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「心の清い者の幸い」  

「心の清い者の幸い」  
                 2009年5月30日(聖霊降臨祭)
招  詞 使徒言行録第2章1-4節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
テキスト マタイによる福音書 第5章1~6節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

先週までは、伝道月間として3回、主題説教、伝道説教を行いました。本日から、あらためてマタイによる福音書の講解説教に戻ります。今朝は、主イエス・キリストが山の上で説教なさった説教の最初の部分、八つの幸いの教えの第6番目の幸いを学びます。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」心の清い人の幸い、神を見ることができる幸いを学びます。
そしてまた、本日は、降誕祭、復活祭、聖霊降臨祭という教会の三つの大きな祭りの中の聖霊降臨祭を祝う礼拝式としても捧げています。

さて、先週、大学の講義の中で、インドのカルカタで「神の愛の宣教者会」という修道会を起こし、「死に行く人の家」という言わば、ホスピスの草分けのような施設を始めたマザーテレサさんのビデオを学生たちと観ました。80代後半の、つまり最晩年の彼女のドキュメンタリーです。インタビューに答えている彼女は、小さな体で、顔は、しわだらけです。しかし、とても魅力的です。優しさと確信、しなやかな強さを持っています。なによりも笑顔にあふれています。人間の美しさということを考えさせられます。観終われば、誰しもの心に深い動き、感動が与えられると思います。まさに主イエス・キリストとは、どのようなお方であり、主イエスが教えられたこととはいかなることであったのかを見事に証ししています。キリストの模範、典型だと思います。

ただし、そのような深い感動とともに、しばしば、もう一つの反応が起こるのです。「とっても感動した、けれども自分にはまったくできそうもない。少しは見習いたい。けれども、おそらく無理であろう。」これは、もしかすると未信者の方の反応だけではないかもしれません。私どもキリスト者もまt同じような心が動くのではないかと思うのです。「すばらしいキリスト者である、けれども、あの人のような生き方や心にはどうもなれそうにない。なるほど、まさに今朝、聴いたイエスさまの心の清い人の典型だ、だからマザーテレサは、目に見えない神さまを、ありありと見ているのだろう。でも、自分の心は、そうではない。到底あのような純粋さ、清らかさ、美しさを持っていない。だから、神さまをはっきりと見ることもできないのだ、それは、仕方がない。本当に、尊敬するけれど、しかし、あまりにも自分とかけ離れている。」そのような、思いを抱く方も少なくないかと思うのです。

しかし、もしこのような思いをそのままにしているなら、今朝、主イエス・キリストが祝福されたキリスト者の姿は、絵に書いた餅になってしまうのではないでしょうか。

さて、このみ言葉を正しく受け入れるために先ずここでの「清さ」とはいかなるものであるのかを、確かめておきたいと思います。心が清い、心がきれいという言い方があります。さきほどのマザー・テレサさんは、まさに、心がきれいな人の代表と思います。しかし我々が、心が清いというときのイメージは、おそらく品性の問題ではないかと思うのです。人格を問題としていることが多いのではないでしょうか。修養という言葉があります。人格の修養です。純粋という意味があります。英語では、ピュアです。むしろ日本の宗教観、神道の世界では、「清さ」ということが最も重んじられるのではないかと思います。柳田国男という民族学者が、「ハレとケ」ということを言いました。ハレとは、晴れ着などという言葉に残っていますが、日常生活とは違う特別のときのことを指して用いられるようです。ケとは、日常生活で、それが上手くいかないことを汚れと言うようになったとも言われています。そして、カミガミに詣でるときに、水でお清めをする、神社には、清めの水ガメがおいてあります。日常生活のケガレをすすぐ、清めるという意味があるのでしょう。あるいは、禊ぎという言葉があります。最近では、議員が不正を行って、その職を辞任したり、解任される、しかし次の選挙で当選すれば、禊ぎが済んだ、などと言って、犯罪や不正は、なかったことになる、問われないのです。そこにも、日本人にとって、汚れというのは、人間同士の間柄のこと、つまり絶対者なる神さまの前でのことではなく、まあまあ、なあなあ、清濁併せのむとか、澄んだ水には魚が住めないという言葉に典型的に表れている考え方です。

言うまでもなく、聖書の清さとは、まったく違います。ここでの清さとは、純粋という言葉に近いのです。純粋な人というのは、どういう意味を持っているでしょうか。それは、一途になっている状態です。子どもが純粋と言われるのは、一途になれるからです。一つのことに集中すれば、もう一つのことに気が回らない、そこに子どもらしさがあるように思います。集中力は長くは続きませんが、集中すれば、それ以外のことは考えないのです。遊びに純粋です。楽しいことに純粋なわけです。ところが、我々は、ひとつのことをしながら、あれも気になり、これも気になり、心が千路に乱れることがあるわけです。ひとつの勉強や仕事に、集中できない。そこに私どもの課題があります。清いとは、心が二つに分かれていないということなのです。

詩編第86編でダビデがこう歌っています。「主よ、あなたの道を教えて下さい。私はあなたの真の中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心を私にお与えください。」ここに「一筋の心」とありますが、心の清さとは、この一筋の心のことです。詩編第11編にこうあります。「主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」心のまっすぐな人、これが心の清さなのです。ただし、何に向かってという、対象こそがそこで問われます。遊びに純粋、真っ直ぐであっても、心の清い人、清い心の人になることはできません。心が向く対象、方向、それは、神です。神さまです。この神さまに向かって、二心ではない、一つの心で向かうところに、清さがあるのです。私どもは、キリスト者としてまったく神を見なくなるということは、例外的にはありましょうが、基本的には、そうではないはずです。少なくとも、今朝、私どもがこの礼拝式に来ていることは、神さまを忘れてはいないということを意味するでしょう。ただし、一筋の心とは、ただ主の日にここに来ているということでは済まないのです。私どもは、日日の生活のなかで、神と共に、この世の事柄に眼を奪われ、心を奪われるのです。神をすっかり忘れて、日曜日になってハッと思って、教会に駆け付けたという方は、例外ではないか、そう考えます。しかし、問題は、私ども神さまを信じながら、他のものをも信じる、中心に据えるということが、鋭く問われるのです。

さて、聖書が告げる心の清さとは、神社に詣でる人がお気軽に、水でさっと手を洗えば、清まるということではありません。そもそも自分で自分の心を磨いたり、集中力を高めて清くするというように自分の側で作り出せるものではありません。そのことを最も深刻に、真剣に表したのは、おそらくイスラエルの王、ダビデの詩だと思います。彼は、自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバに横恋慕しました。そのために、ウリヤを激戦地の最前衛に駆り出したのです。自分の手でウリヤを殺したわけではありませんが、卑劣極まりありません。バト・シェバを公然と自分のものにしてしまいました。この企ては、家臣にとがめられることもありませんでした。しかし、神の預言者ナタンは違います。彼は、ダビデの罪を指摘し、悔い改めるように促します。そこで、彼は、自分のした罪の恐ろしさに気付いて、悔い改めました。そのとき歌ったと言われるのが、詩篇第51編です。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」

 自分が罪人であることを、心の底から認め、戦いているのです。そして、こう神に祈り求めます。「わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」
「わたしの内に清い心を創造してください。新しく確かな霊を授けてください!」と叫ぶのです。彼は、もはや、自分の決断で、決心で、心を清めてやり直せるなどと思えないのです。そんなことでは、何度も何度も失敗するしかないと考えているのです。「悪かったごめんなさい」そのとき、真剣に反省しても、自分の心が清くない限り、同じ誘惑、さらに強い誘惑がおそったら、また負けてしまう自分を悟ったのです。そして、この問題、この現実は、決してダビデの問題だけではないはずです。私ども全員の、共通の、普遍的な問題、状況なのです。だから、ダビデは、祈り、叫ぶ以外にありません。しかし、そこにこそ、そこにのみ勝利があります。大切なこと、肝心なのは、嘆いて終わることではないのです。嘆くとは、自分の心に嘆くことなのです。汚れた心、二心、一途ではないその心が痛んで、良心が痛んで、嘆くのです。極めて大切なことです。しかし、どれほどふかく嘆いても、それだけなら、解決しません。赦しがありません。立ち上がれません。新しくなれません。そこで、神に嘆くことが必要です。神に赦しを求め、神に新しい心、清い心を造ってくださいと祈ることです。そのとき、ダビデは、神の霊を注がれました。天が開かれて、もう一度、彼は、赦されて、王の務めを担うのです。

清さ、それは、神のご性質です。そもそも、神のものなのです。主イエスは、十字架につく直前に、奴隷のする仕事である、弟子たち一人ひとりの足を洗われました。主イエスは、そんなことはイエスさまにさせるわけにはまいりませんと拒んだ弟子たちに、わたしとかかわりがなくなるのだとおおせになって、足を洗われました。また、こう仰いました。この足を洗ったことで、清められた。それは、決して、あの神社のきよめの水とは違います。

もう一か所、同じ、ヨハネによる福音書第15章、葡萄の木のたとえで、弟子たちにこうも仰せになられました。「わたしの語った言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」
ここでも、清さとは、主イエス・キリストと結ばれること、主イエス・キリストとの関わりにおいて、主イエスによって与えられ、かぶせられ、着せられ、包まれることであることが明らかにされているのです。

主イエスは、山上の説教で、こう宣言し、弟子たちを豊かに祝福されました。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

つまり、あのとき、弟子たちは、こう宣言されたイエスさまを見つめていたのです。見ていたはずです。それなら、イエスさま、主イエス・キリストとはどなたでいらっしゃるのでしょうか。ヨハネによる福音書第14章9節で、主イエスは、こう高らかに宣言なさいました。「私を見た者は、父をも見たのである。」イエスさまを見たということは、父なる神を見たのだ。それは、イエスさまが自らを神と自己紹介しておられることです。イエスさまは、神の御子、独り子でいらっしゃるのです。三位一体の神の第二位格です。イエスさまの父でいらっしゃる神、それは、ダビデが祈り求めた神です。

そうなれば、弟子たちは、見ています。神を目撃しているのです。そのとき、どれほど彼らはその事実に気づいていたかは別にしても、主イエスは、まさに神を見るのだという、人間の究極の幸せを弟子たちに与えておられるのです。ユダヤ人も、ギリシャの哲学者も等しく人間の最高の状態を、神を見ることだとしています。

そうでれあれば、ここにはっきりとした真理があります。神を見るとは、そしてそのような心の清さ、条件と言っても良いでしょう。神を見る条件とは、まさに、イエスさまを仰ぎ見ることなのです。イエスさまを一途に見ることです。イエスさまに心を注ぐことです。純粋になることです。それが、心の清さなのです。

マザー・テレサたちは、毎朝、早朝にミサをあげます。私どもで言えば、礼拝です。彼女は、ひたすらに天を仰ぎ見るのです。そこに主イエスがいらっしゃるからです。そして、天の父なる神は、主イエスの執り成しを受けて、彼女に、彼女たちに、豊かに聖霊を注がれるのです。それが、彼女たちの日中の激しい労働、奉仕を支える力なのです。

そうであれば今私共は何をしているのでしょうか。私共がしているのは、礼拝であります。神を天に仰ぎ見、この礼拝の場に聖霊によって臨在しておられる、主イエス・キリストにまみえているのであります。そこで、今朝、主イエスは、あらためて私どもを祝福していてくださいます。その証拠が、み言葉です。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」これは、今朝、ここにいる一人ひとりに与えられた祝福の宣言です。私どもは、主イエスを礼拝し、神を仰ぎ見ているのです。何故か、なぜそのような究極の幸いを得ているのか、主イエスを見ているからです。主イエスは、天にいらっしゃって、私どもに聖なる霊を注いでいて下さるからです。だからここで天がぽっかりあいて、開いて、天と地とがつながっているのです。

 それが教会の主日礼拝式の恵みであります。聖霊が今朝、ここに注がれているからです。そのとき、何よりも思い起こさせられることがあります。イエスさまのみ業です。なぜ、こんな罪深い、ダビデと同じ罪人である私どもに聖霊が注がれたのか。それは、神がその独り子を、罪のいけにえとして十字架で捧げて下さったからです。私どもの罪を、罪のない、聖いイエスさまがその命をもって償って下さったからです。このイエスさまを信じることによって、イエスさまと繋がって、イエスさまとの関係を与えられて、神の子とされているからです。私どもは、今、イエス・キリストと生命が通い合う交わりの関係与えられているのです。御子なる神イエス・キリストを通して私共は神を父として、仰ぐことが許されます。私の父、私共の父として見ることができるのであります。その父とは、私共が「願う前から、あなた方に必要なものをご存じ」の父でありたもうのであります。

主イエス・キリストはこうも仰っいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は求める者に良いものをくださるに違いない。」(7:7~)
 私共は、主イエス・キリストによって、このような、神を見るのであります。見せられたのであります。主イエス・キリストを信仰の目で見たのであります。主の御言葉を聴いて信じることによって、信仰の目が与えられ、開かれて、この幸いにあずかったのであります。ですから、喜んでいるのであります。大いに喜んでいるのであります。

 主を仰ぎ見る事はまた、主に見られることと一つのことであります。今、私共は礼拝式のこの直中で、神に見られています。私共は神を父として見ることができています。それは、何よりも神ご自身が私共を子、子どもたちとして見ておられると言うことに他ならないのであります。それ以外に、聖なる真の神、天地創造の生ける神を礼拝することなど、罪にまみれた汚れた人間には、かなわないことです。しかし、事実、私どもは今、神の子として見られているのです。ここに、私どもの幸いがあります。祝福に満たされているのです。

私共は、礼拝式の最後に、祭司アロンが告げた祝福を、私どもに与えられる祝福として、喜びにあふれて聴くことができます。「願わくは主があなた方を祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは、主が御顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは主が御顔をあなた方に向け、あなたがたに平安を賜るように。」この祝福は、神が私共に顔を向けてくださることを告げます。私どももまた、神の眼差しを喜んでいるのであります。あのアロンによって告げられた古の神の民にはるかにまさって、力強く、リアルに手ごたえをもって聴き取れます。なぜでしょうか。それは、私どもには、イエス・キリストという救い主が、与えられたからです。旧約聖書の神の民と比べて、どれほどの幸いと祝福にあずかっているかを思います。神の御顔、そのまなざしを、主イエスの眼差し、愛の眼差し、憐れみの眼差しとして知っているのです。

 私どもの礼拝堂には、清めの水桶はありません。しかし、常に、洗礼盤と聖餐卓が設置されています。今朝は、洗礼入会者はおられないのは、寂しいことですが、しかし、キリスト者になって教会員になるとき、私どもは、洗礼を受けたはずです。洗礼の水を注がれたのです。それは、イエスさまと一つに結ばれること、キリストの体と結ばれ、その一部分、その枝とされることを意味しています。そのようにして、今や、私どもは、清められました。そうであれば、今朝、自分が洗礼を受けた恵みの巨大さ、その重さを再確認いたしましょう。私どももまた、最初の弟子たちと同じように今朝、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と祝福を受けていることを信じましょう。そして、そこから出発して、いよいよ、純粋に、一途に、主を見る者としていただきましょう。

ヤコブの手紙の著者は、こう勧めています。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」心が定まらない、それが清くない心なのです。どっちつかずの状態です。私どもは、主イエスによる水の洗いを受け、約束の聖霊を受けたのです。もう、どっちつかずではありません。私どもは主のものなのです。今朝、あらためてこの道へと招かれ、救われたことを感謝いたしましょう。そして、自分の方から、積極的に、神に近づきましょう。主の日を中心にして、火曜日、水曜日の祈祷会を軸にしながら、日日の祈りの生活を確保して、この軸をぶらさずに、軸を定めて、進むのです。そのような、私どもに、神御自身が、いよいよ近づいてくださいます。そして、私どもも心を清められる。すると、いよいよ神が近づいてくださる。そして、いよいよ私どもも神に近づく。そのような信仰の旅路を、今週も継続し、それを一層深めたいのです。

何故、主イエスは、それを求めておられるのでしょうか。それは、来週の主題です。神は、心の清い人を求めておられるのです。マザーテレサは、言いました。世界には、司祭が必要です。清い司祭、カトリックですから神父さんのことです。この神父さんは、信徒を清める、そして世界を清めると彼女は、考えているからです。私は、牧師として、この幸いをもっと味わい、生きなければならない、その責任を思います。皆さんのためにです。そして、皆さんお一人お一人は、それぞれの家庭のためにです。家族のためにです。先週の名古屋地区四教会の集まりは、家族伝道が主題でした。使徒パウロは、コリントの信徒たちにこう書き送りました。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。」洗礼を受けたキリスト者の存在によって家庭が、家族が清められるのです。神の祝福の場所になるからです。地域社会も世界もまた、神を見るキリスト者が必要です。清めるためです。あなたがたは、地の塩、世の光なのだと主イエスが13節で、語られました。キリスト者は、心を清められたからです。

 しかし、現実には、なお尻ごみすることもあります。自分の姿に失望し、証をすることも気が引けることさへあります。キリスト者であることを隠し、黙っていた方が良いのではないかとすら思うのです。しかし、主イエスは、今朝、そのような私どもに御顔を向けていてくださいます。愛をもって、赦しの愛をもって、父なる神としての子に対する期待をもって、御顔の光を照らし、恵みと平和を与えて下さいます。天からの聖霊を注いでおられるのであります。地上にあっては、今将に、聖餐の食卓を整えて、待っていて下さいます。説教の後、主の食卓の礼典にあずかります。大胆に、近付きましょう。悔い改めを新しくし、頂いている幸いと祝福への感謝を込めて、パンと杯に与りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる神よ、私どもに主イエス・キリストを通してあなたを仰ぎ見る幸いをお与えくださいましたことを心から感謝いたします。あなたは今も、御子イエス・キリストを通して、御自身の御顔を私共に向けていてくださいます。そして、愛し、守り、育んでいてくださいます。心から感謝申し上げます。しばしば神を見ながら同時にこの世に向かおうとして、二心になります。清さを失います。どうぞ、そのとき、私どもを速やかに悔い改めへと導いて下さい。そして、もっと熱心に、もっと深く、もっと豊かにあなたを仰ぎ見ることができますように、私共の信仰のまなこをいよいよ、開いて下さい。信仰の心を清めて下さい。一途にあなたを見つめ、一筋の心であなたを仰ぎ見させて下さい。この清さが、自分だけではなく、家族を救いに導き、社会や世界を清める力となり、器となることを思います。私どもにその自覚と責任感とを深く与えて下さい。すべては、ただ聖霊の力、上からの、神さまからの力と恵みによってのみ、なし得ることです。御霊を豊かに注いで下さい。アーメン。