過去の投稿2009年2月14日

「勝利者イエス-み言葉で生きる人間-」

「勝利者イエス-み言葉で生きる人間-」
                       2009年2月8日
               マタイによる福音書 第4章1節~11節
 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」

 洗礼をお受けになられた主イエスは、どうなさるのでしょうか。大方の予想では、一気に伝道のお働きを開始されると考えるのではないでしょうか。ところが、主イエスは、荒れ野に赴かれます。いったい何故なのでしょうか。一つには、すでに、先週の主イエスのみ言葉に明らかにされています。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」主イエスは、洗礼を受けるという正しいこと行うだけではなく、なお、正しいことを行われるのです。それを徹底するために荒れ野へと赴くのです。

もう一つの理由、それは今、聴きましたみ言葉の中に示されています。とても不思議なことですが、悪魔からの試みを受けるためだと言うのです。丁寧に読まなければなりません。そのように主イエスを導かれたのは、悪魔ではないのです。これは、極めて重要なことです。ここで試みを受けさせるのは、他ならない父なる神なのです。神が、愛する御子を、ご自身の心に適うイエスさまを荒れ野へと追いやるのです。たしかに誘惑する者とは、悪魔であるとはっきりと記されています。しかし、それを許されたのは、父なる神であられるということです。

 これは、私どもに何を、告げるのでしょうか。それは、神が徹底的に支配者であられる、主権者であられるということです。私どもキリスト者は、この悪魔、サタンに対して、二つの過ちに陥りやすいのです。一つは、悪魔とかサタンとか、そのようなものはそもそも存在しないとする誤りです。2000年前の人々は、不思議なこと、理解が難しいことを何でも、非科学的なことに置き換えてしまうのだという俗説があります。しかし、非科学的なものに頼り影響を受けるのは、21世紀の人々も大勢いるわけです。占いとかスピリチュアルとかにはまっている日本人は少なくないのです。悪魔は、実在の霊的存在です。しかもその悪魔は、誰もが悪魔と分かるような仕方で、働きません。ある人は、こう表現しました。「現代の悪魔はネクタイを締めている。」いかにも常識的、いかにも紳士的な顔つきで、私どもに近付き、誘惑する。なるほどと思います。

 もう一つは、悪いことは何でも悪魔のせいにするということです。悪魔の存在と力は、聖書において明らかに示されています。ですから、うっかりするとキリスト者の中で、今の世界は、神さまと悪魔との闘争の過程、戦いの真っ最中であるという、おかしな理解を持っている人もいるのです。そのようなおかしなキリスト教が、一昔前には、よく宣伝されていました。自分にとって悪いこと、不都合なこと、不利益なことが起こると、それを悪魔のせいにする。神と悪魔が戦って、悪魔が勝利する場合もある。信仰者の内に日々、神と悪魔とが戦って、悪魔が勝利することもある。だから、聖霊に満たされた牧師さんや誰かに、祈ってもらって、癒してもらう必要がある。カリスマを持つ人の祈りが重んじられる。そんな怪しげなキリスト教もあるのです。

 ここで、はっきりと弁えておきたいのです。悪魔の力がどんなに激しく、強くとも、実際にそうなのですが、しかし、それで神のご計画を破壊し、歪めることはできないということです。
その一つの証拠、とても分かりやすい証拠が、今朝学ぶテキストであります。三回に分けて学びます。ここで、父なる神が自ら、人となられたイエスさまに悪魔の誘惑に遭わせられます。しかし、最後にこう記されています。「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」悪魔は、主イエスとの戦いにおいて敗北しているのです。人となられたイエスさまにこそ、悪魔は、そのあらん限りの知恵と力を結集して、戦いを挑みましたが、すごすごと引き下がったのです。これは、大切なことであります。

 しかし、そもそも、なぜ、神の創造された世界に悪魔が存在しているのか、存在が赦されているでしょうか。それは、分かりません。厳密には、分からないのです。聖書がそれを明らかにしようとしません。そうであれば、それを詮索することは、無意味であるということになるでしょう。無意味どころか、それこそ、神の神秘を犯すことになります。それを知らないと信仰の生活が成り立たなくなるはずは決してありません。もし、そのように考えるのなら、そこで何をしているかと申しますと、端的に申しまして、神を信じていないということでしかないのです。神が神であられる。聖書が証する神でいらっしゃるなら、私どもは、悪魔の起源、その意味について、あれこれ詮索する必要はありません。神が、唯一の支配者、絶対の主権者でいらっしゃるなら、怖い者、恐れるものは、ただお一人、神のみだと分かるからです。

 主イエスは、この神に導かれ、促されて、荒れ野に参ります。そこで40日40夜、断食をなさいます。なぜ、40日なのでしょうか。それは、人間にとって、死の危険性の直前までの日数であるそうです。人間の限界なのだそうです。

しかし、これは、ただ単に人間の肉体の極限の苦しみをもって主イエスを試すという意味に留まりません。むしろ、この40日という期間には、実は、聖書の世界、神の民の歴史を振り返らせるもっと深い意味が込められているのです。死ぬほど空腹で苦しんでおられるイエスさまのところへ、誘惑する者がやって来て、言います。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」主イエスは、即座に応じられます。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

この御言葉は、多くの人に知られていると思います。しかもイエスさまの言葉であると思われているかもしれません。しかし、もともとは、申命記にあるモーセの語った言葉なのです。少し長いですが、大切ですからその前後も引用します。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」
つまり、エジプトで奴隷として苦しめられていた神の民イスラエルを、神は、モーセを指導者にお立てになられて、彼らを救出、脱出させました。しかし、約束の土地に入るまで、40年間荒れ野を旅したのです。その過酷な生活は、彼らが本当に、真心から神を信頼し、その御言葉を守るかどうかを試されるためでした。神は荒れ野において、飢えているご自身の民を養うために、天から奇跡の食べ物、マナを降らせました。一種のパンです。モーセはまさにそこで、この御言葉を語りました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

申命記の記事を詳しく語る暇がありませんので、結論を申しますと、荒れ野でイスラエルは、「背き続けた」とモーセに断罪されています。まさに、40年の歴史は、不信仰に対する神の裁きの歴史であったのです。そのピーク、劇的なまでに神に反抗し、不信仰を極めたのは、指導者モーセが、ホレブの山で主なる神から石の板に記された十戒を受けたとき、ふもとでは、金の子牛をつくって偶像礼拝にふけったのです。モーセは、神に会見するために、40日40夜断食して備えました。そのようにして遂に、神から与えられた祝福の契約である石の板を、彼らに投げつけて、砕いてしまいました。そして、彼はもう一度、まさに決死の覚悟をもって山に登って行きます。「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。」こうして再び、石の板を神からいただいたのでした。つまり、神の民は、惨めな敗北、信仰の敗北を繰り返したのです。不信仰による偶像礼拝にまで転落したのです。彼らの過去は、一言で言えば敗北の歴史に他なりません。

しかも、この大指導者、イスラエルの歴史の中で最大の人物であるモーセその人も、実は、約束の地に入ることが許されませんでした。そこにも、神の審判があります。40日40夜の断食を実に二回も、神の民のために、彼らを神に執り成す祭司としての務めを、まさに命がけて行ったのです。まさに偉大な指導者です。ところがしかし、彼はたった一度、彼は、御言葉に忠実に従うことに失敗してしまいました。それは、民数記第20章に記されています。神は、モーセに対して、「岩に向かって水を出せ」とお命じになられました。しかし、彼は、杖で岩を二度たたいたのです。結果としては、水がほとばしり出ました。しかし、その行為は、み言葉への忠実な服従ではなかったのです。たった一度でも、神はこの行為をお見逃しにはならなかったのです。実にこれらのイスラエルの歴史、物語がこの主イエスの荒れ野の誘惑の背景にあるわけです。

主イエスは、洗礼者ヨハネが、洗礼を施すことを拒み、思いとどまらせようとしたときに、こう仰せになられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」正しいことをすべて行うと仰いました。洗礼を受けてすぐに、40日40夜、主イエスが断食なさったことは、試みる者の誘惑を受けるためです。試みる者との戦いへと荒れ野へと赴くのです。荒れ野とは、神の民がそこで信仰的に破たんし、神の裁きを受けて滅ぼされたところです。つまり、ここでイエスさまは、神の選びの民の失敗の歴史を踏み直すのです。やり直そうとなさるのです。主イエスは、肉体の際みまで自ら追い込まれて、神の民の誘惑の本質、実質、その底を経験なさるのです。追体験なさるのです。そして、これまで誰も、なしえなかった信仰の勝利の実現、完全なる勝利をなす為であります。

ここでも、先週とまったく同じことが明らかになります。主イエスが洗礼をお受けになられたのは、まったく御自身のためではなく、まったく私どものため、救いのためでした。ここでも、主イエスが荒れ野で試みる者の誘惑をお受けになられるのは、私どものため、私どもの救いのためでした。

主イエスは、ここで三つの戦いを挑まれて、すべてに勝利なさったのです。もしもたった一つでも、一瞬でもこの誘惑に負けてしまわれたらどうでしょう。主イエスは、そこで十字架につけなくなるのです。十字架について、私どもの身代りになれなくなるのです。私どもの罪を償うための身代りの死を死ぬことができなくなるのです。そうなれば、私どもは救われません。私どもは、ただ自分の罪の故に神の怒りを受けるしかなくなるのです。そうなれば、モーセもまた救われないはずです。かつてのイスラエルの民もまた救われません。人類は、神の正しい要求を実現できず、正しいことを行い得ずに、神の裁きを受けることを待っているしかなくなってしまうのです。ですから、ここで、主イエスが、勝利してくださったことが、どんなに素晴らしい事かが分かります。それなくして、これから始まる主イエスの公のご生涯は意味がありません。何をしようと結局は、無駄であり、無意味です。主イエスも罪を、失敗を、敗北を喫したのであれば、何を言い、何をしても、私どもの救いになりません。

しかし、主イエスは、勝利されました。そうすると、私どもに何が起こるのでしょうか。敗北の歴史を抱えて生きる私どもが、この主イエス・キリストを信じるなら、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けて、主イエス・キリストと結び合わせられるなら、主イエスさまのこの勝利は、そのまま私どもの勝利として、私どもに与えられるのです。それが恵みです。恵みによって、敗残者でしかない私どももまた勝利者とされるのです。勝利者イエスさまのおかげで、私どももまた勝利者とされるのです。今朝もまた、この信仰の勝利者、チャンピョンを仰ぐことができる私どもの幸いを思います。

 さて、本日のみ言葉の中で、特に有名な言葉があると思います。「人はパンのみにて生くるに非ず」という言葉です。しかし、多くの場合、そのような聖書の言葉が、信仰の言葉としてではなく、前後の文脈から解釈されることはありません。一般常識の次元に落とされてしまうのです。「人間は、ただ食べものだけではなく、精神的なもの、音楽や芸術などの文化的なものがなくては、人間らしく生きてはいけない」このようなこととして、「人はパンだけでは生きられない」と理解されるのです。それゆえに、なるほど聖書の言うとおりだと、受け止められる一方で、このような反発も受けるのです。現代社会のなかで、貧困で苦しんでいる人々の苦しさや惨めさが分かっていない人間の発言だ。人間は、衣食足りて礼節を知ることができるのだ、食べるもの、着るものがないところで、精神的な、高尚なものが必要だなどとのんきなことは言えない。教会とかキリスト教は、自分の生活が安定し、余裕ができたら、やりましょう。そんな、理解を示す人々は、実は、少なくないと思います。

 いったい、主イエスは、ここでそのような高尚なこと、精神的なこと、あるいは霊的なことが大切なのだと、それが人間を人間らしくし、成長させるのだとおっしゃるのでしょうか。「武士は喰わねど高楊枝」つまり、少々お腹を空かしても我慢して、文化的なものにお金を費やすことが人間としての成長には大切だというような、教養主義のような教えなのでしょうか。この箇所のメッセージは要するに、神の口からでる一つ一つの言葉、御言葉が重要なのだということで終わるものなのでしょうか。違います。

 私どもは先ほども読みましたが、荒れ野で暮らした神の民のために、神がどれほど食べるもの着るものに心を配ってくださったかを見ることができるのです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

神は、マナというパンをお与えになられたのです。彼らのまとう着物は古びなかったというのです。神が、どれほど食事、着る物を配慮したもうお方であるかは明らかのはずです。
何よりも、私どもにとって、主イエスが教えて下さり、命じて下さり、今朝も皆さんと唱えた主の祈りの後半の最初の祈りは、「日用の糧を今日も与えたまえ」でした。主イエスがどれほど、人間の食べ物、着るもの、住まい、その他さまざまな物資が人間に必要であるかをご存知なのです。ですから、キリスト者は、食事のたびに感謝することが求められています。三度三度の食事のたびに、私どもはこの食事を自分の稼ぎで食べているのだから当然だなどとは思わない。神の賜物です。確かに今や、決して、三度三度の食事は、天から降っては来ません。しかし、私どもは、主の祈りを祈るごとに、食事が、着物が、住まいが、欲しい物が欲しいだけではありませんが、最低限は与えられていることを心から感謝する事ができるのです。

しかし、このように私どもが、地上の物質的な物を軽んじてしまったり、あるいは、それが一番大切とは思わないように生き方へと解き放たれたのは、ひとへに、私どもが神の口から出る一つ一つのみ言葉を聴くことができたからではないでしょうか。信じているからではないでしょうか。もし、神の言葉を軽んじたら私どもの地上の生活もまた実は、軽んじてしまうのです。職業の生活、社会生活、家庭生活、結婚生活すべての地上の信仰者であろうがなかろうが営むすべては、しかし、信仰者であればこそ、その本当の意味、意義と喜びを発見して、感謝して喜び、楽しむことができるのです。目に見えるすべての物を神は、主イエス・キリストは軽んじたまわないのです。これこそ、キリスト教信仰なのです。聖書が教える世界観なのです。そこには当然、経済活動、商行為も含まれています。しかし、繰り返しますが、その経済活動は、人間の欲望の赴くままに放っておいてはならないのです。そうではなく、それは、神の口から出る一つ一つのみ言葉によって、正されなければなりません。

 誘惑する者は、空腹にあえぐイエスさまに、しかも神の子でいらっしゃるイエスさまに、石ころをパンになるように命じたらどうだと言います。イエスさまがお命じになられるなら、そうなることを、知っているからです。ですから、私どもには、そのように誘惑されることはありません。しかし、食べ物がなくて死んで行く、大勢の子どもたちが出ている現実の前に、石をパンにすることができたら、まさにそれは救いになるのではないかと、考えてしまいます。イエスさまなら、それが御出来になられる、それなら、それをした方が良いではないか。そういう誘惑です。

 先日の総会で、私どもの教会は、ディアコニア担当の伝道所委員が立てられました。先週の新聞においても、まさに会社の業績が空前の悪化を示していることが報道されました。年末年始、東京、日比谷の「年越し派遣村」の報道を見ました。また、名古屋でも派遣切りにあった人たちが、公的な保護を受けるために中村区役所に殺到していることが報道されました。名古屋にある私どもは、この春におそらく住まいを無くして、ホームレスにならざるを得ない人々が出ることを、予測しなければなりません。これまでの私どもの教会によるディアコニアの出番であろうと思います。そのために、委員が中心になって準備がなされる必要があると思います。まさに、衣食住の最低限が満たされなければならないのです。これは現実です。

しかしそこで、日曜日の朝に礼拝を捧げるのと、日曜日の朝にボランティアに出かけるのと、どちらが良いことなのかということでもあるでしょう。炊き出しに行く、空腹の人たちのために、奉仕する。それと、ここで私どもがなしている礼拝という神奉仕とを比べて、どちらを選択することが人間の生き方に適うのでしょうか。それが、問われます。あるいは、私どもが日曜日に教会に、集会に出席しなければ、自分の経済生活が、自分の社会的立場が良くなるというときに、それが突き付けられる時に、どちらを選びとるのかということでしょう。そこで、私どもは、神の口から出る神の言葉を聴かなければ、生きて行けない、人間として、生きれないのだということを本気で考えているのかどうかが問われるのではないでしょうか。

そのような時こそ、私どもはこの主イエスさまの戦いを見るべきです。ここで主イエスは、命をかけておられます。命をはって、人間にとっては、生きることは、神を信じること。神に従うこと。それなしに、人間の人生は成り立たないとお示しくださったのです。神の御子、救い主であれば、石をパンにできるのです。そしてそれは、飢えに苦しむ人たちには、まさに神さまらしい奇跡であり、ふるまいなのです。人間が飢えに苦しむとき、どんなに苦しくつらいか、そこで御自身が命がけで味わっておられるのです。しかし、きっぱりと、多くの人々が、正しいと考える石をパンにかえることによる人間を救う道を退けられたのです。人間を、人間的なものを第一にする誘惑を退けられたのです。しかしくどいですが、誤解のないように申しますが、それによってこそ、私どもの人間性、人間的なものがすべて生かされるのです。

 そうであれば、私どもは今朝、改めて腹を据えて、生きましょう。私どもは、この主イエスのおかげで、目が覚めます。ふらふら、ぐらつく心が正されます。本気で、掛け値なしに、私どもの人生、生活にとって、なくてならないのは、神の言葉なのです。語られる説教なのです。それを聴くところに、救いがある。神との交わりがある。それを失くしたところで、私どもの豊かな生活、文化的な生活もあり得ないのです。教養も、社会的地位も、物質的豊かさも、すべては神の御言葉ある故に、意味があるのです。本末転倒してはなりません。日本の家庭にあって、教育費にかける割合は極めて高いと言われます。それなら、御言葉にかける費用は如何にでありましょう。

 私どものまさに足元、日々の生活が、この主イエスの命がけのみ言葉の宣言によって正されます。私どもは、これまでに何度も誘惑に負けてまいりました。信仰の正しい行いにおいて破れてまいりました。しかし、過去の過ちや、失敗にこだわりません。今朝、改めて、そのような私どものために、この荒れ野で、そしてついには十字架の上で、完全に悪魔に勝利された主イエスを、ただ見上げます。そのとき、勝利者イエスさまに連なって、主イエスの選択を、自分自身の選択にもさせていただけるようになるのです。

祈祷
 かつてエジプトから救出された神の民は、荒れ野で、エジプトのおいしい料理を食べたい、荒れ野でひもじい思いをするくらいなら、エジプトに戻りたいと、あなたに反抗しました。私どもは、他人事と笑えません。私どもも今また、信仰より自分の判断、御心に服従するより自己実現を求めるからです。そのようにして神を、主の日を軽んじます。信仰が、この救いがどれほど尊いものであるかを、目先のことで、忘れさせられ、また、二の次にしてしまいます。どうぞ、赦して下さい。そして、私どもの眼を開き、この主の命がけの戦いに眼を注ぎ、その勝利目を注がせて下さい。主イエスを仰ぎ見、そして、私どもの生活もまた、真実の人間らしい生活へと歩ませて下さい。御言葉の説教を祝福し、これを食べ、血肉とさせて下さい。アーメン。