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「旧約聖書を完成された主イエス」

「旧約聖書を完成された主イエス」
                 2009年7月12日
テキスト マタイによる福音書 第5章17~20節
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。  廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、   そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

ただ今朗読しました主イエス・キリストのみ言葉は、キリスト教にとって、まさに決定的に重要なみ言葉の一つです。このみ言葉を正しく解釈することに失敗すれば、キリスト教は成り立たない、足元から崩れてしまうからです。その意味で、毎週そうですが、しかしとりわけ、今朝、説教者であるわたし自身、緊張しています。お互いに緊張感をもって、読み、聴いて行きたいと思います。

また、なによりもそもそもこの箇所は、これから始まる主イエスの説教を正しく解釈するためになくてならないみ言葉なのです。言わば、説教の序文、あるいは前文のような働きを持っているからです。

たとえば、憲法の前文とは、憲法をどのように理解したらよいのか、すべきなのかを書いたものです。何より、私どもで言えば、先ほど、唱えました十戒です。十戒の前文、序文はこうです。「わたしは主、あなた方の神、あなた方をエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。」この神の自己紹介に込められた愛と恵み、私どもを救う神の激しい愛の故に、十戒の一つ一つみ言葉がキラキラとその輝きを増すわけです。そのように読まれるべき言葉が、十戒なのです。そのことを、明らかにするのが、全文、序文なのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」まず、律法と預言者という言葉、それは、何を意味しているでしょう。それは、おおざっぱな表現ですが、旧約聖書のことです。もちろん、イエスさまの時代には、新約聖書はありませんでしたから、単に聖書と言った方が正確です。今、私どもが手にしています旧約聖書の目次を見ますと、最初が創世記、最後がマラキ書となっています。ところが、イエスさまの時代の聖書の配列は、それとは異なっているのです。詳しいことは、説教でお話する暇がありませんが、ごくかいつまんで申します。ユダヤの人々は、聖書のそれぞれの書物を、三つに分類しました。律法、預言者の書、諸書です。諸書とは「その他」という感じです。それぞれをヘブライ語では、トーラー、ネビーム、ケスビームと言います。この頭文字をとって、聖書のことを「タナク」とも呼びならわして来ました。律法の書が、最初に置かれているわけですから、ユダヤの人々にとって、律法が一番大切とされていることが分かります。それは、私どもの聖書と同じように創世記から申命記です。その次は、預言者の書です。イザヤ書とかエレミヤ書などです。最後に諸書です。詩篇とか箴言とか雅歌とかのいわゆる文学書、またそれに加えて、歴代誌、ダニエル書、エズラ・ネヘミヤ書のことです。イエスさまは、ここでは、諸書のことには触れていませんが、律法や預言者と言えば、ユダヤ人にとっては、タナク、聖書のことを指すことは常識ですから、この二つのことを挙げれば、十分だったのです。

さて、福音書の中には、しばしば律法学者という人たちが登場します。ファリサイ派の人々も登場します。律法学者とは、タナク、聖書を正しく解釈して、ユダヤの人たちに教える聖書の教師、信仰の先生のことです。聖書の先生と言わないで、律法学者と言うところに、すでに、聖書のなかで、どれほど律法が重んじられているのかがよく分かるのではないでしょうか。ファリサイ派の人々とは、この律法学者の指導を忠実に守るために全力を注いだ人々のことです。もとより、イエスさまの当時のユダヤの人々、そして現代のユダヤ教の人々もまた、自分たちの生活を、律法に適って、律法を正しく守り行うことを徹底的に重要なこと、信仰の生活そのものであると考えています。

彼らが神の律法を、どれほど重んじているか、それは、旧約聖書、詩篇第119編などを読めば、すぐに分かります。聖書のなかで最もページ数が長い箇所です。そして、そこに歌われていること、その主題はたった一つです。それは、神のみ言葉、律法の素晴らしさです。延々と、律法を心の底から讃える、讃美するのです。ですから、律法学者がどれだけ重んじられていたのかも簡単に想像できるかと思います。

そこで私どもがごく基本的なこととして確認したいのは、律法はこれほどまでにすばらしいものであるということです。なぜなら、神のみ言葉こそが、私どもの信仰の土台、基礎の基礎になるからです。御言葉なしに、神を信じることも、礼拝を捧げることもできません。私どもの礼拝式のあり方一つとっても雄弁に物語っています。聖書の朗読と直ちにそこからの説教があるこれが礼拝式の時間の半分以上になります。聖書朗読と説教のない礼拝は礼拝ではないわけです。キリスト教では、律法学者とは呼びませんが、やはり、聖書の教師、説教者、牧師がいるわけです。私どもの教会にとっても、その生命は、聖書にあるわけです。

それなら、なぜ主イエスはわざわざ、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。」と仰ったのでしょうか。実は、この重要なみ言葉は、他の福音書には記されていません。なぜ、マタイによる福音書は、自分の福音書の中に、このみ言葉を書かなければならなかったのでしょうか。それは、イエスさまが旧約聖書を、その掟を軽んじているという間違った批判があったからです。主イエスが十字架に磔にするその罪状、訴えの中心は、実に神の律法を破る大罪人であるということでした。

さらに私どもは、この福音書を学ぶ前に、ローマの信徒への手紙を学び続けましたから、そのことを思い起しましょう。ローマの信徒への手紙が書かれのは、この福音書よりおそらく前のことです。そして、その手紙の中で著者である使徒パウロが、全身全霊を込めて語ったのは、何であったのでしょうか。それは、私たちは、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということでした。律法を守り、行うことによってではなく、信仰によってのみ、神さまの前に義と認められる、つまり、神の前に正しい人間として立つことができるとうことでした。

パウロが書き送ったガラテヤの信徒への手紙のなかには、このような言葉もあります。「キリストは~二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」

パウロは、もはや割礼は必要ないと主張しました。エルサレムの神殿における様々な礼拝の規定、それにもとづく礼拝は不用であると言いました。そうやって、ユダヤ教とイエスを主・キリストとする自分たちとは、違うのだということを鮮明にしました。このパウロの教えこそ、キリスト教の教えの土台となったと言っても言い過ぎではありません。このパウロの偉大な功績は、不滅のものと言ってよいでしょう。

しかし、そこに重大な落とし穴もありました。「律法を廃棄された」というパウロのメッセージを、文字の上っ面、字義どおりに解釈する人々が現れたのです。パウロの本来の意図とはまったくかけ離れた、理解で自分たちの教えを宣伝したのです。つまり、こうです。もはや、キリスト者にとては、ありとあらゆる掟は、もはや無用であるという主張です。十戒もいらない、さらには、旧約聖書そのものももはや古いもの、価値のないもの、必要ないものとする者たちまで起こりました。

このような律法不要論、律法無用論を主張する人々が、マタイによる福音書を読んでいる人々の周りにも現れていたのです。だから、マタイは、ここで主イエスのみ言葉をきちんと書き記さなければならなかったのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と廃止するために来たのではないと二度も繰り返されました。それにとどまらず、さらに宣言されます。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」聖書の言葉は、新しい天と新しい地が起こる、つまり天国が完成されるその日まで、一点一画も消えさらない。それほどまでに確実で重要なものだとおっしゃるのです。律法と預言者、旧約聖書の重要性をこれほどまでに強調した言葉は、他にはありません。

次に、私どもはここでのもっとも重要なみ言葉を、心に刻みましょう。「完成するためである。」主イエスが、この地上に来られたのは、神のみ言葉を、十戒と、掟を、律法を完成するためなのです。実現と言い換えてもよいです。成就と言っても良いです。

パウロがその手紙において見事に明らかにしたように、人は、律法による行いによって義とされることはできません。律法を守るとは、完全に守る以外に、守ったと言えないからです。神の掟とは、そのようなものです。だから、罪人である私どもは、律法によって救われることはまったくできないのです。

しかし、主イエスは、そこで明らかに教え、示し、このように語っておられのです。
「律法と預言者とは、結局、このわたしのことを指しているのだ。わたし自身のことを指さしているのだ。旧約聖書を完成し、律法を成就し、神の前に義とされる道、救いの道を実現するのは、このわたしなのである。この私が、あなたがたの罪、神の前に律法の違反者でしかありえていないあなたの罪を十字架に身代りに死ぬことによって、償うのだ。そのようにして、律法が要求する神の前の義、完全なる正しさを、あなたに代わって、わたしが勝ち取る。そして、それを信じるあなたがたに与える。」

ですから、イエスさまは、廃止するためではなく、完成するために、わたしは来たと宣言してくださったのです。そして、私どもはすでに知っているのです。本当に、この説教の後、イエスさまは、十字架について、私どものために、律法の要求を満たして下さったのです。

律法は、罪を犯した者は、神の刑罰を受けると言います。破った者は、そのままでは済まされません。神の御前に、死をもって断罪されなければならないのです。だから、神は、旧約の神の民に、子羊を犠牲にして、捧げなさいと命じられました。「あなたが死んではならない。」しかし、そのためには、動物が身代わりにならなくてはならない。だからこそ祭司たちは、エルサレムの神殿で、罪を償う生贄として動物を屠ったのです。

しかし、今や、イエスさまが来られました。子羊として来られたのです。神の子羊です。まったく罪を犯したことのない完璧な、完全な人間として生きられたイエスさま、神の独り子のイエスさまが、私どものために、身代わりに神の刑罰をお受け下さったのです。律法や預言者の要求は、人となられた神の御子イエスさまによって、完璧に成就されました。実現されました。完成されたのです。だから、もはや、動物を犠牲にする礼拝も、そのような様々な礼拝の規則も不要なのです。しかし、神を礼拝することは、そのすばらしさ、その喜びは、永遠に変わりません。むしろ、イエスさまのおかげで、旧約聖書の時代とは比べられないほどのすばらしい礼拝となったのです。ユダヤ人ばかりか、わたしどものような異邦人まで礼拝できるようにさへしてくださったのです。

私どもは、今朝も十戒を読みました。これを、天地が消え去るまで唱え続けます。それは、この十戒がイエスさまによって完全に守られ、そのイエスさまの義、イエスさまの獲得された救いが、ただ信じる私どもに惜しげもなく付与されることを知っているからです。だからこそ、私どもキリスト者は、旧約聖書の神の民、ユダヤの人々より、尚いっそう十戒を重んじる、重んじたいのです。それが、キリスト者なのです。キリスト教なのです。安心して、神の言葉を生きようと立ち上がれるのです。

イエスさまは、だからこそ、この説教を言わば、言わば序文のようにして、語られました。この直後に、新しい神の民の倫理について、古い神の民に与えられたより、もっとレベルの高いことを命じられます。「殺してはならない。」これは、十戒の中の第6戒にある、誰でも知っている戒めです。しかし、主イエスは、ここで、ただ腹を立てるだけで、人を殺したことになると、宣言されたのです。これまでより、圧倒的に、神の民の義、正しい生き方の言わば、ハードルがあがっていると言っても良いと思います。だったら、律法などもう関係ないなどとは、決して言えないはずなのは、明らか過ぎると思います。

最も小さな掟の一つでも破りなさいと教える者、そそのかす者は、天の国で最も小さな者なのです。キリスト者たちの義、神のまえでの正しい生き方、倫理的な信仰の生活が、律法学者やファリサイ派の人々に比べて、まさっていなければ、決して天国に入れないと宣言されたのです。

ここで私どもがあらためて、福音の基本をおさらいしたいと思います。それは、律法主義から決別する、克服するということです。聖書の中には「律法主義」というような言葉はありません。しかし、福音書の中に登場した律法学者、ファリサイ派の人々の考え方を律法主義と呼ぶのです。それは、神が律法をお与えになられたのは、この律法を守ることによって、神の前に義とされるためであるという、間違った考えのことです。彼らは、神の律法は、神が、人間にこれを守れば、この掟を条件にして、神のまえに立つことのできる人間、永遠の命を与えられ、神の国、天国が与えられる人間、つまり神に義とされるための条件なのだと考えるのです。彼らは、神の前に自惚れ、人の前にも高慢になって、自分たちは、律法を忠実に守ることができ、それゆえに、義とされているという自信に満ち満ちていました。彼れは、そのような律法主義によって立って、人々に聖書を教えていたのです。

しかし、旧約聖書をどう読んでも、そのようなことが書いていません。アダムが食べてはならないと禁じられた善悪の知識の実を食べて以来、人間は、律法を自ら行うことによって義と認められる能力を失っています。だからこそ神は、そのような私どもを憐み、恵みの契約、ただ恵みによってのみ救おうとする約束を私どもに与えてくださったのです。その頂点、その究極の答えが、イエスさまです。

それなら、主イエスが、最後に仰ったことばを私どもはどう聴きとるのでしょうか。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

もしかすると、私どもは、こう誤解してしまいかねません。私どもは、先週まで、八福の教えを繰り返して学びました。主イエスは、喜びにあふれてにこにこしながら、「天国は、あなた方のものである」と、未熟な弟子たちに対して、あるがままの弟子たちを、一方的に祝福されました。それなのに、ここでは、その時語られた、優しく、ほっとする言葉、慰めに満ちた、お優しい言葉を、捨ててしまわれたのでしょうか。イエスさまは別人になってしまわれたのでしょうか。「あぁ、八福の教えだけ語って下さったら良かったのに」と心の中で考えるのでしょうか。「律法学者やファリサイ派の人々は、律法を守ることに自信を持っているけれど、私など到底できない」ところが、確かに今、主イエスは、そのうな私どもに、はっきりと、命じられます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

いったいこれは、どう意味なのでしょうか。私どもにとっての義、神の前での正しさとは何でしょうか。それは、旧約聖書の時代も新約聖書の時代もなんら変化はありません。まったく同じです。旧約聖書の思想と新約聖書の思想に変わりはありません。これを間違えば、キリスト教は狂う、間違う、崩れるのです。旧約聖書と新約聖書と、それは、同じお一人の神が、預言者たちに記させた神の言葉です。ある人たちは、このようなことを主張したことがあります。旧約の神と新約の神とは違う神。キリスト教は、ユダヤ教徒は違って、もはや、旧約聖書は不要であると言う人々が現れ、少なくない人々がこの教えになびいてしまったのです。そのような人々のことを教会は、異端と宣告しました。

わたしはかつて、求道者の時代に、このように考えたことがあるのです。「旧約の神は、厳しい。それに対してイエスさまが教えて下さった神、イエスさまは優しい。いったい、同じ神さまなのか。」しかし、それは間違いであることに気付きました。それは、教会で、聖書の教えを学んだからです。

いったい、旧約聖書のどこに、律法を守ることによって救われるという約束が記されているのでしょうか。違います。信仰によってのみ救われるのです。それには、昔も今も変わりありません。言い換えれば、恵みによって救われるのです。そしてその恵みによって救われた人間のためにこそ、律法という道しるべが与えられたのです。ですから、律法は、愛の神の、愛の言葉、手紙です。詩篇119編で歌われているとおりです。蜂蜜よりも口に甘いものなのです。それは、律法を完全に守れている自分だから甘く感じるのではありません。律法の言葉を与えられた神を信じているからです。律法の甘さは、言葉の甘さというより、神御自身の愛とその恵みの甘さ、神の甘さなのです。

主イエスはまた、勝るという言葉を用いられました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

彼らの義に勝るとは、一つには、このような意味があると思います。私どもの義、救いは、かつてのように動物の犠牲や割礼によってではなく、主イエス・キリストによって、十字架と復活のおかげで実現されたこと、その救いの圧倒的な確かさをもって、私どもの義は、彼らに圧倒的にまさるといことです。

しかし何よりも重要なことは、ここには、皮肉のニュアンスがあると思います。主イエスによって与えられる義、信仰によって与えられる義とは、彼らが律法を守って獲得する、ご褒美としての義とは、まったく異なったものだということです。そもそも、彼らは、義とされることなどありえないはずです。彼らの義それは、そもそも真の義ではありません。自分で自分を正しいとするような、自分で自分のことは救われているだろうと、みなすことはできません。義は、神に宣言していただき、与えて頂く以外にないのです。それゆえ、私どもは、そこでユダヤ人、律法学者たちやファリイサイ派の人々とは張り合う必要など、まったくありません。何よりも、大切なことは、キリスト者どうし、張り合う必要もまたないということです。

私どもに向かって、誰かが言うかもしれません。「あなたは、地の塩でも世の光でもないような一週間を送ったではないか。どの面さげて、礼拝に行ける?」人に言われずとも、自分の良心が囁くかもしれません。しかし、もう騙されません。福音の真理は言います。主イエス・キリストだけがあなたの義、キリスト者の義である。ですから、このイエスさまを信じていれば、悔い改めて行けるのです。確かに、私どもは、人に言われるまでもなく、愛の足らなさ、愛に生きることの怠惰を嘆き、悲しみ、神の御前に恥じています。私どもこそ罪人です。しかし、それを認め、悔い改めるところに、神の義を受けた私どものしるし、証拠もあります。光を浴びたから、その罪が見えたのです。これまでは、律法主義者たちと同じように、自分の方が、あの人、この人よりはまだましだと、誇って生きていたのです。しかし、もうできません。主イエスを知ったからです。

だから、安心して立ち上がります。主イエスの恵みと信仰によって罪を赦されているのです。だから、私どもは揺るがないのです。そして、志を高くできるのです。律法を守ろうとする志です。十戒へと生きるのです。失敗が許されない生活、負けてしまうことが許されない生活へと進み行くのではないのです。イエスさまのおかげで、何度でもやり直せる生活です。それは、何度でも罪を犯してもかまわないなどというおかしな甘えが入り込む余地はありません。罪の償いのために、神の刑罰を受けられたイエスさまを仰ぎ見れば、律法の道から踏み外して、天のお父さまを悲しませたくないからです。

私どもは今、救いを完成してくださった主イエスの福音の真理によって、礼拝を捧げています。真の義、彼らにはるかにまさる義を与えられ、喜んで神を礼拝することが許されています。ですから、今週も又、私どもの義そのもの、救いそのものでいらっしゃる主イエス・キリストを仰ぎ見て、地の塩、世の光として歩むことが許されています。

祈祷
私どもの救いを成就し、完成してくださいました、主イエス・キリストの父なる御神。私どもは、今、ただ恵みによって地の塩、世の光とされ、この地上を旅します。自分の力で地の塩、世の光となれるわけはありません。しかし、主イエス・キリストの贖いによって、救われ、義とされた、ただそのおかげです。このような罪人にすぎない私どもが、信仰によって義とされています。どうぞ、この恵みを素直に信じさせてください。そして、この恵みによって、自分自身にも対する新しい望みを見させて下さい。わたしの生活の中に、神の義が現わされ、地の塩、世の光としての働きをなさしめて下さい。そのためにこそ、御言葉に従順になり、み言葉を生きる者としてください。アーメン