過去の投稿2009年4月23日

4月12日

☆  実に、キリストは甦られました。実に、キリストは死をもって死を滅ぼし、私どもに永遠の命を与えて下さいました。ハレルヤ!主を讃美します。栄光は、命の主、私どもの創造者なる神にのみありますように。

★   「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」              ルカ福音書第24章1節-12節

☆   主イエスのご復活の知らせを最初に受けたのは、女性たちでした。女性の弟子たちは、人類史上もっとも深い悲しみを、何よりも聖なる悲しみを悲しみぬきながら、しかし、一刻も早く、十字架の刑死を遂げられたイエスさまのご遺体を葬ろうとして、安息日の夜明けを待って、つまり日曜日の早朝、墓を目指して駆けつけました。彼女たちの悲しみは、決して癒されず、その悲しみを抱えながら、もはや死んで行く以外にないと思ったことでしょう。しかし、主イエスは、八福の教えの中で、すでに宣言され、約束なさっておられたのです。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書第5章4節)ですから、まさに彼女たちこそ、真の幸いを受け、慰めを経験することになるのです。主イエスとの永遠の別れを意味する死。しかし、父なる神は、人となられた御子なる神を死者たちの中にとどめ置かれません。罪人たちのための身代りの死、贖いの死を完全に成し遂げられた御子イエスさまを、ご復活させてくださり、十字架の死が私どもの罪を赦すための死、救いの成就であることをお示しになられたのです。神の御心にそった悲しみは、まさに慰めを受けることの最高実例となったのが、主イエスのご復活により慰めを受けた彼女たちの経験でした。

★   「でんでんむしの悲しみ」という新美南吉の詩があります。先週、朝日新聞などでも美智子皇后にかんする記事のなかで紹介されました。かつて伝道説教でも取り上げました。ひとりのでんでんむしが、悲しみで死ぬばかり。しかし、友達を訪ねてみると、皆が悲しみを背中の殻いっぱいに詰めて生きていることをしります。やがて、自分の悲しみを嘆くのをやめたというお話です。仏教の教えの真髄を見事に表していると考えられます。しかし、キリスト教は違います。主イエスは、真の悲しみ、おそるべき悲しみ、究極の悲しみを御自身が全人類を代表してたったお一人で、悲しまれました。そこから逃げたり、諦めたりなさいませんでした。この恐ろしい悲しみ=永遠の愛の交わりをもっておられる父なる神から捨てられる悲しみ、父なる神から罪の刑罰としての永遠の滅びとしての死を死ぬ悲しみ=を悲しまれることによって、私たちの恐るべき悲しみを打破してくださったのです。さらには、「小さな悲しみ」(小さいと言っても、それで生きていけないほどに悲しいこともあります。他人が、自分の悲しみに大小を付けることは許されませんし、できません。)をも圧倒的な慰めで慰めてくださったのです。この慰めは、主イエス・キリストがその悲しみと共にいて下さること、そして、私どもを立ち上がらせる巨大な命の力であるのです。今朝は、復活祭。教会の出発の日となった出来事を祝う日。真の慰めを受ける日です。小さな悲しみをぜんぶ、今朝、イエスさまのところに持ち運びましょう。そして、あの女性たちのように、本物の、圧倒的な慰めを受けて、立ち上がりましょう。

☆   先週は、中部中会定期会の会場である恵那教会の牧師館に宿泊させていただきました。5人の牧師たちがお世話になりました。最初は、会堂で泊めていただくのかと思いました。何部屋あるのか分からないほど、大きく、内装も新しくされ、素敵な住まいでした。○姉は、オルガンの奉仕もされ、最初はわたしの方が、ドキドキしていましたが、練習の成果が現れ、立派なものでした。今夏、雀のお宿でのキャンプのとき、立ち寄らせて頂ければと思います。日本キリスト改革派教会の中でも、一番広い土地とのうわさもあるほど、会堂もメインストリートにあり、これからの伝道に大きな希望があると、思いました。

★  渡辺信夫先生をお迎えしての15周年記念礼拝式、講演会、いよいよ間近です。全員が出席して、全身を耳にしてと思います。いささか、人間崇拝的な表現ですが、渡辺先生を「見る」(交わる)だけでも、「ホンモノ」との出会いを経験できるでしょう。