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「大きな幸いに生きようーキリスト復活の故に-」

「大きな幸いに生きようーキリスト復活の故に-」
                   2009年4月12日(復活祭)

ルカによる福音書第24章1~12節
「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」

マタイによる福音書 第5章1~11節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

実に、キリストは死者の中からお甦りになられました!本日、世界中でキリストの復活を祝う主の日の礼拝式が捧げられています。何よりも、ここに神が呼び集めて下さいましたお一人おひとりの上に、神の民の上に復活のキリストの命、永遠の命の祝福と神の平和が豊かに注がれますように。

そもそも、キリストの教会の誕生も、そして教会が日曜日に礼拝を捧げるのも、キリストの復活のゆえです。主イエス・キリストが日曜日の早朝、私どもの罪を償うために十字架について、血を流して死んでくださった日から三日目に墓を打ち破って、お甦りになられたからです。キリストのご復活こそ、教会の存在とその信仰の根源なのです。もし、キリストがお甦りになられなかったのなら、キリスト者の信仰は空虚です。無意味です。しかし、事実、2000年前、主イエスの墓は空っぽになっていたのです。私どもに永遠の命、天国の命、復活の約束と希望とが与えられたのです。復活を祝う礼拝式ですが、説教の聖書の箇所は、いつものように、主イエスの山上の説教の中の八つの幸福の教えを学びます。

さて、主イエスが語られた説教の中心主題は、「天国」でした。第4章17節にあるように「悔い改めよ。天の国は近づいた(のだから)。」これが、主イエスがなさった説教の背骨、中核なのです。すべては、この天国をもたらすために説教し、行動なさったのです。天国とは、神さまが共にいてくださる場所のことです。神さまのご支配がある領域のことです。一般には、天国とは、-キリスト教の知識が影響を及ぼしているのですが-、人間が死んだ後に行く場所だと考えられています。雲の上のどこかというイメージでしょう。しかし、それでは説明がまったく不十分なのです。天国は、イエスさまが来られたことによって近づきました。つまり、この地上に天国が突入した、飛びこんできた、この地上に入り込んでいるというわけです。何故かと言えば、天国の主、神の御子でいらっしゃるイエスさまご本人が、2000年前にこの地上に来られたからです。天国とは、死んだ後に行くところだと思う方々は、「それなら、死ぬ前に教会にお世話になります。」と仰います。それは、まさに早とちりです。誤解です。天国とは、すでに今、ここに始まっているものなのです。

天国の主でいらっしゃるお方が、この地上に来られ、救いのお働きを始めるにあたって、最初に選ばれたお弟子さんたちに説教したのが、この八つの「幸福」の教えでした。このことは、私どもがしっかりと心に刻んでおくべきことだと思います。そして、ここでも天国が中心テーマになっていることが分かります。3節で、最初に宣言された祝福とは、こうでした。「天の国はその人たちのものである。」そして、最後の8番目の宣言の10節にも「天の国はその人たちのものである。」と祝福を告げられました。ここでの八つの幸福の教えは、天国の祝福に縁どられているわけです。言わば、天国という額縁の中に、八つの幸福が描き出されているわけです。ということは、天国が全体の大きな主題ではありますが、ここでは、その天国の幸いが主題になっていると言っても良いわけです。主イエスが、何度も「あなたがたは幸福です。」と弟子たちに呼びかけていらっしゃるそのお姿の中に、本当にキリスト者、キリストの弟子たちとは幸せ者なのであることが、こんこんと解き明かされているわけです。

今朝も、CBCのラジオ番組、「キリストへの時間」が放送されました。わたしもその委員で、この春まで書記を長くしておりました。お聞きになられた方は、ご存じかと思いますが、この番組の前後にも、いくつかの宗教番組が放送されています。そこでは、どうすれば心穏やかに暮らせるのか・・・、つまり、生活の知恵や幸福になる道が多く説かれていることに気づきます。なるほど書店に行けば、宗教とは違いますが、幸せになる方法を説く「自己啓発本」などがずらりと並んでいます。それは、人間が求めてやまないものが、幸福だからでしょう。最近、緑区に「幸福の科学」という新興宗教の施設が建ちました。

「キリストへの時間」も宗教番組の一つなのですが、ところが、「キリスト教を信じたら、この宗教団体に入信したら、こんなにご利益がありますよ。こんなに幸福があたえられますよ。」ということがアッピールされていないわけです。

しかし、同時に繰り返して申します。主イエスは、ここで何度も「あなたがたは幸福です。」と弟子たちに呼びかけておられるのです。つまり、幸福の道がここで第一に、しかも徹底定期に説かれているわけです。確かにあくまでも、どこまでも天国が中心主題です。しかし、この天国が与えられている人たち、ご自身の弟子たちをご覧になられたイエスさまは、心の底から「あなたがたは幸福ですね。」と弟子たちに呼びかけざるを得なかったのです。天国に生きる人の幸いをお告げになりたかったのです。つまり、主イエスを信じ、ついて行くということは、まさに幸福への招待であるということができます。そしてその幸福の本体、実質、本質は、天国なのです。天国にあるものなのです。

私どもの教会の歴史の言わば原点に立っている一人の偉大な教会の改革者がおります。16世紀、スイス・ジュネーブで活躍した神学者、牧師カルバンです。このカルバンが、記した書物の中で、おそらくもっとも親しまれたものの一つに、「ジュネーブ教会信仰問答」があります。その最初のページにこう記されています。問一「人生の主な目的は何ですか。」答え「神を知ることです。」真の神さまを知ること、これこそ、人間の生きる目的そのものなのだと言います。まさに聖書が告げるメッセージに他なりません。問三には、こうあります。「人間の最上の幸福は何ですか。」答え「同じです。神を知ることです。」つまり、神を知ることこそ、人間の最高の幸福でもあるというのです。さらに丁寧に言えば、この幸福を知らない人間は、野の獣の状態よりも不幸なのだとさへ言うのです。

そもそも、人間にとって幸福とは何でしょうか。これこそが、大切で深い問いです。ただし、そこには、一つ大切な前提があると思います。当たり前のことだと思いますが、人間一人ひとりには、それぞれ別の幸福があるということです。何を幸福に考えるのか、一人ひとり、まったくの自由です。ですから決して、人と比べる必要などないのです。ここが間違うと、私どもは大きな過ちを犯して、自分を苦しめ続けるはめになります。

それなら、皆さんは、何を幸福だと考えていますか。こうお尋ねすると、それこそいくつも出てくるのではないでしょうか。たった一つのこととして答えるより、あれとあれとあれと・・・、いくつも数えるのではないかと思うのです。そして、そこで数えているものとは、「目に見えるモノ」、「手で触れるようなモノ」、多くの人が「いいなぁ、うらやましいなぁ」と思うようなものではないでしょうか。確かに、幸福を得るためには、幸福な思いを持つためには、「目に見えるモノ」があって実感できるという面を否定することはできません。それも大切な幸福の条件になるでしょう。そこで我々は、その目に見えるモノを獲得し、増やすことに全力を注ぎ始めます。必死になるのです。ところが、そこに問題があります。その目に見えるモノによって獲得されると考えられる幸福が増えるとき、実は、それがなくなってしまったらどうしようという不安、つまり不幸の種もまた増えて行くという現実です。これは、何と言う皮肉でしょうか。しかし、これこそ我々の現実に他ならないのです。

このような幸福のことを仮に「小さな幸福」と呼んでみたいと思います。さて、この小さな幸福をどんどん増やし、それを拡大したいと願っておられる人が、聖書の信仰、キリスト教信仰に出会ったとしましょう。「ああ、ここにもまた、自分の幸福を増してくれる幸福を見つけた」と考えて、関心を示す方も出てくるかと思います。ところがしかし、主イエスが教え示し、主イエスが与えてくださる幸福とは、そのような数ある幸福の中で、新しい一つの幸福ではありません。なんと、幸福の教えの最後には、「義のために迫害される人々は幸いである。」と記されています。先ほどの幸福を求めている方なら、読み飛ばしていまうか、自分勝手に解釈するかしなければ、耳ざわりな言葉だと思います。

主イエスがここで語られた幸福の教え、それは、もう一つの、新しい「小さな幸福」のことではありません。こう言うことなら言えます。主イエスが、私どもの与えていてくださるのは、一人ひとりのその「小さな幸福」を、まったく新しく、しかもさらにキラキラ輝かせることができるような幸福なのです。それを「大きな幸福」と呼んでみたいと思います。それこそが、「真の幸福」なのです。そしてこの「大きな幸福」こそが、神さまを知ること、信じることなのです。神を知ることと、それは天国を知ること、天国に入ることと一つのことなのです。神を信じ、従うとき、主イエス・キリストと結ばれ、一つとされます。この地上にあって、今ここで、イエスさまと一緒に生きて行けるのです。つまり神さまと共に生きる、それが天国なのです。だから、今、ここで始まっているのです。誰でも、この幸いに生きることができるのです。

ですから主イエスは、このように招かれました。「悔い改めよ。天の国は近づいたのだから」そして、さらにこう招かれます。「あなたの目を天国に向けなさい」それは、生きる方向を変えるということです。天国は、目に見えません。しかしその見えないものに目を注ぐことです。はっきりと発音しましょう。その天国とは、イエスさまのことです。私どもの肉眼には見えませんが、主イエスを仰ぎ見ることです。それは、信じると言い直すことができます。そのときこそ、実に「小さな幸福」ではなく、いつまでもなくならない、揺るぎのない「大きな幸福」が与えられるのです。そして、この真の幸福の中でこそ、私どもが大切に考えていた、必死に追い求めてやまない小さな幸福は、さらに輝きを放ちます。さらには、不幸だと思っていたものまで、キラキラと別の輝きを放ち始めることもあります。あるいは、これまでキラキラ輝いていたと思っていたことが本当は、偽の輝き、不幸であると気づく場合もまたあるのです。

主イエスさまによって与えられる「大きな幸福」は、その人をして、どんな試練や困難にもへこたれず、感謝と喜び、忍耐と希望を持って生き始める力を与えてくださるのです。実に、天国こそは、そして何よりも、天国の主でいらっしゃる私どもの救い主イエスさまこそ、「大きな幸福」の根拠、原因、根源なのです。この天国を、十字架と復活とによって、地上に確実に打ち立て始めて下さったお方が主イエスだからです。

皆様は、経済活動をはかる数値として、「GDP」とか「GNP」とい言う言葉を聞かれたことがおありかと思います。GDPは、国内総生産、GNPは、国民総生産です。日本はGDP、世界第二位です。それなら、「GNH」という言葉はご存じでしょうか。これは、「国民総幸福量」Gross National Happinessの略です。昨年の統計では、日本は第43位です。2006年は、178か国中なんと90位でした。3月末の情報によれば、自殺者は、今年も、11年連続して、3万人を超えたのです。それは、日本という国がどれほど生きにくい国であるのかを示して、明らか過ぎるでしょう。ちなみに、GNH、第一位は、デンマークです。GDPでは下位にある北欧諸国がベストテンの上位を占めています。7位がスイス、8位オランダ 9位カナダそして10位オーストリアと続いて、やっと16位にアメリカが入ります。GDP下位のブータンという国は、常に上位にランクされているのです。つまり、どんどん経済的な繁栄を目指し、つまり、小さな幸福を獲得し、拡大しても、そのためにしのぎを削るようにして努力しても、それで幸福になれるわけではないということです。

主イエスは、いの一番にこう宣言されました。「心の貧しい人々は、幸いである。」これは、今日の「新自由主義」とか、「グローバル社会」など、アメリカ型の経済システム全盛の頃は、無視されていたかもしれません。もはや、時代遅れだと、キリスト者たちもまた、そのように騙されていたかもしれません。しかし、昨年からの世界的な経済システムの破たん、金融恐慌によって、主イエスのこの教えこそ、GNHの考え方の原点であることに気付けないでしょうか。天国はその人のものだからと、主イエスは約束されたのです。天国を得た者こそ、その人だけが、真の幸福、大きな幸福を得ることができるのです。

主イエスは、次に、「悲しむ人々は幸いである。」と続けられました。いったい、そんなことを堂々と主張する宗教はあるのでしょうか。おそらくは、どうしたら悲しみをなくせるのかと、その方法や手段について、それこそ宗教団体どうしが言わば競争を繰り広げている、しのぎを削るようにしているのが現実ではないでしょうか。

ところが、主イエスは、「悲しんでいる人々は、幸いである。」と宣言されました。なぜなら、その人たちは慰められるからだとお約束くださいました。主イエスの慰め、神の慰めをそこでこそ味わうからです。悲しみが主イエスとの絆、出会いの接点になるからです。そして、主イエスによって、主の霊によって慰められる。傍らに引き寄せられ、神が共にいてくださることを味わうのです。つまり、天国を味わうのです。だから、主イエスは、悲しむ人々は幸いだと教えて下さって、約束してくださって、慰めて下さったのです。一つ一つについては、すでに説教しましたし、これからもなお続けてまいります。

しかし今朝、復活祭のこのとき、私どもが確認したいのは、それなら、イエスさまというお方は、いったいどのような方法で、その天国を、天国の幸福を今ここにもたらしてくださったのでしょうか。それこそが、旧約聖書、新約聖書、聖書66巻を貫く最大の聖書のメッセージです。救いの知らせです。それを福音と呼びます。漢字で、幸福の音、幸福の音信、幸せの情報と書きます。マタイによる福音書という書名は、まさにこの福音を明らかにするためにマタイが記した物語に他なりません。

新約聖書が心を込めて、読者に伝えているのは、この福音なのです。キリスト教というのは、イエスの教えが中心、中核にあるものではなく、むしろ、イエスさまというお方御自身とこのお方がなさった行為、行いこそ中心なのです。そこからすべてが始まり、すべての教えの意味と力と真実が加わるのです。どんなによい教えが語られたとしてもそれだけでは、人間は救われません。人は、根本のところで変化しません。

福音の中心、それが、十字架です。十字架とは、何でしょうか。それは、イエスさまを処刑した方法です。主イエスは、ユダヤ人からのねたみを受けて、殺されました。彼らは、イエスさまが民衆の心をとらえて行くことに恐れを覚えていました。自分たちの権威や指導力が、イエスさまの権威と指導力が上がれば上がるほど、低下して行くことに、妬みと危機感を覚えていました。その危機感は、このまま、民衆がイエスを救い主として熱狂的に支持して、ローマ帝国の支配を打ち破るような運動へと発展して行けば、ユダヤの国は、圧倒的な軍事力の前にひねりつぶされることを恐れてのことであったと思います。いずれにしろ、彼らは、何としても、イエスを裁判にかけて殺そうと企て、それを実行したのです。

しかし、それは、ただ単に歴史的な物の見方に過ぎません。福音書が異口同音に証言していることは、これは、人間の企てではなくて、むしろそのご計画は、神の御心に根ざすものであったということです。イエスさま、御子なる神イエスの父でいらっしゃる神は、御子を人間としてこの地上に送られました。それは、人間の神への反抗、不信仰、罪を赦そうとする愛の御心でした。神に背中を向け、み言葉に違反し、御心にそむいている状態を罪と呼びます。そしてそれは、神との交わり、神との正しい関係を失っている状態のことを指します。一言で言えば、天国から追放されている人間の状態のことです。天国に入れない状況のことです。罪を犯し、罪を持っているままの人間は、決して、そのままで天の国に生きること、入ることができません。どうすればよいのでしょうか。その罪が赦されることが必要です。それなら、いったいどうすれば、その罪は赦されるのでしょうか。その方法こそが、十字架なのです。神の御子が、人となられて人の罪を背負われました。罪を犯したことのない完全な人間となるために、御子なる神は、2000年前にイエスとしてこの地上にお生まれくださったのです。そして、罪のないイエスさまが、罪人の私どもの罪の身代りになって、罪の受けるべき刑罰、罪の支払うべき報酬としての神からの刑罰である永遠の滅び、死を死んでくださったのです。そのようにして、罪なきイエスさま御自身の死をもって人間の、人類の罪を滅ぼし、打倒されたのです。十字架は、イエスさまの勝利なのです。しかし、丁寧に申しますと、もしも十字架で終わってしまったら、その死に対する勝利は、完全ではありません。死で終われば、敗北さへ意味するからです。だからこそ、父なる神は、イエスさまの十字架の上での私どもの救いのための死、罪を償う死、私どもを神のものとして贖いとる、買い取るための死として受け入れたことの証拠として、御子を墓の中に捨てておかなかったのです。イエスさまが死んで終わることはありえなかったと言ってもよいでしょう。この甦らされたイエスさまこそ、罪からの救い主、私どもを天国の民、神の子とする救い主なのです。その方法が、十字架とそして復活でした。

主イエス・キリストが復活された後、主イエスさまは天に戻られました。しかし、イエスさまは御自身の代わりにこの地上に救いのお働きを拡大するために、聖霊なる神を送っていて下さいます。そして、その聖霊なる御神は、この地上にキリストの体なる教会を誕生させてくださいました。そして教会は、日曜日のたびに、集まり、礼拝をささげてまいりました。それは、主の日の礼拝式においてこそ、共にいてくださる主イエス・キリストに出会い、主イエス・キリストの恵みにあずかれるからです。天の御国が、私どもために大きく開かれ、今ここで天国と繋がることができているからです。

わたしは、これまでの人間の悲しみの中で、もっとも深くそして美しい悲しみとは、主イエスが殺されてしまったことを嘆き悲しんでいた女性の弟子たちのものではなかったかと思います。受難週の黙想の折に思いました。しかし、その神の御心に添った悲しみは、まさに、慰められることとなりました。父なる神が御子イエスさまを甦らされたからです。実に、この幸福の教えに力があり、権威があり、真実で、確かであるのは、この十字架について、ご復活されたイエスさまが語られた言葉だからです。

今、聖餐の礼典を祝います。ここで約束され、保証され、更新されるのは、「大きな幸福」天国の命の幸福です。この食卓にあずかる人は、今ここで天国の幸福を味わい始め、死んだあとは、天においてこの幸福を完成させていただけます。聖餐の食卓に招かれているのは、すべての人です。しかし、あずかれるのは主イエスを信じ、ついてきた者たち、キリスト者だけです。小さな幸福を得ようとして、かえって、不幸に陥れられる生き方を止めて、本物の幸福、大きな幸福へと飛び込んでいただきたいと心から願います。今朝あずかれない人には、どうぞ、それを志願して頂きたいと心からお招き致します。洗礼を受けることです。この幸福の中で、小さな幸福に敏感に感謝する者となりましょう。偽りの幸福に足元をすくわれないで、真の幸福を追い求めましょう。

祈祷
私どもの罪のために十字架で死なれ、そしてお甦りになられた主イエス・キリストよ、御子を復活させて、私どもに救い主としてお示し下さいました父なる御神。今、わたしどもに天国が開かれ、天国の幸いをここで味わい、生きることを許して下さいましたことを感謝いたします。私どものこの国は、幸福を失っています。小さな幸福を得ようとかえって、みずから不安と恐れの虜になっています。どうぞ、この世界の真ん中で、私どもが大きな幸福に豊かに生きることによって、天国を証させてください。そのような教会として使命を果たさせて下さい。復活の命の望み、天国の希望を今ここで深く味わわせて下さい。