過去の投稿2009年7月11日

7月5日

★  先週は、半年ぶりに読書会で「個人伝道」について学びました。いつものように最後に、一言ずつ分かち合いました。まったく時間が足りませんでした。教会の存在理由そのものとしての伝道の働についてです。私ども自身が、伝道されてキリスト者へと導かれ、今、伝道しているのです。当然、何度か続けます。

☆  個人伝道、その中核、土台にある言葉は、「救いの証」です。自分がどのようにして救われ、救われて今、どうなのか。それを、率直に語る。わたしはすでに、牧師。つまり、一般の方には、「そちら側」?の人間です。信徒は、一般の方と同じ地平に立つ存在に「近い」と思います。説得力が違います。一人の姉妹が、わたしの大学生時代の個人伝道を評して、「ガツガツ・・・」と表現されました。私は、「神さま、イエスさまのことを伝える人、証できる人に出会わせて下さい。」という祈りを祈ることは共有できませんかともうしました。先ず、祈りからです。いずれにしろ、いよいよ盛りあがる楽しい学び、読書会になると予想されます。

★  先週、求道者学び会を行いながら、ひとつの例えが浮かびました。律法の行いによるのではなく、恵みによってのみ救われる。それは、磁石が私たちに接近して、私たちを神への信仰へと心を立ち上がらせる。それは、神の吸引力による。私どもは、主の日ごとにそして毎日、磁石である神の言葉と祈りによって聖霊(言わば磁力)を受ける。後から、哲学者プラトンが別のたとえで使用していたことを思い出しました。しかし、今まで、用いたことがないのです。もしかすると、すでに多くの方が、用いておられるかもしれません・・・。「魂」に向けて、み言葉を語るとき、まさに、聖霊のお働きが著しくなされるときなのです。

☆   夜の祈祷会で、「信徒の手引き」の草稿を読んでいます。先週お渡しした第4章1節「はじめに」は、祈祷会での分かち合いの実りです。下記のものは、今朝の説教とまさに重なりますのでご覧にいれます。
    草稿を読む。とても恥ずかしいです。内容に入る前に、日本語の不備があります。「勝ち目のある」という表現・・・。造語です。しかし、このような形で、皆さんのご意見を伺うのは、初めてのことであり、とても刺激的です。信徒の手引きは、「信徒」の為のものですから、大切です。この信徒には、何よりも、洗礼を受けたばかりの方が想定されます。同時に、何十年と教会生活をしながらも、あらためて整理する上でも有効なものでありたいし、あるべきです。ただし、80%以上は、読んだだけで理解できるようなものでありたいし、あるべきと思います。今週は、初めて朝の祈祷会で、行います。予習していてくだされば、さらに感謝です。

【地の塩・世の光として】
『主イエスは、その弟子たちに「あなたがたは地の塩である。世の光である。」と宣言されました。「なりなさい」ではありません。そのような存在である、わたしがすでにそうしているのだと宣言なさったのです。
食物と塩、命と光、これらは切っても切れない関係にあります。塩や光のない世界など、考えられません。つまり、神の民である教会もまた、世界になくてならないものだということです。
塩は、腐敗をとどめるものです。神の民がこの世界の中へ深く入り込んで混ざれば混ざるほど、倫理的な退廃はとどめられるのです。この世界と深くかかわることが求められているわけです。また塩は、そのもの本来の味を引き立てるものです。つまり、教会は、神が創造されたすばらしい大地(第5章を参照)に、働きかけることによって生じるさまざまな実り、産業、文化、技術などに、神が本来与えられた素晴らしさを際立たせることへと用いられるのです。ただし、それは隠れた存在として作用するものです。
光は、闇を追放するものです。神に反抗する闇の力は、光の存在によって消え去るのです。この世界の外に立って、あるいは上に立って照らします。また、光は生物に命をもたらします。つまり、教会は、罪を犯して本来の命を失った人間とその影響を受けている世界に、再び命をもたらすように用いられます。神の民は、世界の中心におかれていますし、そのようになることが求められています。
塩と光になぞらえられた教会には、共通する本質的姿があります。それは、「わたしは世の光である」と自己紹介された主イエスが、教会の真ん中に共にいらっしゃることです。主イエスが、私たちを照らしてくださるのです。その光を浴び、反射することによってこの世界は、光源でいらっしゃる神をあがめるようになります。神の民は、そのような存在として選ばれ、用いられるのです。すべては主イエスさまにかかっています。そこで求められるただ一つの本質的なことは、主の宣言をそのまま受け入れ、信じることです。そのために、神の民こそ、ひたすらに光源に眼を注ぎ、光を浴び、塩で味付けられた言葉(コロサイ第4章6節)を深く聴きとるのです。』