過去の投稿2009年5月11日

5月10日

★  今年のゴールデンウイークは、後半は雨模様となりました。また、豚インフルエンザの影響もあり、予定の変更をよぎなくされた方も、少なくなかったかもしれません。わたしは、天候には関係なく、いつものように机の上。仕事をしていました。「レジャー・遊び」は、まさにキリスト教的な行為です。この季節、休暇を存分に楽しむことは、「神を喜ぶ」ことに通じるのです。もしも、机の上で、「楽しんで」仕事をしないのであれば、これこそ、不信仰でしょう。雨を喜んだのは、教会の庭の薔薇や葡萄たちです。最近、毎週、契約の子の身長の伸びに眼をみはらせられていますが、薔薇のつぼみ、葡萄の葉も、「毎日」、ぐんぐん伸びて行きます。薔薇は、いっきに咲きました。

☆  伝道新聞は、ゴールデンウィークの最初に新聞折り込みをしました。そこに、「ハートステーション」の案内を掲載しました。電話が掛ってくるかも・・・という思いで、一週を過ごしましたが、現在のところありません。これは、何を意味しているのか、今、論じることは早計でしょう。伝道新聞を御覧下さって、主日礼拝式に出席してくださる方が起こされることを期待し、祈ります。しかし、直接に声をかけ、はがきや手紙や電話でお誘いすることが、教会の伝道の基本です。

★  来週、再来週は、伝道説教で礼拝を捧げます。来週は、学生たちを意識して説教準備をしたいと考えています。今年の金城学院大学は、「宗教学」の担当で、受講生は少ない事情もあります。また、愛知県立芸術大学の受講生たちにも今週、呼びかけますが、応答は未知です。学生の出席は、大歓迎で、それは決定的な伝道です。継続出席はかなわなくとも、主の日の礼拝式の体験は、彼らの生涯において、どれほど大きな意義を持つか、価値を持つか、はかりしれません。ですから、わたしも、チャンスを無駄にせず、これをつくりだして誘います。しかし・・・、学生たちだけしか来ない伝道礼拝式であってはならないでしょう。

☆  夜の祈祷会で、「主を畏れることは、知恵の初め。」箴言第1章7節から、教会は、「学びの家」であると学びました。知恵をラテン語では、スキエンティア(SCHIENTIAE)と言います。英語のサイエンス(SCIENCE)科学を連想される方もおられると思います。畏れるとは、神を知り、礼拝することです。神礼拝によって、人類は、あらゆる迷信から解放されることができるのです。ユダヤ=キリスト教文明が、今日の諸科学、学問に基礎を与えたのです。キリスト教信仰とは、その意味で徹底的に「知的」です。教会は、その諸集会によって、人間になくてはならない知恵を教授します。しかし、問題は、その後です。学びが本当に身に着くかどうかは、それを自分でも「教える」ところまで行くという点にあります。そこに、私たちの伝道の課題があります。私どもの学びは、自分自身の祝福のための学びであることはもとより、隣人の祝福のためなのです。 それを見失うと正しい熱心が失われ、頭だけ(口だけ)のキリスト者になってしまいます。憐れみを学んだ人は、憐みに生きる人となる。(先週の説教)ここに私どもの恵みにみちた課題、喜ばしい責任があります。