「天の報いを望み喜ぶ」
2009年6月28日
テキスト マタイによる福音書 第5章1~12節
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
今朝は、八福の教えの最後となります。11回にわたって学んでまいりました。主イエスは、弟子たちに心を込めて、なによりも喜びにあふれて語られた祝福の言葉、幸いの言葉です。日本語では、「心の貧しい人々は、幸いである。」と幸いが後にきますが、もとの言葉では、「マカリオイ、幸いな人!」と最初に宣言されています。主イエスは、弟子たちを見つめ、驚きを込めた喜びの声をあげられたのです。八回も、幸いな人、幸いな人、幸いな人と呼びかけられます。イエスさまの目の前に座っている弟子たち、それは、主イエスの御目に、「幸いな人」としか映っていないかのようです。そして、本当にそうなのです。幸いな人になりなさい!ではありません。幸いな人になるために、心を貧しくしなさい、幸いな人になるために、悲しみの人になりなさい、幸いな人になるために、柔和な人になりなさい・・・。そう仰ったのではありません。あなたがたは幸いな人だと宣言されたのです。
イエスさまがそう宣言されるのであれば、わたしどもはこうは言えません。「イエスさま違います。わたしは幸いな人どころではありません。むしろ不幸な人間です。」私どもは、この学びを終えるときに、最後にもう一度、私ども自身の幸いの秘密、その理由をはっきりとさせ、心に刻みたいと思います。
このみ言葉を聴いたのは誰でしょうか、言うまでもなく、弟子たちです。イエスさまにつき従った者たちです。当然、目の前には、イエスさまがいらっしゃいます。それが、この説教の状況です。実にそこにこそ、あの弟子たちがそして私どもが幸いな人間であることの理由があります。イエスさまが私どもの目の前にいらっしゃる。主イエスが私どもといっしょにいてくださる。これこそが、はっきり言えば、これのみがわたどもの究極の、完全な幸福なのです。
八福の教えのなかで、幸いであることの理由として、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言われました。そして今朝、読んだ、八番目その最後は、「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」つまり、同じ天の国が報いとして与えられるということです。つまり、八つの幸いの教えは、サンドイッチのように神の国が与えられるという祝福に挟み込まれているのです。中の六つの祝福の理由もまた、天国の祝福と深く関わるものなのです。実に、天国こそ、神の国こそ、主イエスの弟子たちに保証され、今まさにあずかっている幸福の心棒なのです。内容なのです。そして、天国の主、幸福の中心とは、つまり、主イエス・キリスト御自身に他なりません。
私どももまさに今、聖霊によって主イエス・キリストが臨在しておられるこの礼拝式に招かれ、ここに座っているわけです。つまり、今まさに、イエスさまは、にこにこしながら、喜びにあふれて、私どもに、「幸福な人よ!」と呼びかけていてくださるわけです。本当に、ありがたく嬉しく、感謝です。
ただしかし、今朝のみ言葉は、「義のために迫害される人々」への祝福です。いったい、私どもにとって悲しんだり、義に飢え渇いたりすることは、やはり嬉しいこと、そのようなイメージを持ちにくいと思います。ましてや「迫害」などは、言うまでもありません。迫害を喜んで受ける人は、誰もいないはずです。むしろ喜んで、積極的に迫害を受ける、それは、少なくとも、私どもキリスト者の態度とは異なるものと言えます。
あらためて確認する必要もないかもしれませんが、ここで、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」のは、ただひとえに主イエス・キリストごじしんのためになされるものです。決して、自分自身の愚かさ、欠点によってもたらされるものではありません。ペトロの手紙一で使徒ペトロはこう言います。「人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として苦しみを受けないように」つまり、自分の軽率な振る舞いによって、罵られることとキリストの故に罵られることを混同してはなりません。
キリスト教異端の宗教を信じる人々やカルト宗教の人々が、社会や世間から白い目で見られ、悪く言われるとき、それを迫害と考え、むしろそれを肥やしにますます情熱を傾けて宗教活動に励むという例は、しばしば見聞き致します。勿論、主がここで仰ったことは、そのような、自分勝手、手前味噌の解釈を許しません。キリスト者として、キリストのために苦しみを受けることが幸いだと仰ったのです。そしてそれは、積極的なことではありません。消極的、もっと正確に言えば、受動的なことです。その時には、受けなければならないもの、その時には、逃げてはならないこと、そのような意味で、これまでの幸いとは、性格が異なっています。
わたしは最近、カトリック教会、カトリックの教えを、あらためて学ぼうとしています。講義のテープを買い求め、送られてくるのを待っているのですが、その中に、「キリシタン殉教精神のルーツ」という講義があります。結局、まだ届いていませんので、それを聴くことができずにこの説教の準備をしました。かつて長崎に旅行したことがあります。一つの思いは、会堂建築の準備です。礼拝堂に対する感性を磨くために、長崎の教会堂を見たいとの思ったわけです。しかし、何よりも長崎の地は、わたしどものはるかな先輩たちの多くが、そこで殉教した地です。教会堂の美しさも素晴らしく、海の美しさも素晴らしいですが、主なる神、イエスさまとその福音の真理のために、命をかけた日本人、自分の命よりも大切なものを知った人々のことを身近に知りたいと願ったからです。学者の方々は、日本の精神の歴史の中で、真理のために命を投じる人間は、キリシタンにおいて初めて現れたと言います。このことは、実にすばらしいことです。人間は、自分の命よりももっと尊いもの、価値あるものを発見したとき、初めて、自分の命のかけがえの無さを知ることができるからです。このためなら死んでも惜しくない、そのように思える何かを見出した人、若い人がいれば、それは幸せな人です。なぜなら、その時その人は、おそらく生きていることがどんなに尊く、かけがえがなく、すばらしいことであるかを本当に知ることになると思うからです。逆に、そのような価値ある宝を発見できないとき、我々の生活、人生は、充実を経験できず、空虚な生活に終わると思います。それは、我々の社会をみれば、良く分かることではないでしょうか。
つまり、殉教精神とは、もしも、率先してイエスさまのために死に急がせるような精神であれば、それは、断じて認められないものです。主イエス御自身、また聖書全体からもそれを支持できません。
確かに主イエスは、マタイによる福音書第10章39節でこう仰せになられます。「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
これは、地上の命を越えた、永遠の命、天国の命があること、それこそが重要であることを宣言されたのです。永遠の命あっての地上の命なのです。神との交わり、神と共に生きる命、これなくしては、地上の命じたいが、空虚になってしまうからです。また、16章25節でこう仰いました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
主イエスは、ここで御自身のお命をもって私どもの命を買い戻されることを、予告するかのようにお話して下さいました。全世界の富と宝そして名誉を手に入れても、神が与え、主イエスが贖ってくださる命でなければ、永遠の命、天国の命でなければ、空しいのだ、利益にならないのだと宣言され、霊的な価値がわからなくなってしまった私どもの眼を啓くための鋭く、厳しい、なによりも切迫した愛のこもった問いかけです。
さてしかし、私どもは、迫害ということを、自分じしんのこと、自分の信仰生活、教会生活の現実として理解しているでしょうか。大阪で行われた60周年記念大会の最後の礼拝で、また、先日の大会役員修養会でも、一人の教師が、北朝鮮や中国で厳しい迫害の真ん中で、命をかけて福音の証をしている方のことを紹介されました。聖書の時代だけではまったくなく、世界には、まさに福音のために殺される人々が少なくない事実にあらためて驚かされたのです。しかし、それなら、私ども日本のキリスト者はどうなのでしょうか。
もしかすると多くの日本人キリスト者にとって迫害とは、遠い昔のことと理解されるかもしれません。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。もしかするとそこにこそ、わたしどもの危険、危機があるのではないでしょうか。そもそも、迫害は、キリストのためのものです。キリストの故に、主イエス・キリストに従うときに、受けるものなのです。日本の教会の歴史のなかでその最大の例、典型的な例は、神社参拝の事件です。私どもの先輩たちは、そのとき、ときの文部省、国家は、神社参拝は宗教ではない。国家に対する儀礼の行為なのだと言いました。それは、何をどう言いくるめられようと、聖書から見れば明らかに偶像礼拝です。しかし、国民の義務であると言われたとき、それを受け入れたのです。戦わなかったのです。その時には、本当の意味では、迫害を回避した、避けた、逃げたと言わざるを得ません。あのとき、私どもの先輩たちは、もとよりまさに迫害の中の迫害の状況に中にあったのです。しかし、それを避けつづけて、そして罪を犯したのでした。命を失ってしまったのです。
今この時は、どうなのでしょうか。私どもは、あの時代のような激しく、しかも権力と暴力に脅されてはいないかもしれません。あからさまな迫害は、ないと言えばないかもしれません。しかし、真綿で首を絞めるような状況があります。伝道が困難です。社会や経済の不安が広がっています。説教で、くわしく社会や政治の分析をすることはできません。しかし、たとえば今まさに、社会的に強い人々、経済的な立場の優位にある人々が、安定した道からそれてしまった人たちに「自己責任だ、自分たちの努力が足りない」というような論理を語ります。そして、いよいよ弱くされた人たちは、委縮してしまいます。逃げ場がなくなります。このような時こそ、天国の希望を与えられたキリスト教会、キリスト者はいきいきと、与えられた使命、責任を果たして良いはずです。この世界、この社会は、教会の伝道とディアコニアの働きを、ますます必要としています。福音は、いまこのような時こそ、必要なはずです。しかし、私どもは、自分の生活で手一杯、自分のことを優先してしまいます。礼拝の生活もまた、自分の霊的な安息を目指し、求めることで終わらせかねないのです。そこに、私どもの戦い、激しい誘惑があるのではないでしょうか。
迫害とは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストから離れさせることに他なりません。主イエスとの交わりを破るもの、切断させるもの、まことの信仰や教会生活から遠ざける外からの力です。私どもは、今まさに、そのような迫害を受けています。
しかし、私どもがこの事実に気づき、主イエスのために、この迫害を回避するのではなく、この迫害を克服しようと、抗おうとするとき、まさに、幸福な人と呼ばれるのです。それは、キリシタンの殉教者とはほど遠く、北朝鮮や中国のキリスト者とは比較にならないほど、小さな迫害かもしれません。しかし、私どもがキリストのために、福音のために、たといそれが、この礼拝式を捧げるための小さな労苦であっても、わたしどもはすでに、主イエスから、にこにこした笑顔で、喜びを込めて、マカリオイ、幸いな人だ!と祝福の言葉、おめでとうと言われているのです。マタイによる福音書の最初の読者と共に、まさに自分のこととして聴きとることができるのです。
今、学校におけるいじめの問題は、大きな社会問題になっています。先週も、イジメの実態調査の報告が報道されていました。いじめられている子ども、それがわが子であれば、親としてこれほどつらいことはないでしょう。そして、子どもたち自身が、自分がいじめられている事実を、親に言えないのは、親を苦しめたくないからでもあるわけです。そうであれば、親として、まさに、自分の子がいじめられる場面を見るなら、どれほどの怒りを持つかと思います。それなら、神の子としていただいた私ども、キリスト者とされた私どもが、迫害を受けるとき、いったい父なる御神は、どのような思いで私どもをみていてくださるのでしょうか。主イエス御自身は、天においてどのように迫害されている教会、キリスト者をご覧になっておられるのでしょうか。
今朝、わたしは何度も、にこにこして笑顔のイエスさまのことを申しました。けれども、迫害を受けている私どもに笑顔で祝福なさるイエスさまは、ありえないのではないかと思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、その通りでしょう。主イエスは涙を流している人と共に泣いて下さるお方です。苦しんでいる人を見て、放っておかれないお方です。
しかし、主イエスが見ておられるのは、ただ迫害を受け、苦しむ私どものゆがんだ顔だけではないのです。そこで、主イエスが見抜いておられるのは、まさに私どもが、主イエスと一緒にいるその現実です。やがて天国が待っている、主イエスは、ここでそう仰いません。「天の国はその人たちのものである。」とは、将来のことではないのです。今ここでのことです。天国、それは、主イエスが共にいてくださる場所です。神の国とは、主イエス・キリストのご降誕によってこの地上に始まり、なによりもキリストの教会こそ、神の国の中心的な現れ、しるしに他なりません。教会が神の国の現れということは、教会の中心に、まん中に、イエスさまが共にいらっしゃるということです。主イエス・キリストがご臨在されているということです。そうなると、もうはっきり分かることは、今、捧げている主の日の礼拝式こそ、主イエス・キリストの臨在がある場所、ときです。迫害されていること、しかし、主イエスと共にいることを選びとること、そこに天国の幸いがあります。永遠の命があるのです。私どもは、今朝、この幸いを更新していただいています。
主イエスは、こう仰いました。「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」旧約聖書の預言者たちのことです。たとえば、エレミヤです。涙の預言者です。苦難の預言者でした。そして、何よりも最高の預言者、預言者の中の預言者でいらっしゃる主イエス御自身が、迫害された方のチャンピョンです。イエスさまは、迫害を受けた方の頂点なのです。ですから、主イエスのために迫害を受ける、それは、主イエスと立場を同じくする光栄なのです。私どもは、つい、小さな試練、悩み、苦しみが襲うと、すぐに動揺して、信仰に立って、神により頼んで解決、克服しようとしないで、しばしば自分の力、知恵、経験、この世の常識を頼りに、乗り切ろうとします。
私どもは、このみ言葉をその時こそ、思い起こしたいのです。苦しい時、しかも迫害を受けているとき、どうして喜べるのでしょうか。その時こそ、主イエスが近くにいらっしゃるからです。それ以外に喜びは出ません。まことの喜び、本物のリジョイスは、主イエスのもとにのみあるのです。薄っぺらな喜びは、苦しみや悲しみ、迫害のときには、吹っ飛んでしまいます。しかし、主イエスは、その時こそ、喜べると励ましておられます。
それは、お約束です。主イエス・キリストが共にいてくださるという約束です。天国が与えられているという約束です。これなしには、迫害も困難も悲しみも、乗り越えられません。しかし、主イエスがおられるのです。ですから、命じます。喜びなさい。大いに喜びなさい。報いがあると約束されます。
わたしは、ここでハッとします。報いがあるとおっしゃる言葉に反応します。つまり、報酬というのです。しかし、聖書全巻に貫かれているメッセージは、天国は、救いは、報酬では決してないはずです。救いは、徹底的に恵みのはずです。主イエスさまが教えて下さった、あのぶどう園で働く労働者のたとえを思います。朝から働いた労働者、夕方5時に来た労働者、主人は、同じ賃金、一日一デナリを払ったのです。
これは、たとえです。つまり、神の恵みは、その人の働きに見合って支払われるのではないということです。恵み、それは、神の一方的なご好意なのです。しかし、ここでは、報いがあるとおっしゃる。迫害を受けたほどの人だから特別の報酬ということではありません。心の貧しい人にも同じ、報酬が約束されているのです。しかし、主イエスは、ここではっきりと報酬がある、報いがあると仰います。これは、この恵みを与えたがっておられるイエスさまのお心、父なる神の御心のほとばしりです。私どもへの力強い励ましです。熱誠のこもったエールが贈られているのです。主イエスは今、天から送ってくださいますわたしはこの八福の教えは、まるで地上で戦う教会、キリスト者に対するイエスさまからの応援歌のように思えます。この応援は、イエスさまだけではなく、すでに天に召されている神の民の賛美の歌でもあります。応援団長は、イエスさまです。この団長は御自ら、十字架で殺され、そしてご復活なさった王の王、主の主、天国の主でいらっしゃいます。
私はここでの主の語りかけを、黙想しながら、使徒言行録の記事を思い出します。ステファノが殉教する箇所です。彼は、キリスト教会最初の殉教者となりました。ステファノは、ユダヤの最高法院に立たせられます。悪意と憎しみに燃えたぎる70人もの議員達の面前で、実に堂々たる説教を行います。旧約聖書全体から神の救いの歴史の全貌を明らかにする見事な説教を語りました。ステファノが、この説教で、神とその御子イエス・キリストの救いのみ業を賛美する言葉を彼が語るのを聞いた議員は、激怒しました。十字架に自分たちがつけたイエスが神であり救い主であると主張すること、それは、自分たちが神の敵であるということですから、激怒したのです。彼らは、都の外に引きづりだして石打ちの刑に処しました。
その記事の中で、忘れがたいシーン、御言葉があります。議員たちの怒りを頂点に至らせたみ言葉です。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」今朝も告白したニカヤ信条は、主イエス・キリストは、「御父の右に座したもう。」と告白しています。ところがここでステファノは、人の子主イエスさまが神の右に着座しておられるのではなく、「立っておられる」のです。私はこの御言葉に心打たれます。殉教者を天に迎え入れようとなさる主イエスが、身を乗り出しておられるのであります。地上でまさに石で打たれて殺されようとするステファノを主イエスは座ってはおれない、立ち上がってご覧くださっているということです。
私は、主イエスが、八福の教えのその最後に、迫害される弟子たちの幸いについて語られた時、主イエスは、当然、彼らがどのような死に方をするのかをご存じです。愛するペトロや愛するヨハネの最後がどのようなものであるのかを、すでにこの時点で主はご存じの筈です。ペトロは逆さ十字架の刑を受けたと言われております。ヨハネもパトモスの島で殉教したと言われます。この説教を直接聴いた、弟子たち、使徒たちは、殉教者なのです。そのような、弟子たちを前にして、主イエス・キリストが、幸いであると宣言された時、それは、どれほどの深い愛と激しい愛が込められていたのかと思います。
主イエスは、ここではもう「その人たちは幸いである。」と3人称で語ることはできなかったのです。どうしても、「あなたがたは」とハッキリ、誤解のないように明らかに告げたくて仕方がなかったのだと思います。
彼らはもとより、私どもより先に天に召され、死去された先輩たちは、天のすでに、主イエスに迎え入れられています。私どもは、地上で、天を仰ぎ見ます。そして、聖霊を注がれて主イエス・キリストと今ここで、ひとつに結ばれて、同じ一つの命、永遠の命を受けています。その意味では、もう、天にある人々と私どもは、主イエス・キリストにおいて一つの交わりを持っているわけです。これにまさる幸いはありません。究極の幸い、それは罪赦され、主イエス・キリストと一つに結ばれ、父なる神の子とされ、永遠に神の愛の中で、主イエスとともに生きることです。それを今私どもは、ただ恵みによって、一方的な愛と選びによって、実現されているのです。この救いの恵みを心から喜びます。使徒パウロは言いました。いかなる力が襲いかかっても、この神の愛から引き離せるものは、何一つない。主イエスが命をかけて私どもを救ってくださり、その愛の中に守られ、包まれているのです。わたしども以上に幸いな人はいません。与えられたこの幸いを大いに喜びましょう。命よりも大切なこの喜び、永遠の命、天国の祝福にとどまりましょう。
祈祷
天の報い、その大きな報いを約束してくださいました主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、何をどう励んだかによって、天国に入ることなどまったくできない罪人でしかありません。それにもかかわらず、御子の命をもって、私どもを贖い、神の子として、天国の世継ぎとしてくださいました。天の祝福を受けるものと定め、今すでに、その祝福の一端にあずからせていただいています。心から感謝いたします。確かに、わたしどもは、主イエスのために、嘆き、悲しみ、疲れ、倒れてしまうことがあります。しかし、苦しみのなかでこそ、主イエスが共にいてくださることを知ります。天の父よ、私どもの眼差しを常に天に、あなたに向かわせて下さい。そして、この世の誘惑に抗って、あなたを選びとらせて下さい。今週も、日々、大いなる喜びにあふれさせて下さい。そうでなければ、天国を目指してまっすぐに歩み切れないからです。アメン