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「悲しむ人の幸い」

「悲しむ人の幸い」
                       2009年3月29日
招  詞    ヨハネの黙示録 第21章1-4節
テキスト    マタイによる福音書 第5章1~4節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
 

さて、私どもは、今、主イエスが山の上でなされた説教のその最初の部分、幸福の教えを学んでいます。八福の教えと言われています。主イエスは、ここで最初の説教を始めておられます。おそらく満を持しての説教であったかと思います。そうすると、一番大切なことが、最初に語られているのではないかと、予想することはありうることだと思います。そして、それは間違いないことです。私どもは、主イエスの最初の説教がどのような説教であったのか、それを心に刻むことは大切であろうと思います。それが、この「八福の教え」でした。幸いを告げる説教です。幸いなるかな!幸いな人たちよ!と呼びかけられているのは、主イエスにお従いした弟子たちでした。主イエスが、この弟子たちを幸いな人と、これからされるのです。そのような御心なのです。いへ、丁寧に申し馬しょう。やがて幸いな人になるということだけではありません。すでに、この時点で、幸いな人になっているのです。主イエスは、「あなたがた幸いな人たち!」と呼びかけておられるのですから、間違いありません。私どもは、繰り返し、幸いなるかなと主イエスから呼びかけられているわけです。

それだけでも、自分たちが、キリストの弟子とされた私どもの幸いを思います。そして、そうであれば、この幸いにどれほど深く生きるのか、そのことが、私どもの祝福にあふれた課題であるともいえます。絵にかいた餅にしてはならないわけです。

さて、それなら、第二番目に幸いな人たち!と呼びかけられている私どもの姿とは、どのような姿なのでしょうか。主イエスは、宣言なさいました。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」「幸いな人よ。今、悲しんでいる人は!」いったい、なんという言葉でしょうか。我々の常識をまったく寄せ付けないような言葉ではないでしょうか。いったい誰が、いったいどうして、このような言葉を、語れるのでしょうか。

こういうことなら、あり得るかもしれません。無知の場合です。「何故、悲しんでるの。大丈夫、解決の糸口がほら、もうここに見えていますよ。」あるいは、誤解の場合です。「何故、悲しんでいるの。合格番号の見間違いでしょう。」

しかし、たとえば肉親の葬儀の折に、遺族に、このように告げることができるでしょうか。あるいは病や人間関係で苦しんでいる人のところに出かけて行って、「幸いな人すね。今、悲しんでいるあなたは。」このようなことを告げることができるでしょうか。想像もできません。反対に、このようなことを言う人こそ、無知であったり、人間の現実を誤解して見ている能天気な人である場合の方が多いのではないでしょうか。

その意味では、まったくおかしな人が語るのでなければ、いったい誰が語れるかと思う言葉、それが、「悲しんでいる人は幸いです。」ではないでしょうか。しかし、ここで語られたのは、主イエスさまなのです。そして、そのように宣言されたのは、世界でただお一人、イエスさまだけです。

しかし、まさにこの一句の中にこそ、聖書の世界を豊かに開かれる鍵になる、扉になる句であるといえます。ここで言われているのは、この世の常識、世間の考え方ではないのです。これは、まさに主イエスだけが明らかにすることができる、天国の真理なのです。しかもこの真理は他の誰でもなく、主イエスを信じている弟子たちであれば、誰にでも約束され、保証され、あずかることのできる幸いなのです。そして、何よりも慰めなのです。

先日、民主党の党首が、企業や政治団体から政党への献金を全面的に廃止する方針を打ち出したという報道がありました。それを聞いた自民党の派閥の領袖たちが、「あの人からだけは言われたくない」と非難しました。ここで語られる説教、それは、その正反対です。「悲しんでいる人は幸いである。」これは、あの人、あのイエスさまでしか言えない言葉なのです。

有名なイザヤ書第53章3節の中で、預言者イザヤは、やがて来られる救い主、メシアを預言して、こう言いました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。」口語訳では、こうなっています。私のなかでは、こちらの方がしっくり心に刻まれています。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。」
「悲しみの人」です。新改訳聖書もそのように訳しました。確かに旧約にも新約にもこのような表現はここだけです。その意味では、特別の表現でしょう。しかし預言者イザヤは、主イエスが、群衆から軽蔑され、見捨てられるべきことを予告しています。そして病を知っていたとも言います。聖書の中には、主イエスが持病を患っておられたという記事はありません。おそらく激務の耐えるほどの健康な体力、壮健な肉体をお持ちであったと推測できると思います。しかし、病に苦しみ人々の友となって、どれほどの人々の病をいやされたのか、その意味で、病を知っておられたのです。そうであれば、主イエスはそこで御自身も多くの痛みを負われ、彼らの現状をご覧になられて、悲しみを共有なさったことは、簡単に推測できると思います。

つまり、私どもが、まず心に刻みたいのは、「悲しんでいる人」とはどなたであられるのかということです。それが、イエスさまです。しかも、言わば悲しみのチャンピョンなのです。人となられた神の御子イエスさまこそが、人類の中で最も悲しみを悲しまれたその代表者であるのです。主イエスが、「悲しみの人」として、地上を歩まれたお方であることが、このみ言葉の真理を味わうために、どうしてもはずすことはできません。誰よりも悲しんでいる人が、悲しみを味わい始めている私どもに向かって宣言なさったのが、本日の言葉なのです。

さて、そこでこそ私どもは、問わねばなりません。それなら、その主イエスが悲しまれた悲しみとは、一体何であったのか、とうことです。何が、それほどまでに神の御子を悲しませたのかという真実です。

最初に、結論を申します。それは、すべて我々の罪に係わる悲しみであります。すべては、罪の問題です。それなら、罪とは何でしょうか。それは、不信仰のことです。神にそむくことです。悔い改めないことです。生きる方向を変えないことです。神に背を向けて、目に見えるものだけを神にして、偶像にして、それを獲得し、そこに自分が到達することをもって、幸いとする生き方です。そのような間違った目的で生きることを罪と言うのです。神を無視して、自分を中心にして生きるとき、そこで繰り広げられるありとあらゆる人間の営みが、悲しみを帯びるのです。

有名なエルサレムのための主の嘆きを思います。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」エルサレムが何度も神の預言者を殺して、遂には、最後の、決定的な預言者たる御子イエス・キリストご自身をも捨ててしまう。そして、遂に、神に選ばれた祝福の地のエルサレムが神に見捨てられてしまう。その事を、主イエス・キリストは悲しまれました。主の悲しみとは、我々の罪の姿そのものです。我々がやがて神に全く見捨てられる事を、際みまで悲しんでくださる、その悲しみであります。だから、イザヤや、悲しみの人と予告したのです。イエスさまこそが、この世界の現実を直視なさったのです。目を背けなかったのです。それは、罪を犯してしまった人間の、人類のそのあまりの悲惨な姿です。目を背けるどころか、悲惨の真っただ中に降りて下さいました。それは、その人間の悲惨を救うために他なりません。

新約聖書の中に、主イエスさまのお悲しみのお姿を記しているもう一つの忘れがたい記事があります。聖書の節の中でいちばん短いと言われる箇所です。二文字です。ヨハネによる福音書11章35節です。「イエスは涙を流された。」「イエス、涙す。」それは、主が、マリアとマルタの弟ラザロの臨終に立ち会われたときのことです。ここに、死そのものに対する主イエスの憤りと、ご自身がラザロとの死別を悲しむお心が美しく描かれています。

そのとき、マリアが訴えた言葉は、私どもの心を激しく打ちます。そして、同じようにそれは、イエスさまのお心をも激しく打たれたのです。「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

 詳しく語らなくとも、よいと思います。ああ、あのとき、あの苦しみのとき、あのときイエスさまがここに共にいてくださったらなら、助かったはずであろうに。死ななくて済んでのではないか。どうして、イエスさま、どうして主よ、わたしの愛する者があのところで、死ななければならなかったのでしょうか。信じていても、いへ、信じているからこそ、あのときイエスさまが助けてくださったなら・・・。マリヤのあの訴えは、実に素朴ですが、しかし、私どもの心の深いところにあるものを、代弁してくれたような思いにもなるのです。

 御言葉はこう語ります。「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。」

先ほど、主のお悲しみとは、人間の罪に起因するのだと申しました。そして、まさに死こそは、人間の罪の結果です。罪のせいで、人間の中に外から入り込んだ呪なのです。それは、アダムとエバいらい、善悪の知識の木の実をとって食べてしまったことによって、人間に死が入り込んだからです。その意味で、人間にもともとあったものでも、定めでもなかったのです。

その意味で、人間の究極の悲しみである死別の悲しみも、いへ、ありとあらゆる悲しみの根本原因である罪の問題が解決されなければ、私どもの世界に、悲しみの種はつきません。救いもありません。慰めもありません。まことの慰めとは、罪と死の問題の解決、克服以外には、私どもにもたらされないのです。単に、人間の知恵で太刀打ちしたり、考え方を変えたり、考えることそのもの、見つめることそのものから逃げたり、言わば人間的な処方箋で、解決させることはできないのです。

実に、天国がなければ、神が共にいてくださる世界、死も罪もない、命と光の世界がなければ、悲しみは癒されず、慰められることもなく、残るのです。 
しかし、もしも天国が開かれれば、もしも天国が保証されれば、悲しみは慰められます。決定的に解決されます。天国とは、主イエスがいつも共にいて下さることです。イエスさまがいっしょにいてくだされば、私どもの悲しみは、もはや悲しみで終わらないのです。そこに慰めがあるのです。ヨハネの黙示録には、こうあります。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」そのよう世界、天国が実現されなければ、悲しみが完全に慰められることはありえないのです。

今、キリスト教会の暦、教会歴と申しますが、受難節を迎えています。教会歴を採用する教会では、復活を祝う46日前から、私どものために十字架につけらられた主イエスのお苦しみを思い起こす時として守られます。その時にやはり、読まれるのは、主イエスがゲツセマネの園で祈られたそのお姿です。主イエスは、弟子たちにその心を打ち明けてこう言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」悲しみがあまりに強く、あまりに激しいとき、生きる力も奪い取られるほどになるでしょう。主イエスは、ゲツセマネにおいて、罪を憎む父なる神からの怒りとして、刑罰としての十字架の死を覚悟なさいました。しかし、実際に愛する父の怒りをお受けにならなければならないことは、御子にとって、どれほどの悲しみであったことか。私共には決してはかり知ることの出来ないほどの悲しみであったと思います。

しかし、主イエス・キリストはこの悲しみ、私共の罪が強いてしまった、この悲しみを真正面から味わわれたのであります。何故なら、それ以外に、罪の支払う報酬としての刑罰としての死とその苦しみ、悲しみを克服し、それを慰める方法がないことをご存じであったからであります。主イエス・キリストは、私共の為に死の悲しみ、死そのものを放っておかれないのであります。それは、罪がもたらしたものだからであります。本来、あってはならないものだからであります。だからこそ、主は十字架への道を真っ直ぐに進み行かれたのであります。つまり、死を死んで、本物の死をご自身が決定的に死なれて、その後、復活されることによってその死の鎖、死の力を打ち破り、死を内側から滅ぼしてしまう事であります。そのようにして、主が、死んで復活されたことによって、罪を悲しむその悲しみはそのままではなくなったのであります。その悲しみの向こうに、復活が約束されたのであります。悲しみの原因、悲しみの根源自体を克服してしまわれたのであります。主イエスが、罪がもたらす悲しみを私どもに代わって、悲しみ抜いてくださり、神の刑罰としての死を完全に死んでくださり、その上で、完全に復活されたからであります。

主イエス・キリストこそ、悲しみの人なのです。しかもご自分の悲しみを悲しまれたのではまったくありません。私どもの悲しみの現実を、しかもその悲しみに無頓着で、悲しむこともない私どもの代わりに悲しんでおられるのです。主イエスは、今なお、我々の罪と、その最後を思って、嘆いておられます。

しかし、最も大切なことがあります。それは、イエスさまの嘆き、その悲しみは、望みのない悲しみでは決してないことをです。主は十字架で私共の罪を贖い、赦しの道を切り開き、復活によって、神の子となる特権を与える権能を獲得なさったからです。そしてそのことは、同時に、もしも、主イエスが悲しみ、嘆いてくださった私共のための悲しみや嘆きを、もしも、私どもの自身のものとするならば、その時には、主イエスの十字架と復活の勝利は、私共のものとされるのです。そのようにして、主イエスの悲しみを自分の悲しみとするなら、そのようにして悲しむべき悲しみを本当に悲しむのなら、私共はそこで、ただちにイエスさまの十字架のおかげで、罪が赦され、神の子とされ、永遠の生命を与えられ、勝利者として生きれるのです。

だからこそ、主イエス・キリストは「悲しむ人々は、幸いである。」と仰ったのです。幸いには、明確な理由があるということです。何故なら、「その人たちは慰められる」からです。
この「慰め」という言葉には、「傍らに呼び寄せる」という意味があります。つまり、この慰めとは、この言葉を語られた主イエス・キリストの傍らに呼び寄せられることによって与えられる慰めなのであります。主イエス・キリストが共にいてくださる、これこそ、私どもの真の慰めです。自分の罪、神から離れ、神を信じない罪、神に背く罪を悲しむ人、自分の不信仰、自分自身の信仰のいい加減さ、そのような罪深き自分自身を悲しんでいる人、言い換えれば、悔い改めの心を呼び覚まされている人こそ、主が共にいてくださるのです。だからこそ、幸いなのです。そして、その悲しみは、十字架と復活の勝利に結び付けられる接点になるからです。そこでこそ、主イエス・キリスト御自身にぴたりと重ね合わせられるのです。そして、罪が赦され、罪に打ち勝つ生命の力さへ与えていただけるのです。

あのマリヤの訴えは、斥けられませんでした。深く慰められました。しかしだからこそ、そこでこうお考えになられる方もおられるかもしれません。「それは、マリヤは、良い。ラザロは蘇生させていただいた。しかし、わたしの愛する者は、そうしていただけなかった。」確かにその通りです。しかし、ラザロは、その後どうなったのでしょうか。いつまでも生きていたわけではないのです。しかし、ラザロが死んでしまったとしても、もはや、マリヤの涙は、あのときの涙とはまた違っていたとわたしは確信します。つまり、マリアはこう考えることができたからです。「ラザロは、主とともにある。天国にいる。天国で愛するイエス、そしてラザロを誰よりも愛して下さったイエスさまと共にいることが許されている。」彼女は、そこにこそ、まことの慰めを見出すことができたとおもいます。

さて最後になります。これまで、この悲しみとは自分の罪を巡って悲しむ悲しみなのだと学んでまいりました。ただし、もしかすると、ここで、皆さんの中に、このような思いを持つ方もおられるかもしれないと思います。「今、わたしが悲しんでいるのは、そのような霊的な、信仰的な悲しみではありません。私の悲しみとは、自分の願いが適わず、自分の祈りがかなえられていないことです。それは、自分を中心に回っている悲しみ、自己中心的な悲しみを悲しんでいるに過ぎないのではないかと思います。そのような悲しみは、悲しんではならないのでしょうか。悲しむべきではないのでしょうか・・。」

確かに、そのように反省することは、ふさわしいことです。しかし、分かっていても、実際の悲しみは、否定しようがありません。消せません。もしも、「この悲しみは、神の御心にかなった信仰的な悲しみだと思うから、おおっぴらに悲しめる」あるいは反対に、「この悲しみは、神さまとは関係ないから、悲しんではならない・・・。」いかがでしょう。私共は、実際に、そのようなことは、可能でしょうか。悲しみを、ひとつ一つ分析して、悲しむことはあるのでしょうか。そうではないでしょう。

私どもは、どんなことでも悲しみを、取捨選択できません。しかし、そこで大切なことがあります。いかなる悲しみも、それを、イエスさまのところに持ち運ぶことです。イエスさまに打ち明けることです。そこから、逃げださずに、打ち消さずに、イエスさまにすがることです。そこで、主イエスの慰めを受けるのです。受けられるのです。

どうぞ、違う慰めを求めるのは、やめましょう。解決にならないからです。問題の先送りでしかありません。さらに、おそろしいのは、「どうせ、人生とは、自分の人生とは、こんなもんさ」と、自分の悲しみに冷淡になることです。その恐ろしい危険性は、放っておくと、隣人の悲しみにも冷淡になることです。人の悲しみにも冷淡になることは、危険なことです。信仰者の幸いとは、イエスさまの前に、神の御顔の前に涙を流せることです。また、イエスさまのように「ああ、エルサレム、エルサレム」とこの世界の悲惨を悲しむことができるようになること、そのように導かれることです。そして、そこで、主イエスと深く出会うのです。主イエスと深く結ばれるのです。そして、主イエスから、個人的に語りかけられるからです。「悲しむあなたは、幸いです。わたしは、今、あなたと共にいるではないか。わたしの慰めがもう、始まっているではないか。」だから、悲しめる。泣けるのです。

私どもには、しなければならないこと、いへ、することが赦されている特権があります。それはすべての事を、主イエス・キリストに結び付けて、主と共に生きる事であります。私どもの人生のありとあらゆる問題、進学、就職、結婚の問題、そして家庭の問題、子育ての問題、自分の健康の問題、そこから生じるありとあらゆる悲しみを、主イエス・キリストと共に、主イエス・キリストの中で悲しむことです。人となられた主はすべてのキリスト者の悲しみに寄り添ってくださるからです。その時には、イエス・キリストの慰めが、その悲しみを慰め、罪に対しては赦しの恵み、罪の力からは復活の力による勝利を与えられるのであります。

祈祷
悲しむ人々は幸いであると告げてくださる主イエス・キリストよ。私共は、真に悲しむべき悲しみを悲しまずに、むしろ、この世的な悲しみの中で、右往左往しています。しかも、その悲しみすら、主イエスさまに持ち運ばずに、違う解決を求めようとすらします。どうぞ、あなたからの慰め、主イエスの慰めを味あわせて下さい。それを深く経験させてください。そのときこそ、私どもは、まことの慰めを経験します。悲しみが、あなたの御手の中で幸福へと変化するのです。その悲しみが慰められ、さらには、悲しむ者を慰めることすらできるような、祝福の器に変えられます。どうぞ、罪を悲しみ、そして、あなたをすぐ隣に経験し、うな垂れてしまうのではなく、強く生きれるように導き返してください。アーメン。