過去の投稿2009年3月26日

3月22日

★  先週の日曜学校教師会は、主に、新年度の分級の体制を確定するときとして用いられました。その際、学びのときを持った後、直子校長より、また、「教会学校教案誌」による「日曜学校像」(これは、基本的には、編集長としてのわたしの責任で【本誌の編集方針】として記され、毎年春号に掲載されているものです。)にも基づいて、これまでの「日曜学校」という呼称を改め、「子どもの教会」としたいと提案されました。

☆  「日曜学校」という呼称の始まりは、日曜学校運動とともに始まりました。それは、有名なロバート・レイクスという篤信のキリスト者実業家(印刷業者)が、1780年、英国における産業革命の進展のもと、幼い子供たちが労働者として駆り出されている現実を見て、自費で教師を雇い、読み書きを教え、あわせて聖書を教えることに端を発したものです。つまり、日曜学校は、教会の内部から始まったものではなく、一人の信徒の運動によって始まったのです。しかし、これが、教会に受け止められ、瞬く間に世界中に広まって行きました。教派を越えて、この日曜学校運動が採用され、国際的組織にまでなります。しかし、その一方で、1800年にわたる教会教育の伝統に根ざすという方向性は、見失われてまいりました。

★  日本のキリスト教会の歴史は、そのまま日曜学校の歴史でもありました。日本の伝道の担い手、働き場として日曜学校が用いられました。日本社会に果たした文化的役割は、どれほど大きなものであったか、これは、明らか過ぎることであると思います。今なお、教会を訪ねる新来者の中には、昔、日曜学校に行ったことがあるとおっしゃる方がおられます。今日のキリスト教会は、先輩たちの伝道の「遺産」を食べて生き延びていると言うと言いすぎかもしれませんが、その一面を否定できないと考えます。

☆  しかし、これは光の面ですが、他方で、影の面もあります。それは、一時期と言えども、国策に迎合し、契約の子たち、地域の子たちをして、戦争遂行の道具として育てることに加担した罪です。教会じしんがまったくその圧力に屈してしまったのですから、必然でもありました。しかしもともと、日曜学校を社会におけるキリスト教の勢力をあらわすための道具、機関とすることを期待し、目指したものである限り、その罠に陥ることは、今から見れば、容易に悟れることでもあります。それが、日曜学校の恐るべき罪でした。

★  戦後、しばらくして、日本の教会は、戦争協力の罪を自覚し始めます。日本基督教団の総会議長名で「戦争責任の告白」が出されました。(1967年)その後、特に2000年に、諸教派から自らの教団の戦争責任を謝罪する声明文が多く公にされます。しかし、そこで日曜学校運動における戦争責任を問い、表明することは寡聞にして聞きません。一昨年、日本キリスト教協議会の教育部から出たDVDを視聴し、そこから小さな講演をしました。(教会学校教案誌第33号収録)自らの責任を自覚する方向がそこにはあらわれていると評価することができますが、なおなお、足りません。つまり、日本キリスト教団もこの教育部の前身である「日本日曜学校協会」(1907年)を、徹底的に総括し、悔い改めて再出発しているわけではないからです。

☆   「教会学校教案誌」はすでに第33号を刊行、8年以上も継続出版しています。その中で、一貫して日曜学校とは何か、どのように教会において子どもたちに教育を施し、教育的伝道を施すかを問うてまいりました。名古屋岩の上教会は、そのような理念をベースにして、営まれているわけです。ただし、私自身、積極的に、教師会でこのことについて徹底して指導してきたことはなかったのではないかとも反省しています。

★  「子どもの教会」これは、日曜学校「運動」との決別を意味するのです。そして、これまでの私どもの実践もまた、教師の中には無意識であったとしても、このような方向性で営まれてきたと思います。新年度、言葉の上でも「日曜学校」を使用せず、「子どもの教会」として使用することによって、徹底して私どもの教師会、そして教会全体でも意識の徹底を図れればと考えます。

☆  「子どもの教会」。こうすれば、何度も「日曜学校をディアコニアの面から取り組む」という私のビジョンもいよいよ皆様に鮮明になるのではと、期待いたします。

★  ただし。「日曜学校」は、先達が生み出した日本社会にすでに根付いている「遺産」でもあります。ですから、対外的にはなお「日曜学校」の名称を捨てることは、躊躇します。また、これまでの私どもの実践がそれによって変わることも、ほとんどないはずです。何故なら、私どもはそのような実践を目指して励んで来たのですから。現代、日本の子どもたち。わたしの時代の困難さをはるかに超える生きにくい時代であると思います。学校でも家庭でも、悩める大人の黒々として空気を知らない間にも吸いながら、息苦しさを覚えている子どもたちを、日曜日だけではなく、なんとか手を差し伸べる子どもの教会、ディアコニア実践の道を・・・。