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「幸いをつくりだす権威ある宣言」

「幸いをつくりだす権威ある宣言」
                       2009年3月15日
             マタイによる福音書 第4章23節~第5章2節
 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

 昨年の12月から新しく志を立てて、マタイによる福音書を学んで主の日の礼拝を捧げています。ローマの信徒への手紙に比べれば、どんどん読み進んでまいりました。そして今朝は、有名な「山上の説教」と呼ばれる箇所に入ります。ここからは、少し丁寧に学びます。一言ひとことを噛みしめたいと思います。今朝は、その意味では、この山上の宣教全体の序論のような箇所ですし、そのような説教になるかと思います。

 今、ペトロとアンデレは網を捨てて、ヤコブとヨハネとは舟と父親とを残して主イエスの後について行きました。彼らは、「わたしについて来なさい」とお招きになられた主イエスに従う、新しい歩みを始めています。彼らは、すぐに主イエスのお伴をしながら、ガリラヤ中を歩きまわります。主イエスは、ユダヤ教の諸会堂を回っては、聖書を教え、御国の福音を宣べ伝えられました。主イエスは、「天の国、御国が近づいたのだから、悔い改めなさい。福音を信じなさい。福音にあずかりなさい」と、語り歩かれたのです。さらに主は、天国が近づいたと語られただけではなく、その証拠をも見せられました。それが、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された行為に他なりません。病を癒す奇跡は、天国が近づいたという事実の、言わば、目に見える宣言です。宣言の確かさを強固なものとするためのめじるしです。人々は、イエスさまがどんどん癒しの奇跡をおこなわれて行かれたのを目撃し、どんなに喜んだことかと思います。ですから、人々は、どんどん、病人をイエスさまのところに運び込んだのです。その光景は、まるで大きな病院の救急病棟のようではないかと思います。そこでイエスさまは、たったお一人で担ぎ込まれる病人、そして様々な生活苦に悩み苦しんでいる人々を、お癒しになられたのです。そして癒された人々を中心に、イエスさまに従う人々はどんどん増えて、今や群衆とまでなったのです。

 さて、今朝から学ぶ山上の説教とは、この群衆がイエスさまに従ってきたところで、なされた説教なのです。丁寧に申しますと、主イエスは、この群衆をご覧になりながらも、しかし、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネたちを引き連れて、山に登られます。選ばれた弟子たちを近くに寄って来て、そこで語られるのです。この姿は、読書に二つのことを連想させます。第一に、それは、律法学者と弟子たちの関係です。先生が選ばれた弟子たちを相手に、神の言葉を教える姿です。そのような師弟関係のイメージがそこにあります。もう一つは、これこそ、最も大切ですが、山の上で神の言葉が与えられるというイメージです。それは、イスラエルの人たちにとっては、旧約聖書に記された最も大切な出来事をこそ連想するはずです。それは、あの偉大な指導者モーセがシナイの山の上で、神からみ言葉を与えられた出来事です。十戒を与えられた出来事です。おそらくここでの主イエスの説教は、一回限りのものではなかったかと思います。しかし、マタイによる福音書は、明らかにこの説教が語られたのは山の上であったと言うことで、読者に、モーセやその十戒を思い起こさせ、その神の言葉とここでのイエスさまの言葉とを重ね合わせて聴きとって欲しいと願っていることは確かです。

 さて、新共同訳聖書の小見出しにも「山上の説教」とあります。昔は、山上の垂訓と言われていました。垂訓とは、倫理や道徳の教え、訓話と申しますが、訓話を垂れる、倫理学者が倫理を教え諭すことです。しかし、今、そのように考える人は、ほとんどいないと思います。それは、正しいことです。ここでは、神の言葉が語られる、つまり説教がなされたのです。主イエスの説教の基本主題は、神の国、神さまのご支配についてでした。ですから、ここで語られること、明らかにされる事柄は、要するに天国のこと、神の国におけるイエスさまに従う者の生き方、その幸いについての宣言に他なりません。あるいは、こう言っても良いかもしれません。宣言です。天国の主、主人が、ご自分が治められる天国、神の国における生き方とはどのようなものなのかを、天国における人間の存在と生き方とはこのようなものなのだと宣言しているのです。天国における人間の生き方の宣言です。そして、イエスさまについて行っている弟子たちとは、天国へ向かって行進していることなのです。そのような生き方そのものがすでに、神の国の開始に他ならない、すでに彼らは、神の国に入り始めているということです。これが、私どもがこの説教を正しく解釈することの基本的な前提です。それが分からないと、この説教を正しく、つまり福音として、つまり喜ばしい知らせとしては受け入れられない、理解できないのです。

 今、主のひざもと近くに弟子たちが寄って来ました。そこで最初に、その口からほとばしりでた言葉は、一体どのような言葉であったのでしょうか。実は、日本語の翻訳では、順序が逆になってしまっているのですが、それはこうです。「幸いである。なんと幸いな人達だろう。ああ、あなたがたは幸いだ!」ギリシャ語ではマカリオイ、幸福であります。これは、英語では、ハッピーではなく、ブレスであります。つまり、一般的な幸せではなく、「神の祝福」であります。主が弟子たちにその最初に告げたい言葉はマカリオイでありました。幸いでありました。これは、私共がいつも覚えておいて良いことであります。主イエス・キリストがその弟子たちをご覧になって、いの一番に語りかけたい言葉は「マカリオイ、幸い」と言う言葉なのであります。つまり、先週も学んだ通り、イエスさまの弟子とは誰のことか、主イエスについて来ている者たち、主イエスに従っている者たちとは誰のことでしょうか。それは、ここに集められた私ども一人ひとりに他なりません。つまし、主イエスは、今朝、私どもにも、私どもの全存在を見つめて下さった、マカリオイ、幸いな人よ!と呼び掛けておられるのです。主イエス御自身が、ある驚きをもって、幸いな人たちよ!と呼ばれたのです。

 そこでこそ、問題、課題が明らかになります。それは、何かと申しますと、私共は自分自身を省みて、今朝、主イエス御自身さへが驚きを込めて、「何と幸いな人達であろうか」と言われても、何かピンと来ないところがあるかもしれないのです。そこが私どもの問題、急所です。イエスさまから、祝福の宣言を受けても、聴いても、何か、「きょとん」とするような思いがあるのではないでしょうか。「ここで幸せな人と、イエスさまが仰ったのは、この教会の中で誰のことなのかなぁ、あの兄弟、あの姉妹は、幸せそうだなぁ、けれども、今の私はそこまで幸せではない」そのように、もしかすると私どもは多く、そう考えてしまう心の動きがあるかもしれません。そこが、急所になるのです。私どもの信仰の課題になるのです。

 さて、それなら、ここで言われている幸いとは、いかなるものなのでしょうか。明らかに、不思議な幸福であろうと思います。我々の常識とはかけ離れていると言っても言い過ぎではないと思います。おそらく、「心の貧しい人」その人は、不幸。それが私どもの常識的な考えでしょう。ところが、この非常識が天国では、常識となるというわけです。いったい、そこにはどんな不思議、どのような秘密があるのでしょうか。この不思議、この秘密を知らないままであれば、天国に生きることはできないのです。

 それこそは、語られたお方はどなたであられるのかということです。これこそが、決定的なことです。決定的に重要なのです。「幸いな人たちよ!」と宣言されたのは、主イエス・キリストでいらっしゃるということです。つまり、神の宣言であられるということです。この宣言は、生ける神御自身からのまさに生きた神のみ言葉そのものなのです。聖書は、最初から最後まで、ひとつのことを繰り返し証しています。それは、神のみ言葉が語られたならば、その瞬間に、それは出来事になるという現実です。神のみ言葉が発せられた瞬間に、その意味する者が、そこには実際にはないにもかかわらず、その言葉が意味する存在へと呼び出されてしまうということです。「初めに神が天地を創造された。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。」創世記第一章1節です。御言葉は、無から有を造り出し、生み出す力そのものなのです。大勢の病人を癒したイエスさまです。その主イエスが語られた言葉もまた、奇跡の力によってその通り、まったくその通りに現実となるのです。
 
主イエスが私どもに幸いであると宣言されたなら、これ以上に確かなものがないほどの確かさで、私どもの全存在が幸いなものとされる、されてしまうのです。

 しかし、もとより、むやみやたらに宣言されたわけではあります。なぜ、幸いであるかと言えば、それは、「天の国はその人のものである。その人のものだからです。」天国への入国、神の国の支配にあずかれる人になっているから幸いなのです。この天国の幸いは、8つあげられた幸いの最初と最後に出てまいります。つまり、この幸いの教えは、天国に入れるという幸いに挟み込まれるような形で宣言されているわけです。そうなれば、ここでの幸いの究極とは、私どもが天国に入れる人間とされているということにあることが明らかになります。

 だからこそ、この宣言は、主イエスの弟子たちに語られているのです。もとより、それを聴いていたのは、群衆たちもそうでしょう。しかし、第一に語られているのは、弟子です。群衆は、幸いであると宣言されたイエスさまと同時に、そう言われた弟子たちをも見つめていたのです。

 さて、それなら、しかし、どうして「心が貧しい」と幸いなのか、それについては、来週学びましょう。

 ただし、今朝、ここで弁えておきたいことがあります。それは、「天国に入るためには、心が貧しくならなければならない。だから、そうする。」そのような考え方では、この宣言は、正しく理解できないということです。天国に入るためには、このような人間になることが条件である。イエスさまは、その条件を設定されたのだから自分たちは、いやでもおうでも、つべこべ言わないで、心の貧しい人になるために努力すべきである。このような考え方は、一言で言えば、打算ではないでしょうか。天国に入るために神さまとイエスさまと取引するわけです。しかし、そもそも、そのような取り引きがここで求められているのでしょうか。何よりも、そのような取り引きを私どもは自分の力で、努力で成功させることができるのでしょうか。

そのようなものは、一切求められていません。何よりも、そのような条件が提示されたとしても、私ども罪人がどうしてそれをクリアできるでしょうか。達成、実現できるでしょうか。できるわけがありません。しかし、ついつい、我々は、そう考えてしまいやすいのです。我々の常識に適う考え方だからです。分かりやすいのです。実際に、そう考える人が多いのです。

 しかし結局そこで、多くの場合は、このようなところに落ち着いてしまうのです。つまり、「やはり、自分にはできない、もちろん天国には、入りたいのだけれど、そこまですばらしい人間にはなれない。イエスさまの教えは、よい教えであるけれど、少なくとも今の自分では無理です。わたしは、今、一生懸命、会社で仕事をしています。そこでは、いろいろ難しい問題があります。多めに見てもらわないとそこではやっていけません。天国が近づいたら、イエスさまや教会にお世話になりたいと思います。その時には、よろしくお願いしたい。でも、今は、そっとしておいて下さい。」そうやって、主イエスについて行かない人々は、どれだけ多いでしょうか。圧倒的多数がその広い道、大きな門を通って進むのです。

 しかし、繰り返しますが、「心の貧しい人」それは、そのようになる目標とか条件では決してありません。断じてありません。そうではなく、主イエスがそうなさるから、そうなるということです。主イエスが、心の貧しい人を造り出されるのです。他ならない私どものことです。私どもイエスの弟子とされた者は、即、「心の貧しい人」なのです。弟子であること、それは、先週も確認しました。主イエスに呼ばれたからです。呼ばれ、招かれないと弟子となり、従い、ついて行けないのです。ですから、キリスト者とは、どんなことがあっても、どんなに成功を遂げて、人もうらやむような立場に立ったとしても、威張れないのです。自分を誇れないのです。もしも、高慢になったとき、そのときは、自ら神を否定し、自分を裏切ったときです。「自分の努力で、こんなに成功し、偉くなりました。」それは、キリスト者にとって致命傷です。

 来週学びますが、主イエスについて行く人は、「心貧しくされた人」なのです。それは、だんだんそうなりますよと言うのではありません。主イエスについて行く、従ってゆくときそうなるのです。そして、そうなり続けて行くのです。従えば従うほど、ついて行けばついて行くほど、どんどん、心貧しくなるのです。そのように主イエスが造り出す、私どもを育てる。変えて行って下さるのです。ここでも、あの説教が響き渡ります。「悔い改めなさい。天国は近づいたのだから」悔い改めです。悔い改めないと、このみ言葉を悟ることができないからです。悔い改めることが、心の貧しさを知る道なのです。悔い改める、つまり、神へと私どもの生き方、考え方を方向づけるところに心の貧しさが造られるわけです。ですから、天国に入ることができ、幸いな人となるのです。
 
ここで、改めて私どもが弁えていたいことがあります。幸福とは何かです。それは、神のご支配の中で、神と共に生きることに他なりません。それは、既に確認した通りです。今、改めて問いたいのは、私どもが、自分の幸いを、誰が決めるのかという問題です。何を当たり前のことを言うのかといぶかられる方もおられるかもしれません。自分が幸せかどうか、それを決めるのは、判断するのは、自分自身でありましょう。これは、とても大切なことです。他人が決めるのではありません。しかし果たして本当に、我々は、自分の幸せ、幸福感を自分で決めているのでしょうか。
もしかすると私どもは、今日、「幸せ」すらも、いへ、幸せ感、何をもって幸福とするのかこそ、他人に操作されているのではないでしょうか。自分以外の誰かによって、造り出されてしまっているのではないでしょうか。今、テレビや新聞、雑誌やあるいはインターネットで、人間の幸福とは何であるかを、それが何によってもたらされるのか、盛んに宣伝されています。そして、現代人は、時代の精神、時代の価値観、価値基準の中で、言わば、自分の幸福度、幸福感を測るような生活へといざなわれています。

その幸福感は、この世の価値基準のレベルの中で、上にあるか、下にあるか、そのようにして、他人と競り比べて、幸福をはかるようにさせられるのです。もっと幸福になりたい、あの人より幸福になりたいと、幸福を競い始めるわけです。そうして、幸福のアリ地獄の中に、落ち込んで行くのです。

そのような世界における幸福とは、いつでも貧しさの対極に据えられます。貧しさの正反対の状況、状態が幸福なのです。つまり、豊かさこそが幸福なのです。ですから、貧しいから幸いであるという言葉は、常識を破るのです。現代ばかりではなかったはずです。人間は、いつでもこの主イエスの説教に躓くのです。ストンと心に入りません。そうではないでしょうか。そうではなかったのではないでしょうか。最初に読んで、驚いた言葉でしょう。そしてそれは当然のことです。

 悔い改めて神と共に生きる人、それが貧しく生きる人です。神なくして、自分の人生、生活、すべてが成り立たない人です。イエスさまが自分の一切になる。神が自分の人生のすべてとなる。それが心の貧しさに生きることです。心貧しく生きる、それは悔い改めに生きる人です。そしてその人、すなわち、私どもはすでに天国の中に生き始めているのです。こんなに幸せな人は、いないのです。究極の幸福です。完全な幸福が私どものものとして与えられたのです。信仰とは、救いの恵みとは、これほどまでに究極で、徹底したものなのです。

 最後に、山上の説教の中には、一言も十字架と復活が語られておりません。ですから、もしかすると、ただの人生の教訓、優れた倫理道徳のように理解されてしまうことが多かったと思います。しかし、ここで主イエス・キリストがこのような説教をなされたということは、私どもに天国を開き、そこに入ることを約束し、保証されたということは、他ならない主イエス・キリストがご自身の生命をそのためにお捨てになられる、その覚悟、その愛に裏打ちされて、初めて語ることのできた説教なのであります。十字架の死と復活がなければ、この説教はまったく空虚であり、まったく実を結ぶことはありえません。主の十字架の決意、それなしに、この幸いの説教は成り立たないのです。

 そうであれば、私どもに与えられた天国の幸い、救いの幸いは今や、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現され、確立されました。もはやこの幸いが崩れてしまったり、絵に書いた餅のようになったりすることは決してありません。この宣言は、やがて死んでよみがえられる主の言葉なのです。十字架と復活の主の言葉なのです。

実に、主イエス・キリストが、その全存在をかけて、十字架に身代りに死んでくださった故に、私どもにこの幸いを造り出してくださったのです。私どもを愛し、お救いくださった主イエスは仰っいます。「あなたがた私の弟子たちよ、良かったね、私の生命の交わりの中に入れて本当に幸いだね、これ以上、すばらしいことはない。私はそれを心の底から喜んでいる。そして、わたしの喜びをあなたにも与えよう。私の喜びを喜びなさい、大いに喜びなさい。あなた方は幸いである。」

 私共は今日、この主イエス・キリストが真ん中におられる教会の中で、この幸いの宣言を受けたのです。決して、私共の努力によって幸いを獲得する必要はありませんし、できません。自分で獲得したような幸いはいつか壊れ、失われるものです。そのような幸福は、結局は、私共を裏切ります。幸福が、やがて不幸をもたらすこともあるのです。しかし、ここで主が教えられたのは、私共には既に真の幸福が与えられているという事実であります。真の幸福とは、主イエス・キリストが造ってくださり、与えてくださるものなのであります。主が造って下さるこの幸いであるゆえに壊れることはありません。この幸いは、地上の何者によっても壊されたり、奪われたりすることはないのであります。

 私共は、幸せになりなさいと命じられているのではないのです。なぜなら、幸せはイエス・キリストが十字架と復活によって獲得し、造りだし、私共に与えられるものだからであります。しかしであります。私共に確実に求められていることが、ただ一つだけあることに注意してください。それは何でしょうか。12節であります。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」私共がイエス・キリストの弟子とされたこと、救われたこと、天国が与えられたこと、これを喜ぶことは私共に命じられています。

 ウエストミンスター小教理問答の問い一を思い出す方もおられるかもしれません。人生の目的とは何ですか。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」神を喜ぶことが、神の栄光を現し、讃えること、人生の最高の主要な目的なのであります。神を喜ぶことは、自分が天の国を与えられ、神の子とされ、愛され、祝福されている者と自分を喜ぶことと一つの事です。そのために、教会で、主の言葉を聴きましょう。今朝、私どもはまさに、あの弟子たちと同じことをしています。主が招いてなして下さっているのです。私どもは今、主イエスの膝元に座り込んでいます。そこで、主の生命の言葉、尊いお命がかかったみ言葉を浴びています。あなた方は、幸福であると、宣言を、アーメンと声を大きくして受け入れ、神に賛美と感謝を表したいし、あらわすのです。それが、讃美であり、信仰告白です。そして、今週もまた、主がその生命をかけて作りだし、与えてくださった幸いを心から信じ、これに深く気づき、偽物の幸福に騙されず、これを退け、天国の幸いをますます深く味わい喜んでまいりましょう。

 祈祷
 あなたがたは幸いであると、そのようにご覧くださり、呼びかけて下さいました。主イエス・キリストの父なる御神。しばしば、自分自身をそのような幸いな者と見ることができず、かえって、あなたに呟くような私共であります。主イエス・キリストよ、あなたは「幸いになるように努力しなさい」ではなく、自ら十字架と復活によって、天の国の幸いを私共信じる者にお与えくださいました。心から感謝申し上げます。どうぞ、「これを喜べ」と、命じてくださるあなたの勧めをしっかりと聴かせて下さい。神を喜び、自分の救いの確かさを喜び、そのようにして幸いを噛みしめながら、教会に仕え、愛の労苦を担い、望みに生きることができますよう。               アーメン。