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「義に飢え渇く人の幸い」

「義に飢え渇く人の幸い」
                       2009年4月19日
             マタイによる福音書 第5章1~6節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
 

先週は、復活祭を祝いました。礼拝説教におきましては、いつものように八福の教えを学びましたが、これまでしてまいりましたように、ひとつ一つの言葉を丁寧に解説する方法ではなく、この「八つの幸いを告げる言葉」「八福の教え」全体からのメッセージを学びました。今朝は、これまで通り、ひとつ一つのみ言葉から丁寧に学んでまいります。

今朝与えられているのは、八つの幸福の教えの4番目です。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」を学びます。

これまでの学びのなかで、繰り返して学んだことの一つは、ここに描き出された幸福に生きる人の姿とは、他ならない主イエス・キリスト御自身であられるということです。イエスさまこそ、八福の教えを語られたお方だけではなく、ご自身がこの幸福に生き抜かれたお方、この八つの幸福に生きる人間の側面のすべてを、しかも完璧にお持ちなのです。イエスさまこそ、心貧しく生きたチャンピョンであり、真の悲しみを悲しまれたチャンピョン、柔和な人のチャンピョンなのです。人間の中で、義に飢え渇かれたお方は、主イエス・キリスト御自身に他なりません。

しかし、同時に、主イエス・キリストに救われたキリスト者のことでもあります。イエスさまは、弟子たちを愛と憐みに満ちたまなざしで、御覧になられた、あなたがたは、心貧しい、悲しんでいる、柔和である、そして、義に飢え渇いていると見ておられ、そこで、幸いだと心から宣言なさったのです。幸福を約束されたのです。

しかし、いかがでしょうか。現実の私どもは、毎日の暮らしのなかで、いったいどれほど、義に飢え渇いて生きているだろうかと自問自答してみます。そのときただちに、とても恥ずかしい思いがするのではないでしょうか。これまで主イエスが語られた「貧しい人・悲しんでいる人・柔和な人」であるなら、最初に聴いたとき、まだ少しは、親近感が持てたかもしれません。しかし、今朝の幸福な人のしるしとしての義に飢え渇いている姿は、私どもの日々の暮らしの中で、はるか遠いことのように思うのは私だけでしょうか。

自分を棚に上げてはなりませんが、新聞やテレビで、毎日必ずと言ってよいほど、どこかの会社が、「今後は、さらに法令順守、コンプライアンスを徹底してまいります」とコメントを発表します。一企業に留まりません、役所もそうでしょう。さまざまな分野で、正義、正しさは軽んじられ、権力者が甘い汁を吸いながら、弱い人たちがいよいよ弱くされてしまう、弱さのまま放置されてしまう現実があります。いったい、今の日本の社会に、正義を主イエスがここで表現なさったように飢え渇くほどまでに求めている人は、どれほどいるのか。いや、もしかすると一人もいないのではいか、そんなことまで考えさせられてしまうほど、正義を破る事件が頻発しています。我々が飢え渇いているのは、義ではなく、むしろ、自分の欲望の充足ではないのか。自分の欲望のままに、物質、物を飢え渇くままに生きている、そのような状況なのではないかと思わされてしまうのであります。

先ず、言葉の定義をしておくことが良いかと思います。義とは、まさに聖書をひも解く鍵になる言葉の一つです。その意味では、聖書を知らない方にとっては、今一つ、意味がつかめないかと思います。すでに、正義という言葉を用いています。人間の社会、共に生きている人間お互いの善、正しさ、公平さなどの価値のことと、つまり社会正義、正しさというイメージです。しかし、聖書の中での義とは、それらを包み込むのですが、むしろ、第一のことは、人間の世界、社会正義のことではありません。ここで言われている義、聖書に言われている義とは、神の義、神さまの正しさのことです。それを、一言で言えば、神が神としてのご意思を貫かれることです。神さまの御心、神さまの御存在が、妨げられることなく、貫徹される。徹底される。実現されるということです。それが神の義です。

今朝は、朗読しませんでしたが、ルカによる福音書第18章9節-14節には、一読して忘れがたいたとえ話が記されています。(p144)エルサレム神殿で、ファリサイ派の人と徴税人が、お祈りしているのです。ファリサイ派の人とは、神の律法、神の戒めを守ることを何よりも大切に生きる人の事を意味しています。当時のユダヤの社会の良心のような、言わば正義派、信仰深い善人、良い人の鑑として人々に認められ、何よりも自分自身そのように考えていた人々です。ですから彼は、堂々と神殿の中に入って心の中でこう祈るのです。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』実に、見事な宗教生活であります。立派な生活ぶりであります。少なくとも、その人を見ていた回りの人、一般の人にしてみれば、この人を批判する余地、批判できるような点はなかったかと思います。

ところが、徴税人は違います。徴税人とは、自分の私腹をこやす為に、本来の税金以上を徴収して、ねこばばする人、罪人として見られていました。彼は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
顔を天に上げるのは、イスラエルの人の祈りの姿勢であります。しかし、徴税人は、下を向いて胸を打って祈るのです。「神さま、罪人の私を憐れんでください。」この言葉は、私共にとって、十戒を唱えてその最後に唱える私共の祈りの言葉と同じ言葉であることは、すぐに気づかれると思います。

さて、義についての今朝のみ言葉を深く味わい、学ぶために、どうしてもマタイによる福音書第5章17節-20節をも見ておきたいと思います。主イエスは、ここではっきりと、高らかに宣言されました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」ここに、律法学者、ファリサイ派の人々の義とあります。彼らは、掟の中の最も小さな掟一つも守ろうとしました。そうでなければ、律法学者やファリサイ派を名乗ることはできなかったのです。律法とは神の戒め、つまり完全なる神の掟です。そうであれば、その掟を中途半端に守る、まあまあ守るというような発想は出てきません。われわれなら、100点満点中、60点以上で合格です、というような日本人一般の考え方は、神の御前では全く通用致しません。神の律法は、完全ですから、彼らは完全に守るべきであると考えているです。彼らにとって、律法を守るということは、天の国、神の約束の地を受け継ぐことができるほどに守っているという事を意味します。そのためなら、律法の解釈を変えてしまうことも実際しばしば行われていたのであります。自分の中で、辻褄を合わせたのであります。逆に言いますと、そうでもしなければ、天の国に、完全な義なる神、100点満点の神の国に入ることは考えられなかったのでしょう。

さて、このような彼ら自身の考えを背景にしながら、主イエス・キリストはハッキリと弟子たちに断言なさいました。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」勿論、この言葉は、今日のキリストの弟子であります、私共への言葉でもあるのであります。そうなりますと、私共は、背筋が寒くなるのではないでしょうか。たまらない思いが致します。何故なら、私共はあのファリサイ派の人のように、「わたしは他の人のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。」このようにきっぱりと神に申し上げることが出来ない者であるからです。

しかし、まさにそこが急所であります。福音の世界への窓口がそこにあるのであります。イエス・キリストへの招き、救いへの招きはまさにそこにこそあるのであります。私共が何故今、キリストの弟子として礼拝者、キリスト者として礼拝を捧げているのか、それは、自分が、義人、神の前に正しい人間ではないと気づかせていただいたからに他なりません。他人の中に不正義があるとか社会がどうこうと批判している他ならぬその自分こそ、罪深い人間の一人に他ならない、いへ自分こそ罪人なのだと聖書を読み、教会で主イエス・キリストを知るようになって知らされたのが私共であります。目が開かれはじめ、そしてもちろんそれだけでなく、その自分を罪から救い出すために、罪の赦しを与えるために、神がその独り子を十字架につけられた、その神のはかりしれない愛を知った者たちが私共であります。そして、この主イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰、それを告白する喜びを与えられたのであります。

そうであれば、ファリサイ派にまさる義とは何でしょうか。律法を守るのは100点満点でなければ、意味がないと考えるのがファリサイ派の人々であります。その彼らの上を行く義、彼らに勝る義でなければ、天の国に入れないと言うことは、どうすれば良いのでしょうか。満点以上はとりようがありません。満点以上の点数はないのであります。

そこでこそ、気付くことができます。気付かされます。つまりそれは、ファリサイ派の人々と異なる義ということです。全く違う理解の義と言うことです。その時にこそ思い起こしたいのは、先程のルカによる福音書の主イエス・キリストの譬えであります。ファリサイ派の人々は心の中で祈りました。神は勿論、その心のなかをご覧になっておられます。その心を見つめておられます。彼は、そこで何をしたのでしょうか。感謝したのであります。つまりこう言うことであります。彼は自分の姿を、神に見せて、神に喜ばれている自分であると、自分で満足したのであります。

神は、彼に「あなたは、わたしの前に正しい人間である」と宣言されたのでしょうか。いいえ違います。彼は、神さまからだけ、義とされることができるし、義とされるべきなのにもかかわらず、なんと、すでに自分で自分の事を、正しい人間なのだと決めてしまっているのです。自分こそが、神に義とされている、神に認められていると自分勝手に決めたのです。これが、言わばファリサイ派の彼の義の本質、彼の本当の姿なのであります。この問題の本質にあるのは、何でしょうか。それを掘り下げましょう。ファリサイ派の人々は、もはや生きておられる神を重んじているのではなく、自分を社会的に評価してくれる「掟」を、神にしてしまったということです。これを律法主義と言うのであります。そして、律法主義は、自分で点数をつけるのです。掟は客観的なものですから、点数が、答えがでると思っているのです。自分で自分に点数をつける、そして、自分は神の前に合格点であると自惚れる、それを、私共は自己義認と申します。神さまになりかわってしまって、義とされていると自惚れたのであります。

何故、聖書は、このファリサイ派の罪を徹底して暴露するのでしょうか。それは、今日の我々の問題とまったく同じだからです。人間は、生きておられる神、目に見えない神を信じられない、信じない時、この世の目に見える評価基準が、絶対になるのです。基準になるのです。そこで、その基準が、掟になります。あるいは、メジャーになります。測定基準なのです。これは、先週も学んだ通りです。我々日本人は、幸福の基準を、自分自身、一人一人が決定するのではなく、むしろ社会や世間の目、世間体によって定めようとするのです。そして世間の目とは、結局、自分の目となります。自分で自分を、しかも世間一般の価値観、幸福感で評価するのです。基準でもあるのです。この基準の上か下か、上流か下流か、そのような世相がいよいよ、深まってまいりました。これも一つの律法主義です。神が与えて下さる真の幸福、それは神の義です。神が私どもの罪を認めず、私どもを神の側へと引き寄せて下さる行為、それが神の義です。その義こそが、私どもの幸福の源なのです。しかし、ファリサイ派の人は、それを自分で獲得できると考え、それを実践したのです。だからこそ、彼らは、徴税人を見下し、彼らのようではないことを、神に感謝したのです。言葉を換えれば、神の前に誇って見せたのです。

さて、徴税人は、ファリサイ派の人と正反対です。彼は自分を罪人と認めています。大切なのは、彼はそこで開き直っているのでは決してないことです。胸を叩いて、悲しんでいるのです。まさに、悲しんでいる人々は幸いです、と仰った主の幸いの言葉の通りに、自分自身が神の御前に、義を持っていない憐れな、罪人にしかすぎない事を、悲しんでいるのです。だからこそ、必死になって、真剣になって、神の憐れみを求め、すがっているのです。神にすがりつく以外に、生きれないからです。

このたとえ話の最後に、主イエスは、宣言されました。「神に義とされて家に帰った者は、この罪人である徴税人である。」つまり、義とは、自分で点数を積み上げ、獲得するものではないのです。そのようなことは罪人には全く不可能なのです。私共は決して、自分の能力、自分の心掛け、自分の努力では天の国に入れません。天国は、神によって、与えて頂く以外にあり得ない道なのです。私どもが神から奪い取るように、神から認められるような胸を張った生き方を積み重ねて生きることが、神の義に生きる道ではありません。ファリサイ派の人も、徴税人も、誰もかれも、ただ、胸をたたいて、「主よ、憐れんで下さい。あなたの義は、罪深いわたしを、しかし、罪を悔いて赦しを求めるわたしを、お見捨てにならないことを信じます。」そのように、よりすがること、これが、神の義を信じる私どもの態度です。それを信仰と申します。使徒パウロが、徹底してローマの信徒への手紙で説いたのは、この神の義でした。罪人を赦し、義としてしまう、それが神の義なのです。

当然の事ですが、神は、人間の悩み、苦しみ、痛み、人間の求めが幾つも幾つもあることをご存じであります。しかし、神がどうしてもなさらなければならなかったことは、天の上からそのお力をわずかにたれて、そのようないくつも抱えている我々の悩み苦しみを解決することではありませんでした。それは、神にとってどれほどたやすいことでしょうか。しかし、神が決断されたのは、神の義を貫かれることでした。中途半端な救いではないのです。小さな幸福をいくつもほどこすような、ものではありません。究極の幸福、先週は、大きな幸福と呼びました。その幸福を私どもに与えるために、神の義は貫かれるのです。それは、罪のまったくない御自身の独り子を十字架の上で私どもの身代りに罰することでした。罪の支払う報酬としての神の怒りを、私どもにではなく、愛する御子に受けさせたのです。罪人を救う道はこれ以外にはないからです。しかも、神は、その御子を復活させたのです。こうして、神の義は、徹底的に貫かれ、勝利されたのです。

主イエス・キリストは、仰いました。「義に飢え渇く人々は幸いである、その人達は満たされる。」ここでこそ分かります。主イエス御自身こそ、神の義に飢え渇かれ、これを十字架において成就、実現なさったのです。この御言葉が、私共への祝福の言葉に他ならないのは、ここでこそ分かります。私共は、イエス・キリストが救い主として、おいでくださらなければ生きてゆけるでしょうか。この主が十字架についてそして復活してくださらなければ、人間となってそして天に昇って下さらなければ、救われることができるのでしょうか。神に義とされること、天の国に入れるのでしょうか。決して出来ないのであります。私共はそのままなら、決して天国に入れないどころか、神の怒りを受ける以外にないのであります。

そのような、私共であれば義に飢え渇くのはもはや当然ではないでしょうか。そして、その時の義とはなんでしょうか。それは、律法の掟を守るということによって、獲得する義では決してありません。もともとそのような義などというのは存在しないのであります。もともと、神が律法を与えられたのは、これこれを守れば祝福するという条件ではなかったはずであります。十戒は、救いの神、イスラエルを救い出した神がいつまでも救いの中で生きる自由を与えるための道しるべであったはずであります。それを、いつの頃からか、律法学者、ファリサイ派の人々が律法を神からのテストのように取り違えたのであります。律法を生ける神の愛の言葉としてではなく、自分の力を神とそして人の前で自慢できるテストのように、考え違いをしたのであります。

改めて問います。「義に飢え渇く」、その時の義とは何でしょうか。それは、私共の救い主、主イエス・キリストご自身のことであります。このお方以外に私共罪人に「義」はありません。義と認められる道はありません。つまり、義に飢え渇くとはイエス・キリストに飢え渇くことなのであります。主イエス・キリストを求める、それは、そろそろお腹がすいたといって三度三度の食事を求めるような求めとは全く違います。涸れた谷で鹿が水を求める、そのようなせっぱつまった、生命がかかった求めなのであります。そのように、私共が主イエス・キリストを求めるときには、神はイエス・キリストを私共に救い主としてお与えくださいます。そして、主イエス・キリストは私共を満たしてくださるのであります。溢れさせてくださるのであります。その時の満たしは、ファリサイ派の人々の義に勝る、はるかに勝る、はるかにどころか、まったく異なった完全なもの、異なる義となるのであります。そのようにしてこそ、そのようにしてのみ、あの神殿における徴税人のように、罪人でありながら、神に義として頂けるのであります。そうであればこそ、今私共は、義を求めて生きるのであります。ますます飢え渇いて生きつづけることが出来るのであります。そして、溢れるように、義を満たして頂くことが出来るのであります。自分の力、努力では絶対に入れない、天の国をしかし、イエス・キリストと言うお方が入らせてくださる以上、私共は絶対に天の国を与えられ、神の約束を受け継ぐのであります。これほどまでに確かな事は、地上にはありえません。そのような救いの確かさがキリスト教の確かさなのであります。

最後に、ここでも私共は弁えたいのは、このように、義を飢え渇いて求められたのは、誰でもない主イエス・キリストご自身であったという事であります。受難週において、私どもは、十字架の上で主イエス・キリストが最後に叫ばれた言葉を思い起こしました。「わたしは渇く」と義なる神御自身の主イエスが叫ばれました。「涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」と十字架の死の極みまで神の義が貫かれることを求められたのです。つまり、私どもの救いが実現し、私どもに義が満たされる世界、天国が開かれることを、そのようにして神の正義を求め、神の御心の実現を、命をかけて貫かれたのです。

しかし、そのイエスさまは、自分の義、自分の正義、自分たちのこの世的な欲望、願望を求めた人々に殺されました。しかし、それ以上の力ある歴史的な事実は、父なる神が、このイエスを死人の中から復活させた事実です。つまり、今や、イエスさまの十字架が、私どもの義となる道として確立され、完成されたのです。ですから誰でも、イエスさまを信じるなら、神の義に満たされる道が整ったのです。そうであれば、私どもはますます「涸れた谷に鹿が水を求めるように、わたしの魂は主イエス・キリストを求める。」者となれるのです。なるべきです。教会と共に生き、教会に奉仕する歩みを、自分自身の歩みそのものとする者として造り変えられたのです。そこに生きてよいのです。

そして、最後に、この求めは、ただ私どもの個人的な神さまとの関係の問題に閉じ込めておくことはできません。この神の義を知る者とされたキリスト者は、この義を求めない世の只中で、徹底して神の正義を求める生き方をなすのです。しかもそれを、この現実の社会、生活、暮らしのなかで実践するのです。そこには、当然、社会の不正に敏感になることが求められます。この八福の教えの直後に、地の塩、世の光のことが言われている深い意味を思います。義を求めるキリスト者が、地の腐敗をとどめる塩としての使命があります。義に飢え渇く教会が、世界を照らす光としての役割があります。そのとき、主イエス・キリストの後を従い行く者として、主イエス・キリストの戦いを継承する者としての戦いが生じることも明らかです。しかし、私どもの勝利者イエス・キリストは、真の義を求めない世の直中で、真の義を求め、そして復活されたのです。その勝利の主を仰いで、私共もひるまずに、戦いたいと祈ります。そこで私共は、自分自身を正義の主人公として戦うのでは決してありません。ファリサイ派のように、自惚れて戦うのではなないということです。神に赦された罪人として戦うのであります。そのような私共だからこそ義を満たされる、主イエス・キリストを与えられる、主の救いを満たされるのです。私どもの教会は、この信仰の戦いへと召されていることをいよいよ弁えて、歩み続けるのです。

祈祷
私共の義となるために地上に降りて人となり、しかも神の義を求めて十字架の死に至るまで生き抜かれた主イエス・キリストよ。その主を、私共の義を成就した者として受け入れられた故に墓から復活させてくださいました父なる御神。私共は、主イエス・キリストなしに生きれない罪人です。主を飢え渇いて求める以外に生きる道はありません。しかしそれにもかかわらず、父なる御神、私共は、主とその義に飢え渇くのではなく、自分とその欲望に飢え渇いて、道を踏み外すのです。まことに、罪人の頭です。どうぞ、私共の目を開き、イエス・キリストを求め続けさせ、約束通り、神の義に満たして下さいますように。また、あなたの正義が地上にも明らかにされるために、教会がこの世の不正義を見過ごすことなく、どれほど小さな業にしか過ぎなくとも、これを信仰の戦いとして受け止め、戦うことができますように。アーメン。