたからです。

 さて、そこにイエスさまが来られました。ヨハネは、イエスさまに何と言うのでしょうか。言うまでもなく、蝮の子などと叱責しません。それどころか、彼は、イエスさまが洗礼を受けようとなさったことに、驚きます。そして思いとどまらせようとします。これは、先週のヨハネの説教からすれば、異常なことです。彼は、誰もが洗礼を受けるべきであると確信しています。そして真実の悔い改めを行い、悔改めの実りを結ぶべきことを真剣に求めています。そのような彼が、イエスさまの洗礼だけは、止めさせる。何が言いたいのでしょうか。それは、ヨハネは、このイエスだけは例外であるということです。この人だけは、このお方だけは、例外中の例外であるということです。悔い改める必要がない、その実りを結ぶ努力も必要がないということです。つまり、イエスさまだけが、真の洗礼を施せるということです。ですから彼は、むしろ反対に、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきであると申しました。つまり、ヨハネ自身も、いへ、ヨハネだからこそ、神の御前に自分の罪を悟り、認め、そして悔い改める必要を認めているのです。

 ところが主は、拒絶して仰せになられます。「今は、止めないで。今は、そうさせてほしい。」それなら、主イエスにとって、「今」とはどんなときなのでしょうか。今、それは、いよいよイエスさまが公のご生涯を始めるときです。神の国の伝道を始めようとなさる「今」です。 

次に、こう仰せになられます。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」それなら、「正しいこと」とは何でしょうか。正しいとは、「義」という言葉が用いられます。神の正しさ、神の御心に適うことです。神の正しさに生きることです。悔い改めの実りです。

 それなら、「我々」とは、誰のことなのでしょうか。それは、第一に、ヨハネとイエスさまの二人を意味しているでしょう。そして、神を信じるすべての人たちのことでもあるはずです。

 しかしそれでもなお、疑問が残ります。ヨハネが洗礼を施すことは、明らかに、正しいことです。そして、ヨハネの方が、イエスさまから洗礼を受けるのも神の前に正しいことであることも分かります。しかし、いったい、イエスさまがヨハネから洗礼を受けることは、正しいことと言えるのでしょうか。神の義に適うことなのでしょうか。結論から申しますと、適っているのです。その証拠が、天の声です。神の宣言です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」 

それなら、なぜ、神の御心に適うのでしょうか。悔改める必要のない人間、つまり、罪人でないイエスが罪人としての悔い改めの洗礼を受ける。それは、やがて、十字架について死なれることの先取りなのです。予告なのです。旧約聖書のイザヤ書第53章11節に、こうあります。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

多くの人が神の前に義とされる、正しい者とされること、そのために、彼ら、つまり罪人である私どもの罪を自ら負われるのです。担われるのです。それこそが、この二人が、いへ、主イエスがなすべきことの頂点なのです。そして、その道を今や、遂に、走り始められるわけです。

 さて、先週私どもは、ヨハネが紹介した救い主とは、斧を持つお方であるということを学びました。その方は、斧をお持ちになられて、良い実を結ばない木を切り倒し、その命を失った木を火に投げ入れるお方であると学びました。さらには、麦の殻を集めて、火で焼き払ってしまうお方でもあると学びました。ところが、その来るべき救い主が、いったい、今ここで何をなさろうとするのでしょうか。それは、罪人の一人として数えられるために、洗礼をお受けになられるのです。わたしは、この時、どれほどヨハネは、驚いたことかとおもいます。自分がイメージして、予告して、説教していた救い主のお姿とは異なっているからです。

ヨハネという人は、いったいどんな人間であったのでしょうか。真実に神の前に生きて行きたいと願う、純粋な信仰者であったと思います。その真剣さは、生活のスタイルもまた過酷な道を求めるほどのものとなったのです。質素な生活です。また、彼は、自分が悔い改めを叫んでいますが、決して高い位置から語っているわけではなく、自分もまた罪を悔い改めるべき人間の一人として、あるいはその代表としての意識をもって、洗礼を施していたはずです。それが、イエスさまの前で、
わたしこそあなたから洗礼を受けるべきですという、求めになったのです。

わたしは、一人の信仰者として、このように想像するのです。特に、牧師として、つまり洗礼を施す側の人間という意味です。もしかすると彼の中には、実に大きな悲しみと厳しい思いを深めながら、洗礼を執行していたのではなかったかということです。何故なら、罪の悔い改めということは、一度、洗礼を受ければ、それですっかり成し遂げられるものとは、決して考えられないからです。ヨハネ自身もそれは、深く理解していたはずです。しかし、だからと言って、悔い改めを叫ぶことは、不必要になるわけではありません。それは、神の道です。神の御心に適った、正しい道のはずです。ところが、そのようなヨハネの洗礼式には、本当に明るい光が射し込んでいたのでしょうか。いったいこの洗礼式は、どのような洗礼式であったのでしょうか。私どもの仲間の中には、まさに川で洗礼を受けた仲間がおられるのです。あの最初の名古屋岩の上教会の洗礼式と、ヨルダン川でのこのヨハネの洗礼式と、同じなのでしょうか。

 大勢の人々が、洗礼を受けました。そして、自分の町に帰って行きました。彼らは、その後、どのような生活を営んでいったのでしょうか。確かに、ヨルダン川での決心は、真実なものであったはずでしょう。ところが、自分の町が近づく、エルサレムが近づく、するとそこには、これまでの何も代わり映えのない日常生活が待っているのです。そこに、誘惑があります。日々の暮らしには何の変化もないのです。何事もなかったように、一週間は始まってしまうのです。そうすると、あの荒れ野での、非日常的な、厳かな経験は、持続できるのでしょうか。あの時の神への熱い思いは、どうなるのでしょうか。それまでと同じような忙しさの中で、もしかすると、すぐに神さまを、二の次にするような誘惑があるはずです。そして、洗礼を受けたからこそ、落ち込むのです。「ああ、あの時の自分の決心は何だったのだろう。自分の信仰心なんか、本当にいいかげんなものだな。結局人間なんて、こんなものだ。いや、神さまなんて、こんなものさ」

 洗礼者ヨハネは、このような人間の罪の現実、まさに弱さを知っていたはずです。しかし、逆に、だからこそ、厳しく悔い改めを求めたのです。しかし、洗礼をさずけても変わらない人間の罪深さがあるのです。そうなると、いよいよ、やがて来られるお方のその裁きの厳しさを、激しさを、彼は、どんな思いで待っていたのでしょうか。自分の洗礼は、無駄であるはずはないのに、何か、明るくない。むしろ、神の怒りはますます激しくなるそのような、予感をもたざるをえなかったのではないか。
 
そのような彼のところに、主が洗礼をお受けに来られるのです。彼は、どんな思いで主イエスを仰ぎ見たのでしょう。すぐに、彼は、イエスさまを思いとどまらせようと説得します。罪人ではないからです。救い主が、悔改めの洗礼を受けるなどと言うことは、矛盾であると考えるからです。
 確かに、主イエス・キリストのご自覚の中に、ご自身が神に悔い改めるべき点が、一点でもあったかと言えば、なかったはずです。万が一にも、どんなわずかな点であっても、悔い改めるべき何か、具体的な思いとか言葉とか行いがあったのであれば、イエスさまは、救い主失格です。私どもの罪を贖うことなど不可能です。

 主イエスは、ここで、神の栄光のためにのみ洗礼を受けられるのです。言い換えれば、神の義の要求、神の正しい御心に服従するためでした。それが、正しいことを行うことの意味です。一人の人間として、ユダヤ人として洗礼を受けることは、正しいのです。何よりもそれは、イザヤ書の成就なのです。神の御心の成就なのです。つまり、主イエスさまの洗礼とは、正真正銘の罪人である私どもを救うためなのです。主イエスは、私どものために洗礼をお受けになられたのです。

 イエスさま以外の受洗者は、自分のために洗礼を受けます。受けなければなりません。自分の罪を嘆き、悲しみ、罪を告白し、赦しを願いもとめなければなりません。それ以外に、神の御前に真実に生きること、正しく生きることはありえないからです。端的に言って、洗礼を不要、不必要とすることは、神を不要とすることなのです。

 しかし、イエスさまが、進んで洗礼を受けられたのは、罪人の一人に数えられるため、つまり、そのようにして、罪人である私どもの仲間になるためだったのです。仲間と言っても、誤解してはなりません。同じ罪人となってしまうことでは断じてありません。それは、連帯ということです。連帯責任を担うということです。連帯保証人となるという正式な表明なのです。私どもの罪を償うイエスさまは、私どもの罪を引き受けるということを、この洗礼で公になさるのです。そもそも、永遠の神の御子、御子なる神が、人となられたこと、イエスという名前を持つ、正真正銘の人間性を受け取られたことは、私どもを救うための仲間入りを意味します。それが、この洗礼において、さらに明らかにされるのです。ここでこそ、ヨハネの洗礼は、天からの明るさ、神の光が射し込むのです。言い換えれば、希望を持つことができるのです。斧で切り取られて終わってしまうという絶望で終わらないからです。

 ヨハネは、主イエスさまのこのみ言葉に従います。畏れ多くも救い主に洗礼を施すのです。自分こそ、救っていただくべきお方に洗礼を施すのです。ルカによる福音書第7章において、主イエスは、この人を、「およそ女性から生まれた者のうち、ヨハネより偉大なものはいない」と紹介されています。人間の中で、最も偉大であるという評価です。オーバーではないかと思えます。我々は、旧約聖書に登場する巨大な信仰者たち、信仰の偉人たちを知っているのです。それに比べて、ヨハネがしたことは、悔改めの洗礼を施していたことです。神のみ言葉を真実に、まっすぐに、誰に対しても臆することなく、語ったことです。しかし、それは、イスラエルの預言者たちの中で、初めてのことではなく、むしろ預言者としての正しい伝統に生きた一人と言えると思います。しかし、ただ一つ、はっきりとした違いがあるとすれば、それは、このヨハネだけが、約束された救い主を目撃したことです。目撃して、指さしたことです。この人こそ、約束の救い主なのだと、紹介したことです。言ってみれば、ただそれだけです。つまり、洗礼者ヨハネ自身の中に、偉大さが秘められていたわけではないのです。その偉大さとは、彼固有の性質、実質ではなく、ただ主イエスから受けたものでしかありません。

そうであればこそ、主イエスは、そのヨハネの紹介の直後にこうも宣言されました。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」イエスさまを紹介する人の偉大さと、イエスさまに救われた人の偉大さの比較です。そこで明らかになるのは、主イエスのために、何をなしたのかということより、実に、主イエスに何をしていただいたのかの方がはるかに重要であるということでしょう。神の国で最も小さな者とは、どんな人なのか、かろうじて神の国に入れられた人という意味なのでしょうか。イエス様が十字架につけられたあのとき、十字架の横で、わたしを思い出してくださいと、懇願した犯罪人のようです。地上にあっては、何も正しいことを行えなかった、何一つ。反対に、おそらく強盗で、人殺しの人間でしかなかった、しかし、主イエスは、あの男に、今日、あなたはわたしとパラダイスに、楽園にいるとの宣言をいただいた男です。そのような人と洗礼者ヨハネを比べても、偉大であるということでしょう。明らかに、何をなしたかより、主イエスを信じて救われることが、どれほど人間にとって大きなこと、偉大なことであるかです。これは、信仰のない人、信仰の眼が開かれていないと見えない世界です。なぜ、偉大なのか。主イエスが偉大だからです。主イエスの尊いお命が差し出されたのは、他ならない、罪人である私どもの救いのためです。そうであれば、主イエスにとって、神にとって、私どもが神に対して何をしたのかということより、この主イエスをどのように受け入れたのか、どのように扱ったのかということ以上に、この世で価値のある行為、業、奉仕はないということです。私は、キリスト者であるということの驚くべき価値、恵み、ありがたさに自ら圧倒される思いがいたします。

さて、こうして私どもの救い主、罪を赦す王が洗礼を受けられました。水からあがられると、天が開いたと言います。天がイエスさまに向かって開くのです。天とイエスさまとが繋がっているということです。 

そこで、天から聖霊が鳩のようにご自分の上に下ってくるのを、主イエスはご覧になられます。それをご覧になられたのは、主イエスご本人だけでしょう。それは、何を意味するのでしょうか。聖霊なる神は、目に見えません。しかし、主イエスにとっては、このとき、目に見える形で聖霊を注がれたことをご自覚なさったのです。

メシアとは、ヘブライ語で、もともと油を注がれた方と言う意味です。アメリカ大統領の就任式では、聖書の上に手を置いて、宣誓します。ユダヤの社会では、王様の就任式にオリーブオイルを注ぎます。メシアをギリシア語に言いかえれば、キリストです。それは、神から王として任職された人のことをメシアと呼びます。つまり、ここでのイエスさまの洗礼式は、実は、神からの任職式であったわけです。ここで、人間となられたイエスさまは、遂に、ご自分の時が来たことを確信なさったはずです。まさに、メシアとしての働きを今こそ、始めなければならないとのご自覚は定まったのだと思います。

さらに、声も聴こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」このみ声は、父なる神さまの御声です。おそらくこれは、周りの人々にも聴こえたのではないでしょうか。ヨハネもまた、聴いたのかもしれません。これは、神からの主イエスへのさらなる承認です。

これを私どもにあてはめるなら、これは、「説教」であると言っても良いと思います。洗礼と説教、聖礼典と説教、教会の目印、標識と言われます。真の教会とはどこに存在しているのか、それは、この二つがなされるところにあるという、私ども宗教改革によって誕生したすべての教会の教会理解、自己理解の要です。洗礼という目に見える神の言葉と、説教と言う目に見えない神のみ言葉で、救いは保証されます。神との交わりは確かなものとされます。

今、イエスさまは、天のお父さまから、心の中で、聴きとるようにではなく、耳で聴けるように、聴いたのです。父なる神は、そのように御心を宣言なさったのです。このみ声は、実は、詩編第2編7節にあります。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」この詩篇第2編は、まさに王の任職の際に歌われた詩なのです。聖霊が注がれて公にメシアとして、立てられる、その時に、天から、神がイエスさまにそれをみ言葉で確かなものとなさったわけです。さらに、これに加えてイザヤ書の第42章1節です。「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」このイザヤ書のみ言葉は、特に重要となります。それは、この神の御心に適うメシアとは、いかなる歩みをするのかが、ここではっきりと示されるからです。イザヤ書第53章で、そのメシアの歩み、働きは頂点に達します。つまり、苦しみを受ける救い主なのです。苦難の僕です。苦しみを受ける神の僕、メシアなのです。

ですから、イエスさまは、この後、ご自分が、火の中へ身を投じられるのです。私どもの罪を償うために、罪のないお方が、私どもの罪を担って、その責任の連帯責任者、連帯保証人となって、実に、私どもの身代りになって、神の刑罰、神の怒りをただお一人で、十字架でお受けになられるのです。

さて、最後に、この主イエスが聴いた天からの声を、私どもは今、どのように聴くのでしょうか。それは、2000年前のヨルダン川で、イエスさまだけが聴きとった、イエスさまお一人の、イエスさまだけに当てはまる宣言として聞くのでしょうか。いいえ、違います。それでは、私どもが、洗礼者のヨハネの洗礼ではなく、父と子と聖霊による洗礼、つまり主イエスにあずかるための洗礼を受けた意味がありません。

私どもキリスト者は、ここで洗礼を受けました。あるいは他の教会で洗礼を受けて、ここにおります。洗礼の礼典とは、何でしょうか。その前に、礼典とは何でしょうか。それは、洗礼とこの後、祝う聖餐の二つです。礼典とは、目に見えない救いの恵み、主イエス・キリストと一つに結ばれる救の出来事を、目に見せ、体で触れ、味わうことができるようにと、水やパンや葡萄酒を用いて、主イエス・キリストの救いの恵みを表し、記しづけ、保証するものです。恵みの集団です。洗礼とは、生涯でただ一度、罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じた人が、その罪が赦され、主イエス・キリストと一つに結び合わせられていることを表し、記しづけ、保証するための礼典です。つまり、洗礼によって私どもは主イエス・キリストと一つに結びあわされるのです。主イエス・キリストの御体と一つにさせられるのです。御体に加えられるのです。具体的には、キリストの御体である教会の一員にされることです。

つまり、イエスさまを一体化するのです。そうであれば、ここで主イエスが、天が開かれ、天からの声を聴いたのは、私どものためでもあることは明らかです。むしろ、私どものためにこそと言うべきです。私どもは、主イエスを信じて、救われて、神の子とされたのです。「お前はわたしの愛する子、今日、わたしはお前を生んだ。」これは、私どもに対する父なる神の宣言でもあるのです。天のお父さまは、御子イエスさまを信じた私どもに向かって、わたしの愛する子!と宣言し、呼びかけて下さるのです。そのとき、初めて、私どもは、神をお父さん!私の天のお父さまと返事ができるのです。

洗礼を受けてもなお罪を重ねるような愚かな、半端な、罪深い者が、イエスさまのおかげで「わたしの心に適う者」と宣言されるのです。ただ、イエスさまのおかげでしかありません。しかし、そのように宣言されているのです。それを、私どもはどれほど軽んじるか、そのことをこそ、悔い改めなければならないのです。

ヨハネの洗礼を受けて、エルサレムに戻ったユダヤ人のことを、他人事とは思えません。私どもも、今朝、ここで天は、ここに向かって開いているのです。礼拝とは、天の礼拝と結ばれている場所です。そのような、天がここに向かって開かれていながら、私どもは、自分を見つめて、不信仰にとどまろうとするのです。わたしなど神の御心にかなわないと、下を見つめるのです。神を見上げたこの姿勢が、教会から出て、月曜日、火曜日とだんだん、下を、自分自身を見つめて、信仰とはまったく関係のないことをし始めるのです。私どもは、心をここで高く挙げるのです。そして、日日、心を高く挙げよ!と自分の心に、魂に命じるべきです。

そして、イエスさまと結ばれているので、ただそれを根拠にして、天のお父さまから、「わたしの心に適う者」との宣言を聴きとるのです。そうすれば、何がどうあっても、主イエス・キリストから離れて生きれるはずがありません。主イエス・キリストから離れて、自分のことを、神の子と見ることも、神の御心に適うと考えることもできません。しかし、イエスさまをただ信じるだけで、ただそれだけで、私どもは、神の子とされ、御心に適う者とされているのです。それを、今朝、改めて感謝したい。

今、聖餐にあずかります。ここでこそ、悔い改めを、新しくしましょう。何度も、失敗し、くじけた私どもがこの天国の食卓に招かれているのです。天のお父さまの豊かな憐みが、今、ここで私どもを待ちうけています。斧は、確かに、根元におかれています。しかし、それにまさって、私どもに洗礼と聖餐の礼典が与えられています。ここに急ぎましょう。どうぞ、一日も早く、この食卓に連なってください。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの父なる御神よ。信仰を与えられ、洗礼の恵みを受けている私どもの幸いを深く思います。罪の故に、あなたの怒りを受けるべき私ども、あなたの火で焼き滅ぼされるべき私どもが、御子の十字架のおかげで、赦され、神の子とされました。心から感謝いたします。この感謝の中で、真実の悔い改めをなすことができます。私どもは今、聖餐の食卓を祝います。これによって、もはや自分は自分のものではなく、キリストの贖いによってあなたのもの、あなたの民、あなたの子であることを認め、感謝いたします。もはや、自分のためにではなく、自分のために死んで甦られた主イエス・キリストのために生きてまいります。どうぞ、天を開き、聖霊を豊かに注ぎ、この信仰の心を堅くし、この救いの道を歩ましめて下さい。アーメン。