過去の投稿2009年2月14日

2月15日

★   先週は、浜松伝道所の会員総会でした。ほぼ、1時間半で、閉会しました。改選期を迎えた伝道所委員が続けて選挙され、務めに就かれました。金起泰先生を中心にして、新しい思いで、出発されました。着実なる成長を遂げられている教会です。金先生のお働きは、今年度、いよいよ、将来に向けて大切な基礎を構築すべき年となることでしょう。

☆   先週の「花倶楽部」は、押し花でした。額の中に、押し花が敷き詰められていました。それぞれのデザインは、美しく、またおしゃれでした。この大作を、もちろん持ち帰られるわけですが、教会のエントランスで展覧したらどれほど素晴らしいかと思いました。後で気づくのですが、デジタルカメラに収めさせていただければ・・・、それだけでも十分に楽しめるかと思います。伝道のための集会です。聖書のお話をする時間はわずかですから、その「お話」をタネにして、出席者とキリスト教や信仰、神さまについて話が進められるようにと願います。しかし今回も新しい方が出席して下さいました。初めて、教会堂に入り、聖書なるものを開かれるわけです。大変な奉仕の「割に」、礼拝式に結び付かない・・・。確かに、そう言えましょう。しかし、もともと求道する心を持って、道を求めて教会に来られる方は、少ないことを思います時に、あらゆる手立てを尽くして、教会(堂)へとお誘いすることは、私どもの務めです。

★   私どもの「教会の言葉」(-の中会への提出期限は、3月9日。総会でも受け入れられていますが、  なお、手を入れる必要があれば、委員か私に、お気軽にお話し下さい。-)の中に、「伝道こそ教会の存在理由だからです。」との文言があります。浜松伝道所のキリスト者の若いカップルに初めての赤ちゃんが与えられました。その彼らが、家庭集会を開きたいと願われていることを、委員から伺いました。正直、驚かされました。なぜなら、礼拝出席だけでも大変では?との思いがあったからです。お仕事を休まれているその時、家庭にいるときにこそ家庭集会のチャンスと考えられたのでしょう。本当に、嬉しい知らせでした。福音の伝道に「王道」はありません。近道もありません。出会いを大切にし、隣人に福音を証することです。

☆   本日、開拓開始15周年記念誌作成のための「編集会議」を開催いたします。年間計画に記されています。現住陪餐会員全員にご寄稿頂くはずです。最初の会議は、○委員、○委員そして私で開催致します。今後、様々なご奉仕の依頼がなされることと予想されます。積極的なご協力をお願いします。

★   先週の中部中会世と教会に関する委員会主催の「信教の自由を守る集会」は、90名ほどの出席で、 名古屋教会は、ほぼ満堂となりました。講師は、東京都の小学校の音楽教諭、佐藤美和子姉でした。君が代斉唱への反対意思を込めた小さなリボンを胸につけたことが、「職務専念義務違反」として、文書訓告処分を受けられました。都を相手に、最高裁まで争われました。お話ぶりは、まさに優しい先生。どこにそのような勇気があるかと、外見からはわかりません。
福音の真理によって生きる人間は、神の像(カタチ)に似せて造られた本来の人間性を回復させ、取り戻させていただくことができます。ただし、これは、罪の赦しが主イエスを信じて、直ちに与えられることと比べれば、「約束」として、言葉をかえれば「課題」として与えられます。東京高裁の控訴審判決文によれば、「(国歌斉唱について)消極的な考え方の者であっても、その者が職務上の支持又は命令を受けて自己の考えを表に出すことなく当該支持または命令に従うことは不可能ではなく、世情としてはそのように従っている者が多いと考えられる。」とのことです。驚き呆れる理解です。これが、裁判官たちの人間理解であることを思えば、裁判闘争がどれほど、困難であるかは自明なのかもしれません。つまり、裁判官は、信教の自由は、心において担保されているのであるから、形式上、外面、態度では、君が代を伴奏し、歌うことは不可能ではなく、「世情」(一般の人々)では、本音と建前を分けて生活している人が多いのだから、多数の、一般的考え方に従いなさいというわけです。神の前に立つ人間であれば、心は神に、態度は人(国家の強制)にと分けることはできません。ハイデルベルク信仰問答の問い一には、「唯一の慰めとは何か」について、「わたしが、身(=肉体)も魂も(=つまり全存在)、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」とあります。改悪された新教育基本法は、「3分の2」で通され、「国を敬う【態度】を養う」と規定されました。まさに天下の悪法と言わざるを得ません。キリスト者がキリスト者として成長すること(本来の人間性を取り戻す事)が、福音の証となります。教育(公立学校も!)は、国家の(利益の)為にあるのではありません。この大前提を切り崩されてはなりません。