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「真の神のみを神とする」

「真の神のみを神とする」
                       2009年2月22日
               マタイによる福音書 第4章1節~11節③
 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」

 
最初に個人的なことを申しあげて恐縮ですが、先週、一年前からの宿題でした、大きな仕事に着手しました。自分に奮起を促すためにも、祈祷課題として記させていただいたのです。しかし実際は、一年もの間、準備を重ねることもできず、放置したままでした。そして遂に、締め切りが迫ったのです。私は、おそらく牧師になって始めて、もはや、このままでは、仕上げることはできないことは明らかなので、そうなれば、さらに委員会にご迷惑をおかけすることになると思い、ギブアップの宣言をしたのです。ところが、ギブアップをしたところで、結局、誰かが代りに引き受けて下さることもできない状況であることが分かりました。しかも、いつもの締め切りも、直前に迫っています。    ですから、いよいよ、追い詰められたような思いで、過ごしました。皆様もまた、忙しく、せわしなく働いておられるかと思います。牧師になって20年にもなろうとして、なお、牧師の職務、その仕事を、まじめに、きちんとこなそうとすれば、まるで、スーパーマンのような能力が必要ではないかと思い、  この務めに付いていることの、重さにうろたえるような思いに駆られました。分かりやすく言えば、一種の敗北感を胸にしながら、この荒れ野の誘惑の物語を学び続けていました。

本日はその三回目です。最後です。主イエス・キリストは、伝道のご生涯を始める前に、父なる神のご計画のもとに、聖霊なる神に導かれて、人間が生きる上で、まさに過酷な荒れ野へと一人進み行かれます。そこは、石灰石の石や岩がごろごろしている岩場です。父なる神は、ご自身の愛する御子に、その荒れ野で、断食するように導かれたのです。主イエスもまた、それに従われました。いつまで断食が続くのか、おそらく主イエスはご存じなかったのではないでしょうか。そして、40日という、健康を保つどころか、命の危険を冒すぎりぎりのところまで続きました。マタイによる福音書は、淡々と「空腹を覚えられた」と記しますが、私どもが「そろそろお腹がすいたね」と言うような空腹感ではないことは、明らかです。想像を絶するような、空腹感であったことでしょう。まさにイエスさまにとって、目の前に転がる小さな白い石が、一瞬パンに見えたかもしれません。

 神は、そのとき、誘惑する者、試みる者が主イエスに挑戦するのをお許しになられました。すでに、私どもは2回の試みを学びました。今朝は、悪魔の挑戦の三回目、最後の挑戦を学びます。ここでの悪魔の挑戦をボクシングに例えれば、三ラウンドの戦いです。本当は、一ラウンドで決着が付いているとも考えられます。しかし、悪魔、サタンは、三回挑戦するのです。徹底的に攻撃する、誘惑したという意味が込められています。マタイによる福音書を読みますと、私どもは、おそらく、神の子でいらっしゃるイエスさまは、ここで軽々と悪魔に勝利なさったと解釈する、感じるのではないでしょうか。著者マタイは、イエスさまのここでの苦しみを、ただ「空腹を覚えられた。」という一言で、  表現しているのですから、読者である私どもは、言わば、楽勝なのだというイメージを持つと思うのです。確かに、マタイによる福音書が伝えようとしたことは、主イエスが正真正銘、神の御子であられ、この悪魔の誘惑に見事に勝利なさった救い主、だからこそ、私どもの救いを成し遂げることがおできになられる真の救い主なのだということです。それで間違いありません。

ただし、ここでの戦いは、楽勝というような性質のものだったのでしょうか。それは、違うはずです。この箇所を学び終える本日、主イエスのここでの戦いの厳しさを、きちんと見つめたいと思います。

 新約聖書のヘブライの信徒への手紙を読みますと、ここでの主イスの戦いがどのようなものであったかを、垣間見せていただけると思います。第2章14節以下を読みます。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」さらに第5章7節以下です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」このように読んで参りますと、私どもは、イエスさまが神の子であるから、軽々と悪魔に勝利されたのだと思い違いをしてはならないことが分かります。人間となられた神の御子であるがゆえに、試練を受け、苦しみを受け、それを日々、激しい叫び、つまり祈られたおかげで、私共も救われることができたのです。主イエスのそのお苦しみの経験によって、試練を受けている人たち、つまり荒れ野での生活を重ねている私どもは、助けられるのです。この苦しみは、私どもを救うための御苦しみなのです。
 さらに、私どもはここで同時に、ヘブライの信徒への手紙第12章をも思い起すべきです。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」血を流すまで抵抗したことがない。これは、わたし自身のことであります。あるいは、私どものことであるかもしれません。端的に申しますと、信仰の歩み、その戦いとは、要するに、この主イエスの荒れ野での誘惑の戦いを真剣に、真実に戦い抜くこと、これこそが信仰の歩みに他ならないということが、ここで明らかにされているわけです。信仰に生きるということの、基本は、主イエスさまがここでなさったように、罪と血を流すまでに、誘惑には抵抗すること、戦うことが、信仰の生活に他ならないことが前提にされているわけであります。ここから目を離せば、私どもは、キリスト者の生涯を全うすることが困難と思います。

 本日は、三つの誘惑の最後の誘惑を学びます。三番目の最後の誘惑は、   「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」でした。それに対して、主イエスは高らかにこう宣言されました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」つまり、ただ神のみを神とすること、真の神のみを神として礼拝し、仕えるべきこと、ただ神の栄光のために生きることこそが、信仰の勝利の道であり、人間の人間らしい姿、真実の人間の道であると、鮮明にしてくださったのです。

裏返せば、悪魔が攻撃する点は、結局はここにある、サタンの攻撃の急所とは「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と、真の神にではなく、わたしにひれ伏せということです。そして、それは、何を意味するのかと申しますと、この世にあるもの、人々が羨み、憧れるもの、世間の多くの人々が、評価するもの、この世が重んじる価値を、求めることです。

主イエスは、み言葉を引用して、宣言されました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」これは、申命記第6章13節からの引用です。どこからの引用か分からなくとも、おそらく、すぐに十戒を思い出すことができるのではないでしょうか。第一戒です。「あなたは、わたしの他に何ものをも神としてはならない。」です。主イエスは、荒れ野におけるサタンの誘惑を受け、それと戦ったということは、要するに、ここで十戒を守る戦いをなさったということです。なぜなら、神の民は、神によってエジプトの奴隷状況から解放され、救い出されて、神からの愛の言葉を頂きながら、神を信じて、人間同士が愛し合って生きるこの十戒を守る戦いにおいて失敗したからです。惨めな敗北を繰り返したからです。十戒は、神の愛のしるしなのに、その神の愛を裏切ったのです。
 
神を神とすることができない私ども、それは、結局は、自分を頼りにして生きるということです。自分を信じること。自分がやらなければ、自分の人生は成り立たないと、偽りを信じさせられるのです。主イエスもまた、同じでした。40日40夜を越えたら、暖かなスープとパンが待っているかと言えば、それは、ないのです。目の前に、目に見えるような神の祝福のめじるしがないのです。もはやお腹に何か入れなければ、命が危ないのに、目の前に食べ物がないのです。それでも、『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』ただ神のみを神となさるのです。

主イエスは、神の御子です。その意味では、ご自身が神なのですから、ここで、悪魔などに拝礼する必要はありません。私どもであれば、それは、まさに危険です。誘惑です。しかし、主イエスは、父なる神に従うことでのみ、人間を救う道を開けるのです。父なる神の前で、人間として生きることなくして、私どもの罪を贖い、罪を赦すことがかなわないからです。御子でいらっしゃるのですから、ご自分が礼拝されることはふさわしいのです。その意味で、この誘惑に勝利された後、こう記されています。「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」仕えるとは、神に仕えるということです。神にのみ仕えよ!と、み言葉によって、命じられた主イエスです。ところが、天使たちは、そのイエスさまに仕えておられます。つまり、神の子であることを、主イエス・キリストが真の神に他ならないことを天使が示したのです。マタイによる福音書は、ここでこの、イエスさまこそ、真の神であられると宣言しているわけです。

 しかし、その神は、決して、我々の誘惑、願いにおのりになられません。   先週の祈祷会の学びの折の質疑応答の中で、このような問いが提出されました。「教会に新しく来られた方は、教会で難しい学びをしていては、かえって、  教会は、自分には無縁のところだと考えて、離れて行くこともあるのではないか。どうすればよいのか。」
私どもは、一人でも多くの方に教会に来ていただきたいと願っています。 さまざまな、集会を企てて、それを行います。わたしもまた、チャンスを生かして、礼拝式にお誘いします。そして、その中から、一人でも主イエスを信じる方が起こされることを、願っているわけです。しかし、そこにこそ誘惑が忍び寄ることを、私どもは弁えているべきでありましょう。

先週は、第二の誘惑を学びました。主イエスは、もし、あの神殿の屋根から飛び降りてみせて、何の害も受けないお姿を人々に見せれば、見せつけてしまえば、どれほど多くの人々が、イエスを神の子としてかけ集まってきたかと思います。しかし、  神の子は、人々の願いを実現させてみたり、通常の人間にはできないことをやってのけて、人々の評価を受ける道を断固、拒否しました。むしろ、降りられないのです。それは、やがて、最後の究極の誘惑を先取りする戦いでした。   祭司長は律法学者、長老たちは寄ってたかって、「十字架から降りて来い、そうすれば信じてやろう」と嘲笑し、主イエスを冒涜しました。「信じてやろう」と言ったのです。それなら、まさに、あの場面で、主イエスが十字架から降りられたら、彼らは、信じたでしょうか。そうではなかったはずです。主イエスを信じるとは、主イエスが、驚くべき奇跡を成し遂げることができる偉大な比べることのできない超人的な人間であることを、認めることとはまったく違います。自分の罪を赦して下さる救い主として信じることです。

何よりも、降りて来られたら、救い主のお働きは実現されませんでした。  確かに、降りて来られたら、彼らは驚き慌てふためき、自分を恥じることでしょう。しかし、恥じたとしても、自分の罪を悔い改めることはないはずです。罪を認め、悲しみ、憎み、悔い改めること、それが伴って、主イエスを信じるということになるのです。つまり、それは、神の恵みに他なりません。自分で、成し遂げられることではなく、神の賜物なのです。

 悪魔は、主イエスに向かって、もし一瞬でも礼拝すれば、当時の王の王であったあのローマ帝国の王、皇帝になれるぞと誘惑したわけです。イエスさまが、ローマ皇帝におなりになれば、どれほどキリスト教伝道は楽になったことでしょうか。マタイによる福音書が記された時、教会は、ユダヤ社会からもまた、何よりもローマ帝国からも激しく、厳しい戦いを強いられていました。迫害されていたのです。まさに、命の危機を覚悟させられていました。小さな教会は、風前の灯火のようなものであったのです。イエスさまは、正真正銘の神の御子でいらっしゃるのですから、ローマの帝国の権力を、神の子として蹴散らして、その政治的権力を獲得できたはずです。神の御子のイエスさまなのですから、悪魔は、わたしにひれ伏したならと、まったく「とぼけた」言い草です。悪魔などにひれ伏すこともなく、イエスさまは、ご自分が望まれれば、直ちに、政治的権力を手中におさめられます。もしも、さっさとそのような地上的な権力を獲得なさったら、キリストの教会は、簡単に、世界宗教になったかもしれません。もし、そうなれば、多くのキリスト者が殉教したり、苦しみ、まどったり、そこで多くの涙が流さなくて済んだのかもしれません。イエスさまが、地上的な権力を持ってくださったなら、あなたの弟子たちは、苦しまないで済むぞと誘惑されるのです。それが、私どもを愛し、その命をお捨てになられるほどの愛に満ち満ちておられるイエスさまにとって、どれほど、おそるべき戦いの一つになったかを思います。

 もしかするとマタイによる福音書を最初に読んでいた世代のキリスト者の中でも、既に、我々は、もっと政治的な、経済的な力を獲得するような知恵を持とうではないか、信者もどんどん増えているのだから、もっと我々の力を、  政治的に結集させれば、こんな苦しい目にあわなくして済むはずだと、考えた人もいた、かもしれません。少なくとも、彼らも、キリスト者として地上的に居心地のよい場所を願い、求める思いは、誰の心にもあったかと思います。
マタイによる福音書は、ここで、この誘惑の物語を記しながら、自分もまたその誘惑の切実さを、身に覚えながらも、この主イエスの命がけの救いを、  記して、仲間たちに伝えたかったのだと思います。

私共は、自分の人生の困難さの中で、結局、問われるのは、父なる神に寄り頼み、信頼して、委ねて進むのか、焦って自分で道を切り開いて行こうとするのか、そこが、悪魔が誘惑する急所となるのです。
 ある牧師がその説教で書いていたのですが、神学校を卒業する前に、教授から一言こう言われたそうです。「誘惑だね。」初めは、何のことか分からなかったそうです。後で分かったのは、その赴任地には幼稚園が併設されていて、  牧師は、園長を兼ねることになるからなのです。赴任後、若い牧師は、町の人たちから挨拶を受けたそうです。園長として見られているからです。牧師としては、影響力はないわけですが、園長さんは、そうではない。そこに誘惑がある。これは、よく分かることかと思います。
 荒れ野ということで、多くの場合は、人生の試練、悩み、苦しみのとき、信仰から離れてしまう、そう連想するかもしれません。しかし、むしろ、この世にあって、成功し、認められるところもまた荒れ野になります。そうなれば、主の日の礼拝式がおろそかになっても、仕方がないと考えるからです。この世にあって、日曜日を休むことは、何の評価にもつながらない。そこで、いよいよ、教会生活がおざなりになる。それが続くと、その敗北状態にも、鈍くなるのです。最後には、麻痺するかもしれません。

 日本の教会の歴史を顧みて、恐ろしいまでの敗北を、罪を犯しました。つまり、神のみを神としなかったのです。しかし、あまりにも恐るべき罪をどうして犯してしまったのか。それは、悪魔のまさに、誘惑、知恵ある誘惑があったからです。それは、神か偶像か、どちらを選ぶのかという迫り方をしませんでした。神社は、宗教施設にあらず。神社参拝は、国民儀礼であるというのです。もしも、神社は、天皇が神であって、その神を拝む場所、行為なのだと正面から、言われていれば、あれほどの恐るべき罪を犯さなかったのかもしれません。かつてのキリシタン迫害とは違ったのです。

 今も同じです。先週も、礼拝式の報告でなされました。日の丸、君が代は、教育上の指導である。何も、キリスト教信仰を否定しているわけではないのだし、心で信じていれば、態度においては、多数派に従うことが、常識だし、良識ある大人の行動だと言うのです。キリスト者であっても、それに抵抗しない人もいるのだから、あなたが君が代を歌わないのは、あなたの信仰は、過激で、熱狂的ではないか、などと言われると、「ぐらっ」とくるのではないでしょうか。悪魔は、ひれ伏して、わたしを拝めと言いました。それは、一瞬のことでしょう。ずっとひれ伏したままではないわけでしょう。あの小学校の音楽の先生も、「たった、1分ほど、歌えんばいいだけ、ピアノを伴奏するだけではないか。あなた以外のすべての人間が、しているのだから、問題を起こさず、騒ぎ立てずに、そうしなさい。そうすれば、あなたの信仰生活も職業生活も、安定する。人間としての常識です。皆がしていることです。」ということでしょう。私どもは、この「みんなやっていることだよ」にどれほど、弱いでしょうか。

 また同時に、神のみを神として委ねること、任せることができずに敗北する、罪を犯す理由は、その急所は、ここにあります。むしろ、一番の理由です。それは、そもそも神とはどのようなお方であられるのか、聖書によって示された神さまをそのまま信じられないということに尽きるのです。

 神は、私どもに向かって、毎日、「これは、わたしの愛する子」と呼びかけていて下さいます。つまり、聖書に啓示された、主イエス・キリストによって明らかに真の神とは、私どもの天の父であられる神ということです。天のお父さまです。全能の父なる神です。「すべての主権をもちたもう父なる唯一の神」でいらっしゃるのです。ところが、私どもは神をそのような父として、信じ抜けないのです。

父なる神を信じるということは、その摂理を信じられるかどうかと言い直すこともできます。神は、今ここで実際に生きて働いておられるのかということです。40日断食して、悪魔の試みだけはあって、目に見える祝福の徴がないとき、それがまさに荒れ野です。しかし荒れ野のど真ん中で、主イエスは、神を信じ、神を神としたのです。私どもも、荒れ野を生きています。イエスさまとは比べられないほど、平穏な、穏やかな荒れ野であると思います。ただ当事者の私どもにとっては、それでも苦しい荒れ野です。しかし、そこで思い起こしましょう。今、ここで仰ぎ見ましょう。父なる神は、ここで御子を苦しめられたのは、私どもの救いのために他なりません。それほどまで、御子を苦しめるほどまでに、父なる神は、私どもを愛していてくださるのです。人生で豊かな実りがあるときも、実りがないように思える時でも、健康なときでも病のときでも、富んでいるときにも貧しい時にも、父なる神の愛の支配の中で、つまり偶然ではなく、私どもに益となるように、その優しくも力強い御手をもって、私どもに働いてくださるのです。父としての愛をもって、私の一日、一日、一歩、一歩の歩みは導かれているのであります。

私共は、しばしば、敗北感のようなものにとらわれるかもしれません。キリスト者として知る、自分の足らなさ、弱さに打ちひしがれるような思いを抱くこともあります。しかし、ここで主イエスは、まさに見事に誘惑に、勝っておられます。これこそは、私どもの救いなのです。主イエスのこの勝利こそが、私どもの救いであり、勝利なのです。全人類が、ただ一人の例外もなく、罪の誘惑に負けて、敗北してしまいました。今も敗北の連続であります。しかし、ここで、たったお一人、人間の代表となってくださった神の御子イエスさまが、私どもの敗北してしまったこの誘惑の数々に抗って、大勝利してくださったのです。そして、その勝利を、ただ信じる者に、ただ信じて洗礼を受けただけの私どもに与えて下さっているのです。この勝利のマントを、着せて下さる、勝利の王冠をかぶらせて下さるのです。そのおかげで、敗北者である私どもがなお、キリスト者であることが許されています。私事でありますが牧師として、賜物も乏しく、能力に劣る者が、それでもなお、赦されて、牧師として今朝も立てられていることは、驚くべきことです。それは、ただこの勝利者、この偉大なチャンピョン、イエスさまのおかげなのです。今朝も父なる神は、このイエスさまを通して、私どもに一人一人に、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されています。私どもは、この恵みに、ただただひれ伏して、感謝するのみであります。

祈祷
 私どもの代表として、神を神とする戦いに勝利してくださいました主イエス・キリストの父なる御神、私どもを救うために、御子をおそるべき苦しみんへと落とされた御子の父にして、それゆえに私どもの父なる御神。今、私どもは、改めて信仰の戦いが、いかに厳しいものであるかを思います。しかし同時に、どれほど惨めな敗北者であっても、勝利者イエスさまのおかげで、あなたに愛される子どもでおらせてくださる救いの恵みを心から感謝いたします。 どうぞ、自分の弱さ、自分の敗北感にとらわれず、私どもの眼差しを、信仰の心を高くあなたに挙げさせて下さい。自分を見れば、敗北です。そしてそれは、信仰ではありません。自分の弱さを自分の力で克服させること、自分の生活を自分の努力で保つことも信仰ではありません。父なる神の御手に、摂理に委ねる信仰を、富ましめて下さい。今、御子の勝利をのみ仰ぎ見させて下さい。   そして、そこに私の勝利が決着していることを確信させて下さい。アーメン。