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「天国にふさわしく」

「天国にふさわしく」
                       2009年3月1日
               マタイによる福音書 第4章12節~17節
 「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」

 新しい月を迎えて、その最初の礼拝式を捧げます。春、新しい歩みを始めるための準備を進める方もおられます。私どもは先週まで、3回に渡って、主イエスが私どもの救いのために、荒れ野に赴かれ、そこで悪魔との激しい戦いをなされ、そして勝利された物語を学びました。主イエスは、そこで、天使たちの礼拝をお受けになられたのでした。神の御子であられることをいよいよ確かなものとなさったことと思います。そして、本日のテキストは、その主イエスがいよいよ公の生涯に入られる箇所です。自らの使命を公にされます。つまり、遂に、伝道の生活をここから始められたというのです。つまり、主イエスにとってもまったく新しい人生、生活が始まるわけです。

 
それなら、その新しい生活、伝道の生活を始める引き金になったのは何であったのでしょうか。マタイによる福音書は、ヨハネが捕えられた時であると、告げます。洗礼者ヨハネは、主イエスにも洗礼を施しました。そして、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語った預言者です。そして、この人は、いつでも、どこでも、誰にでもそのように語ったのです。それは、第14章で学びます。領主ヘロデに対して、彼が自分の兄弟の妻を横取りして、結婚した事実に対して、出向いて行って、「神の律法、み言葉に違反している、神に背くことである。」こうヘロデの目の前で告げたのです。そこで、彼は、ヘロデによって惨殺されてしまいます。イエスさまが、ご自分が伝道するときを、洗礼者ヨハネが殺されたことによって、ご自覚されたことを、心に留めたいと思います。そして、それは何を意味するのでしょうか。それは、主イエスが、伝道の働きを始めて、最初に語られた言葉に明らかです。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」です。これは、ヨハネが告げた言葉とまったく同じです。この知らせを、止めてはならないからです。マタイによる福音書は、この宣言こそ、この告知、この知らせこそは、最も大切な知らせなのだと読者に告げているわけです。一番大切なことは、悔い改めて、天の国に入ること、これに尽きるということです。
 
 主イエスは、ヨハネが殺されたことを知り、ガリラヤに退かれます。退くという言葉は、実は、重要な意味が込められています。その議論は、今する時間はありません。私自身は、何よりも、重要なことは、ガリラヤとはどのような町であるかがであると思います。それは、田舎ということです。はっきりと申しますと、イザヤ書の言葉が引用されますが、ガリラヤとは、「異邦人のガリラヤ」なのです。エルサレムから見れば、まったくの田舎です。異邦人が多い地方なのです。「ひと旗あげ」に都会に出る、というのではなかったのです。むしろ、その正反対の行動をとられたのです。周辺へと、田舎へと進のです。ですから、退かれたと表現したのではないでしょうか。そして、それは、同時に、イエスさまが、故郷であるナザレを捨てることを意味します。住み慣れた村、家族とも離れるのです。そのようにして、伝道を始められるわけです。
 
 マタイによる福音書は、この行動を、預言者イザヤの言葉の成就であると認めます。有名なみ言葉がここに引用されています。私どもは、しばしば降誕祭の折に読む箇所として慣れ親しんでいます。第8章、9章のみ言葉です。「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」この地は、アッシリアに攻め込まれ、支配されたのです。ですから、異邦人のガリラヤとすら呼ばれるような、場所になっていたのです。しかし、そこに住む人々は、太いなる光を見る。そこに光が輝く。とイザヤは告げます。そして、それから700年の後、マタイは、主イエスがここに来られ、住まれたこと、そこで伝道を始められたことによって、預言が成就したと宣言したのです。まさに光が射し込む、光が、昇った。つまり、イエスさまの登場なさったということであり、つまり、主イエスさまこそは光であられるというメッセージです。

さていよいよ、事柄の核心部分に入ります。その光でいらっしゃるイエスさまが、語られたことは、いったい何であったのか。それは、あの洗礼者ヨハネが叫んだこととまったく同じでした。「悔い改めよ。」です。

それなら、「悔い改め」とは、何でしょうか。言葉の意味は、「方向転換」です。向きを変えるということです。それは、しばしば、「もう、二度と同じ過ちを犯しません。ごめんなさい。」というような謝罪と理解されがちです。聖書の言う、悔い改めとは、もとより謝罪も含まれていますが、方向転換するということなのです。それなら、何の方向転換でしょうか。それは、これまでやめられなかった、悪い行い、習慣を金輪際しませんと決心することではありません。丁寧に申しますと、確かにそのことも含みます。しかし、何よりも大切なのは、そのような悪い行いの根源に、何があったのかということです。いへ、そもそも何が悪いのかということに気付かされることであると言ってもよいでしょう。何が悪いことであったのかを、教えていただくことです。ですから、悔い改めるとは、人生そのものの方向転換をすることなのです。生き方そのもののここで問題とされているわけです。生き方、その方向を変えるということは、まさに大事件です。仕事を変えること、それも大きな変化、転換でしょう。就職、結婚、人生の一大事でしょう。しかし、それが、人生の方向を転換することではありません。むしろ、それまでの自分の生きる道をさらに幸せにし、さらに確かなものとする延長線上に求められているものなのではないでしょうか。

悔い改め、それは根本的、根源的なことです。聖書は言います。それは、聖霊なる神でなければ、なしえないことです。神が、私どもの心の内に、直接、働きかけてくださらなければできません。これまで、神を信じないで、神に聴き従わないで、自分の人生を生きてしまった、時を過ごしたこと、その自分の力で切り開いてつくってきた人生は結局、自己中心のものであったと、認めることです。そして、悲しむことです。さらに、これを憎むことです。それが、悔い改めなのです。ですから、人間の単なる良心の問題、悪いことをして反省するという次元ではすまないのです。聖霊なる神が、私どもの良心を新しくして下さらない限り、悔い改めることができません。神を信じないで、神に従わないで生きることが、どんなに愚かで、悲惨で、悪いことであるかそれは、神が悔い改めの恵みを与えて下さらない限り、私ども生まれつきの人間、つまり罪人にはわからないのです。しかし、聖霊なる神が注がれるとき初めて、私どもは、自分の生き方、自己中心の生き方が、自分の中にまさに暗闇を作っていたこと、自分の人生が死の陰の地、その谷をどんどん霊的な死、暗黒へと転落していたことを悟るのです。自分の罪こそが、暗闇と罪の源であったと気づくのです。

それなら、私どもはいったいどうしたら悔い改めることができるのでしょうか。主イエスは、高らかにこう宣言されました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」この二つの文章、言葉に、言わば、アクセントがつくのはどちらでしょうか。もともとのギリシャ語には、ガル、「だから」、という理由がついています。「悔い改めよ。天の国は近づいたのだから。」です。そうなると、アクセントは、天の国が近づいたにかかるでしょう。悔い改めは、天の国に入るために、条件として、なさなければならないのだと、迫るものではなくなります。むしろ、「当然、そうなるでしょう」と言うことばです。天国が近づいたから、喜んで悔い改める。当然、悔い改める。悔い改めることが、必然となるというニュアンスです。

 確かに洗礼者ヨハネも、同じように宣言しました。それは、天の国、神の国、神さまの支配が目前に迫っているということでした。しかし今、ここで、実に、主イエス・キリスト御自身が、これを語られているのです。イエスさまとは、どなたでしょうか。それは、天国の主、あるじです。天国の本体です。このお方が伝道を始め、宣言したのであれば、もう、天国ははっきりとここにあるということです。イエスさまのご臨在、共にいてくださることによって、まさに近づいたと宣言されたことは、天国がここに始まったという宣言です。あのヨハネは預言、予告で終わりました。しかし、主イエスは圧倒的な権威をもって、ヨハネの予告、預言は、わたしによって成就している、そのような権威をもって主イエスは宣言されたのです。「だから」悔い改めなさい、と主イエスは、迫る。招くのです。天国への招待状が今まさに、手渡されているから、これを無駄にしないで、これを捨てないで、心の向きを変え、人生の方向、生きる目標、目的を転向しなさい、そのとき、この招待状を受けることになるからです。

先週行われた、中部中会の教師会、牧師会で、一人の地方の教会の牧師が、近くにカルト化した教会がある、そのような教会が増えているから注意した方がよいですと、呼びかけておられました。信徒がうっかり関わりを持ってしまって、大変になったようです。栄の町や名古屋の駅前で、どこからか大音響で、「悔い改めよ、イエスは盗人のように来られる。」とやっているのを聞いたことがあります。何年か前に、この町にも街宣車のように、「悔い改めなければ、滅ぼされる。神の裁きがある。」とやっていました。そこには、主イエスのような、明るさがありません。明るくない福音の宣教というものがあるのかどうか。これは、実は、単純素朴ですが、本物と偽物とを分ける大きなポイントです。ただし、明るいということも、主観的な表現です。注意が必要です。

それなら、この明るさとは、何でしょうか。それこそは、16節の光です。大きな光です。「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」この光こそ、他ならないイエスさま御自身です。この光の中で、悔い改めよとの、厳かで、なお激しく迫る恵みの招待、招きになるのです。

私どもは毎週、礼拝式で、ニカヤ信条をもって教会の信仰を告白し、神に感謝と賛美を捧げます。ニカヤ信条の中には、研ぎ澄まされたような言葉で教会の信仰、聖書の信仰が織りなされています。不必要な言葉、無駄な言葉は一つもありません。しかし、主イエス・キリストについての告白の中で、「光よりの光」とあります。皆様は、こう唱える時、この礼拝堂に光が射し込むような思いを経験されるでしょうか。自分自身に、イエスさまの御存在が光として経験されるでしょうか。聖霊なる神が、そのような体験、経験を深めさせて下さいますように。この信条が、最初に唱えられたであろう第2世紀、3世紀そして4世紀まで、教会は、なお大きな教会堂を建てて、公然と主の日の礼拝式を捧げ、公然とその活動をなすことが、困難でした。ある地方、ある時には、まさに、地下に潜って、礼拝を捧げざるを得なかったのです。その意味で、私どもの先輩たちにとって、この信条は、どんなに豊かな響きをたてて唱えられていたかと思います。ロウソクを何本か灯して、辛うじて光をとっていた主の日の朝。私どものような、朝日が注がれるこのような礼拝堂もないところで、「我らは唯一の主、イエス・キリストを信ず。主は神の独り子、万世のさきに、御父より生まれたるもの」そして、「光よりの光」です。ここにはっきりとイエスさまが光と告白されます。それは、主イエスが、「わたしは世の光である」と宣言なさった聖書のことばが反映しています。そして、ヨハネによる福音書において、こう続きます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」そして、「光」とは、命を意味するのです。そしてここでの命とは、まさに神御自身のことです。「光よりの光、真の神よりの真の神」それが私どもの救い主イエスさまです。このイエスさまが、私どものこの真ん中に今、聖霊によってご臨在されています。これこそ、救いです。これ以上に何も望めません。

私共が、方向転換することができるのは、まさに光を見ているからであります。もしも、光を見失うと、悔い改められないのです。その意味で、悔い改めるとは、光を見ることにかかっていることが分かります。礼拝式でみ言葉を聞いて、祈らなければ、悔い改めをなすことはできないのです。だからこそ、洗礼入会者は、洗礼を受けて終わるのではないのです。そこから始まるのです。

悔い改めについて、もう一つ、大切なことは、それは、一回限りのことでは全くないという事です。私どもの教会の改革運動の突端に立ったのは、マルチン・ルターでした。彼の教会改革運動の先駆けとなったのは、有名な95カ条の命題でした。その第一条はこうです。「私たちの主であり先生でいらっしゃるイエス・キリストが悔い改めよと叫ばれたのは、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを求めておられるのだ。」まったくその通りです。

それなら全生涯が悔改めとなるためには、具体的、現実的にはどうすればよいのでしょうか。とても単純明快です。聖書に記された御言葉に従うことです。何よりも、主の日を、主の日にすることです。つまり、主の日の礼拝式を生涯の、生活の核、中心に据えることです。これを人生の、一週間の目標、ゴールに据えることです。我々は、これまで、日曜日は、まさに自分の日であったのではないでしょうか。「日曜日は、休みだ。仕事から解放されてこの日こそ、自分の好きなように使える。」しかし、悔い改めた人は、そう思いません。思えません。日曜日は、安息日。神を神とする日。礼拝へと招かれている。光よりの光を浴びる日、場所、そこには主イエス・キリストがおられる。わたしは、一人で生きるのではなく、主と共に生きる、主にある仲間たちと生きる、教会と共に生きる日と思うのです。それが、私どもの最高の喜び、誇り、光栄となるのです。それが、悔い改めることの典型です。

 主の日は、一週間に一度です。しかし、主の日を目指して歩む人は、毎日、目指すのです。毎日、光を求めるのです。この大いなる光、命の光の中で、私どもは本当の人間の生き方、人間らしい生き方、救われた生き方へと解放されるのです。まさに、この日こそ、私どもの心と体と魂の安息日となるのです。

 洗礼者ヨハネの告げた事柄と主イエスが告げた事柄は、まったく同じでした。そして、今日の教会が告げるべきことも同じなのです。マタイは、ヨハネは、「言った。」とだけ記します。しかし、ここでの主イエスは、「言って、宣べ伝え始められた。」と記します。「宣べ伝える」これを、先ほどもとりあげたルターの翻訳聖書では、「説教」と訳しています。重要なことを、教えられます。そしてその説教の内容は、これからまさに語られ、明らかにされてまいります。主イエスの説教が、マタイによる福音書第5章の「山上の説教」に明らかにされます。そしてまた、説教の主題は、神の国でした。神の国、天国が近づいている、その天国における生き方を今、ここで始めること。それによって、天国がいよいよ力をもってこの世界に拡大されることを教えて下さいました。

 そして、ここでは、まだ明らかにされていませんが、この天国を地上に映し出す共同体こそが、教会に他なりません。教会こそ、天国の地上における中心的な現れなのです。ですから、その教会の集いの中心、頂点の主日礼拝式では、説教がなされるのです。説教は、神の国が力をもって始まっていることを宣言することです。つまり、イエス・キリストの到来の事実、イエス・キリストが十字架についてくださった事実、イエス・キリストが復活された事実、イエス・キリストが天に昇られた事実、救い主主イエス・キリストの出来事を宣言することがその中心です。これは、宣言するものなのです。あるがまま、ありのままを告げることです。それは、まさにここで何の解説もせずに、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣言しているとおりです。「天国が近づいている、だから、悔い改めよ。」「悔い改めなさい。天国は近づいているのだから。」

 この宣言は、現実の宣言。告知です。この情報が、世界を二分する。情報を受け入れ、信じ、実行するとき、この情報がその人の現実となるのです。ところが、それを拒否すれば、天国は、その人に近付かず、その人は天国の外に留まるのです。

 教会は、その宣言を語り続けます。天国が近づいたということは、主イエス・キリストが近づいて、今ここに共におられることを宣言することです。伝道もまた、これにつきます。私どもは証をします。それは、天国が主題です。主イエス・キリストが私どもの罪を贖い、十字架に死んでくださったこと、この神が御子を罰することによって、一方的に御自身との和解を、ご自身で成し遂げられたこと、もはや、罪人である私どもはこの父なる神の御子における救いのみ業、天国へ入るための救いの手続き、その面倒で、人間の力、努力では決して担えない恐ろしいほどに困難な、不可能な手続きを、父なる神が一方的に、ご自身の御手で、解きほぐし、ひも解かれました。私どもはただそれを受け入れるだけでよいのです。このようにして、神との間に和解、仲直り、その結果、神との間に平和が与えられていること、それが天国です。つまり、この宣言を受け入れるなら、ただちにその人に天国が始まる。教会の交わり、教会の中に加えられることができるのです。

 その第一歩の神の手続きが洗礼です。洗礼を受けた私どもは、今ここで聖餐の礼典を祝います。これは、天国の食事の言わば前菜です。その前味です。それを、地上にいながらにしてあずかるのです。神の国が近づいたことを、最も鮮やかに証し、指し示し、見せることのために、イエスさまは恵みによって教会に聖餐の礼典を与えてくださったのです。

 この食卓でこそ私どもは、今、もう一度、悔い改めを新たにします。悔い改める私どもに、今朝、伝道所委員が近づきます。天の国は、そこまで接近する。そして、皆さんは手を出されます。そこでパンと杯に触れます。まさに、そしてそれを口に運びます。それが、頂点のまさに頂点です。どれほど、悔い改めやすい立場に置かれているかと思います。こんなに近づいて下さっているイエスさまに、父なる神に、今こそ、心を向かわせる。神は、すでに私どもの方にはっきりと、御顔を向けていてくださいます。その御顔から、光が射し込むのです。それは、命の光です。私どもの全存在を照らす命の光です。この光の中で、暗闇の現実、死の陰の谷を生きる私どもの生活は、救われるのです。つまり、ここで天の国は、鮮やかに始まっているのです。すでに力を持って始まっているのです。その力を私どもは洗礼式、洗礼入会者の姿において目撃します。何よりも今朝、聖餐の礼典の執行において、自分自身が、自分自身において味わうことが、認めることが許されているのです。こんな取るに足らない罪人に、命の光が射しこみ、天国が開かれ、私どもの上に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天にまします父なる神からの宣言を聴くことができるからです。

確かにこの地上に生きることは、戦いです。誘惑があります。試練があります。ある教会は、近隣からの苦情を受けて、讃美の声を小さく歌っているそうです。せっかくのパイプオルガンも小さく鳴らしている。防音工事に何百万もかかる。しかも、今後、移転を真剣に検討しなければならないというのです。伝道の盛んな、成長し続ける恵まれた教会です。しかし、試練もまた厳しい。一人ひとりの生活の中で、私どもは家族の悩み、自分の将来の不安と必死に戦っているのです。

 私どもも今、この町が与えられています。私どもの住むこの町。この国。ここは、神の御目に、どのように映るのでしょうか。まさに、正真正銘の異邦人の町、国であります。しかし、この国にも、この町にもすでに大きな光は射し込んでいます。天の国は近づいたと伝道し続けられた主イエスの戦いは、すでに終わりました。勝利をもって終わりました。十字架についてくださり、ご復活なさって終わりました。私どもの地上における信仰の戦いとは、このキリストの獲得された勝利の歩みをなぞる戦い以外のなにものでもないのです。すでに、私どもの敗北は、勝利者主イエスがなぞってくださったのです。そのようにして、私自身の敗北の事実、現実は、神の御前に帳消しにされてしまっているのです。ここに住む人々は、私どもの存在によって、教会の存在によって光を見ることができるのです。私どもは、主イエスの伝道を引き継ぐこと、あの宣言を、代行することによっていよいよ光となるのです。その光を、高くかかげて、歩んでまいりましょう。
 
祈祷
 「悔い改めよ」と、その全存在をかけて呼びかけておられる主イエス・キリストよ。天国の主に他ならないあなたがそのように呼びかけて下さいました。天国が近づいているからです。あなたの招きにあずかって、天国に入れる救いのみ業がすでに実現しているのです。私どもから始めさせて下さい。教会こそ、真っ先に、そして毎日、悔い改めに生きることができますように。何度でも何でも、繰り返して、光よりの光であられるイエスさまに向きを直す恵みを与えて下さい。光を見ることができますように。この礼拝式がそのような礼拝式となりますように。暗黒の中で、死の陰におびえて、しかし、その怯える心をごまかして、やり過ごす人々が大勢おられます。光に目を背け、いよいよ暗闇へと逃げ込む人々も少なくありません。教会に、愛を与えて下さい。福音の言葉、天国の到来を告げる言葉、宣言することができますように。私どものように、ここで天国の命に共にあずかる人を起こしてください。私どもの全存在をそのためにお用いください。アーメン。