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「神の恵みを生きる人間生活」

「神の恵みを生きる人間生活」
                 2009年8月16日
テキスト マタイによる福音書 第5章33~37節
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」」

「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」主イエスは、ここで、いかなる誓いも禁止しておられる、そのように読み取ることができるかと思います。主イエスの説教は、いつでも、私どもの常識を覆すように語られます。ここでも、同じだと思います。

しかし、そもそも、誓いを立てること、誓約すること、それは、自分の言葉の真実さ、自分の存在の真実さを相手に信じてもらうためにするものだと思います。人と人とで織りなす人間社会の中で、言葉が真実であること、嘘がないこと、虚偽がないこと、偽装がないこと、これは、極めて大切なことです。つい最近でも食品における偽装の問題が日本全国を揺るがしました。産地の偽装事件などは、ほとんど毎年のように起こっているように思います。耐震建築の偽装事件もありました。いちいち挙げる必要はありませんが、いずれにしろ、これは本当に、国産のものなのか、賞味期限は正しいのか、それを一つひとつ疑っていれば、暮らしやすい社会など、望めないでしょう。何よりも、ごく身近で、接する人と人が、相手の言葉を、本当のことを言っているのか、嘘ではないかと疑心暗鬼になってしまうとすれば、そこで健やかな人間関係を築くことも望めないでしょう。

個人的なことで恐縮ですが、「あなたは、嘘をつくか。人を騙すことはしないか。」実は、ある方から、このようにに問われた事を、この説教準備のとき、思い起こしました。それは、今は亡き、義理の父です。わたしは、家内との結婚に際して、妻の父親にご挨拶に伺いました。結婚しておられる男性であれば、想像しやすいと思いますが、大変、緊張しました。二人だけの話です。これは、ほとんど誰にも話したこともないと思いますが、ご本人は既に、天に召されていますから、さし障りもないかと思います。真顔で質問されました。あなたは、牧師、キリスト教の牧師になろうとするようだけれど、「人を騙すことを語っているのではないか。」おそらくそのようなことを尋ねられたのです。思ってもみない言葉です。おそらく宗教全般に対する猜疑心、疑いの心をお持ちであったのではないかと思います。宗教は、あるいは宗教家は、キリスト教であっても、人を騙すのではないか。言わばそれで、商売しているのではないか。そのような、問いだと思いました。なんと答えたのか、覚えていません。しかし、万一にも福音の説教が、ここで語られている言葉、わたしの説教が、嘘や騙しごとであれば、それほど恐ろしいことはないと思います。

何よりも、誓うこと、誓約するということを、もっとも重んじる共同体こそ、私どもキリストの教会ではないでしょうか。そもそも、わたしが生まれてはじめて誓約をしたのは、ほかならない教会においてでした。洗礼入会式において、多くの教会員を後ろにして、目の前に立つ牧師に向かって、はい、誓います。神と教会の前で謹んで誓約します。と口に言い表しました。キリストの教会にとって、神と人との前で誓約することは、生命的に、本質的に重要であって、その形成と存続にとて不可欠、なくてならない行為であることは、明らか過ぎることと思います。

ところが、ここで主イエスは、はっきりと宣言されます。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」たいへん、分かりやすいことです。誓約は許されていないというのです。それ以外に、解釈のしようがないほど、はっきりと断定されています。それなら、聖書を神の言葉、神からの啓示、教会の信仰と生活の唯一の規範と信じている私どもの教会であればこそ、きちんと解釈し、理解しなければ、先週とおなじようにここでも、しっかりとした確信をもった教会の歩み、信仰生活をつくることはできなくなってしまうでしょう。

しかし先ず、昔の人が言っていると主イエスが仰ったことば、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。これは、聖書のどこに記されているのでしょうか。結論を申しますと、聖書の中に、そっくり同じ言葉は出てまいりません。しかし、すぐに誰しも思うのは十戒ではないでしょうか。先ほど、皆さんと唱えた、十戒の第9番目の戒めです。「あなたは偽証してはならない。」第9戒のみ教えです。

主イエスは、具体的に語られます。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」ここで言われていることは、何でしょうか。この説教を裏から言えば、イエスさまの時代、人々は、天にかけ、地にかけ、あるいはエルサレムにある神殿にかけ、最後には、自分の頭にかけて誓約するということが頻繁に行われていたということです。ユダヤの人々は、自分の証言、自分の言葉が真実であることを証し、証明し、あるいは権威づけるために、自分より権威のある何かを用いたのです。その背景には、十戒があると思います。「主の名をみだりに唱えてはならない」というあの第三戒です。主の名をみだりに唱える罪を犯すことを避けようとしたユダヤ人は、神の御名をもって誓うことを控えたのです。

そもそもマタイによる福音書の記述にもその影響が、あります。この福音書の読者の中心は、ユダヤ人キリスト者でした。ですから、この福音書には、天という言葉が、頻繁に用いられます。天とは、神さまのことに他なりません。たとえば、天国とは、神の国のことです。神という表現をできる限り、避けて天に置き換えたわけです。

ですから、神にかけてというような誓約は、ユダヤ人にとって言わば、タブーです。その代わり、天を用いたのだと思います。しかし、主イエスは、その天とは、神が臨在しておられる場所を意味するのではないか、つまり、神の被造物であり、神さまと繋がっているのだと、釘を刺されたわけです。何よりも、ここで、神を天と言いかえれば、自分の発言の重さ、真実さを証拠だて、その権威を増すことができると考えていることへの、鋭い批判がなされたのです。

それなら「地」とは何でしょうか。地にかけて誓う。私どもには、よく分からない誓約です。おそらく大地は不動のもの、変化のないものであると考えているのだと思います。大地が動かないように、わたしの言葉も、揺るがない、本当のことですという意味なのかと思います。しかし、主イエスは、その地もまた、神の足台、つまり、神の被造物であり、神と繋がっていると宣言されます。つまり、神の代わりに地を使って誓約すれば、自分の証言の真実さ、権威を担保できると考えるという、その企てを批判されたのです。

三番目に、エルサレムです。それは、神殿のある都、神の臨在を現わす地です。イスラエルの人々にとっては、自分たちの誇りそのもの、そびえ立つ壮麗な神殿がる都、神の都です。神さまの御名を持ちださずとも、やはり、神の権威をもって自分の言葉の真実味を際立たせるわけです。主イエスは、同じように、その企てを批判されます。

さてこう見てきますと、実は、日本人もまた、このような誓約を知らないわけではないことに気づかされます。「天地神明に誓って、わたしはしていない。」このような言い方があります。天地神明とは、天と地のあらゆる神々のことを意味しています。やはり、神々に誓うのです。

立ち止まって深く考えましょう。いったい、誓約とは何なのでしょうか。主イエスがここで厳しく批判しておられる誓約とは、いかなる行為なのでしょうか。これまで取り上げられた三つの誓約、それは、結局、神の尊い御名を挙げてはいませんが、しかし、神の御名をかけて誓うことだと、主イエスはご指摘なさいます。そして、その時、誓っているのは何なのでしょうか。その本質は何なのでしょうか。そもそも誓約するということは、いかなることなのでしょうか。

主イエスによって、明らかにされた誓約の裏側にある、真実、その姿とは何でしょうか。それは、すべて自分を守ろうとするものではないでしょうか。自分の真実さ、自分の誠実さ、自分の信用度、自分の優秀さ・・・、つまり、自分自身のことです。天地神明にかける日本人も、天や地やエルサレムにかけて誓約するユダヤの人々も、結局そこでしているのは、神の栄光を求め、神にのみ栄光を帰そう、神さまに真実さ、誠実さ、確かさ、すばらしさをたたえるためにしているわけではないのです。そこで、実は、神御自身を体よく利用しているだけなのです。
わたしは、主イエスが最後におっしゃった言葉がよく分かりませんでした。自分の頭に誓うというのです。とても不思議です。誓約の真実さを証明するのであれば、自分を越える存在にかけるべきです。ところが、4番目では、自分にかけてです。これは、おかしいと思います。それでは、誓約にならないと思います。しかし、まさに、この四番目にこそ、我々の誓約の実態、あからさまにされる姿があります。つまり、こだわっているのは、結局、自分自身なのだということです。主イエスが、この四つにおいて共通しているのは問いかけがあります。まさに、神さまのことは、二の次になっているのではないかということです。我々がこだわっているのは、神さまではなく、自分自身なのです。自分自身のプライドです。自分の誇りです。自分という存在が、どれだけ信頼されるべきか、それを、自己主張するわけです。しかし、主イエスは、おっしゃいます。「また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」あなたは、髪の毛一本でも、白黒できない。美容室に行けばよろしいということではありません。この後、主イエスは、もう一度髪の毛について言及されます。そこで、人間は、自分の髪の毛が何本あるか、弁えていないことが明らかにされます。神さまはしかし、髪の毛一本も残らず数えておられると、主イエスは宣言されました。

つまり、不確かな存在でしかない自分、自分の髪の毛一本でも、自分の意思で白黒変えれない、そのような自分にこだわるなということです。ユダヤ人、特にファリサイ派の人々が誓約においてこだわったのは、いったい何だったのでしょうか。彼らは、宗教的民族です。我々現代人、とりわけ日本人とは、ずいぶん違います。彼らは、我々のように、地位や名誉やお金を誇り、そこに自分の存在意義、自分の価値を全部おくような、世俗的な価値観にとらわれていたとは思えません。むしろ、あの徴税人になったザアカイのお話ではありませんが、そのような世俗の、金銭の亡者になったイスラエルの人を心底、軽蔑したわけです。人間として、程度が低いと軽んじたのです。

しかし、それなら、イスラエルの人々、ユダヤ人は、本当に、程度が高いのでしょうか。神を敬い、重んじ、神に喜ばれ生き方、あり方をしていたのでしょうか。違います。主イエスは、ここで、そう仰っておられるのです。確かに、彼らの宗教的熱心、宗教的情熱によって、主なる神のお名前をみだりに唱えることは致しません。しかし、それは、結局のところ、自己満足の宗教になり下がってしまいました。彼らは、そこで、真の神を、ただ自分たちの宗教的な自己満足に利用したのです。自分の存在を高く認め、高く保証してくれる神です。民族的なアイデンティティを、誇らせてくれる神です。彼らイスラエルは、神の民、選びの民です。それは、間違いありません。しかし、それが、自分たち自身に固有の誇りとなるとき、間違います。その誇りが、自分たちの優秀さ、真実さにすり替わるとき、間違います。どうしたらもっと、その誇りを深く、確かなものにできるかと問うときに、間違うのです。大切なことは、神の民であることを誇るのではなく、神を誇ることなのです。そうでなければ、似ているようですが、異なる。間違いを犯してしまうのです。

私どもは今朝、この説教を、決して他人事として聞き流すことは許されません。昨日は、敗戦記念日でした。あの戦争中、日本のキリスト教会は、自分たちの団体存続のために、信仰を否定してしまいました。神社参拝に屈して、戦争推進のために、韓国の教会にでかけて神社参拝は、キリスト教信仰とぶつかるものではないから、参拝しなければならないと、国家権力の手先になったとき、教会に通う子どもたちに、戦争で血を流すのは、神に喜ばれることだと説教した時、生ける神を否定したと言われても、弁解できないと思います。今、未信者の方からの真実な批判や告発を受けています。私どもは、それを自らの手でしなければならないのです。教会という組織の存続を願ったことは、何を願ったのでしょうか。それは、結局、神の栄光ではなく、自分の誉れではなかったかと思います。

わたしは、ここで、丁寧に考えなければならないと思います。この点で誤解すると、大変なことになると思います。信仰の真実を貫くこと。それは、言わば、キリスト者にとって最高の行為と言っても言い過ぎではありません。しかし、誤解してはなりません。それは、自分の真実を貫くことではありません。日本人のなかで、戦時中、弾圧を受けた人々がいらっしゃいます。それは、人間の尊厳を、証してくださった方々です。獄死した人々の中で、多かったのは、共産党員です。キリスト者はごくわずかです。そのように、自分の良心を曲げないこと、思想に殉じることはありえます。しかし、キリスト者の場合は、なぜ、何のために、信仰の真実を貫くのでしょうか。

朱基徹牧師の殉教のことを、ここでも思います。朱基徹牧師は、ご自分の信仰を守るために、殉教されたのでしょうか。それは、自分の誠実さ、真実さ、信仰の純粋さを貫き、示すためのものではありません。それらは、含まれています。しかし、彼が貫こうとしたのは、神から与えられた信仰の真実を守ることでした。つまり、神の素晴らしさ、福音の真実、神の愛の誠実さを証するためです。

私どもが問われているのは、まさにそこです。私どもが、自分の信仰の生活の中でも、結局何にこだわっているのかというと、自分のことである場合が少なくないのではないでしょうか。自分がどう見られ、自分で自分をどう見ているか、そのように、信仰という最も神を重んじるべきところであってなお、自分が真ん中にいるわけです。しかし、主イエスは、そこから私どもをひきずり出して下さるのです。お救い下さるのです。自分から神へと、私どもを解放される、私どもを自由にしてくださるのです。それがここでのメッセージです。

皆さんは、誰かから、こう言われたことがあるでしょうか。「信じてください、わたしが嘘をつくような人間に見えますか」それなら、キリスト者である私どもは、誰かにそのように言えるでしょうか。そのようななことは、決して言えない人間であることを、実に、主イエスが、聖書が教えてくれたのです。つまり、私どもは、いかに不真実な、何か小さなことでもすぐに右往左往し、すぐに自分を守ろうとして、そこでまさに嘘をつくのではないでしょうか。そして、だからこそ、正反対に、自分の言葉の真実さを保証してもらわないと困るのではないでしょうか。

それが、私どもの罪です。私どもは、まさに自分を信じられない人間です。自分でも、自分を持て余す存在です。それが、私どもの言わば、正体です。聖書は、それを罪人と申します。罪の悲惨さとは、それほどのことです。私どもは、自分が立派な人ではないことを、認めざるを得ないように、導かれたのです。それが、キリスト者、教会員です。そしてまさにそこにこそ、私どもの救いもあったのです。福音の素晴らしさを知らない方は、仰るかもしれません。「それなら、そんな憐れな人間たちならば救いようもないではないか」、嘲笑うかもしれません。しかし、私どもは知っているのです。知らされたのです。こんな、私どもを、信頼してくださるイエスさまがいらっしゃることです。つまり、父なる神が、御子を私どもに送られたのです。それは、私どもが、やがてこの主イエスを信じ、従う者となることを、信じ抜いてくださったからです。

父なる神は、主イエスを裏切り、見捨ててしまった弟子たち、あるがままの罪深い、不真実な彼らのために、神の独り子の命を十字架で与えられました。

ですから、もはや私どもは、自分の真実さ、自分の誠実さを必死に証明する必要はありません。神は、御子イエス・キリストにおいて、罪人である私どもに、「しかり」と宣言してくださったからです。公の宣言です。決定的な宣言です。言わば、神御自身の私どもの救いへの誓約なのです。神が、私どもの存在をまるごと、「しかり!」と肯定されたのです。神が、決定的にイエスさまにおいて肯定されたら、後になって、私どもを「否!」と仰ることはありえないのです。これが、私どもの救いの根拠です。これが、私どもがもう、自分にこだわって、自分のプライドを誇示し、誰かに見せつけ、認められる方向から、解き放つのです。

私どもは、お祈りの最後に「アーメン」と唱えます。これは、真実という意味です。辞書などで調べると「本当に。その通りになりますように。」とあり、「祈りの後にアーメンと言う」と書かれていたりします。しかし、間違ってはなりません。私どもの祈りの真実さ、その誠実さを保証するのは誰でしょうか。それは、祈っている本人、自分でしょうか。とんでもありません。もし、そう理解するなら、そのとき、それは、すでに祈りになっていないことになるのです。真実な祈りとは、ただ、主イエス・キリストの真実によりすがることです。そのとき、初めて祈りが可能となるのです。私どもが祈れるのは、ただ主イエス・キリストのおかげでだと信じるから、大胆に祈れるのです。まさに、そこでのみ、祈りは真実なものとなるのです。私どもがアーメンと言うのは、この祈りは、ただイエスさまの真実、神の誠実によって、私自身が信じているよりはるかに確かに聞かれているのですと、告白するからです。アーメンとは、自分の真実を表明し、誓約しているわけではなく、少なくともそれを第一にしているのではなく、ただアーメンでいらっしゃるイエスさま、神の真実により頼みますという、信仰の告白なのです。そのような意味であるかぎり、私どもの言わば信仰の誓約、祈りの真実の表明なのです。

礼拝式でもそうですが、特に祈祷会に出席すると、分かることがあります。一緒に祈っている仲間たちが自分の祈りにも、アーメンと言ってくださるのです。そのとき、「ああ、自分の祈りは、仲間たちの執り成しの祈りの中で、支えられているのだ」とあらためて分かるのです。そうすると、何よりもよく分かってくるのは、この現実です。つまり、地上における私どもの祈りとは、主イエス・キリストが天において、執り成しの祈りを捧げていて下さるからなのだという事実です。「わたしの祈りを真実にしてくださるのは、イエスさまだ、アーメンでいらっしゃるイエスさまだ」と分かるのです。つまり、主イエスの真実、アーメンに支えられてのみ、キリスト者は生きるのです。生きれるのです。生きているのです。私どもは、それを越えてはならないのです。

教会の誓約とは、自分の誓いを、聖霊なる神がこれを守らせて下さいますようにとの祈りに基づくのです。洗礼入会志願者に、わたしは、このような内容の式文を読みます。「あなたは、生涯、キリストを信じつづけるのか。」しかし、もしそれを、自分の信仰の強さ、確かさで、成し遂げる確信がありますと言うのなら、それは、洗礼を許すことはできません。私どもは、不真実な自分しか知らないのです。しかし、その不真実な自分を赦し、真実な人間に作り変えて頂けることを信じるのです。だから、わたしは問うし、皆さんは、「はい、神と教会との前で、謹んで誓約します」と答えたはずです。

そしてそこに、私どもの社会生活が据えられるのです。そのとき、私どもはあるがままの自分を偽らず、しかも神に喜ばれるように、神に応答したくなるのです。その時こそ、私どもは、本来の真実な人間へと変容されます。造り変えられ始めます。そうして、隣人とも真実に出会う道が開かれます。そこで、見栄をはらず、比較せず、共に歩めるようになるのです。

然りは然り、否は否、それを、率直に言えるようになるのです。自分を守るために、いやいや、然りと言う必要はなくなります。反対に、自分を守るために、嫌だと心の中で言いながら、しかりと言う必要もなくなるのです。そのような真実、それは、ただ、主イエス・キリストの救いの恵みから来るのです。

祈祷
真実の自分を知ることが怖くて自分を飾り、自分に嘘をつき、自分を見失う私どもです。そのとき、隣人に真実をもって接することができず、自分の殻に閉じこもります。そのようにして、共に生きる社会、関係を作ることに失敗して、生きにくい社会を、自ら作り出します。主イエス・キリストよ。あなたは、その悲しい人間の罪の現実を、打ち壊して下さいます。真実の社会を建てなおしてくださいます。そのために、十字架についてくださいました。そのことを心から感謝いたします。今、あるがままで、あなたを信じ、あなたの赦しを受け入れます。そしてわたしどもの言葉が真実なものとなり、わたしどもの全存在が真実なものとなります。その恵みの中で、信仰の生活を作らせて下さい。教会の交わりを真実なものとして下さい。この国を社会を、健やかな人間らしい社会として下さい。そのためにこそ、私どもの教会をいよいよ真実の共同体として育ててください。その交わりを祝福してください。アーメン