過去の投稿2009年6月27日

「平和を造り出す者の幸い」  

「平和を造り出す者の幸い」  
                 2009年6月7日

テキスト マタイによる福音書 第5章1~6節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

先週、これは大変、珍しいことですが、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」いつものように説教のテキストのみ言葉を心で何度も繰り返して唱えて黙想していました。そこで何と、この御言葉をテレビニュースの中で聴いたのです。その声の主は、バラク・フセイン・オバマ アメリカ大統領でした。サウジアラビアを訪問して、イスラム世界との話し合い、和解を呼び掛けるメッセージのなかで聴いたのです。驚くことに、この演説でオバマ大統領は、イスラム教の聖典であるコーランを引用しました。次に、私たちが旧約聖書と呼ぶユダヤ教の聖典も引用しました。わたしは、心の中で、「さあ、それなら、最後に、新約聖書のどのみ言葉を引用するのだろう」と注目しました。それが、主イエスの山上の説教、八福の教えの第七番目のみ言葉「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」だったのです。彼は言いました。「平和、これこそ神のビジョンである」オバマ大統領のスピーチに、多くの聴衆が立ちあがり、拍手しました。わたしもまた、心のなかで拍手をしました。そして感動しました。

神のビジョン、神が求めておられる目標、それが平和である。これは、まさに正しいことです。聖書全体、旧約聖書と新約聖書がそれを証しています。イスラム教は、旧約聖書を自分たちの聖典の一つとしています。コーランを読みとおしたことはありませんが、イスラムという言葉には、「平和」という意味が込められているそうです。そうであれば、世界三大宗教と言われる旧約聖書を土台とする宗教は、平和を実現するために、これは、矛盾する表現かもしれませんが、お互いに、どうしたら平和を作り出せるのか、どちらが先に平和をつくるために貢献するのか、競い合ってもよいのではないかと思います。いや、競争という言葉はそこでやはりふさわしくないでしょう。お互いに一つの目標に向けて協力すべきです。オバマ大統領のこのメッセージ「神のビジョン、それは平和。」これは、正しいのです。聖書のメッセージです。

今朝、私どもは、神の御子でいらっしゃるイエスさまが宣言された祝福の言葉を、もう一度、噛みしめたいと思います。そして、実際に、このみ言葉を私どもの現実生活に適応して、応用して生きてまいりたいと願います。

かつてイスラエルは、近隣諸国の中で強い国になり平和を求めて、神に自分たちの王を祈り求めました。そこで、初代の王に選ばれたのはサウルでした。二代目の王はダビデとなるのですが、その前に、サウルからの激しい敵意を受け、何度も命を狙われました。その意味で、ダビデ個人にとっても平和に生きる幸いを、骨身に沁みてよく知っていたかと思います。ダビデが歌った詩編の中で、第133篇は、全人類の悲願と言っても良いと思います。「見よ、兄弟が共に座っている、何という恵み、何という喜び。」兄弟が共に座っている、そこには勿論、剣や刀のような武器はありません。憎しみ、妬み、憤りのような心の武器も持っていないのです。そこには、一致があります。平和があります。お互いへの理解、優しさ、思いやり、暖かさがあります。そして、兄弟が座っているのは、エルサレムの神殿なのです。そこで、人々が一つの心になって礼拝を捧げている、これこそ、詩人ダビデの憧れであり、イスラエルの望みなのです。そして、神御自身の希み、神のビジョンなのです。

しかし、現実の世界は、かけ離れています。私どもは今、北朝鮮の核開発、ロケット発射問題を抱えています。21世紀、いよいよイスラエル問題が人類の存亡にかかわる課題として横たわっています。イスラム世界とキリスト教世界との間の和解と平和が、実現しなければなりません。また、アフリカでの内戦の問題があります。血で血を洗うような戦争や紛争が絶えません。国と国との関係は勿論、私どもの小さな社会でも、会社や学校、家庭の中でさへも、平和が支配し、実現する、平和な関係が維持、確立は、実にむつかしいのです。私たちは、人間関係のいざこざで、どれほど、悩み、ストレスを受けていることでしょうか。ですから、平和、それは、救いなのです。

その意味で、もし争いあるところで、両者を和解させ、良い人間関係を築いて平和を造りだす人が現れたなら、その人こそは、歓迎され、感謝されるのではないでしょうか。まさに、主イエス・キリストが仰った通り、「その人たちは神の子と呼ばれる。」のではないでしょうか。逆に言えば、まじめに、真剣に自らを省みる時、私どもはまさにこの点において、罪人であることを徹底的に悟らざるを得ない現実にぶち当たるのです。

しかしそもそも、主イエスの弟子たちのことを考えてみると、彼ら自身もまたお互いの間に真実の平和を築くことに失敗した人々でありました。イエスさまがいらっしゃらないところで、自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論をして、わだかまりをつくったことがあります。これは、キリスト者でない人々のことではなく、私共も同じような弱さをなお克服しえないのではないでしょうか。そうすると、一体、「平和を実現する人」そのような人は、どこにいるのだろうか。一体「神の子と呼ばれるうる人」は、どこにいるのでしょうか。そうすると、そこで私どもは、「ああ、そのような働きを担うには、ふさわしくない」と考え、このみ言葉から逃げ、背中をむけてしまう罪と誘惑があります。

しかし、そのことをなお続けて考えるなら、おそらく気づくことができると思うのです。「ああ、平和をつくりだし、神の子と呼ばれたのは、このように仰った主イエス・キリストご自身のことではないか。主イエス・キリストご本人こそ、この地上に平和を実現し、神の子と呼ばれた人ではないか。」と言うことです。イエスさまは、洗礼をお受けになられたとき、父なる神御自身から、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と宣言されました。イエス・キリストこそ、この幸いを完全に実行なさったお方なのですし、この幸いを完全にお受けになられたのであります。つまり、ここでも、この幸いを与えるお方は、自らこの幸いを実現されたお方なのだということに気づくことができます。

そこで、まず何よりも考えるべきことは、主イエス・キリストが実現された「平和」とは何かです。先程申した通り、我々人間の第一の関心は、地上の事、自分と共に生きている人間との関係、人間と人間との関係についてであります。その関係が良い状態を我々は、平和と呼んでいるのだろうと、思います。ところが、聖書はそう言いません。聖書の言う平和とは、むしろ、人間と人間との関係のことを第一の事としては考えていないのであります。聖書の言葉としての平和とは、私共と神との関係のことなのであります。神と私共との良い関係、それを平和と申します。ですから、この平和は、救いと言い換えても構いません。神との間に平和が与えられている、神との間が平和である人を救われている人、とこう呼ぶのであります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第5章第1節において、このように申します。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導きいれられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」パウロは、ここで平和を、神の栄光にあずかる希望として言い表しております。簡単に申せば、平和とは救いなのであります。神との間に平和を得ることは、救われることなのであります。その平和はキリストのお陰で私共にもたらされたのであります。それこそ、神の御子が主イエスとして人間となられ、十字架にはりつけられ、死なれることによって、私共の罪が支払わねばならない刑罰を身代わってくださったのであります。これが贖いであります。神の独り子イエス・キリストの生命という身代金が支払われることによって、私共は神の子、神の養子としていただいたのであります。それが、神との間に与えられた平和であります。もしもこの贖いの御業がなければ、私共は今なお神の敵であります。神を神とせず、その戒めを破って、自分自身を神のように考えて、自分の思うままに生きることが人間の自由、人間の誇り、人間らしさであると勘違いし、思いと言葉と行いとによって神の怒りをその身に積んでいるのであります。神との戦闘状態にあるのであります。

しかし、今や、私どもは、主イエス・キリストのおかげで、神との間に平和を作り出していただいたのです。私どもは主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと聖霊の絆で結ばれた神の子たちに他なりません。その意味で、主イエスさまが宣言されたこのみ言葉を、真の意味で実現されたのは、他ならない主イエス・キリストご自身であられたことが分かります。

今朝、私共は、この礼拝式の中で何よりも喜びたい事、感謝したいことは、この神との間に平和を与えられている救いの事実です。私共は、今、キリスト・イエスのお陰で、十字架のお陰で、神との平和を受け、神の子とされ、神を父と呼ぶことが許されているのであります。これが、この幸いの言葉を理解する基本、幸いの言葉をまさに幸いな言葉として聴き取る要であります。私どものスタートラインは、すでに神の子とされ、神の平和を与えられているという事実、現実です。

そうであれば、私どもの課題は、この神の平和によって、人間同士の平和を実現することです。そこにキリストの教会の使命、責任、課題があるのです。平和を構築することにおいて貢献しない教会とは、言葉の矛盾とさへ言えます。使徒パウロは、聖書の神を平和の源なる神と呼びました。そして、この平和、神の平和にあずからせるために、教会は存在し、その教会は、平和の福音を宣べ伝えることによってその使命を果たせると言いました。そのために、使徒パウロは、当時の世界中、地中海沿岸を行き廻り、そこからローマに向かい、さらにはるか地の果てイスパニアまで平和の福音をのべ伝えようとしました。教会の土台を据え、教会を形成して行ったのです。

そうなりますと、平和を造り出すために、まず、教会じしんが平和の交わりで結ばれていることが必要となります。平和の福音を証することが教会の責務、使命であれば、教会じしんが平和の関係を堅くしなければならないのは当然です。

ローマの信徒への手紙の最後の章、第16章を学びました。そこでほとんど当時の最初の読者しか知らない人たちの名前が登場します。パウロは、思いだせるだけローマの教会員を思い起こして、「よろしく」とあいさつを告げました。よろしく、よろしくと、あきることなく告げるのでした。それは、ただ人間関係をよくしておこうという思いではありません。「よろしく」とは、あなたの上に神の平和がありますように!という祈りの言葉なのです。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように祈りました。平和の神があなたがた一同とともにおられるようにと祈りました。キリストにある兄弟姉妹が今このとき、平和の内に生かされていることを祈るのです。そこに、平和を築き、実現する志があります。この熱い祈りがあるところに、教会の平和が壊されることはないとの確信があります。

それなら、反対に教会の平和が壊れるのは、どこに原因があるのでしょうか。どうしたら平和を壊せるのでしょうか。昔、聖徳太子は、17条の憲法というものをつくりました。その中で、有名な言葉があります。第一条です。「和をもって尊し」これは、日本人の精神性を決定するような重要な、鍵となることばだろうとおもいます。ここでの和とは、神の平和とはまったく関係がありません。そもそも、そこでは、平和の源なる神は意識されていません。平和の神がいらっしゃらないところでの「和」とは、人間の間の調整のことです。調整能力です。それぞれの自己主張を、制限して、妥協する、それが和の精神です。聖徳太子は、三宝を敬へとも言いました。三宝とは、仏・法・僧つまり仏教です。仏教によって、国を治めようとするわけです。しかし、聖徳太子の仏教は純粋な仏教ではありません。神仏習合です。いろいろな教えを併せ持つわけです。仏教と言う外国の教えは、そのようにして日本化され、日本仏教になって行きました。

しかし、私ども教会は、平和は、真理によってのみ実現することを教えられています。平和は、政治的調整能力によって実現されるものではないのです。神が賜物として、救いとしてご自身の平和を私どもに与えて下さいました。その平和が私ども教会のそして人類の平和の根拠なのですから、このお方を無視したところで、平和は実現できないのです。この主なる神、平和の神を正しく畏れ敬うところで、平和が実現させられて行くのです。

このことは、日本の社会、精神風土の中では、実に、大きな戦いと課題があります。720年の聖徳太子で基盤が据えられたこの歴史を洗い流すような壮大な課題です。ですから、100年、150年でなかなか難しいから妥協しよう、あるいは諦めようとすることは、私どもの怠慢でしょうし、傲慢かもしれません。

しかしそこで問題になるのは、むしろこの国、日本人のことであるよりも私ども自身にあるのです。つまり、他ならない私どももまた、教会を形成するとき、実は、「和をもって尊し」の思想、風潮に屈するのです。聖書は、教会を真理の柱と呼びます。つまり、「真理をもって尊しとする」のが、教会であります。教会は真理の柱、真理の家ですから、真理問題の為にまさに生命をかけるのです。しかし、その真理とはどこまでも、イエス・キリストのことであります。つまり、教会で最も大切なのは、イエス・キリストが真理として、絶対的なお方として、崇められ、服従されているかということであります。キリストへの服従を明らかにしないで、教会は教会であることができません。自分たちの間の平和、教会の平和とは、キリストの意思を皆で重んじる、キリストの御心に皆が服従することであります。教会の歩みを、決定するのは、誰かの意見ではなく、キリストの御心でなければならないのです。

17条の憲法は、言わば、政治を執り行う人たち、役人たちへの規範的精神を明らかにしたものでした。まさに、政治にとって大切なのは、調整能力です。それが、面倒になると、専制主義になります。民主主義がすたれるのです。死ぬのです。国家の間の調整が、面倒になると言うことをきかなければ力づくできかせるまでだと、暴力に訴える、戦争に訴えるのです。その意味では、オバマ大統領の方向性は、私たちにも明るい可能性を抱かせるものでした。

それなら、教会の政治はどうあるべきでしょうか。私どもの教会、日本キリスト改革派教会は、長老主義政治によって形成される教会です。そもそも、日本のプロテスタント諸教会は、教会政治においてあまりにも未熟、幼稚でした。今もなお、日本の教会の最大級の課題は、この教会政治を確立できない点にあります。日本で最も大きな合同教団は、自分たちは、会議によって教会を治めるとしています。それは、あまりにも幼稚と言わなければなりません。この世の政治も会議で、執り行うのです。株式会社もそうです。つまり教会が問われているのは、そこでどのような形式で会議を行うのかが問われるのです。そこで教会の歴史は、教会独自の政治を整えてきたのでした。会議でことを決めるというのは、ほとんど何も言っていないようなものです。さて、少なくとも教会政治を整えている教派や教会、それが監督政治であっても長老政治であっても会衆政治であっても、皆、共通していることがあります。共通すべきことがあります。それは、自分たちの意見の相違を調整することが本来の目的ではなく、神のご意思を問うこと、御心を問うことを第一にするということです。言い換えればキリストの支配が正しく教会に反映されているかどうかということであります。キリストの支配が確立する教会は平和な教会となるのであります。キリストの主権が第一にされる教会こそ、実は最も平和な、心一つにする教会となりうるのであります。聖霊による一致、信仰の一致が与えられ、愛の交わりが築かれるのです。キリストが正しく崇められ、従われている教会こそ、本当に、人間お互いが重んじられ、受け入れられる共同体、人類の憧れを地上において先取りする家がつくられることとなるのであります。

結婚式の時に、朗読される御言葉の一つにコロサイの信徒への手紙 第3章12節~17節があります。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」結婚式において、「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」と読まれる場合、男女がイエス・キリストにあって結婚によって一つに結ばれるというように解釈されると思います。これは、間違いではありません。しかし、この御言葉は、キリスト者の家庭の生活を第一に言っているのではなく、教会のことを言っているのであります。教会の交わり、教会生活のこと主題であります。私共は、キリストの平和にあずからせられるそのために、キリストの御体なる教会に洗礼を通して加えられたのであります。

それなら、そのキリストの平和が肝心要の教会において実現されるために、いったい何をそこでするのか。先程の御言葉はこう続いております。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」教会はお互いに、キリストの言葉を豊かに聴き取り、それを語りあうこと、これこそ、私共の教会形成の中心、中核、柱なのであります。これ以外に、地上に、教会が形成される道はありません。私共改革教会は、平和の家、平和の共同体を建て上げるために、信仰告白がなくてならないものとして理解しているのはこのためであります。信仰告白によって、お互いの思いが結ばれるのであります。信仰告白によって、キリストの愛が通い合うのであります。それは、聖書の信仰、聖書の福音の言葉の要約であります。この事を学び合うことが、知恵を尽くして互いに教え、諭し合う、神をほめたたえるのであります。この御言葉のなかに、教会が教会になってゆく道のりが示されているのであります。

教会は、この平和の君イエス・キリストとその御言葉によって築かれてまいります。そして、それは、教会がこの世に向かって、イエス・キリストの支配、イエス・キリストの到来を告げることと一つのことであります。平和をこの世界に広げることは、国連の課題であって、教会の課題ではないなどと考えてはなりません。世界を平和にすること、それこそ神のビジョンであり、そのためにキリストの教会が存在させられたのです。平和実現こそ、教会の課題であり、使命なのであります。その具体的な武器、手段とは何でしょうか。それは福音の伝道、福音の宣教であります。平和の君イエス・キリストを告げる事それが、平和を造りだす武器であり、手段なのであります。ですから伝道こそは、世界でもっとも重大な務めであり、緊急の課題なのであります。そして、教会はその平和の福音を与えられ、それを証して見せる必要があります。決して教会自身が平和を造りだすのではありません。教会が告げる生けるイエス・キリストが平和を造ってくださるのであります。その意味で、私共キリスト者は誰でも、一人も残さず、平和を実現する人となるのであります。なれるのであります。誰かに、イエス・キリストを告げることによってであります。イエス・キリストを、イエス・キリストの福音を証することによってであります。何よりの証は、この岩の上教会がますます、平和の君イエス・キリストによって支配されていること、ここではキリストだけを主と告白することに全力を傾けているそのことを、見せることであります。

今朝の牧会祈祷は、アシジのフランシスの大変有名な祈りを、そのまま祈りとしました。これは、マザーテレサが、ノーベル平和賞を受賞した記念講演のときに、紹介され、祈られた祈りです。致します。「神よ、私をあなたの平和のために用いて下さい。憎しみのあるところに愛を、争いのある所に和解を、分裂のある所に一致を」そして、「愛されることよりも愛することを求める心を与えて下さい」と祈ります。この中世の修道士フランシスは後に、フランシスコ会という修道会を造ることになりました。イエス・キリストに従って生きはじめたところに仲間たちが与えられ、キリストにある共同体、平和の共同体が建て上げられたのです。私どももまた、平和の主イエス・キリストの言葉を豊かに宿らせて、この名古屋の地、緑区の地域に、平和の君でいらっしゃる主イエス・キリストのみ言葉を告げ、平和の神を証したいと思います。

 今、聖餐を祝おうとしています。これは、平和の食卓です。ここにおいて、ダビデの憧れは、成就します。「見よ、兄弟が共に座っている、何という恵み、何という喜び。」私共は、一人のキリストと結び合わされ、そのようにして、神の家族とされ、お互いをキリストの兄弟姉妹として、結び合わされました。聖餐を正しく受けることが、教会の交わりを育て建てる力になるのです。そうであれば今朝、あらためて兄弟姉妹への愛がここで問われます。一人ひとりに、兄弟姉妹としての愛を、主は問うておられます。悔い改めと感謝をもって、聖餐を味わいましょう。そして、志を新たにして、ここに平和の家を建て上げ、もって世界の平和の拠点、橋頭保として堅固に据えるために、まず、お互いへの配慮と祈り、そして地域の人々への愛の伝道へと進んでまいりましょう。

 祈祷
 私共にあなたとの平和を造りだしてくださるために御子イエス・キリストを遣わして下さいました、父なる御神。私共は今日改めて、おそるべき罪の中に生き、あなたの怒りを日ごとに受ける悲惨な者であること、しかし、御子の十字架によって、神の子としての立場を与えられていますことを示して頂きました。心から感謝申し上げます。あなたは私共を、キリストの平和に与らせるために選び、教会に加えて下さいました。どうぞ、私共の小さな教会が、望みを失うことなく、時がよくても悪くても、教会の形成に励み、福音を証する務めに勤しむことができますように。また、この平和に招かれている人々はなお大勢この地にいることと思います。私共が平和実現者とされていることを覚えます。どすぞ、平和の使者として、新しく派遣し、あなたの平和の道具として用いて下さい。 アーメン