過去の投稿2009年8月8日

8月2日

☆   先週は、研修の時が与えられ、上智大学に参りました。イエズス会が設立の母体です。この修道会は、日本の歴史教科書(高校生)にも必ず記載されています。フランシスコ・ザビエルの挿絵は、ほとんどの教科書に掲載されているのではないでしょうか。そしてイグナチウス・ロヨラこそ、この修道会の設立者、又ザビエルはその協力者、会員です。彼らは、日本のミヤコに大学をとのビジョンを持ちました。それは、400年余後、上智大学となりました。何年か前に、夏の休暇で、長崎に参りました。会堂建築の準備を兼ね、いくつもの礼拝堂を見学し、同時に、長くこだわりのあった殉教者たちの碑やお墓の前に立ちました。日本人キリスト者にとって(改革派の私どもにとっても)、彼らの存在は歴史的、社会的、なによりも神学的な問いとして迫ってきます。日本のカトリック者たちにとっては、何よりの課題でしょう。しかし、私どもも同じであると思います。

★    彼らは、「日本」を課題としています。日本キリスト改革派教会もまた、人数的には、まったく比になりませんが、少なくとも創立の志においては、日本を課題にすると宣言しました。この日本社会の健全なる確立のために、私たちの教会の堅実な形成と成長が必須であるとしました。その志において、弱まったり、低めたりすることはできません。牧師の人数と日本のローマ教会の教導職、シスターなどを数えればその人数は比較になりません。しかし、日本キリスト改革派教会の会員皆が、それぞれの領域で教理を体得し、それを生き生きと実践すれば、日本社会に与えるインパクトにおいて、少しは、近づけるはずです。

☆   今年は、私どもの教会の祖の決定的な一人、カルバン生誕500年を世界的に記念しています。実は、イエズス会という福音宣教と教育のために献身して、すぐれた人材を育てた修道会は、まさにカルバンと同世代の人たちです。私どもから言わせますと、カルバンこそは、神学者の中の神学者です。残念ながら、イエズス会やローマの指導者たちは、カルバンとの対話をどれほどしてくださっているのか、不明です。ルターとの対話やルター派教会との対話、協力は驚くほど進み、遂には、「義認の教理に関する共同宣言」を表明したことは周知の事実です。

★   確かに改革者ルターは、当初、福音主義教会の形成など夢想もしなかったはずです。ローマ教会における神学博士という公的な立場のなかで、聖書の教えを教会に解明する当然の責務から、現状の教会の逸脱を誠実に、そして義憤を込めて主張しただけだからです。しかし、結果的には、ローマ教会は、彼を破門しました。

☆  信仰によって、恵みによってのみ義とされる。神の御前に罪が赦されることは、何も新しい教えではないのです。福音そのものです。その福音の再発見こそが、私ども改革された教会の誕生の拠点でした。しかし、ルターは、それ以外の面では、組織的な神学の叙述はしませんでした。それを担ったのが、私どもの先達、ジャン・カルバンに他なりません。その意味では、ローマ教会と私ども改革・長老教会こそ、本来、彼らとの対話、対論の主体でありましょう。しかし、おそらく、少なくとも日本の神学陣営において、両者の神学的対話は、ほとんどありません。それは、お互いにとって不幸なことと考えています。

★   21世紀は、まさに人類の存亡の危機に瀕しています。そのために、諸宗教との対話、宗教の神学の構築が急務なのです。ローマ教会は、まさに、自分たちの出番、責任を痛感しておられるようです。頭が下がります。彼らのビジョンは、常に世界大です。彼らの意識の中に、日本キリスト改革派教会のことは、ほとんどないかもしれません。しかし、真実な対話は、双方にとってのみならず、世界の平和と一致のためにも必須のことであると信じています。

☆   現代カトリック神学の動向を肌で感じることができたことは、大きな収獲でした。おそらくは、イエズス会という枠、カラーが濃厚な日本のカトリック神学の一端を見せていただいたのだと思われます。主題は、「生と死」でしたから、生命倫理をめぐる課題にも触れられました。一致する見解に立てることに励まされました。現代人、日本人が急速に失ってしまった命を軽んじる思想を突き止める責任も思いました。東大の日本思想史の研究者(カトリック者)からも刺激を受けました。明治以来の富国強兵、戦争遂行の国策思想がその源にあることを思います。現代は、科学的知識、経済至上価値の新しい思想のなかで、いのちを軽んじる風潮に抗うことは、日本のキリスト者のまさに歴史的、思想的責任であると思います。

★  先週の講演会講師、高橋哲哉氏の講演、個人的な対話については、必ず、記したいとと思います。